カテゴリ:イギリスⅡ( 66 )

 

2015年12月7日(月)イギリスⅡ エピローグ(9)最終章

いよいよイギリスⅡ編の最後の記事になりました。プロローグを書き始めたのが6月 1日、ゴールにたどり着くのに実に6ヶ月も掛かりました。

今回が、3回目のイギリス旅行になりました。

 第1回 1999年 運河視察(ロンドン、オックスフォードなど):記録はありません。
 第2回 2012年 ロンドン、コッツウォルズ:このブログに記事があります。

A 2012年のまとめ
(出典:Epilogue(エピローグ) イギリスEngland 2012年10月11日(木)) 

2012年5月3日~9日の7日間イギリスEnglandを旅行しました。
1982年に結婚。30周年ということで、家族で行きました。唯、下の娘は仕事で忙しいので、不参加。

1999年に運河の視察目的でイギリスに行ったので、今回が2回目。
イギリスはあらゆる点で完璧。完璧な人間が好かれないように、完璧なイギリスは正直好きにはなれませんでした。今でも、少しだけアバウトさが感じられるフランス、スペインの方が自分の好みに合っているような気がしますが・・
2010年のスペイン巡礼で自分が変化したためか、今回は素直にイギリスの良さを堪能できたような気がします。

今回のイギリス旅行をまとめるとこんな風・・・

 ① イギリスEnglandの田園風景、街、住宅は、完璧。成熟社会のお手本である。
 ② 食事は意外に美味かったが、やはり、エスニックに限る。
 ③ イギリス人は、ビジュアル的には、結構、地味だった。
 ④ 英会話能力不足を痛感。特に、ヒアリング能力がNG。
 ⑤ バースは、再訪する価値がある。
 ⑥ コッツウォルズCotswoldsは、車で巡ると。もっと楽しめたのでは・・・

今回の旅行の飛行機、B&B、食事の予約、現地でのバスや地下鉄の切符買い、案内は、すべて上の娘が担当。彼女は海外旅行慣れしており、英語が堪能です。
言わば、上げ膳、据え膳の大名旅行。確かに楽ちんですが、苦労がない分、印象が薄くなりました。
頭に旅のディテールを刻み込むには、やはり、一人旅行の方がいいと思います。

メーンは、コッツウォルズCotswolds。超有名な観光スポットですが、噂どおりの素晴らしいところでした。その他、バースBerth、ストーン・ヘンジ、ロンドンLondonにも行きました。

b0214184_14162157.jpg


最後の記事はこんな風に書かれていました。

コッツウォルズ、バース、ストーンヘンジ、ロンドン・・・イギリスの結構コアな部分を慌ただしく観てきました。

b0214184_14204183.jpg

 以前は、イギリスの完璧なランドスケープに抵抗感がありましたが、今回は、それがなくなり素直にその素晴らしさを堪能できたと思っています。食べものも相当良くなっていました。多分、他の街や田舎も素晴らしいのではと感じています。車で田園の中を走りまわると、もっと楽しいでしょう・・・

b0214184_14172373.jpg

 今回のイギリス旅行をまとめるとこんな感じ・・・

 ①イギリスの観光資源としての価値は高い。
 ②川と街のコラボは素晴らしい。
 ③豊富な土木遺産を有している。その保全と活用は参考にできる。
 ④今後の日本の生き方の参考となる国である。
 
次回のイギリス旅行は・・・?
スコットランドか、湖水地方か?お友達の居る地方都市か?これから考えようと思います。
イギリス編おわり。。。

B 2015年のまとめ(今回)
今回の旅行は、前回の反省を踏まえてレンタカーの一人旅にしました。。
車でスコットランドやイングランドの田舎道を走ったし、バースの街も再訪できました。イギリスは、日本の先を行くお手本となる国のひとつだと感じました。ヨーク、リーズではハンガリー人のカップルに案内をしてもらったし、ダービーでは大学の同級生のお宅に泊めてもらいました。レンタカーで高速道路、一般道、ラウンドアバウトも走りました。英会話能力不足の解消についてはそれなりに努力はしていますが、結果はもうひとつといった感じです。

b0214184_14231439.jpg

いつも海外旅行に携行するメモ帳に今回の感想が雑書き風に記されていました。

雑書き
・今回は車メーン。人との接触少ない。人はわからず
・レストランでまともな食事なし。昼、夜はコンビニ。朝はホテルとB&B。
・綺麗な住宅は個人管理。生垣は外注。
・F&Cはうすい味
・室内は履き替え?
・公園の芝生は歩きOK
・タバコは外はOK
・総体にKIND
・英国人はプライドあり。ラテンはフレンドリー
・26歳のガーボルはあと1年で別の国(オーストラリア)。ハンガリーはNG
・22歳のキティ―は日本語学校でガーボルと知り合った。4人でシェヤーハウス住まい。
・スマホ、AUルーターはNG
・(2014年の中欧、2013年フランスはOK)
・ホテルのWIFIも電波が弱い
・Costa、Macは登録制
・縦列駐車が巧い。隙間に入り込む
・ネイティブは傘をささない。
・ネイティブは信号を無視する。
・トイレは宙吊り
・ガソリンは1.15ポンド/L
・大きな人は少ない。
・タワークレーンは1つあった。
・トラムはない。
・コンビニのサンド、サラダは美味しかった。
・100円ショップは流行っている。
・1ポンド=180円は購買意欲をそぐ。
・どこでも完璧(まち、自然、道路)。
・A道路は50マイルで走れる。
・交通量は少ない場所ではラウンドアバウトは有効。

b0214184_14245499.jpg

イギリスの素晴らしさは十分すぎるくらい体験できましたが、たかだか8日間でそのすべてを理解できるほどイギリスは小さな国ではありません。
ネイティブの方との交流はといえば、B&Bのご主人やお客、ホテルやコンビニの店員と交わす短い会話程度、ディープな会話は出来ませんでした。それでも、皆、フレンドリーな対応をして頂いたと感じています。
イギリスに永住するかと聞かれると、多分、答えは「NO」でしょう。
一過性の観光と永住は全くの別問題です。見方を変えれば、日本は縛りが少ない分、いささか雑駁な国だけど、その分息苦しさがなく、生活の自由度が高いという考え方もあります。つまり、日本は、日本でそれなりに良いところがあるのではないか・・・
ただ、イギリスという国の現状や目指す方向のような部分は大いに参考になったと感じています。

最後に想い浮かんだ言葉があります。
「君は君、僕は僕、そして仲良く」(武者小路実篤)

イギリスⅡの旅日記をこれで終わりにします・・・。


by camino0810 | 2015-12-07 17:01 | イギリスⅡ | Comments(0)  

2015年12月6日(日)イギリスⅡ エピローグ(8)

エピローグ(7)の続きです。
日本との比較対照の切り口は結構沢山ありました。思いつくままに列挙してみました。
戦国時代に日本にやってきた宣教師の著作を読んだ事があります。本の名前は覚えていません。「我々は・・・するが、日本人は・・・する」といった比較対照的な記載方法が印象に残っています。
一例を挙げると「我々は手で食事する。日本人は箸を使う・・・」
この記載には正直驚かされました。16世紀の西ヨーロッパは手で食事をしていました。イタリアのメディチ家からフランス王に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスがナイフ・フォークの習慣をフランスにインポートしたと言われています。

・地形や地質
日本は、急峻な山がち地形で河口の低平地に人口や資産は集中している。低平地は沖積平野で地盤の強度が小さい。そのため地震の影響を受けやすく液状化が度々発生する。都市部の地盤は、低いので河川に高い堤防を築いて洪水を防いでいる。
イギリスは、国土の大半が緩やかな丘陵地で、そのため人口や資産が分散している。洪積世よりも古い地質が大半で強度があり安定している。そのため地震の影響を受けにくい。もっとも地震自体がほとんどない。都市部の地盤は河川より高いため堤防がない。

b0214184_11281712.jpg

・気候(気温と雨)
日本は、年間降雨量が大体1700mmで季節変動が大きい。夏の最高気温は高い。湿気も多い。
イギリスは、年平均で600mm程度で季節変動が少なく一定している。メキシコ暖流のお陰で高緯度にあっても比較的温暖だ。日本に比べると夏は冷涼、冬の差異はない。

b0214184_11330390.png

要するに、夏の気温は日本より8~9度も低い。夏の軽井沢みたいなものだ。そのため雑草が成長しにくいのかもしれない。イギリスの庭の芝や植え込みが綺麗なのは、ガーデニング好きの国民性に加えて、雑草が育ちにくい気温も関係しているのかもしれない。それは、この冷涼な気温によるのではないかと推測する。


b0214184_21533797.jpg

・河川
日本は、河床勾配が大きい急流河川、水は青く澄んでいる。
イギリスは、河床勾配が小さくゆったり流れている。水は茶色で濁っている。

b0214184_20374047.jpg

・都市の分布
日本は、河口の沖積平野に都市が集中している。
イギリスは、丘陵地形なので都市は全土に分散している。

b0214184_11404069.jpg

・歴史
日本は、600年頃から中央集権体制が確立して、以来、独立国を維持してきた。他国の支配を受けたのは1945年から6年くらいである。第2次大戦で敗北したものの努力を重ねGNP第2位の位置を長年維持してきたが、2年前にGNP第3位に転落した。近年は高齢化や人口減少が進行し、かっての活力が失われてきた。
イギリスは、紀元前1世紀にローマに占領されていた事がある。11世紀後半に中央集権体制が確立した。以来、独立国を維持してきたもののフランスとの長い確執が続いてきた。18世紀半ばから19世紀前半、産業革命を成功させて世界第1位の大国になった。第1次大戦後、アメリカに首位の座を奪われた。アメリカの参戦を得て、第2次大戦に勝利して常任理事国の地位にある。


b0214184_11431561.jpg

・宗教・文化
日本は、600年頃から中央集権体制の確立と同時に仏教を導入した。多神教の神道とセットで神仏混交が続いてきた。現在の日本人はほとんど無宗教であり、キリスト教の風習などにも馴染んでいる。
イギリスは、11世紀後半に中央主権体制の確立とともにキリスト教国になったようだ。16世紀に国教会を独自に立ち上げた。彼らの生活にキリスト教は深く入り込んでいるだろう。

b0214184_11435409.jpg

・土地、建物についての価値観
日本は、土地に対する執着が強い。戸建ての住宅取得が人生のゴールである。建物の価値は年々下がる。土地本位制の民族ともいえるかもしれない。住居は木製なので耐用年数が50年くらいと短い。火事で焼けたり、台風や津波で流される事もある。造っては壊され、壊されては造り替えてきた。日本社会はフロー社会と言われるが、その根本にはこのような歴史があるためかもしれない。
イギリスは、土地ではなく建物に執着するようだ。200年前の石造りの建物に住む人もいる。石づくりは耐用年数が500年以上はあるだろう。建物の価値が年々上がる。補修で持たせるストック社会になったようだ。庭にも拘る。



