2016年5月7日(土)ドイツ その76 シュトゥットガルト(3)

ネッカー川がどのような川か、少し調べてみました。この川は南ドイツの「黒い森」を源流にして、シュツットガルトを経由してマンハイムでライン川に合流している川です。
よく考えると日本の川でさえ上流から下流までどうなっているか、一気通貫に考えた事がありません。

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(出典 Google)
日本語版のWikipediaとドイツ語版のWikipediaを参照しました。

【ネッカー川】
流路長 367km
流域面積 14,000km2
源流標高 フィリンゲン=シュヴェニンゲン 706m
中間部標高 シュツットガルト       219m (河口から183km)
河口標高(ライン川合流部) マンハイム  95m
下流平均河床勾配 1/1500
上流平均河床勾配 1/400
年平均流量 145m3/秒
既往最大流量 2,690m3/秒

日本最大の流域面積を持つ利根川を同じ指標で比べてみると、産業舟運の盛んなネッカー川はシュツットガルトからマンハイムまでの区間の河床勾配は利根川より大きく、その勾配の水位差で水力発電も行っていました。舟運と発電の両方を行っているので27の堰と閘門がありました。ネッカー川流域には1年を通じて安定した流量もあるのもポイントだと思います。
ネッカー川の語源は「荒れた川」だったそうで、日本の荒川や鬼怒川と同じです。洪水については利根川の高水の約10%、雨降り方や河床勾配の関係でゆっくりと洪水が出てくる感じです。

【利根川】
流路長 322km
流域面積 17,000km2
源流標高 大水上山 1800m
中間部標高 伊勢崎市八斗島町 44m(河口から181km)
河口標高 銚子 0m
下流平均河床勾配 1/4100
上流平均河床勾配 1/80
年平均流量 290m3/秒(栗橋)
計画高水流量 22,000m3/秒

以下、日本版Wikipadia

河川の全長は367kmにおよび、主にバーデン=ヴュルテンベルク州内を流れ、下流域では、短い区間ではあるが、同州とヘッセン州との州境をなしている。
標高706mのフィリンゲン=シュヴェニンゲンの近くにあるシュヴェニンゲン・ムースに発し、標高95mのマンハイムでライン川に合流する。ネッカー川は、プロヒンゲンまで船での遡上が可能で、このためライン川、マイン川とともにバーデン=ヴュルテンベルク州内にある3つの連邦水路の一つとなっている。プロヒンゲン、シュトゥットガルト、ハイルブロン、マンハイムがその恩恵にあずかっている。
流域面積は、バーデン=ヴュルテンベルク州中央部の14,000km2に達する。工業用水、水運、水力発電と様々な用途に利用されており、河川環境に大きな影響を及ぼしている。平均流量は、145m3/sで、ドイツで10番目に大きな川である。

「ネッカー」の名は、ケルト語由来の「荒れた川」を意味する。元々「荒々しい」を意味する「nik」が語源となり、紀元前から「Nikros」と呼ばれていたが、「Nicarus」-「Neccarus」と変遷し、「Necker」となった後、現在の「Neckar」となった。

ネッカー川の舟運は1100年木材輸送から始まったそうです。800年間、「黒い森」の森林が燃料用のエネルギー源としてオランダまで筏流しで運搬されたとか・・・。江戸期の大都市江戸を支えたエネルギー源の木材は秩父から荒川(隅田川)経由で運ばれたのでしょう。何度かあった江戸の大火の後には更に需要が高まったと思われます。渓流を木材でダムにして一気に放流したとか・・・。

ネッカー川の利用が始まったのは1100年頃。以来、約800年間ネッカー川は、もっぱら木材輸送に用いられてきた。1476年、ネッカー川全流域の自由貿易に関する取り決めが合意され、シュヴァルツヴァルトの木材はこの川を通してオランダまで運ばれた。大航海時代に入り、より多くの木材が必要となったためである。プロヒンゲンではシュアヴァルトから伐り出された燃料用の木材が260mもの長さのいかだとなって川面を覆った。次第にいかだ流しは鉄道に完全に取って代わり、1899年、最後の筏がエスリンゲンを流れ下った。

