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2015年6月28日(日)荒川 その2 東京東部低地(1)


東京駅で総武本線に乗り替えました。この乗り換えは、渋谷駅の副都心線の乗り換えと同じくらい大変です。途中に復元された旧東京駅が展示されていました。

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総武本線は東京駅の地下深くに設置されています。日本が膨張を重ねた時代の作品でしょうか・・・地上に線路を敷設する用地を確保するのはほぼ不可能でしょう。地下を通すしかなかった。ただ、東京都心部は地下も高密度に開発済、路線は深く潜らざるを得なかった。東京メトロや都営地下鉄も同じ状況でしょうが、この総武本線は一等深い。すでに地中を占有していた地下鉄や下水管などのインフラが深い場所にあった、トンネルを通す地盤の問題だろうか、隅田川の下をくぐすためだろうか・・
総武本線は隅田川を過ぎると地上に顔を出しました。
東京と千葉を結ぶ京葉線もこの地下駅が始発です。成田空港のアクセス線構想があったのかもしれません。
最近、中央環状品川線が開通しました。中央環状線は山手トンネルとして首都圏の交通渋滞の解消に役立っています。
この地下深いトンネルを通る時にはいつも恐怖感を感じます。一番怖いのは火事、二番目はゲリラ豪雨。トンネルにいる時に被災したらどう逃げるか?
新小岩駅で電車をを降りて待ち合わせ場所の東北広場に向かいました。東北広場は駅を直下を潜る都道を渡った場所にありました。
アンダーパスと呼ばれる地下道はゲリラ豪雨に対して必ずしも安全ではありません。排水能力を超える豪雨には対応できませんから・・・。


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新小岩駅は江戸川区役所の北1km位にあり、荒川・中川と新中川に挟まれた低地にあります。もともと水が溜まりやすい低地だという事です。

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2014年11月の土木学会の荒川ツアーで荒川ロックゲートを通過しました。荒川ロックゲートは、土地の低い東部低地の江東区を流れる小名木川と荒川の水位差を調整する閘門です。黒い部分は水位を下げる前の荒川の水位で、概ねAP+1m位です。荒川と小名木川の水位差は約2mある事になります。

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2014年1月に江戸川区役所にヒアリングに行った時の写真が出てきました。江戸川区役所の地盤高はAP±0m。APは隅田川河口の霊岸島水位観測所の最低水位で河口部の干潮時の水位を0mにした水位です。明治の初めには荒川放水路は存在していません。隅田川が荒川でしたから・・・

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先に見たように荒川の水位は冬場でもAP+1m位はあるようです。
堤防で守られた土地が川の水位より低いので荒川の堤防が切れると完全に水没します。もともと低い土地が、高度経済成長時代に地下水を沢山組み上げ過ぎて地盤沈下が進んだようです。

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ツアーバスは、荒川の右岸沿いにある首都高川口線を埼玉県に向けて北上しました。

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水色のたつみ橋は下部工から含めて6か月に完成させた橋梁だそうです。この場所で、これだけ短期間で完成させた橋梁は見た事がありません。語り部の土屋信行さんが東京都のお役人時代に担当したそうです。


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バスは首都高に入りました。荒川と中川の間の堤防に建造された高架を走りました。川屋はこれを背割堤と呼びます。これは、勝手な想定ですが、この背割堤は大正の始めに開始された荒川放水路開削工事で造られたのではないか・・・写真の左側が首都高とそのランプ、写真の川は中川、上から下に流れています。
奥に見えているのが平井の防潮堤水門。東京の東部低地は荒川放水路の開削によって洪水はなくなりました。逆に海からやってくる高潮が怖いです。東京都内には、昭和34年の伊勢湾台風クラスの襲来時に想定される高潮水位AP+5.1mに対応できる堤防や水門が沢山あります。これらの水インフラの耐震補強や長寿命化も大きな課題のようです。

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2011年9月、隅田川ウォーキングに参加しました。赤羽の岩淵水門から勝鬨橋まで約28kmを歩きました。蔵前橋付近の左岸のカミソリ堤防に水位の説明がありました。伊勢湾台風襲来時の高潮観測記録がAP+5.02m。これが東京東部低地の基準水位の根拠になっているようです。