b0214184_12042752.jpg

・建物、住居
日本は、都市計画法、建築基準法、河川法、道路法などでまちづくりや建物を規制している。個人の権利を尊重するため公益的な目的で土地を取得するのが困難な場合がある。
イギリスは、個人の権利を制限する「Town and Country Planning Act」法があり、ちょっとした改修でも周囲の同意まで必要としている。多くの街の建物のスカイラインが綺麗に揃っていて、電柱・電線はない。

b0214184_11512548.jpg

・土地利用
日本は、都市計画法で用途区域を縛ってはいるものの土地利用がモザイク状になっていて美しさに欠ける場所が多い。
イギリスは、「Town and Country Planning Act」法で都市部のみならず田園部にも縛りを掛けていて、都市計画のゾーニングもしっかりしているようだ。何処に行っても美しいのはこの法律のせいかもしれない。


b0214184_11523600.jpg

・食文化
日本は、和食だけでなく洋式、エスニックなんでも食べる。食に関しては貪欲だ。
イギリスは、味の薄いF&Cなど伝統食への拘りは残っているようだが、この20年くらいで食事情は随分変わったのではないかと感じる。和食ブーム(ラーメン、寿司)や野菜を沢山取り込んだヘルシーな食事が増えて、この国の健康志向を感じた。

b0214184_11535977.jpg

・インフラ
A 道路
日本は、高速道路がほぼ全国に展開され、環状道路のようなネットワーク化に移行中である。
イギリスは、高速道路と都市周辺部のバイパスがすでに完成している。高速、地方道とも走りやすく、景観も素晴らしい。地方都市はパーク&ライドを導入し、車の流入を抑制している。ロンドンのような大都市では、車の流入を抑制するためにロードプライシング制度を導入しているようだ。

b0214184_12164132.png

B 鉄道
日本は、鉄道駅はプラットホーム毎に屋根を付ける。
イギリスは、すべてのプラットホームを覆う一つの屋根を付ける。

b0214184_12193444.jpg

C 運河
日本は、運河や観光舟運に関しては低調である。都市部の運河は高度成長期に汚染が進み、匂いやゴミのせいで埋め立てられ、道路や公園になった。最近、大阪や東京で水都復活の機運が生まれてきた。
イギリスは、運河利用が盛んである。産業革命後期に鉄道や道路にその役割を奪われたが、開削した数千kmの運河を観光舟運に活用していた。


b0214184_12505301.jpg

・観光
日本は、車主体の観光開発やまちづくりになっている。
イギリスは、郊外に駐車場を造り、中心地は人主体の観光開発やまちづくりをしている。


b0214184_12250485.jpg

・環境保全
日本は、尾瀬や上高地のように車の流入を厳しく規制している観光スポットは少ない。少し前に環境庁を省に格上げして環境保全への取り組みを強化している。
イギリスは、駐車場で車を停めてフットパスを歩かないとビューポイントに行けないようにしている。そのため環境がしっかり保全されている。環境保全への取り組み姿勢は日本よりはるかに強いように感じた。

b0214184_12292738.jpg

・産業(農業、工業、商業など)
 何か書きたいけど書くほどのネタがありません・・・

以下、次号・・・
最後に感想を書いてイギリスⅡ編を締めたいと思います。


by camino0810 | 2015-12-06 13:34 | イギリスⅡ | Comments(0)  

2015年11月29日(日)イギリスⅡ エピローグ(7)

エピローグ(6)の続きです。

⑪ 偉人
お世話になっているN先生からイギリスに渡航する前日に言われれました。
「イギリスに行くなら、テルフォードの作品を観たらどうだ・・・」
別に機会に先生からブルネルの紹介された記憶があります。時間が足りなくてテルフォードもブルネルも見る事できなかったのが残念でした。
3名の偉人 テルフォード、ブルネル、渡邊嘉一に触れてみました。

A テルフォード
トーマス・テルフォード (Thomas Telford:1757-1834)は、スコットランド出身の土木技術者でした。14 才の時に、彼は石工の見習いになり、独学で道路・橋・運河の建設を主導したそうで、たたき上げの苦労人だったようです。その功績が認められて英国土木学会初代会長に就任しました。テルフォードの生きた時代は、産業革命を成功させつつあったイギリスの絶頂期に重なっています。時代が彼を造り上げたと言えるかもしれません。同じことがもう一人の偉大な土木技術者ブルネルにも当てはまると思います。
ちなみに日本土木学会初代会長古市公威は、フランスの国立土木学校(ポンゼショッセ)に留学したエリートテクノクラートでした。

以下、Wikipediaより
王立学会フェロー (FRS) 且つエジンバラ王立学会フェロー (FRSE) である トーマス・テルフォードはスコットランドの土木技術者で、建築家で、 石工であり、著名な道路・橋・運河の建設者であった。 彼は彼自身をシュロップシャーで道路且つ運河計画の技術者として確立した後で、 母国のスコットランドで数多くのインフラ計画をデザインしたことはもとよりのこと、港やトンネルもデザインした。 幹線道路や橋の多産な技術者としてあまりにも有名であったため「道路の巨人」 (The Colossuss of Roads) と呼ばれた。 19 世紀初頭のあらゆる形式の土木技術を自由に駆使していたことを反映し、 彼は英国土木学会 (Institution of Civil Engineers) の初代の会長に選ばれ、 彼の死に至るまでの 14 年間、このポストを維持した。

テルフォードの代表作に「メナイ吊り橋」(Menai Suspension Bridge)があります。
世界最初の現代的なつり橋だそうです。この橋 (ウェールズ語:Pont Grog y Borth)は、 アングリシー島とウェールズ本土の結ぶ道路橋で、テルフォードが設計し、1826 年に完成したそうです。下部工はレンガ張りで、実に優雅な吊り橋です。


b0214184_05520833.jpg
(出展;Wikipedia)

彼の功績を讃えて都市の名前までなったという事も驚きです。
バーミンガムの西48kmに位置しているテルフォード (Telford) は、トーマス・テルフォードにちなんで名づけられたそうです。テルフォードは人口16万、イギリスでは大都市にあたるのではないかと思います。
フランスは個人を顕彰するのが大好きなお国柄のようで、シャルル・ド・ゴール空港を始めメトロの駅名、通りに沢山の偉人の名前が付いています。それでも、街の名前に個人名を付けるまではないと思います。それほど、テルフォードが偉大な人物だったと考えてもいいでしょう。

ネットで検索すると、テルフオ―ドに関する詳細な研究論文がありました。
以下に、その一部を掲載します。

英国土木学会初代会長トーマス・テルフオ―ドに関する研究
―テルフォードの事績とテルフォード賞を中心に―
新潟大学 大学院 学生員 知野泰明
新潟大学 工学部 正員 大熊孝
1.はじめに
日本の土木技術の近代化は、明治政府雇いの外国人技師達の指導によって始まった。この時、燈台、鉄道、電信などの近代土木技術の導入の中心となった国は、イギリスであった。西欧の土木技術の近代化は18世紀末のイギリス産業革命に始まったわけで、約100年の間に培われた英国近代土木技術が明治初頭の日本へ伝えられたといえる。
この英国土木技術の近代化の初頭に活躍した人物がト―マス―テルフオ―ドであった。彼は英国土木学会の初代会長となった人物として有名である。しかL、その事績は日本で余り明らかにきれていない。本研究では、この土木技術の近代化の初頭で活躍したトーマス・テルフォードの事績を調査し、年表にまとめた。その結果から、彼が果たした土木技術の近代化への役割について考案を行った。また、テルフオ―ドの寄付金によって英国土木学会にはテルフォード賞という論文賞が設けられた。その授賞者で日本の土木に直接関与した人物には、明治初期の日本の燈台建設で活躍したお雇英国人技師プラントン(R・臥Brunton)と、琵琶湖疎水を実現した田辺朔郎がいる。
そにで、本研究は彼らが近代土木技術の変遷の中で、どの時代に活躍したのかを評価するためにも、テルフオ―ド賞の歴代授賞者と授賞論文名を調査し、そこに見いだきれる近代土木技術の変遷を考案した。本研究は、以上の調査結果を通して、今後、英国土木史を明らかにしていくための第一歩になることを目的と・・・・

B ブルネル
イザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel 、1806年 - 1859年)は イギリスの実に偉大な土木技術者でした。
2012年のロンドンオリンピックの開会式にも登場していました。2002年、BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第2位になった方です。チャーチルが1位で3位がダイアナ妃、4位がダーウィンでした。

b0214184_06001356.jpg
(出典 BBC)

日本ではありえない事でした。日本国内で高名な土木技術者には、古市公威、田邊朔郎、青山士、宮本武之輔、八田與一などが挙げられますが、人口に膾炙するレベルには程遠い状況だと思います。

ブルネルとは一体どういう人物だったのか・・・
およそ土木屋は縁の下の力持ち的な存在であり、表に出ずに物影から半身でそっと作品を眺めるようなスタンスに誇りを抱いている方も多いのではと思います。
ブルネルは、イギリス国民が等しく支持する「日当たりのセンター」を占める存在のようでした。

BBCの小学生向けのサイトからブルネルの記事を引用しました。

A Why is Brunel famous?(何故、有名なのか?)
1.What Brunel did
Isambard Kingdom Brunel was a famous engineer. He built bridges, tunnels, railways, docks and ships.
2.When did he live?
Brunel was born in 1806. He lived at the time of Britain's Industrial Revolution. Victoria became Britain's queen in 1837. Brunel died in 1859.
3.Brunel's legacy(ブルネルの伝説)
Brunel built bridges, railways and the world's biggest ship. Brunel showed the world what engineers could do.
Brunel's work meant that people could travel and trade in a new way.

B Growing up
1.Brunel's family
Brunel's father was Marc Isambard Brunel, a French engineer. To escape the French Revolution, Marc went to America in 1793.Brunel's mother was Sophie Kingdom. She met Marc while working in France as a governess. England and France were at war, and Sophie was accused of being a spy! She escaped to England in 1795.
In 1799, Marc Brunel came to England. He and Sophie were married. Their son Isambard Kingdom Brunel was born in Portsmouth on 9 April 1806. He had two older sisters, Sophia and Emma.
2.Brunel as a child
In 1807, the Brunels moved to London. They lived close to the River Thames. Brunel liked swimming and playing with toy boats.Brunel's first school was in England. Later he went to study in France. He was an apprentice to a watchmaker.Brunel was lucky. While he was at school, many poor children had to work in mines and factories.Brunel was good at maths. His father taught him to draw. He liked dressing up and acting plays.
3.The family business
Marc Brunel had a factory. It made wooden parts for Navy ships. Marc invented machines to do the work faster.Things did not always go well. The Brunels' sawmill burned down. They had money problems. In 1821 Mr and Mrs Brunel were sent to prison for 88 days, because they owed money.