本格的なネッカー川の舟運開発と電源開発は19世紀後半に始まったようです。ドイツが遅れた産業革命を成功させ、重工業が発展した時期と重なったようです。20世紀初頭、国や連邦が出資した「ネッカー株式会社」が閘門、水力発電所、運河を建設したとありました。

1713年まで大型船舶はハイルブロンまでしか航行できなかった。その後、シュトゥットガルト=カンシュタットまで改修がなされ、さらにエスリンゲン付近の改修がなされたことにより、プロヒンゲンまでの航行が可能となったのである。1873年のネッカー川航行規制によって規制が単純化されたことにより、他の物資の水上輸送が活発化し、その後15年間でネッカー川を航行する船舶数は3倍になった。当時の船は川をさかのぼる際には、牽引道から馬に引かれて遡上していたが、19世紀後半の鉄道と競合する上で、これは効率的な方法ではなかった。ネッカー川の水運が再び隆盛を見せるのは1878年のKettenschlepperei (「鎖による牽引の時代」)の始まりによってである。マンハイムとハイルブロンの間115kmを蒸気船が小舟を牽引してさかのぼることで、馬に引かせて5日から8日かかっていた行程を2、3日に短縮することができたのである。
しかし、洪水や流氷、渇水で航行が中止されるなど水運は不安定な状態は避けられず、1921年、閘門を建設し、大規模航路を開発する試みが始まった。ドイツ帝国、バーデン、ヘッセン、ヴュルテンブルクがこれに参加、さらに出資者を募って、ネッカー株式会社が創設された。初代の責任者にオットー・ヒルシュが就任し、ネッカー川の閘門建設、水力発電事業などを行うことになった。1935年、マンハイム-ハイルブロン間の11の閘門がまず完成し、ネッカー川のKettenschleppereiは終焉を告げ、200から300tの小舟は1,500tクラスの船舶に取って代わられた。
マンハイム-プロヒンゲン間の計画の上流部でも開発は進んだ。プロヒンゲンからフィル川をゲッピンゲンまで航行する大規模な計画もあった。ゲッピンゲンの港付近は1978年まで宇宙開発計画のあった場所である。ネッカー川の建築責任者であったオットー・コンツはシュヴェビッシュ・アルプにトンネルを掘り、ドナウ川のウルムまで航路を結ぶ計画も持っていた。
1935年以降進められた運河建設は難航し、1958年になってやっとシュトゥットガルト港が開港した。1968年のDeizisau閘門により運河化は完成した。川は27の閘門で仕切られ、マンハイムからプロヒンゲンまで航行可能となった。オットー・コンツは「ネッカー川の父」と呼ばれるようになった。

実際に歩いたシュトゥットガルトのカンシュタット水力発電所は1930年に発電を開始していました。


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1958年にシュトゥットガルト河川港が完成。

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【フィリンゲン=シュヴェニンゲン】
ネッカー川の源流のあるこの町は田園地帯の小さな町でした。ネッカー川の源流とドナウ川の源流は随分と近くにあり驚かされました。ネッカーの流域に落ちた水滴は1000km下流のロッテルダムにある北海に向かい、ちょっと離れた場所だと3000km下流の黒海に向かう事になります。

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ネッカー川の源流の小川・・・


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(出典 Google)
 
【チュービンゲン】
ネッカー川の源流とシュツットガルトの中間にある河畔の小さな町・・・旧市街はなんか中世の面影を留めている感じがします。
ネッカー川を直線化し運河状に改修していました。


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(出典 Google)


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(出典 Google)

【ハイルブロン】
人口12万のネッカー河畔の工業都市、ネッカー川のバイパスも兼ねた大きな運河港を開削していました。ネッカー川の産業舟運で発展した都市のようです。


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(出典 Google)

