11時ちょっと前にプラハ本駅に着きました。
駅前の建物も綺麗に軒がそろってパステルカラーで塗り分けられていました。このブログを書いている時、駅前のこの写真を見てある事に気づきました。よく見ると、建物側のトラムの架線、線路が途切れていました。
この事で、新たな椿事が起こりました。
今日の午後の電車でウィーンに向かう計画でした。その切符を早めに入手しておこうと考え、駅に行きました。
プラハ本駅の駅前は立派な芝生の公園でした。チェコの首都のハブ駅前が芝生公園になっている事に少なからず驚かされました。どの国にせよ、首都のハブ駅は高度に土地利用が進んでいます。東京駅、新宿駅、ブダペストの東駅、パリの北駅、モンパルナス駅、ロンドンのヴィクトリア駅、マドリッドのアト―チャ駅など駅舎の前はすべて道路だったと記憶しています。多分、この駅では何かの跡地を敢えて建物を立てずに公園にしたのかもしれません。
第二次大戦の戦勝を祝う兵士の銅像がありました。機関銃を肩から掛けた一組の男女の兵士が再会を果たし、抱き合ってキスをしているシーンのようでした。
女性も銃を持って戦った位激烈な戦争に勝利したというメッセージでしょうか?
プラハ本駅はピカピカのRC製の駅ビルでした。古風な旧駅舎を増築したようでした。
駅構内は、国際列車が停車するハブ駅らしい活気を感じました。古風な街並とは対照的に極めて現代的でお洒落なデザインでした。
みどりの窓口みたいな切符売り場で並びました。行先のメモを見せると、担当窓口の方は、「ここは国内列車専用切符売り場。向こうの国際列車切符売り場に行ってほしい」と言われました。
切符を購入する時は駅員に必要事項を記載したメモを渡します。僕の英会話能力は、正直高くありません。相手に大事な情報が正確に伝わらない事態を避けるための常套手段です。パスポートとメモ、クレジットカードで簡単に購入できました。日本で切符を買うのと大差は感じませんでした。
この時のメモがたまたま保存されていました。
「Today
From HLAVNI NADR 13:39
To WIEN MELDLING 18:24
One ticket
Adult
2nd class」
ウィーン行きの2等車は 1300チェココルナ(6,500円)と結構安かったです。
この時にアップしたFBの記事はこうでした。
「ようやくプラハ本駅にたどり着いた。国際列車窓口で首尾よくウィーン行きの乗車券を入手できた。1,290kc(約6,000円)と意外にも安かった。
博物館前の公園通りのレストランで昼食。昨日の仇を討つべくスペアリブをしこたま胃袋に放り込んだ。意外にもリーズナブルな値段だったので大満足した。・・・」
駅前の芝生広場から本駅の旧駅舎が見えました。
旧駅舎は実に風格に溢れた建物でした。旧駅舎の玄関は道路に面していて送迎に便利な感じです。
国立博物館の新館は、珍しく現在風なデザインでした。周りの建物はほとんど古風な伝統的建物ばかり。特区扱いの建物なのでしょうか?
博物館の旧館も風格に溢れた大きな建物でした。ここは、プラハ駅前のヴァーツラフ広場の南端にあります。
ヴァーツラフ広場は、中央に遊歩公園のある幅の広い道路公園でした。札幌の大通公園や名古屋のテレビ塔の公園通りみたいなものです。坂の上にある博物館からの見通しが実に気持ち良かったです。この公園はある意味都心のオープンスペース、この広場は400年以上前からできていました。市場用なのか防火目的なのか宗教上の目的なのか軍事目的なのか政治的プロパガンダなのか・・・その目的が知りたいところです。
立派な英雄像もありました。
この広場で歴史写真展が開催されていました。ラッキーでした。プラハの街がどのように形成されていったかがそれなりに理解できました。最初は、1606年のプラハの街の絵図面・・・。江戸初期にこれだけの都市が出来ていたことに驚かされました。絵図の右上の城門が現在の博物館、現在の鉄道と道路は街を防衛する城壁の位置にあったと思います。ヴァーツラフ広場は斜めの幅の広い坂道です。絵図の下にブルタヴァ川がわずかに描かれていました。ちょうど、例のポンヌフにあたる箇所でした。
1794年、江戸末期にはヴァーツラフ広場の周囲には建物が建ち並んでいました。坂の上にある城壁は撤去されており、博物館の場所には小さな建物が建っていました。このころには、オスマントルコなどの脅威がなくなった、都市が膨張を始めたなどの理由で城壁を撤去したのかもしれません。
ほぼ同時期1785年のヴァーツラフ広場の坂の上から下を眺めた絵柄を見ると、現在の街並が出来上がっていた事が判ります。
1841年の地図を見ると、現在の旧市街が出来上がっていました。ヴァーツラフ広場は群を抜いて幅広な約1㎞の道路になっていました。絵柄の上にあるカレル橋や斜め取水堰などは現在と同じです。
1880年の明治初期には、博物館から見下ろした写真を見ると、現在の街並が完成形になっていることが判ります。
1906年の明治後期は、完全に現在と同じ感じです。当時は、トラムが走っていました。広大な車道に車が一台も走っていません。馬車が主体だったのでしょうか・・・。
モータリゼーションの進展に伴って中央部分を公園として残し、トラムを廃止して、両サイドを車道に造り替えて現在に至ったという事になります。
12時に近くなりました。公園広場から脇道に入ってレストランを探しました。スペインのバルみたいなお店に入りました。チェコの伝統料理を食べ損ねて、間違えて野菜料理を注文した昨日の失敗だけは避けようと考えました。注文を取りに来た男性店員にチェコのおススメの伝統料理をオーダーしたような記憶があります。コーヒー中毒なのでまずはカプチーノ。前菜は、ビーツのスープ、酸味が効いた紫色のスープです。
メーンは豚のスペアリブをオーダーしました。多分これがチェコの伝統料理だと思います。スペアリブは質、量とも申し分なかったです。おろしたホースラディシュ、紫玉ねぎ、ピクルスなどが添えられていました。
これで300チェココルナ(1,500円)、大いに満足できました。後は、駅に戻ってトラムに乗ってホテルに引き返して、預けたバックパックを持って再び駅に戻るだけになりました。ここでちょっとした事件がありました。以下、次号・・・