C The Thames Tunnel
1.Brunel's first job
In 1822, Brunel went to work for his father. They had a big job: to dig a tunnel under the River Thames.Marc planned to use his new tunnelling-shield. They needed lots of strong, brave workers too.
2.Dangerous work
Digging the Thames Tunnel was very dangerous. Sometimes the tunnel collapsed. Water rushed in, and everyone ran for their lives!Once, Brunel slid down a pole to rescue a man. Once he nearly drowned, but was pulled out by a friend. On 12 January 1828 he wrote in his diary: 'I shan't forget that day in a hurry'.
3.The Tunnel is still there
There were so many accidents that work stopped on the tunnel for 8 years. The Thames Tunnel was opened in 1843.The Tunnel is still there. It is used by trains. There is a Brunel Museum there too.

D Bridges and tunnels
1.The Clifton Bridge
In 1831 Brunel was chosen to build the Clifton Bridge over the River Avon at Bristol. It was a suspension bridge, and very high so ships could sail under it.
At first, workers crossed the river in a basket! The basket ran along beneath an iron bar 307m (1000 feet) long. One day it got stuck. Brunel climbed up to free the rollers!The bridge was not finished until 1864. 500 tons of stones were put onto the bridge to test it. It sagged just 7 inches (18cm) in the middle.
2.The railway age
By 1830, steam railways were being built all over Britain In 1833 Brunel was made chief engineer for the new Great Western Railway.This railway linked London to Bristol, about 200km across country. Brunel built all the stations, tunnels and bridges too.Brunel always did things his way. He made his rails 7 ft (2.14 m) apart, when other railways used narrow track 1.43 m wide. The smaller 'narrow-gauge' won in the end.
3.Stations, bridges and tunnels
Brunel built Paddington Station (1854) in London. Trains still use it.He built Maidenhead Bridge, across the River Thames, the Wye Bridge at Chepstow, and the Royal Albert Bridge across the River Tamar.The Box Tunnel in Wiltshire is 2 miles long. It took six years to dig, and 100 men were killed.

E Brunel's ships
1.Steamships
Brunel believed steamships were the future, not sailing ships. Steamships had engines that burned coal.In 1837 Brunel built a wooden paddle-steamer Great Western. It steamed to America in 12 1/2 days. This was faster than a sailing ship.In 1843 Brunel built the Great Britain. It was the first iron ship with screw propellers. It's now in Bristol.In 1846 Great Britain got stuck on a sandbank. Brunel was cross. He said it looked 'like a useless saucepan on Brighton beach'.
2.The giant ship
Brunel wanted to build the world's biggest ship, to go from Britain to Australia. People laughed. They said no ship could carry enough coal.Brunel's giant ship was the Great Eastern. It was 211 metres long and 19,000 tons. It was so big, it had to be pushed sideways into the River Thames.Great Eastern had room for 4000 passengers (or 10,000 soldiers).
3.What happened to Great Eastern?
The Great Eastern went to sea in 1859. But it never sailed to Australia. It was damaged in an explosion. It was too expensive, and too big for most harbours.In 1866 it laid a cable across the Atlantic, for sending telegraph messages between Britain and America. In 1890 it was broken up for scrap.

F Life and times
1.Family life
In 1836 Brunel married Mary Horsley. They had three children: Isambard, Henry and Florence. Henry became an engineer, like his father.Brunel enjoyed visits to the pantomime at Christmas. He also liked painting, and dreamed of designing a landscape garden.
2.Working too hard
Brunel tried to do every job himself. He worked very hard. Some nights he slept in a chair. Often he got up at 3 to catch a stagecoach to drive to work.
In his notebooks, Brunel jotted down ideas, did sums, and made notes about plants by the railway or how long iron rails lasted.
3.Brunel's Death
Brunel made himself ill with work and worry. In September 1859, he watched Great Eastern go to sea.He had his photo taken. Then he collapsed. He died a week later. He was 53.

ほぼ同時期に生きたテルフォードはトップ100に入っていません。何故か?
二人が手掛けた作品の場所にあったのではないか・・・テルフォードの作品は、イギリスの地方部にあり、ブルネルのそれは、ロンドンのテムズトンネルやパディントン駅舎、グレート・ウェスタン鉄道など首都にあります。

僕はFBを日記替りにしています。例えば3年前の11月に書いた記事でもすぐに検索できるのでとても重宝しています。
以下は2015年5月26日の記事です。

5月26日(火)、東京は晴れて暑い。
今日は、建コン関係者の快気祝いが六番町であった。
Yさんは、以前にも増してお元気になられて本当に良かった。
皆でYさんにお祝いの言葉を贈った。
楽しい時間を共有できて感謝している。
N先生が1枚のペーパーを皆に配った。
 A我が国の大型土木プロジェクト10例
 B日本と世界の偉大な土木技術者
会場の皆はBの個人の方が好きだったようだ。作品よりも個人により魅力を感じているようだ。
Bには廣井勇、青山士、田邊朔郎、久保田豊、テルフォード、ブルネル、エッフェル、ゲーガの8名がリストアップされていた。
ブルネルはイギリスの有名な土木技術者で、名前だけは知っていた。
Wikipediaを検索して驚かされた。
ブルネルは、BBCの人気投票で第1位のチャーチルに継ぐ偉大な人だった。ダーウィン、シェイクスピア、ニュートンの上を行く人間とは一体何者なのか?
ブルネルは二宮金次郎みたいに小学校の教科書にでも掲載されているのだろうか・・・
リストの4名の日本人土木技術者を知っている日本人は残念ながら僕みたいな年配の土木屋くらいだろう。
イギリス旅行でその余りの完璧さに打ちのめされた上に追い打ちを浴びせられた気分だ。
第3位のダイアナさんがパリで亡くなって20年近く経った。ウエストミンスターのお葬式でエルトンジョンが「Candle in the Wind 」を歌詞を変えて歌ったのを想い出した。
以下、Wikipediaより引用してみる。
『100名の最も偉大な英国人』(100 Greatest Britons)は、BBCが2002年に放送したテレビ番組。イギリス大衆の投票によって、歴史上最も偉大な英国人を決め、その結果を放送した。選出されたのは以下の100名である。
1位:ウィンストン・チャーチル(1874年 - 1965年) 政治家、第二次世界大戦時の英国首相
2位:イザムバード・キングダム・ブルネル(1806年 - 1859年) エンジニア、グレート・ウェスタン鉄道などの創設者
3位:ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ) (1961年 - 1997年) チャールズ王太子の最初の妻 (1981年 - 1996)、ウィリアム王子とヘンリー王子の母
4位:チャールズ・ダーウィン(1809年 - 1882年) 自然科学者、自然選択説による進化論の提唱者、『種の起源』の著者
5位:ウィリアム・シェイクスピア(1564年 - 1616年) 詩人、劇作家、英語による最も偉大な作家と見られている
6位:アイザック・ニュートン(1643年 - 1727年) 物理学者、数学者、天文学者、自然哲学者、錬金術師、科学史上最も偉大な人物の一人と見なされている
7位:エリザベス1世 (1533年 - 1603年、在位:1558年 - 1603年)
8位:ジョン・レノン(1940年 - 1980年) 音楽家、ビートルズのメンバー、平和活動家、画家、 慈善家
9位:ホレーショ・ネルソン(1758年 - 1805年) イギリス海軍提督
10位:オリバー・クロムウェル(1599年 - 1658年) 護国卿

C 渡邊嘉一
渡邊嘉一は、1890年(明治23年)に完成した世界遺産フォース鉄道橋の建設に携わった日本人土木技術者でした。渡邊嘉一は、大変優秀な学生だったようで、帰国後には造船会社や鉄道会社の社長を務めた方でした。

b0214184_11071287.jpg

写真中央のゲルバー梁に載っているのが渡邊嘉一です。

b0214184_11060424.jpg
(出典 TBS)

この写真が、スコットランド銀行の20ポンド(4000円相当)にも印刷されています。そういえば、日本人は個人の顕彰を紙幣で行う事を想い出しました。1万円は福沢諭吉、5千円札は樋口一葉、千円札は野口英世といった具合です。


b0214184_11095970.jpg

2014年10月から翌3月まで放映されたNHKの朝ドラ「マッサン」を熱心に観ていました。主人公のニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝(1894年- 1979年)もスコットランドのグラスゴー大学(1918年から2年)でウィスキーの製造を学んだ技術者でした。

以下、Wikipedia
1858年(安政5年)2月8日、長野上伊那郡朝日村字平出で、宇治橋瀬八の次男として生まれた。1882年に海軍機関総督横須賀造船所長の渡邊忻三の養子となり、1914年に渡邊家の家督を相続した。1876年工部大学校(現在の東京大学工学部)予備校入学、工部大学校5期生として土木科に学び、1883年に首席で卒業、ただちに工部省に技師として雇われ鉄道局に勤務することになる。
しかし、翌1884年にこれを辞して英国に渡航。グラスゴー大学に入学し、土木工学と理学の学位を取得して1886年4月に卒業。同年5月にファウラー・ベイカー工務所の技師見習い生となり、続いて技師に昇格している。その後、フォース・ブリッジ鉄道株式会社のフォース鉄道橋建設工事監督係となる。工事監督のかたわら、同橋前後の鉄道線路約20キロの実地測量とその設計主務も担当している。
嘉一は、業半ばで1888年に日本に帰国し、日本土木会社の技術部長となる。その後、参宮鉄道、関西瓦斯、東京石川島造船所、京王電気鉄道会社などの社長を務めた。北越鉄道技師長時代に、石油の残滓を機関車の燃料に応用して、燃料を節約する燃焼器を発明し、特許を取得している。1899年には、工学博士の学位を授けられた。
さらには、土木学会設立に参画。帝国鉄道協会会長なども歴任して、学会、産業界に幅広く活躍したが、1932年(昭和7年)12月4日、胃癌で帰らぬ人となった。

以下、次号・・・

by camino0810 | 2015-11-29 06:42 | イギリスⅡ | Comments(0)  

2015年11月24日(火)イギリスⅡ エピローグ(6)

エピローグ(5)の続きです。

⑨ 街路
イギリスの街の中心市街地には共通した特徴を感じました。
大聖堂や教会に繋がる広場や参道に相当する旧市街が中心市街地になっていたように感じます。大聖堂や教会は単なる宗教施設ではなく、地域の歴史、文化、経済の中心だと感じました。
中心市街地の街路は石材で舗装してあり、車の通行を排除していました。街はずれに駐車場が用意されており、中心部にはバスか歩きで向かうように誘導されていました(パーク&ライド方式)。


b0214184_17111885.jpg

大陸ヨーロッパはバスとトラムを併用した街が多かった記憶がありますが、イギリスはバスのみでした。
(エディンバラ空港から市街地までトラムが走っていましたが、この街しかトラムを見掛けませんでした)


b0214184_17011954.jpg

沿道のレストラン、カフェ、お土産物屋などは元気があり、沢山の市民や観光客で賑わっていました。
街路は、車道と歩道は区分してある街と区分をなくしている街がありました。人が少ない撮影時間帯の街もありましたが、車ではなく人中心のまちづくりにしてありました。


b0214184_16085641.jpg


b0214184_16122082.jpg

b0214184_16132505.jpg


b0214184_16160923.jpg


b0214184_21455052.jpg


b0214184_16232233.jpg


b0214184_16255868.jpg


b0214184_16284127.jpg

日本の地方都市の駅前商店街がシャッター商店街となっているのと対照的です。スコットランドのパースの街はずれに大型スーパーTESCOがありました。イギリス最大のスーパーのチェーン店で、ウォルマート、カルフールに次ぐ世界第3位のスーパーだそうです。
市街地中心部にも活気がありました。イギリスには、イオンのようなショッピングモールを上手に規制する法律があるのではと推定します。


b0214184_05073097.jpg

2015年10月末、実家のある大分県中津市に帰省しました。40年前、この駅前アーケードは活気に溢れていましたが、今は郊外のショッピングモールにお客を奪われシャッター商店街に様変わりしました。


b0214184_17224907.jpg

⑩ 住宅
イギリスの住宅は都市部、田舎で違っていました。地価に応じて土地を有効に利用できる住居形態は日本と同じ。地価が高いほど居住密度が上がります。多分、くだんの法律「Town and Country Planning Act」の縛りがあるのかもしれません。
A 都市部
エディンバラの郊外では長屋タイプのフラットのB&Bに宿泊しました。表から見ると2階建てですが、屋根裏部屋が付いているので実態的には3階建てでした。1階が食堂、2階と3階に居室や浴室が付いていました。

b0214184_05304479.jpg


b0214184_05325094.jpg


b0214184_06013760.png
(出典 Google)


