2017年5月1日(月)ドイツⅡ その26 リューベック(4)

15時過ぎ、市庁舎に隣接する聖マリア教会までやってきました。尖塔の一部を足場を組んで補修していました。


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聖マリア教会は、1250年~1350年に築造されたゴシック式の教会だそうです。建設工期は100年、じっくり時間を掛けて赤いレンガを積み上げたようです。ケルン大聖堂の建設工期は1248年~1880年、同時期から開始して600年を超える時間を掛けて160mの巨大な聖堂を築き上げました。日本とワンオーダー違う時間軸の長さを感じます。
この教会は2本の巨大なファサードや大きな聖堂を支える跳び梁がついているなどこれまで観てきた大聖堂に近い骨格を備えた大きな教会でした。


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2本のファサードはキッチリ西を向いていましたが、十字架の形はしていません。旧市街地の真ん中の臍にあたる場所にあり、最も高い場所に立地している教会でした。市庁舎やマルクト広場も隣にあります。自分の感覚だと大聖堂の方が相応しいと感じましたが、大聖堂は旧市街地の南外れの低位置にあります。
何故か?

そういえば、ハンブルクの正式名称は「自由ハンザ都市ハンブルク(Freie und Hansestadt Hamburg)」でした。

自由都市の説明はWikipediaによれば

「自由都市とは本来、司教都市の中で、司教や大司教の統制から脱して皇帝直属の地位を得た都市が、他の帝国都市(貢納や軍役の義務を負う)と異なって貢納や軍役などから自由であったことを意味していた」

自治権を有する商業都市といった感じでしょうか。中世の統治ルールに縛られない独自の統治をしていたのではないかと思います。納税や兵役の義務がないのは実にありがたいことです。現在流にいえば、「経済特区」という気分を感じます。

中世から近世にかけてリューベックはハンザ同盟の盟主として経済的な繁栄をずっと維持した商業都市でした。この街は、自由なハンザ同盟の盟主、宗教よりも経済力が優位した結果、大聖堂は少し遠慮がちなスタンスにあったのではないかと想像します。
リューベックの歴史は日本語版のWikipediaには次のように記載されていました。12世紀に街の建設が始まり、ハンザ同盟の盟主として北海・バルト海の交易で独占的な地位を占めたものの近世に入りハンザ同盟の衰退に追随して衰退したとあります。

1143年、ホルシュタイン伯アドルフ2世によって建設された。一旦火事で荒廃したものの、ザクセンのハインリヒ獅子公によって再建された。1226年に帝国都市となる。北海・バルト海交易で一時期独占的な地位を築いたハンザ同盟の盟主でもあった。リューベック商人は、ノルウェーのベルゲンに商館を築き、ノルウェーの鱈を南に売却して大きな利益をあげた。また、リューネブルクの岩塩をおさえたことで、塩漬け鰊(ニシン)でも独占的な地位を誇った。近世にはいると、ハンザ同盟の衰退とともに、リューベックも衰退していった。
1806年の神聖ローマ帝国解体により主権国家となるが、ナポレオン戦争に巻き込まれ、1811年から1813年までフランス帝国に併合される。ナポレオンの没落にともない1813年に独立を回復するが、1815年にドイツ連邦に参加する。1867年には北ドイツ連邦に参加し、1871年のドイツ帝国成立に伴い、同国の州となる。ヴァイマル共和国時代も州の地位を保ったが、ナチス政権下の1937年にプロイセン州に併合され、同州の属州であるシュレースヴィヒ=ホルシュタインに編入される。
第二次世界大戦中は空襲を受け、戦後はイギリスの占領下におかれるが、ソ連占領地区(後の東ドイツ)に近接し、後背地とは鉄のカーテンに分断されることとなる。当時、東ドイツからの10万人の亡命者により人口が急増した。その後リューベックは州の地位を回復することなく、プロイセン州解体により西ドイツの連邦州に昇格したシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の一部として現在に至る。

中世、リューベックは南北2km、東西1kmと広くはない旧市街に随分と沢山の教会の尖塔が建っていました。これだけ塔が林立している絵柄も珍しいでしょう。
何故か? 