1648年、ウェストファリア条約でドイツ国内のカトリックとプロテスタントが融和し、同時に神聖ローマ帝国が事実上形骸化し、約300の領邦国家が出来たそうです。ハイルブロンはその独立領邦国家の一つになっていました。
1643年の鳥瞰図に当時の街の様子が描かれていました。ネッカー川の右岸側を完璧な城塞都市にしていました。左岸側は掘り取った土砂を盛って土塁にし、水を入れない空堀にした出先の要塞にし、両岸を連絡する橋を架けていました。ハイルブロン城の防衛力はかなり高いように感じます。
左岸の要塞には舟運用の荷揚げ用クレーンや筏流しの様子が描かれていました。この要塞の目的は何か?ハイルブロンの生活や経済を支える河川港の保護だったのかもしれません。
函館の五稜郭にも似た独特のお堀の形状は、当時の欧州のお城のプロトタイプのようにも思えます。


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(出典 Google)

ネッカー川とは別に専用運河港を開削して、水力発電用の堰と舟運用の閘門が建設されていました。

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(出典 Google)


Ⅲ ハイデルベルク

ハイデルベルクは、ライン川とネッカー川の合流点近くに位置する人口14万の歴史文化都市。ネッカー川及び旧市街を見下ろす高台にあるかつてのプファルツ選帝侯の宮廷であった城跡や、ドイツで最も古い大学ループレヒト=カールス大学で知られ、世界中の数多くの観光客や学者を惹きつけているそうです。


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(出典 Google)

この街の降水量は月平均60mmくらいで年間を通じて安定しています。多分、上流のネッカー川の流域は似たような感じかもしれません。ネッカー川の流況は安定しているので、水力発電、産業舟運に好都合なようです。

 1971年から2000年までのハイデルベルクの月別平均気温と降水量
         1月  2月 3月 4月  5月 6月  7月 8月  9月 10月 11月 12月
 気温(℃)   2.5  3.6 7.3  10.5 15.2 17.8 20.1 19.8 15.9 11.1 6.0 3.6 (平均 11.1)
 降水量 (mm)  48  44  53  49  77  79 81  56  64  64  68  63 745(平均 62)


【マンハイム】

ネッカー川はマンハイムでライン川と合流します。合流地点のライン本川の河道整理・直線化の痕跡に驚かされました。大昔のライン川はあちこち好き勝手に流路を変えて沢山の三日月湖を残していたようです。
川と共存するには人がそれなりに手を入れるのは日本もドイツも変わりありません。

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(出典 Google)

マンハイムは人口30万人を擁する大学都市で、シュトゥットガルトに次ぐ同州第2の都市です。かつてプファルツ選帝侯の宮廷所在地であったこの街は、現在ヨーロッパ有数の大都市圏であるライン=ネッカー広域連合の経済的・文化的中心都市となっているとありました。
ライン、ネッカーの洪水防御に加えて、沢山の河川港があることからも産業舟運も熱心な感じです。マンハイムは鉄道、空港、高速道路などの運輸インフラも豊富でした。その役割分担が気になるところです。


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(出典 Google)

マンハイム都心には円環道路(リング)の中に整然と区画された街区が拡がっていました。これまで見てきたドイツの旧市街の街路は不整形でしたが、この街は全く異質な形をしていました。何故、真四角の街区なのか?と思いました。


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(出典 Google)

答えは1645年の古地図にありました。30年宗教戦争の末期の街の様子には驚かされました。
現在の街区を囲うリングは17世紀の城塞都市のお堀と重なります。函館の五稜郭の上を行くマンハイムの七稜郭は2段重ねで、現在の真四角の街区はそのまま残されていました。


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(出典 Google)

ネッカー川の源流、中流、下流をざっと見てきました。ドイツの、川との濃いお付き合いを感じました。
再び、シュツットガルトの街歩きに戻ります。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2017-01-23 22:14 | ドイツ | Comments(0)  

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