よく見かけたのが、2棟続きの住居。前庭と裏庭がセットになっていました。閑静な住宅街は、周辺環境も豊かでした。1戸建て住宅は見かけませんでした。

b0214184_05220574.jpg


b0214184_05353142.jpg

イングランドでも似たような印象を受けました。都市部には街路に直接面した建物+中庭型の長屋もありました。土地を有効利用して、中庭で隣人とのコミュニケーションが取れる配慮かもしれません。

b0214184_16410029.png
(出典 Google)


b0214184_06261818.png
(出典 Google)

ロンドン郊外の住宅街にもその特徴を見る事ができました。写真の赤い屋根の建物は2棟続きです。

b0214184_06455718.jpg

2棟続きには前庭と中庭が付いているパターンが多いように思います。建物だけが屋根がひとつで、前庭と裏庭は2つに分割されています。建物の屋根や壁を共有することで土地を節減でき、対称な造りなので仮設材や建築資材も節減できます。

b0214184_06415534.png
(出典 Google)

B 田舎
イングランドのB&Bは田園地帯にありました。土地もたっぷりあるので、当たり前ですがレンガ造りの立派な1戸建てでした。

b0214184_06174801.jpg

⑪ トイレ
小便器の形状は何処に行っても気にします。イギリスの小便器は足のない簡易型でした。大陸ヨーロッパも同じです。日本の小便器は床面から立ち上げたタイプです。機能だけを考えるならイギリス式の形状が合理的。そのかわり、日本では当たり前のシャワートイレには一度もお目にかかりませんでした。
人は必ずしも合目的的かつ合理的な生き物ではなくて、長年培われた慣習にさして疑問も持たず従う習性があるという事です。一見、不合理と思える考え方もまた大事な事だと考えます。

b0214184_07030547.jpg


b0214184_07075252.jpg


b0214184_07061700.jpg

以下、次号・・・


by camino0810 | 2015-11-24 17:01 | イギリスⅡ | Comments(0)  

2015年11月23日(月)イギリスⅡ エピローグ(5)

エピローグ(4)の続きです。

⑦ 農地
イングランドを縦断しましたが、山らしい山を見る事はなかったです。山岳地方の北部スコットランドを除いて、ほとんど丘陵地ではないか・・・。
日本の国土は37万m2あるものの、大半が人が住めない山ばかり。イギリスは24万m2でも平坦な土地が多いので可住面積は意外にも広いようでした。イギリスの人口は約6000万人と日本の半分ですが、可住面積は日本の2倍はありそうです。そうすると、1人当たりの可住面積は日本の4倍になりますが、確かにゆったりした国だと思います。日本は川が削った河谷平野や河口の低平地にしか住めないのでごちゃごちゃとしています。
緩やかな丘陵地に拡がる菜の花畑、小麦畑、牧草地をどっさり見てきました。日本に比べて大規模な農業が展開されているようで、国際競争力も比較的高いように感じました。
コッツウォルズの田園風景は実に良かったです。今回の旅行の主目的のひとつでしたが、念願が叶えられました。


b0214184_05511543.jpg

リーズからマラムコーブに向かう国道の沿道に拡がる牧草地ですが、何処でもこんな感じでした。


b0214184_05465878.jpg

マラム村の牧草地はこんな風・・・

b0214184_06065736.jpg

⑧ 街
今回、沢山の街を歩きました。
ざっくりと主観的に大、中、小と街を分類してみました。イギリスや大陸ヨーロッパの都市は、人口が少なくても都市インフラが立派に整っていると感じました。人口が同程度なら日本の街よりかなり立派だという印象を受けました。
大都市 エディンバラ(50万)、リーズ(40万)、サウサンプトン(25万)、ヨーク(20万)、ブライトン(15万)
中都市 バース(9万)、ヘースティングス(9万)、ソールズベリー(5万)、パース(5万)、カンタベリー(4万)、ストラットフォード・アポン・エイボン(3万)
小都市 サイレンセスター(2万)、デビズ(1.5万)、ヘンレイ・イン・アーデン(推定1万)

大、中、小を問わず街並のスカイラインが綺麗に揃っていました。

b0214184_16323229.jpg


b0214184_16374878.jpg


b0214184_06110333.jpg


b0214184_16405652.jpg

b0214184_16430783.jpg


b0214184_06060692.jpg


b0214184_06164050.jpg


b0214184_16455969.jpg


b0214184_16493780.jpg

最初は、イギリス人は単に建物の軒を揃えるのが大好きな国民であると思い込んでいました。どうもそうではない事が判ってきました。
2015年11月、建設コンサルタント協会の欧州視察報告会に参加しました。大陸ヨーロッパのフランス、ベルギー、オランダ、ドイツのインフラやまちづくりの様子が紹介されました。まちづくりにおける日本と4か国の縛りの違いにヒントがありました。
これらの4か国では
 ・建物の階数を規定している事(日本:なし) 
 ・個人の権利に制限を設けている事(日本:なし) 
 ・建物の新設や改造を行う時は、周囲の同意を得る必要がある事 (日本:不要)
2014年5月に旅行した大陸ヨーロッパの東側の、ハンガリー、スロバキア、オーストリア、チェコでも建物のスカイラインは揃っていました。似たような法の縛りがあるものと推測します。

イギリスでもまちづくりにおいて「Town and Country Planning Act」(註1)という法律でタイトな縛りを掛けているようです。
A ヨーク大学に留学していたYさんの話(1991年から2年間) 
「 https://en.wikipedia.org/wiki/Town_and_country_planning_in_the_United_Kingdom
こいつです。私が住んでいたはす向かいの家で、子供部屋を作るために改築しようと言うことで、近隣住民である私の所に同意書へのサインを求めにきたときに「大変なんだ」とぼやいていたのが印象的でした。あまりに規制が厳しく手続きが大変なので2008年のPlanning Actで少し緩められたという話はありますが。
Town and country planning in the United Kingdom is the part of English land law which concerns land use planning. Its goal is to ensure sustainable economic development and a better environment. Each country of the United Kingdom has its own planning system that is responsible for town and country p…」
B 研究者Nさんの話
「噂では、スイスでも建物を建てるときには計画の場所で計画書を1年間縦覧して近隣の合意をとる必要があるとか。ドイツでは窓ガラスを磨いておかないと苦情が来るとか。京都の一部は別のようですが、日本の観光地はせっかくの資産を毀損している例が多いと思う。アレックス・カー氏の意見にかなり賛成です。」

パリの旧市街も見事に建物の軒が揃っていますが、デフォンスという旧市街の西のはずれにある新市街地では高層ビルが林立しています。ウィーンではドナウ川の左岸に同様な市街地がありました。ゾーニングがしっかりしているなという印象を強く受けました。


b0214184_06455156.jpg

東北の大震災では津波で沢山の街が消失しました。大船渡の復興のお手伝いを始めて1年になります。陸前高田は市街地全域が消滅しました。
仮に、被災、消滅した一地区に数百人単位のイギリス人がまとまって住んでいた地区があったとして、その地区を復興するとしたら、彼らはどのように街を再建するか・・・
最初に教会を再建し、広場と道路を造る。教会前の広場に、パブと薬局、パン屋を再建する。道路脇に軒を揃えた住宅を造る・・・勿論、電柱・電線は地下に埋めるでしょう。
今回のイギリス旅行で注目した街は、リーズでした。この街は大学や金融、情報産業を核に再開発が盛んに行われているという印象を受けました。成熟社会を迎えたイギリスにおいて人口を増やしており、中心市街地の賑わいも感じました。旧市街地では建物群をまるごとトップライトの巨大なアーケードで覆っていました。

b0214184_07010866.jpg

以下、次号・・・

「Town and Country Planning Act」(註1)
以下、Wikipedia より引用

イギリスの都市計画[編集]
19世紀、イギリスでは、『劣悪な居住環境からくる国民の健康問題』に端を発し、1909年には初めて都市計画を扱う法律が制定された。Housing, Town Planning etc. Act 1909 により、一定の地域について、画一的な建築条令による市街地開発の基準を白紙化し、より柔軟な計画と管理規約による規制に置き換える権限が地方自治体に与えられた(ただし国会の承認を要する)。Town and Country Planning Act 1932では、都市自治体(Town)だけでなく農村自治体(Country)においてもこうした計画制度(Planning)を採用することが義務づけられた。戦後のTown and Country Planning Act 1947 では、開発権が国有化され、全ての開発が地方自治体による裁量的許可制(Planning Pernission)の下に置かれるとともに、全国土について、裁量的開発許可の参照基準となるディベロップメント・プラン(Development Plan)が策定されることになった。
日本の都市計画制度と比較すると、イギリスでは開発許可を必要とする開発行為の適用範囲が広い。1990 Town and Country Planning Act によれば「開発」とは、建設行為および土地利用目的の本質的な変更と定義される。後者には、土地利用用途 (Use Class) の変更や、土地利用状況の著しい変化が含まれる。この点、建築物や特定の工作物の建設を目的とする土地の区画形質の変更を開発行為と定義し、たとえば農地を駐車場に変更しても開発行為にあたらない日本の制度とは大きく異なる。
また、イギリスの制度では開発によって生じるであろう公共施設需要増加に対して施設整備を行うことなどを条件に開発許可を与えることがある (Planning Obligation)。例えば、ある開発が交通や上下水道の需要増加を生じると予想される場合、その増加分程度の工事または出費を開発者に求めることができる。日本でも宅地開発指導要綱などにより「任意の寄付」として開発負担金を納付するよう行政指導する仕組みが広く自治体に採用されていた時期があったが、急速な都市化の終息と、法的根拠の曖昧な行政指導に対する社会的な批判から、近年はこれを廃止する自治体が多い。


by camino0810 | 2015-11-23 07:20 | イギリスⅡ | Comments(0)  