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(出展 Wikipedia)


「百塔のプラハ」と呼ばれるチェコのプラハには沢山の塔で有名な観光地ですが、中世の宗教・文化的な影響力や支配力を色濃く残した街ではないかと感じます。しかし、リューベックの歴史を概観しても、司教座のある大聖堂があるにせよ、宗教的あるいは文化的な影響力が支配的な街であったとは言い難いように感じました。
リューベックはハンザ同盟の盟主だったことからも基本的に商人の街だったように感じます。交易で財を築いた商人たちが競って塔の建設に寄進してその存在をアピールしたのではないかと考えてみました。豪商の競い合いの結果、沢山の塔ができたのではないか。
西洋社会では寄付の習慣が定着しています。古今東西を問わず、大きな富を築いた人たちは寄付や寄進でその富を社会に還元することはよく知られています。
アッピア街道は貴族の寄進できた道路で寄進した貴族の名前が街道の名称になっていると聞いたことがあります。ダイナマイトを発明して大富豪となったノーベルのノーベル財団、石油王ロックフェラーのロックフェラー財団、英国の化学者スミソンの遺贈した基金でできたワシントンDCのスミソニアン協会などなど・・・
日本の場合、宗教施設への寄進もあったとは思いますが、水路、分水施設のような水インフラ、新田開発など農業インフラなどに事業資金を提供したり、自ら工事を指揮したようです。
大分県日田の豪商広瀬久兵衛は、小ヶ瀬井路の開鑿、筑後川舟運の中城河岸の設置、周防灘沿岸の豊後呉崎、豊前久兵衛、筑前千早などの新田開発をはじめ公共土木事業にも力を尽くした人でした。
朱印船貿易で巨利を得た角倉了以は大堰川 の浚渫,疎通をはじめとして,富士川 ,天竜川 ,高瀬川 などの開削を行い,これらの河川を利用してまた資産を成した優れた実業家でもありました。

リューベックのドイツ語版のWikipediaに昔の絵図面が掲載されていました。ドイツ語は不如意でも絵柄ならそれなりに理解はできます。
1750年のリューベックは周囲を稲妻型の川と運河で守られた防衛力の高い城塞都市でした。ブレーメン、ハンブルクも似たような稲妻型の川や運河を持った城塞都市でした。ハンザ同盟の都市の形に共通した要塞都市のコンセプトを感じます。


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(出展 Wikipedia)


ちなみに大聖堂は1942年イギリス軍の爆撃により被災しましたが、尖塔の破壊は免れたようでした。ブレーメンの大聖堂は片方の尖塔が途中から折れてしまいましたが、連合軍もそれなりに配慮したのかもしれません。


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(出展 Wikipedia)

リューベックの水辺はアクセスが大変良いのが特徴ですが、裏を返せば洪水への防御力が小さいということになります。ただ、リューベックの周囲には放水路や遊水地のような洪水防御インフラが見当たらなかったので、トラヴェ川の流域は元々大きな雨が降らない地域かもしれません。
あるいは、トラヴェ川の流域が保水力の高い豊かな森林や草原で占められいて流域に降った雨の出方がゆっくりしているのかもしれません。
旧市街はお椀を伏せた形をしています。トラヴェ川やトラヴェ運河沿いの低い場所は一定の範囲までは冠水するのを覚悟の上で荷役施設、倉庫や住居を造ったのかもしれません。発生頻度が少ないであろう洪水被害よりは普段の経済的あるいは商業的な利便性を優先させた街づくりだったのかもしれません。2011年の東日本大震災後の復興街づくりのようなコンセプトがあったのかもしれません。リューベックは防潮堤を省略し、低平地には商業施設、高標高部は行政・宗教施設や住居などを配置したのかも・・・。
別の考え方もあります。
木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が合流する永島地区には輪中堤と呼ばれる特殊な堤防が残っているそうです。洪水から生活を守るために集落毎に堤防を築きました。川を堤防で閉じ込める通常の発想とは真逆の、自らを堤防内に閉じ込める逆転の発想です。
中世のリューベックの絵図面には運河沿いに城壁を巡らせていました。つまり、城壁に軍事上の防御機能に加えて洪水防御も兼用させたのではとも考えられます。城門の出入り口にゲート(陸閘)を設置すれば洪水防御も可能ですし、普段の経済活動にも支障がないでしょう。
現在、城壁が撤去され北側の城門だけが保存されているのは生活や経済の利便性が優先されたからだと思います。
Wikipediaには1904年の12月の洪水の記録写真が掲載されていました。旧市街の一部が冠水した写真でした。ケルン(ライン川)やプラハ(エルベ川)には河畔の散策路に洪水防止板を嵌め込む支柱用の基礎がありましたが、リューベックでは確認できませんでした。もしそうだとすれば水害を考慮する必要のない恵まれた街なのかもしれません。



