ホテルで一休みして15時からケルンの街歩きを始めました。ホテルのフロント係、「ホテル前の道を15分も歩けば駅です。」
(出典:Google)
クリストフ通りを駅とは逆方向に歩いていた事にに気付いたのはホテルを出て5分ほど経ってからでした。Googleのマップで間違いに気づきました。
リングの公園まで行って、来た道を引き返しました。
ガードになっているアーチ橋は風格を感じさせます。
ホテル前の道路の建物のスカイラインは綺麗に揃っていました。概ね5階建てでした。
もう一つのリングを横切りました。東京でいえば、江戸城の「内堀」みたいなものかもしれません。中央分離帯にあたる部分を公園にしていました。
沿道のロマネスク式?の教会は実に立派でした。祭壇らしい建物は西側に設置されていました。東側に祭壇を設けるゴシック式の大聖堂みたいな法則性はないようです。
教会前の公園には大きな中世の騎士の頭部の像がオブジェ風に配置されていました。
公園の塔は、ゴシック式大聖堂のファサードでよく見られる彫像が飾ってありました。
クリストフ通りを駅に向けて歩いてゆきました。電柱・電線がなくスッキリした街路ですが、街路樹がなく少し無機質な感じもあります。
屋根の床板が繋がったユニークな建物もありました。
ラウンドアバウトに出会いました。ドイツに来て初めて見たラウンドアバウトでした。本家イギリスではあちこちで見ましたが、ドイツではあまり見掛けなかったです。背後のピンク色の教会はなんかロマネスク式みたいな感じでした。
駅に近づいてきました。競馬の中継をやっている馬券売り場?がありました。
ほどなくケルン中央駅に到着。ケルン大聖堂のファサードは実に巨大でした。
巨大な大聖堂は煤が付いて黒ずんでいました。写真に収めるのが大変なくらい大きい建物です。
補修用の足場もあり、これだけ大きい建物のメンテナンス費用は馬鹿にできない程大きいように思います。
この大聖堂は13世紀の着工、1880年完成。600年の工期だったとは驚きです。せっかちな日本人とヨーロッパ人の時間スケールの違いを感じます。何処に行ってもヨーロッパ人のキリスト教に対する強い献身や帰依を感じます。13世紀、フランスではゴシック式大聖堂の建築ブームがあったようで、そのブームがドイツにも伝わったという事かもしれません。
以下、阪急交通社の案内から
古くから交易で栄えたライン河畔の町ケルン。その中央駅に降り立つと目の前に巨大な大聖堂がそびえ、高さおよそ157mの天を突く双塔に圧倒されます。13世紀の着工から完成までに、なんと600年余りを費やしたこの大聖堂には、東方三博士の聖遺物が納められています。
司教座が置かれたケルンの聖堂は9世紀に建て替えられ、12世紀には東方三博士の聖遺物(遺骨)が安置されました。東方三博士とは、イエスの誕生時に星に導かれ、幼子のイエスを拝んだとされる3人。その聖なる遺骨を見ようと、ヨーロッパ中から巡礼者が訪れるようになったが、1248年にゴシック様式の大聖堂が建築されることになった矢先、聖堂は火災で焼失。同年に建築工事は始まりますが、資金難などで300年近く中断を余儀なくされ、ようやく1880年に完成をみました。
精緻な彫刻で装飾された2本の尖塔が天空へと伸び、西正面扉口中央には「旧約聖書」の一場面の浮き彫りが施され、高さ約43mを超えるリブ・ヴォールトの円天井と尖頭アーチの聖堂内は、巡礼者を天上へ導くかのよう。大きな窓にはめ込まれたステンドグラスから差し込む神々しい光に満たされ、奥の主祭壇では東方三博士の聖遺物を納めた黄金の棺がひときわ輝きを放ちます。
紆余曲折を経て完成したゴシック建築の最高峰にして、600年以上途切れることのなかったドイツの人々の篤い信仰心の象徴でもある大聖堂には、年間数百万人もの巡礼者が訪れます。
土木屋として気になった事は3つありました。1つ目は高さ157mまで重い石材をどうやって持ち上げたか?2つ目は大聖堂の基礎地盤がどうだったか?ライン川の河畔に157mの石の塊りを支える堅固な岩盤でもあったのか?3つ目は地震。建物の耐震性の照査はどの程度まで行っているのか?先日、イタリアの中部で大地震があり、中世風の街が完全に崩壊しました。
大聖堂の脇にケルン中央駅がありました。駅前広場は沢山の観光客で賑わっていました。
駅前広場から大聖堂はこんな風に見えました。
折角なのでスナップ写真を通行人にお願いしました。この日は日本の冬並みに寒く、持参したライトダウンとマフラーが役に立ちました。
大聖堂の周りを歩いて、ライン河畔に向かいました。以下、次号・・・