2015年11月15日(日)イギリスⅡ エピローグ(4)

エピローグ(3)の続きです。

④ 山
山はスコットランドくらいしか見ませんでした。パース郊外やエディンバラ市内に大きな岩山があった程度。

b0214184_10052040.jpg


b0214184_10031207.jpg

エディンバラ城は市内を一望できる高い岩山の上に建っていました。

b0214184_10045317.jpg

イングランドを縦断しましたが、山らしい山を見る事はなかったです。山岳地方の北部スコットランドを除いて、ほとんど丘陵地ではないか。イギリスの可住面積は意外にも広いようでした。

⑤ 駅
車の移動なので駅舎は、訪問したのはエディンバラとヨークのみ。エディンバラの駅は谷底に位置した広大な駅舎でしたが、ホームに立つ時間はありませんでした。
屋根は恐ろしく広いトップライトでした。

b0214184_16284869.jpg

2015年11月、TBSの世界遺産シリーズでフォース橋が紹介されました。ウェーバリー駅のホームは全面トップライトなので明るいです。


b0214184_10144137.jpg

電車もお洒落でした。


b0214184_10162928.jpg

ヨークの駅舎はドーム型の屋根が付いた風格のある駅舎でした。


b0214184_16304394.jpg

ヨーロッパの著名な駅もにも行きましたが、すべてホームを覆う屋根はワントップ、ひとつの屋根でした。日本の駅舎でワントップの屋根の駅は大阪駅くらいしか知りません。

⑥ 橋
フォース湾に差し掛かると、右手に赤いフォース鉄道橋が見えました。イギリスの黄金期に架設されたものだと思います。トラス構造の珍しい形をした橋梁でした。
構造のコンセプトは、橋脚からヤジローベーのようにトラスを張り出して、支間中央部にゲルバー梁を乗せて連結させたといった感じでした。


b0214184_10551690.jpg

とにかく、これだけ巨大な鉄の橋を1890年(明治23年)に完成させたイギリスの土木技術力には脱帽です。


b0214184_10552086.jpg
(出典 Wikipedia)

2015年11月、TBSの世界遺産シリーズでフォース鉄道橋が紹介されました。この橋は2015年6月頃に世界遺産に登録されました。
以下の写真はTBSの世界遺産シリーズから引用します。赤い鉄道橋の上に2つの橋が写っています。手前がフォース第1道路橋、この橋を車で往復しました。奥の橋がフォース第2道路橋、橋脚が完成していて、現在、橋桁を架設中でした。


b0214184_11034005.jpg

橋の構造は橋梁技術の進展を明瞭に示しているように思いました。(以下の数字は大体のものです)
Aフォース鉄道橋(1890年完成)構造 トラス 橋長2500m 最大支間長500m 高さ100m
Bフォース第1道路橋(1964年完成)構造 吊橋 橋長2500m 中央径間長1000m 高さ 100m
Cフォース第2道路橋(建設中)構造 斜張橋(推定) 橋長2500m 最大支間長500m 高さ 100m
橋は、構造力学、風工学、材料力学、水理学、土質工学、測量技術、施工技術の進展に伴い最大支間長を大きく出来るようなりました。
(何故、フォース第2道路橋を吊橋にしなかったのか?その理由が気になりますが・・・)
とにかく、明治中期に5万5千トンの巨大な構造物を設計、施工できたイギリスの技術力には脱帽する以外にありません。


b0214184_11571961.jpg

北九州市の洞海湾にかかる若戸大橋(1962年完成:橋長600m 最大支間長370m 高さ80m)は、日本における長大橋の始まりであり、建設当時は東洋一の吊り橋だったそうです。日本の技術者も鍛錬を重ねて、1962年にはイギリスの水準に達したようです。


b0214184_11444595.jpg
(出典 Wikipedia)

放映を見て最もインパクトを受けたのは、架設中の写真でした。橋脚から支間中央に向けてヤジロベーのように徐々に部材を継ぎ足していく様子が判ります。現在架設中の第2道路橋も同じように組み立てていくと思います。
大きなクレーンや台船がない時代にこれだけ大きな部材をよくも組み上げたものだと驚かされました。それに、測量技術が不足していると橋桁同士がうまく閉合しなかったでしょう。


b0214184_11585705.jpg

円筒型のトラス主部材の継ぎ足しの写真です。当時、部材同士はリベットと呼ばれる鋲を叩き込んで接合したものと推測します。接合部の当て板を交互にずらして弱点にならないように配慮されていました。円筒型の部材は直径3~4mくらいはありそうです。


b0214184_11590739.jpg

建設会社32年、建設コンサルタント会社5年勤めた経験から言うと、橋桁のような上部工よりもむしろ橋脚と呼ばれる下部工が気になります。(鋼橋は橋梁専門会社や鉄鋼会社の系列会社が施工します)
フォース湾の水深や潮流は不明ですが、この鉄道橋の基本設計はどのようなものだったのか、何故、支間を500mにしなければならなかったのか・・・気になるところです。
そこを自分なりに考えてみました。以下は個人的な見解です。
① 多径間の橋
設計・施工面で容易な方法は、沢山橋脚を造って、支間を小さくするのがベストです。実際、パースのあるテイ湾では橋脚が沢山ある短支間の橋でした。支間長は橋桁の下を通過する船舶の大きさや頻度で決めればよいので、せいぜい30mもあれば十分、桁下空間の確保が決めてになるでしょう。この橋は強風で倒壊しましたが、テイ湾の水深は浅かったと思います。


b0214184_13292754.jpg
 
② 少径間の橋
水深が小さい時は橋脚を沢山築造できますが、水深が仮に50mもあると橋脚築造は当時の建設技術では不可能だったかもしれません。
当時の技術水準からはなんとなく水深が10mくらいになると仮締め切りが設計的にも施工的にも極めて困難だったのではないか・・・何時の時代でも、水深は大きな障壁です。当時、大水深での橋脚施工は、この頃開発された締め切りが不要なニューマチックケーソン(潜函工法)くらいしかなかったようです。

1883年に完成したニューヨークのブルックリン橋(橋長1800m、中央径間500m)はどうだったのか?

b0214184_10583369.jpg
(出典 Wikipedia)
この橋の橋脚はニューマチックケーソン(潜函工法)で築造されたのは間違いありません。多数の現場関係者がケーソン病で亡くなっていました。
以下、Wikipedia より引用

ブルックリン橋はベルリン王立高等理工科学校(現・ベルリン大学理工学部土木工学科)の橋梁工学を卒業したテューリンゲン州ミュルハウゼン出身のドイツ系移民のジョン・オーグスタス・ローブリング(John Augustus Roebling、1806~1869年、ドイツ語発音ではヨーハン・アウグスト・レーブリング(Johann August Rӧbling))によって最初に設計されたが、彼は橋の建設開始をまたずに破傷風で病死した。その後、南北戦争に従軍した息子のワシントン・ローブリング(1837~1926年)が建設を引き継いだが、彼もまたケーソン病により下半身を麻痺したため、同じドイツ系の妻のエミリー・ワーレン・ローブリング(1843~1903年)が工学を勉強し、現場の監督者と彼との意思疎通をはかった。ワシントンは1903年に妻を先立たれてからも、1926年に89歳で亡くなるまで自宅から望遠鏡で橋の建設を見守ったという。建設当時、ケーソン病はまだよく理解されていなかった。
(省略)
建設に際しては多数のケーソン病による死者を出した。

結局のところ、フォース橋の基本設計はフォース湾の水深で決まったように思います。湾中央に小島がありました。この小島の浅瀬に中央橋脚が出来ていました。この小島を上手に利用したように思います。橋脚の基礎は各々独立した円筒形ですが、多分、水深が浅いので仮締切りで造ったのではないか・・・。


b0214184_14361701.jpg


その答えとなる図面がありました。海中にある中央橋脚は水深の浅いところに設置されていました。基本設計にあたり水深の浅い場所を探してそこに橋を計画したのでしょう。橋脚の高さが100mなので最大水深はゆうに100mはあります。
この地点でフォース湾の幅は約1000m、両岸に橋脚を2本、中央部に1本、計3本の橋脚にして支間長を500mにすればよいという事になります。


b0214184_14502825.png

次に、支間500mの橋桁をどう設計・施工するか?
ブルックリン橋のように橋脚が2本なら吊橋が可能ですが、橋脚が3本だと吊橋は無理だと思います。
苦肉の策がヤジロベー形式のカンチレバー方式だと思います。支間中央部にはゲルバー梁と呼ばれる小梁を載せた形式にしていました。こうすると、橋脚は少し沈下しても致命的な事態には至りません。
この原理が番組で紹介されていました。ゲルバー梁に乗っているのは日本人技術者渡邊嘉一でした。彼はフォース橋を含む一連の鉄道の設計、現場監督を担当した土木技術者でした。
正直、驚かされました。渡邊嘉一については、土木技術者の項で触れたいと思います。

b0214184_15005806.jpg

この写真がスコットランド銀行の20ポンド紙幣に右上に印刷されているそうです。二度驚かされました。


b0214184_15100487.jpg

この橋で特筆すべき点はもう一つあります。
125年間の長きに亘り現役を続けているという事です。鉄の橋は放置するとすぐに錆が出て致命的な事態にも発展しかねません。フォース湾の過酷な海象や列車の繰り返し荷重に125年も耐えている事は大いに賞賛して良いと考えます。

以下、次号・・・



by camino0810 | 2015-11-15 15:46 | イギリスⅡ | Comments(0)  

2015年11月11日(水)イギリスⅡ エピローグ(3)

線情報となる道路や運河などのインフラ、川、山、街、農地など。。。

① 道路
5月3日から9日までの7日間、大半の時間をレンタカーの運転で費やしました。走行距離は2,100kmでした。イギリスの道路事情は素晴らしかったです。走りやすい、混まない、沿道の景色は良い。運転していて眠くなっても飽きる事はなかったです。
(1) 高速道路M(Motorway)
高速道路Mは3車線以上でRも大きく視距もよいので日本の高速より走り易かったです。制限速度は70マイル(110km)。実態的には皆80~90マイルくらいは出していました。一部区間を除いて高速Mはどこでも無料なのが嬉しかったです。出入りは日本と同様にICを使いました。
リーズからダービーに向かうとき時に走ったM1(ロンドンが終点)は緑豊かな牧草地を走り抜けました。

b0214184_05305078.jpg

カンタベリーからヒースローに向かうM25はロンドンのバイバス道路でしたが、周辺は森林や牧草地で快適な走りを楽しめました。

b0214184_05291297.jpg

エディンバラからパースに向かう時に走ったM90は番号が大きいせいか2車線でしたが、スコットランドの自然を満喫できました。

b0214184_05465594.jpg

高速Mで渋滞も経験しました。バーミンガムからリーズに向かうM61ではガッチリ掴まりました。リーズで待っている友達に大迷惑を掛けました。

b0214184_06151122.jpg

日本で無料で使用できる高速道路は、岩手県の三陸復興道路くらいしか知りません。もしかして直轄施行の高速が無料かもしれません。新潟市のパイパスは高規格道路と呼ばれる高速道路仕様で無料でした。
日本も観光立国を志向しているので、高速道路では外国人観光客に使い勝手の良い標識などもこれから準備すると良いと思います。