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(出展 Wikipedia)

聖マリア教会の裏手を歩いてみました。


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聖マリア教会の裏手で観光客がスナップ写真を撮っていました。悪魔の彫像が観光スポットになっていました。


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「悪魔の石」に腰かけた「悪魔」は意外にも人の好さそうな愛嬌のある顔、姿をしていました。裸で尻尾があり、片方の足は馬みたいな蹄の足でした。

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英語版の説明書きがありました。

「聖マリア教会の最初の礎石が座った時、悪魔は建物はワインバーになると勘違いしました。悪魔はいい考えだと思い、建設職人を応援しました。建築がどんどん進んで教会の姿になりました。悪魔は騙されたと思い、怒りに震えて大きな石で完成した教会を壊そうとしました。勇気のある仲間が「隣にワインバーを造るから出来上がった教会を壊すのは止めて」と約束して彼の怒りを鎮めました。この悪魔の石には、悪魔の爪痕が残っているそうです。建設職人が教会の反対側にある市庁舎にワインセラーを造りました」



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聖マリア教会の道路を挟んだ反対側に『ブッデンブローク家の人々』の舞台になった建物が保存されていました。トーマス・マンはリューベックの出身、そう言えば、『ブリキの太鼓』の作者ギュンターグラスもリューベック出身だそうです。ノーベル文学賞の受賞者を二人も生み出した街でもある訳で文化・芸術方面でも卓越した街でした。



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大通りに戻って北に向かって坂道を下っていきました。


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聖ヤコブ教会の尖塔が近づいてきました。リューベックの宗教施設は屋根が緑色、壁はレンガの赤色で統一されていました。


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大通りに直交する坂道もまた風情を感じます。


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聖ヤコブ教会は北の端にあるせいか、少し小振りな教会でしたが、風格に溢れた教会でした。


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教会前は石張りで広々した広場になっていました。


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住宅と思われる建物は白色、モルタル壁かもしれません。


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小さい公園がありました。


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旧市街の北側の城門まで歩いてきました。旧市街の防衛の要に相応しい大きな見張り塔は高さが40mはあるでしょうか。


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当日のフェイスブックにアップした記事・・・現場を歩いた時の感想がリアルに記されていました。

5月1日(月)リューベックは晴れ、温暖。
ホテルで一眠りして13時から街歩きを始めた。実は駅からホテルまでの約2キロの歩きで気持ち的には既に腹一杯になっていた。旧市街を取り囲むトラヴェ川沿いの水辺の景観が文句のつけようがないほど完璧だったからだ。
リューベックの街が世界遺産に登録されていることを初めて知った。見どころの旧市街がトラヴェ川と運河に囲まれた中の島に収まっている判りやすい街だった。
リューベックは、中世のハンザ同盟を仕切った街らしい。高さが100mを超える、巨大な大聖堂と2つ教会がある。ハンザ同盟をEUに例えると、リューベックはEUの盟主ドイツに相当する都市国家だった訳で、その経済力や政治力に相応しいステイタスを整えたという事だろうか。
教会、市庁舎など大きな建物は皆煉瓦造りだった。この周辺には石材の産地がないからだろう。地盤もあまり良くないようだ。リューベック名物のホルステン門やリューベック大聖堂は肉眼でも判るほど傾いていた。地震がないので何とか持っているようで日本なら大騒ぎになるだろう。ドイツでは耐震設計は不要なのだろうか。
トラヴェ川の北半分は河川港になっていて、平日のお昼過ぎなのに沢山の若者や小学生がサッパみたいな細長い魚を釣っていた。多分、何か特別な日かもしれない。
トーマス・マン、ギュンター・グラスというノーベル文学賞作家を輩出した街でもある。マリエン教会の前にブッデンブローク家の建物があった。そう言えば、1980年頃観たギュンターグラスの『ブリキの太鼓』は傑作な歴史映画だった。
トラヴェ川の水面と旧市街南側の住宅街の路面の差が殆どないのは何故か?洪水や高潮の影響はないのか?水辺のアクセスが良すぎるのが逆に気になる。
とにかく、睡眠不足で疲れた1日だった。明日は、ツェレという小さな街に向かう。残念な事にどうも雨模様のようだ。


城門を潜り抜けて河川港に下りました
以下、次号・・・

by camino0810 | 2017-08-30 17:11 | ドイツⅡ | Comments(0)  

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