(2)A道路
1~2桁のA道路は日本の高速と一般国道の中間くらいの設計で、片側1車線か2車線、制限速度は50~60マイル(80km~100km)程度、路側の障害物を気にする必要がなかったので走行性は大変良かったと感じました。
エディンバラからカーライルまでのA7は番号が若いのに片側1車線でしたが、走り良かったし沿道の景色はいかにもスコットランドといった感じでした。

b0214184_06052297.jpg

ダービーからバーミンガムまで走ったA38はほとんど高速仕様でした。出入りは平面交差でラウンドアバウトを利用します。

b0214184_06110919.jpg

3~4桁のA道路は、丘陵地なりの縦断線形の箇所も多く勾配がきつくてジェットコースターに乗っているような箇所もありました。交差する道路が少なく路肩をなくし側部は生垣や石垣などでガードする設計になっているため片側1車線道路であってもスピードが出せました。

b0214184_13195551.jpg

(3)田舎道
牧草地の中の道路は番号がありませんでした。リーズからマラムコーブに向かう田舎道は、石を積み上げただけの、羊よけの石積のくねくね道でした。田舎道はイギリスらしい田園風景を感じさせてくれました。


b0214184_13241142.jpg

生垣と大きな樹のある狭い田舎道を走りました。

b0214184_11412650.jpg

コッツウォルズでは菜の花畑や麦畑の中の田舎道を走りました。

b0214184_13272259.jpg

②ラウンドアバウト
イギリスの道路を語る上でラウンドアバウトは欠かせません。たしか発祥の地だとも聞いています。市街地中心部では信号交差点でしたが、少し外れるとラウンドアバウトが多用されていました。Aクラス道路のラウンドアバウトは円環部も大きく、環状部は2車線が多かったです。
カンタベリーのラウンドアバウトはこんな感じ。

b0214184_05474357.png
(出典 Google)
先に環状道路に入った車が優先されるルールで、円環道路の手前で一旦停止して環状道路への進入を待ちます。進入したら時計回りに回って、脱出したい道路を選択します。交通量の少ない場所では非常に効率的な交差点だと感じました。信号交差点で発生する正面衝突のような深刻な事故が起こらない仕組みです。ラウンドアバウトの標識は決まっていて、円環の一部が切れた形ですが、実際は繋がっています。運転者が逆走しないように配慮しているようです。

b0214184_06034681.jpg
b0214184_06021088.jpg

ただ、ダービーのA38に流入する交通量の多い箇所では進入する車が増えるので信号が付いていました。本末転倒のようにも思えますが、苦肉の策だと思いました。

b0214184_06054069.jpg

デビズのような小さい街では円環部はなく矢印だけの赤ちゃんラウンドアバウトもありました。イギリスのラウンドアバウトに対する何か拘りのようなものを感じました。

b0214184_06075911.jpg

③ バイパス
ロンドに限らず地方の中心都市にはほとんどリング状のバイパス道路が、設置されていました。エディンバラ、ヨーク、リーズなど・・・中心部に流入する車を抑制し、交通混雑や大気汚染を抑えるためだと思います。パーク&ライドとセットだと思います。ロンドンのM25は圏央道なみの巨大リング型の高速でした。

b0214184_06190282.png

④ 運河
運河は産業革命時に沢山開削されたようです。1999年の運河視察ツアーではナローボートで運河クルーズを経験しました。その時の記憶は曖昧ですが、8000km位あったとか・・・
運河は、Googleの地図を見ると至る所にありました。水面の高低差は閘門で処理します。道路横断箇所は下越し、川を横断する箇所は水路橋になっていました。

b0214184_06420216.png


b0214184_20401939.png
(出典 Google)
デビズの15連続閘門には驚かされました。ここも観光地として人気があるようです。

b0214184_20394884.png

b0214184_20403645.png


b0214184_20395356.png
(出典 Google)
                            
現在は、物資運搬の役目を終えて専ら観光、レストラン、生活用住居として利用されているようでした。ストラットフォードアポンエイボンにはロンドン、ヨーク行きのナローボートの発着所がありました。幅2m、長さ15mくらいの細長いナローボートが沢山浮いていました。

b0214184_11433056.jpg
b0214184_11443811.jpg

田園地帯をナローボートでのんびり旅するのもイギリスを堪能するにはよいと思います。

⑤ 川
自称川屋ですが、今回の旅では川をじっくり見る機会は少なかったです。日本の川は上流、中流、下流の河相をセグメントで呼んでいます。イギリスの川は河床勾配が緩いので必ずしもマッチしているかどうかは不明ですが、日本の川と対比するという意味合いで一応分類してみました。
セグメントM(山間地:渓谷)マラムコーブのマラム渓谷
セグメント1(扇状地)なし
セグメント2(自然堤防、三角州)パースのテイ川、ヨークのウーズ川、リーズのエアー川、ストラットフォード・アポン・エイボンのエイボン川、バースのエイボン川、ソールズベリーのエイボン川

マラムコーブのマラム渓谷。


b0214184_15143514.jpg

パースのテイ川の河畔の風景


b0214184_14103856.jpg

b0214184_14104416.jpg

都市内河川は、街と上手にコラボしていました。護岸に転落防止柵はありません。どの川も濁っていたのが少し残念・・・。
ヨークのウーズ川


b0214184_15400478.jpg

リーズのエアー川


b0214184_15411797.jpg

ストラットフォード・アポン・エイボンのエイボン川


b0214184_15423372.jpg

バースのエイボン川


b0214184_14150514.jpg

見た川は、中流域、下流域おいても高水敷のない単断面の川でした。イギリスの降雨量が年間を通じてほとんど変化しないからだと思います。

b0214184_15455644.jpg

日本の川はほとんど低水路と高水敷を持った複断面です。夏と冬の降水量の差が大きく、明治初期、河川整備が舟運の航路確保を目的とした低水路整備から始められ、しばらくして高水対策に切り替えられた経緯があったためではないか・・・
スコットランドのエディンバラ、イングランド中部のヨーク、南部のブライトンとも季節による差異はほとんどなく月平均降雨量は50mm前後、年間で600mm前後でした。流況が安定していれば、わざわざ日本のように複断面にする必要はありません。

b0214184_12241362.png
b0214184_12242478.png
(出典:旅行.info)

河川利用の様子はロンドン上空の飛行機から見たテムズ川の光景でよく判りました。ロンドンの郊外にあるキューガーデン上空の写真です。テムズ川は写真に左から右へ流れています。右岸は庭園で有名なキューガーデン。


b0214184_15491359.jpg

同じ場所のGoogleの地図を見ると、テムズ川の流路幅が狭まっていました。飛行機から撮った写真は満潮時、Googleの写真は干潮時撮影のようです。
船溜まりや運河には沢山のナローボートが繋留されていました。テムズ川の観光やレジャー利用が盛んな様子が窺えました。この地点は河口から約60km地点ですが、テムズ川の干満差が大きく干潟の上にナローボートが乗っかっていました。満潮を待って出航するようです。

b0214184_16074608.png
(出典 Google)

以下、次号・・・

by camino0810 | 2015-11-11 17:27 | イギリスⅡ | Comments(0)  

2015年11月8日(日)イギリスⅡ エピローグ(2)

エピローグ(1)の続きです。

⑯ カンタベリー

ソールズベリーは大聖堂の街でした。イギリスでもっとも背の高いゴシックだそうで、意外だったのは十字架の交点の塔が最も高い事でした。フランス、スペインの大聖堂は正面のファサードの方が高かった記憶があります。基本コンセプトは同じでも国によって若干流儀も違うのかなと感じました。昔学校で習ったマグナカルタはこの聖堂に保存されているというで歴史と伝統に溢れる大聖堂でもあります。
大聖堂と回廊の間はお洒落なレストランになっていました。歴史的建造物の一部をレストランにする大胆さには大いに感心しました。これだけの大聖堂の運営管理は簡単ではないと思います。イギリスお得意のPFIでやっているのかもしれません。
参道にイギリスの100円ショップがありました。サンドウィッチなどもすべて1ポンドでした。このお店は大繁盛しておりどこの国も同じようなもんだと感じました。

b0214184_09391924.jpg

⑰ サウサンプトン

1912年4月10日、タイタニック号がサウサンプトン港からニューヨークに向けて出航したそうです。
海辺は新市街地になっているようでした。綺麗で清潔なスッキリした街並で、赤レンガや石造り風の新しい建物が沢山ありました。
メーンストリートと思われる場所を歩きました。昼間なのでなんとも言えませんが、車を排除した人優先の通りのように思えます。ヨーク、リーズ、バースと似たスキームだと思います。中央部分も石張りにして両脇との境目に段差の小さいブロックを並べていました。建物のスカイラインが綺麗に揃っていて、電柱・電線はなく実に素晴らしい街並でした。夜になると、オープンカフェが一斉に立ち並ぶ段取りになっているように思います。

b0214184_09463072.jpg

⑱ ポーツマス

ポーツマスにいた時間はわずかでした。ドーバー海峡を見ようと思い海辺を目指しましたが、海軍の基地の守衛所に行きあたり断念しました。駅前で車を止めて一休みしました。駅舎は赤レンガを基調にして窓枠を石材で飾る瀟洒なデザインでした。

b0214184_09514446.jpg

⑲ シーフォード

シーフォードはブライトンから東15kmの海辺の小さな街でした。宿の前のメーンストリートは赤レンガ造りの3階建ての建物でスカイラインは整っていました。電柱・電線は有りませんでした。宿の前の小さな公園には、第一次、第二次世界大戦でなくなった地元の戦没者の名前が刻まれた記念塔がありました。戦時記念塔はスコットランドの村でも見ました。第二次大戦の戦没者の数が圧倒的に多かったです。1899年~1902年のボーア戦争の戦没者の名前も少数ですが刻まれていました。

b0214184_09591060.jpg

⑳ セブンシスターズ

セブンシスターズはドーバー海峡に面した白い断崖でした。ほぼ垂直に切れ落ちた白い絶壁は高低差が100mはあると思います。駐車場は崖のある海岸線から2km位離れた箇所に設置されていました。海に注ぐ小さな川のラグーンをほぼ手つかずで保全されていました。観光客やハイキングの人は自動開閉の柵を開け閉めしてフットパスを歩いて目標に向かいます。
セブンシスターズの崖や野鳥を見たければ、車を降りてひたすら歩けという訳で、汗をかいた人にだけご褒美をあげるというやり方は多いに参考なりました。
この崖やそれを取り巻く豊かな自然を保全するために、イギリス当局は、自然保護地域を設置して、あえて崖を見せないように道路を計画したのではないか・・・このあたりにイギリス当局の巧みな自然保護と観光戦略を感じます。「しっかり歩いてしっかり観なさい」という事でしょうか。
同じことは、ヨークに近くにあったマラムコーブでも経験しました。マラムコーブの巨大な崖を見るために、駐車場で車を停めて、草原に設置されたフットパスをせっせと2km位は歩きました。
イギリス土産で最も大切なものが2つあります。ひとつは、この海岸で拾った丸い小石ともうひとつはマラムコーブの崖下で拾った小石です。一生の宝物になりました。

b0214184_12240216.jpg

21 ブライトン

激しい雨の中、セブンシスターズから海辺の国道を走ってこのリゾートの街に来ました。路側に車を停めてブライトンの中心地区を観察しました。激しい雨でレンズに水滴が付きました。渚は茶色の小石でできていました。このあたりの茶色の崖が侵食され堆積したようです。白や灰色、黄土色の浜は日本で沢山見てきましたが、茶色は初めてです。
道路沿いの建物は実に綺麗に並んでいました。お天気が良ければ最高の景観だと思います。5階建ての白い建物が見事に軒を揃えていました。街灯のデザインも精巧お洒落で、2色に塗り分けされていました。
追記:この記事を書いている9月20日、ラグビーWカップで日本が南アフリカに歴史的勝利を挙げたという報道でモチキリになりました。その会場はブライトンと知り驚きました。


b0214184_06012451.jpg

22 ヘースティングス

海岸沿いのメーンストリートは白い4階建ての建物が綺麗に軒を揃えていました。これだけ見事な建物のスカイラインは初めてです。
ただ、建物の色や形はブライトンと似てはいますが、表通りの建物は少し老朽化が進んでいて、あちこち痛んだ建物が目立ちました。修理もされず放置されたままのようにも見受けられました。そのせいか、この街にはなんとなく元気不足を感じました。こんな思いを抱いたのは7日目で初めての事でした。
9月から始まったBSNHKで放映が始まった「刑事フォイル」は、1940年頃のヘースティングスが舞台になっていました。イギリスを舞台にした歴史ドラマは割と安上がりにできるように思います。この刑事モノの場合、車と人々の服装だけを変えればそのままロケに使えると思います。
エディンバラから延々とこの国を車で縦断してきて思う事は、イギリスは何処をとっても古いものを大事にし、綺麗にしつらえ、自然もきっちりと保全しているという事です。
フロー社会の日本とストック社会のイギリスの違いが歴史ドラマを作る上でも差異が生じるのは当たり前と言ってもいいと思います。

b0214184_05572102.jpg

23  ライ

イギリスに来て7日目になりますが、これまで目にした光景とは随分と異質なものでした。壁は下部が赤レンガで上部は黒の板張り。屋根は板材で葺いてありました。
この中心地区は伝統的な中世の街の景観を保全している地区のようです。案内のポスターの「1066」という数字からイギリスの歴史や文化がほの見えてきました。
「1066」は、年号でイギリス人にとってはお馴染みの年号だそうです。日本で言えば645年(大化の改新)、1192年(鎌倉幕府)みたいな年号でした。
「ヘースティングスの戦い」が起こった年でした。ヘースティングスはイギリスのルーツに深く関連した街だったと初めて気づきました。
1066年、ウィリアム1世はフランスのノルマンディーからドーバーを渡って、ヘースティングスに上陸して、イングランド王ハロルド2世との戦いに勝利してイングランド王になったとありました。
後継者争いに勝利したウィリアム1世は、フランス人の母を持ち、フランスで育ち、臣下とはフランス語で話していたそうです。その後、彼はイギリス流の封建社会の骨組みを築いたとありました。
いずれにせよ、イギリスとフランスとの関係は、その後百年戦争、ナポレオン戦争、世界大戦などで敵になったり味方になったりした訳で深い関係が昔からあった事は間違いありません。
英語にフランス語由来の単語が意外にも多いのは、1066年の「ヘースティングスの戦い」以降の両国の関係が密接に関係しているように思います。辞書をパラパラとめくるだけで結構沢山の単語が出てきました。
相当穿った見方をすれば、英語が世界標準の言語になれたのは、他の国の言葉を受け入れる寛容さやいい意味で適当さがあったではないかと推測します。一方、フランス語はプライドが高く、厳格な文法に拘り、他の国の言語に対してかなり不寛容だった。古代ローマ人は寛容の精神で当時の世界標準になったように、英語は2つの世界大戦で勝利はしたものの寛容の精神で世界標準になった・・・そういう見方もありかと考えました。

b0214184_06222394.jpg

24  ドーバー

ドーバー城は市内の東側にあり、南北500m、東西300mの断崖に囲まれた天然の要塞でした。城内は実に広々としていて、綺麗に刈り込まれた芝生と石造りのシンプルな城塞や兵舎が実によくマッチしていました。本城や城壁はツルンとしていて窓がありません。ロンドン市内のテムズ川沿いにあるロンドン塔と気分が似ていました。
1940年5月、イギリス軍は、ドイツ軍の圧倒的な電撃戦を受け、ドーバーの対岸にあるフランスのダンケルク海岸に追い込まれました。
この白い断崖にトンネルを掘って、ダンケルクの撤退戦の作戦指揮所にしたそうです。チャーチルの命令で民間の漁船も含めてありとあらゆる船が対岸のダンケルクを目指し、30万人のイギリス軍兵士を無事に本国に帰還させたそうです。
「刑事フォイル」のあるシーンを想い出しました。ヘースティングスで親父さんと漁師をやっていた容疑者の青年は、この撤退戦に親父さんと一緒に漁船で参加したものの、ダンケルクでドイツ軍の銃弾を受け、死者となって帰還しました。実際にこのような事案があったのかもしれません。

b0214184_06372817.jpg

25 カンタベリー

今回のイギリス車旅行でも沢山の大聖堂や寺院を観てきました。
大聖堂はその宗教的な役割は勿論の事、その街や地域の歴史や文化、政治を象徴的に示す建物だと思います。カンタベリー大聖堂はソールズベリー大聖堂と並ぶイギリスの大聖堂の双璧だと感じました。カンタベリーが東の正横綱、ソールズベリーが西の正横綱と言っていいかもしれません。
1066年、ヘースティングスの戦いで勝利し、イングランドを手中に収めたウィリアム1世は、イングランドの宗教界をも支配したそうです。カンタベリー大司教に第1位の座を与えたとありました。
大司教の執務場所がある場所が大聖堂なので、カンタベリー大聖堂はイングランド第1位の地位にある事になります。確かにこの大聖堂はそれに相応しい壮麗さや威厳を感じました。ヨークの大聖堂も壮麗でした。第2位の位置を占めていたのかもしれません。
この巨大宗教施設の維持補修には年間4億円も掛かるそうで、財団の支援や献金で賄われているそうです。国の補助金が入っていないのは、イギリス流のようにも思います。ソールズベリーの大聖堂では館内に土産物屋やレストランが入っていました。
大聖堂の北側に庭園が併設されていました。これほど完璧に手入れされた庭はこれまで見た事がありません。
大聖堂前の、新しい建物ばかりが建っている地区を歩きました。最近リニューワルされた感じで、ピカピカの石張りの歩道しかありません。このような街並はヨーク、リーズ、バースでも見ました。街の中心地区は車を排除し、人中心のまちづくりにするのがイギリス流かもしれません。

b0214184_09064031.jpg

26  ヒースロー

ヒースロー空港のターミナル5は、空港の西側3分の1を占有したBA専用のターミナルでした。ナショナルフラッグキャリヤの特権という事でしょうか・・・
ピカピカのお洒落な施設でした。噴水広場は池と通路の境を無くした斬新な設計でした。チェックインカウンターは、トップライトが設置されたアーチ構造で実に広々としていました。
海外の空港の検査はいつも緊張します。2012年、家族でイギリスを旅行しました。3年前に比べてテロへの警戒が格段に強まって検査は厳しくなったように感じます。
和食ラーメンチェーン「Wagamama」やヘルシーが売りの「Pret A Manger」に出会うのも1週間振りです。「Pret A Manger」のラインアップは実に旨そうでヘルシー、イギリス人の健康志向を感じました。機内食が待っているのでスルーしました。このお店の商品を一回も食べなかった事を後悔しています。

b0214184_09162772.jpg

次回は、線情報となる道路や橋、運河などのインフラ、農地など。。。


by camino0810 | 2015-11-08 09:34 | イギリスⅡ | Comments(0)  

2015年11月6日(金)イギリスⅡ エピローグ(1)

3回目のイギリスのまとめをどう書こうか・・・延々と旅日記を綴ってきたけど、書いた記事の内容を書いた端から忘れる始末。
先ずは点情報(街や観光スポット)の整理、点と点を結ぶ線情報(道路やその周辺)の整理、それを統合して面情報に変え、更にイギリスの立体イメージを仕上げる・・・そんなシナリオを考えてみました。
果たしてそんなことができるのか・・・難しそうですが、とりあえずトライする事にしました。


 5月3日(日)羽田、ヒースロー、エディンバラ
 5月4日(月)エディンバラ、パース、アンブルサイド
 5月5日(火)ヨーク、リーズ
 5月6日(水)ダービー
 5月7日(木)コッツウォルズ
 5月8日(金)バース、ソールズベリー
 5月9日(土)セブンシスターズ、ブライトン、ドーバー、カンタベリー
 5月10日(日)ヒースロー
 5月11日(月)成田


b0214184_11340965.png

先ずは訪れた各街の印象や想い出をもう一度整理・・・。

① エディンバラ  
古色蒼然とした古都というのがこの街にぴったりでした。中心地の石造りの建物、郊外の住宅は軒が綺麗に揃っていました。教会などは煤で黒ずんでいました。芝生の手入れが恐ろしくキレイでした。郊外の住宅地は静かで庭も広く快適な感じで、八重桜が沢山植えられていました。郊外には日本同様お洒落なショッピングモールがありました。空港と市街地のアクセスはいいと思います。中学生はハリポタの制服でした。

b0214184_04505346.jpg

② パース
パースはガイドブックにも出ていない小さな街でしたが、実に綺麗な街でした。教会を中心に旧市街がまとまっていて、川沿いの風景も実に良かったです。テイ川は褐色に濁っていたのが残念だったけど、近自然工法の川づくりがなされていました
小さい村、小さい街であっても綺麗にしつらえるイギリス人の国民性を感じました。市街地は、3階建て。建物のスカイラインは見事に整っていました。電柱・電線はありません。そのため非常にスッキリした景観に仕上がっていました。街路樹はあえて植えていないようにも感じました。


b0214184_04450028.jpg

③ スコットランドの村(Milnathort)
この村にはノンビリした気分があって人どおりも疎らでした。小さい村レベルでも建物のスカイラインは一応揃っていました。イギリス人は過去の記録を大切しているように感じました。大都市から村まで必ず戦争で犠牲になった人の名前が刻まれた記念碑を見つける事が出来ました。この村の記念碑は第2次大戦の戦没者を弔うための塔で赤い造花のリースが添えられていました。

b0214184_09524001.jpg


④ アンブルサイド
湖水地方は生憎の小雨でした。宿泊したB&Bは、如何にもB&Bらしく家庭的で調度品なども素敵でした。湖水地方を観光する時間は取れなかったけど、沿道の景色には素晴らしさを感じました。スコットランドに比べて緑が濃く湿潤さを感じました。



b0214184_08140534.jpg

⑤ ヨーク
ヨークの街はこじんまりとまとまったイングランドを代表する歴史のある古都でした。ゴシックの壮麗な大聖堂がイギリスにある事に少し驚かされました。
旧市街は様々なお店があり、石造りの舗道は車を排除し人中心の街造りになっていました。パーク&ライド方式で市街地に流入する車を規制していました。
旧市街を一周する城壁には歩道が設置されていました。歩道から見た大聖堂や赤レンガのアパートの眺めも素晴らしかったです。
旧市街を流れるウーズ川には赤い観光ボートが沢山浮かんでいました。水の濁りともう少し水辺利用があってもいいかなと感じました。この街には価値の高い観光スポットが多数あり、セットで水辺開発をもっと進めるポテンシャルがあり、ちょっと勿体ない気がしました。一戸建てが約30万ポンド(≒6000万)、建物と土地の相場は不明ですが、日本よりかなり高いと感じました。

b0214184_16113506.jpg

⑥ リーズ
リーズは、学生と金融や情報産業の街で英国4番目の大都市だそうです。新規のショッピングモールが複数建設中で、新しいお店がどんどんオープンしているらしい。新規投資が盛んな元気のある街のように感じました。街並みは、古いものと新しいものを上手にコラボさせていたように感じました。イギリスはこの街で生き残り戦略をかけた壮大な社会実験をしているのかもしれない・・・。そんな思いを感じさせる街でした。今後の趨勢が楽しみな街のように感じました。駅裏の水辺開発にも力を入れていて、運河を上手にまちづくりに取り込んでいるように感じました。

b0214184_16193499.jpg

⑦ マラムコーブ
マラムコーブはリーズ市内から車で2時間30分にあるヨークシャー国立公園にある渓谷でした。フットパスという渓谷沿いの遊歩道を歩いて源流まで行けました。
源頭部は石灰岩の直壁の洞穴でした。川が牧草地から樹林の間を流れ下っていました。素晴らしい水辺空間が出来上がっていました。歩いた者だけに褒美を与えると同時に自然環境をキッチリ保全するイギリス流の考え方に触れた思いがしました。

b0214184_16313817.jpg

⑧ ダービー
ダービーには大学の教養時代のクラスメイトのTさんが住んでいました。彼はクラス会の幹事長、僕は幹事で事前にダービーで会う約束をしていました。ダービーに向けた後半の旅は苦難の連続でした。Google のマップ、モバイルPCのルーターがさっぱり電波を拾ってくれず現在位置が全く不明でした。彼が勤める会社に時間通りたどり着けず大迷惑を掛けてしましました。
彼の自宅に1泊しました。朝6時、家の2階から観た朝霧が残った外の眺めは素晴らしかったです。こんな風景が多分何処にでもあるイギリスという国にあきれるばかりです。

b0214184_16362161.jpg

⑨ ヘンレイ・イン・アーデン
ヘンレイ・イン・アーデンはたまたま休憩に立ち寄った町で、コッツウォルズの北の端にある小さな町でした。それでもイギリスらしい気分がありました。何処に行っても素晴らしい・・・それがイギリスだと感じました。

b0214184_06023025.jpg

⑩ ストラットフォード・アポン・エイボン
1999年に運河視察で来て以来16年振りに訪問しました。水辺の整備が進んでいたように感じました。エイボン河畔の運河には沢山のナローボートが浮かんでいて、閘門で水位調節をしている現場にも遭遇しました。表参道であるヘンレイストリートは平日にも拘わらず沢山の観光客で溢れていました。車の通行は排除されていて安心して街歩きを楽しめました。この街もパーク&ライド方式にしているようでした。

b0214184_06145123.jpg

⑩ ボートン・オン・ザ・ウォーター
2012年に家族で行った水辺の小さな村でした。3年前と同じ感じで相変わらず完璧な水辺の村でした。この村は、テムズ川の最上流のウィンドラッシュ川の河畔の小さな村です。この村の水辺のデザインは多いに参考にできるように感じます。地方の村レベルでもお客を呼び込んで賑わいが出来て、地元にも還元される・・・そのような地方の在り方もありかと感じました。

b0214184_06220252.jpg

⑪ サイレンセスタ―
サイレンセスタ―は小さな町ですが、コッツウォルズの中心地と言われています。この街は3年前に家族で2泊した想い出の町です。宿泊したB&Bは白くお化粧してお洒落になった感じがしました。教会前の市場通りが町の中心部です。建物のスカイラインは綺麗に揃っていました。電柱・電線はありません。特徴的な点は建物をパステルカラーで塗っている事、これまでの旅程では初めての経験です。

b0214184_06263982.jpg

⑫ マールボロ
マールボロの街でタバコ休憩をしました。僕はマルボロのタバコを愛用しています。この街は赤レンガの街でした。建物のスカイラインは揃っていて、もちろん電柱・電線はなくスッキリした街並でした。興味深かったのは中心部の教会前の広場兼駐車場。道路が気になるほど傾斜していましたが、道路と駐車場の仕切がなく一体化していた事、この手もありかと思いました。

b0214184_06311334.jpg

⑭ デビズ
人口はぜいぜい1万人程度の地方の小都市という気分でした。赤レンガの建物が沢山有りました。人通りがないせいか活気が感じられません。この街は運河の階段式連続閘門が観光スポットになっているようです。運河は西30kmにあるバースでエイボン川に繋がっていました。数えると15基の閘門が階段状に連結されていました。


b0214184_04522318.png

⑮ バース
3年振りのバースは来た甲斐がありました。大聖堂やローマ浴場などの中心施設はエイボン川が蛇行した部分に集中していました。バースの街並みは格調が高く繊細でフランスの街並みを髣髴させました。丘陵地の住宅のたたずまいにも気品を感じました。
総石張りのメーンストリートを歩きました。自動車の乗り入れを排除し、街路を広場風に全面歩道にして舗装は石張りにしてありました。この方式は、ヨーク、リーズでも見掛けました。中心街区は人を中心に据えた街づくりとし、人をメーン、車をサブにというスキームを感じました。イギリスの流儀だと思います。
エイボン川の河畔の眺めは文句の付けようがないくらい素晴らしかったです。曇っていたのが残念でした。


b0214184_05063839.jpg

以下の街は、次号で・・・・

⑯ カンタベリー
⑰ サウサンプトン
⑱ ポーツマス
⑲ シーフォード
⑳ セブンシスターズ
21 ブライトン
22 ヘースティングス
23 ライ
24 ドーバー
25 カンタベリー
26 ヒースロー

 





by camino0810 | 2015-11-06 05:18 | イギリスⅡ | Comments(0)  

2015年5月11日(月)イギリスⅡ その57 成田~北本

10時40分、BA005便は成田空港のB滑走路に着陸しました。

b0214184_05480870.jpg

これまで空港自体の施設配置などついて考えた事はありません。空港では案内に従って必要な手続きをして人の後について移動するだけでした。
ヒースローとの違いを見てみようと思い、成田空港のレイアウトをGoogleで細かく見てみると随分と違和感を感じました。たまには俯瞰的に施設を眺める事も大事な事だと思いました。下から目線(利用者目線)では見えない事があり、上から目線(事業者目線)だから初めて気付く事がありました。

B滑走路は、本館と待合ロビーがシャトル便で連絡されている第2ターミナルとセットになっていました。
地図を眺めるとB滑走路を遮断するように民家や畑が残っていました。そのため開港当初からあったA滑走路に比べて随分と短くなっていました。横風時に使用するC滑走路には小さな飛び地が残っていました。このような未買収地が残っているためアクセス道路があちこちで歪んでいました。
公共事業を執行する上でもっとも肝心な事は、用地買収と地元の合意形成だと感じています。昔、ダム事務所の所長をしていた同級生はこう言っていました。
「補償基準が整ったらダム工事はほとんど完了したみたいなものだ。後は淡々と工事を進めるだけで良い。」
ネットで調べると、1978年の開港以前からこの空港建設については様々な問題があったようです。充分な合意形成が得られないまま事業執行が行われた結果、現在の不規則な形をした滑走路になったようです。事業者の国と地元のボタンの替え違いが政治問題にまで発展し、結果としてこの空港自体の価値を低下させてしまったように感じます。


b0214184_12444269.png
(出典 Google)

第2ターミナルの玄関を出たところにある喫煙室で一服して、バス停で大宮行きの高速バスを待ちました。大宮行きのバス料金は2800円、重い荷物を持って京成のスカイライナーで都心に向かい埼玉に戻るより楽な選択です。


b0214184_23353918.jpg

当日の感想がFBにアップされていました。ピカピカのヒースローから成田に戻ってこの空港が随分と地味に見えたようです。


5月11日(月)、成田は快晴。
10時40分成田到着。到着ロビー脇のハイウェイバス乗り場で大宮行きのバスを待っている。
時差ぼけで頭がボンヤリしているが、とにかく無事に帰りつけて良かった!(^^)!
成田もなんか陳腐化してしまった感がある。ピカピカのヒースローと比べてそう感じた。
バス停の写真は人間の眼とカメラの眼が違っていた。カメラは不可視部分も捉えるようだ。


月曜の便という事もあり、乗客は自分ひとりでした。
バスの経路は、東関東道→首都高湾岸線→中央環状線(湾岸川口線)→江北JCT→5号池袋線→埼玉大宮線→大宮駅。


b0214184_06265131.png
(出典 Google)


ロンドンのバイパス高速道路M25は完全なリング道路でしたが、東京の圏央道と外環は部分開通区間が大分増えてはきましたが、完全なリングになるにはまだ時間が必要です。


b0214184_05274953.png
(出典 Google)

快晴に恵まれ沿線の風景を楽しむ事ができました。
バスは荒川の左岸を走っている中央環状線を上流に向けて走りました。イギリスの軒を揃えた建物ばかり観てきたので、東京都心の建物のスカイラインは随分と凹凸が激しいように感じました。別に東京に限った事ではありませんが・・・。


b0214184_19230929.jpg

荒川の河川敷は青々としていました。


b0214184_19232311.jpg

江北JCTの五色桜大橋は珍しい2層のアーチ橋でした。


b0214184_19235283.jpg

江北JCTで荒川を離れて都心に入りました。スカイツリーが彼方に見えました。


b0214184_19242229.jpg

5号池袋線→埼玉大宮線を経て、終点の大宮駅西口ターミナルに到着。大宮駅東口のてんやの天丼(500円)を戴きました。8日振りに食べた日本食の旨さが身に滲みました。


b0214184_19243378.jpg

大宮駅で高崎線に乗りました。圏央道のアンダーパスも完成まじかでした。
b0214184_05422117.jpg

14時40分、北本駅に到着。
イギリスⅡの旅行が無事終了しました。

以下、次号・・・

by camino0810 | 2015-10-14 05:46 | イギリスⅡ | Comments(0)