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地図を見ると、蛇行している旧中川は荒川(荒川放水路)で分断された形になっています。旧中川の洪水と荒川放水路の洪水は各々の上流部の土地利用が違っていて洪水の出方が違うので、一緒にすると洪水処理がうまくできません。
このように人為的に河道を整理することも治水上は非常に大事で、昔からあちこちで行われてきました。濃尾平野の木曽三川、大阪平野の淀川など・・。
本来、川は自由な生き物、放置すると流れをあちことと変えて人の生活を脅かします。低平な沖積低地にしか街を造る事できない日本には河道整理は、必要不可欠な政策ともいえます。そう考えると、日本の川は、北海道の一部を除いて手つかずの原始河川はないと思います。ただ、効率的な河道処理の行き過ぎにより川は味気のない流路に変えました。その反省から多自然川つくりが始まり、最近、かなりの成果が出てきたように思います。
現在、渋谷駅前の大改造プロジェクトが進められています。渋谷の地下を流れる「渋谷川」の復活が期待されています。
河川法は1997年の大改正で「河川環境」が加えられました。
「川と上手に付き合う」、「川と人間の協働」・・・川の持つ怖さ(洪水)、川がもたらす恵み(利水)、川がもたらす文化や自然(環境)をよく理解する事が大事だと感じます。
「かつしかハープ橋」を通過しました。この橋は斜張橋ですが、橋の形が上から見るとS字型をしています。構造的にもデザイン的ににも優れた橋だと思います。

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このあたりは語り部役の土屋信行さんの独壇場ともいえる場所でした。
対岸の白髭のアパート群には脅かされました。写真中央部のアパートの屋上には水を蓄えたオレンジ色のタンクが設置されていて火災にはシャワーとなって延焼を防ぐそうです。この建物自体も防火壁の役割もあるそうです。1923年の関東大震災では墨田区の木造密集地帯が火事になり火炎竜巻で10万人の方がなくなったそうです。その教訓を活かそうという事でしょうか・・・

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以下、次号・・・

by camino0810 | 2015-07-07 05:51 | 東京 | Comments(0)  

2015年6月28日(日)荒川 その1

「荒川源流探検」のバスツアーに参加しました。
北本発5時59分の電車で新小岩に向かいました。梅雨の合間の雲ひとつない快晴に何か予感めいたものを感じました。
新小岩駅に7時30分に集合しました。約50名の参加でした。

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市民防災まちづくり塾の土屋信行さんからお誘いがあり、参加を決めました。出発時間ぎりぎりに着いたのでバスの前列しか空いていません。ラッキーでした。バスから前方の景色を撮影できました。
 

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たまたま、連休に行ったイギリスのブログを書いている時期でした。

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物事は同一ジャンルの対象を比較すると双方の特徴の理解が進むという経験知があると感じています。
荒川の最下流から中流部、上流部を一気通貫に見る事が出来ました。

荒川は埼玉県の奥秩父から秩父、熊谷を経て東京の東部低地を流れ東京湾に注ぐ170kmの川です。バスの経路は新小岩→首都高荒川線→関越道→R140号でした。荒川が形成した流路沿いのルートでした。

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Wikipediaから
荒川(あらかわ)は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ河川である。一級水系である荒川水系の本流で一級河川に指定されている。水系として、流路延長173 km流域面積2,940平方キロメートル。川幅(両岸の堤防間の距離)は御成橋(埼玉県鴻巣市吉見町)付近で2,537 mになり、日本最大である。
一級水系 荒川
種別一級河川
延長173.0[1] km
水源の標高2,475 m
平均流量30 /s
(寄居観測所 2002年)
流域面積2,940[1] km²
水源甲武信ヶ岳
河口・合流先東京湾
流域日本の旗 日本
埼玉県東京都

最下流部の東京東部低地・・・

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中流部の埼玉県熊谷市あたり・・・

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最上流部の埼玉県秩父市の大滝村・・・


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この見学会で日本と連休に行ったイギリスのさまざまな違いの理解がかなり進んだように感じました。

比較対象の切り口は結構沢山ありました。思いつくままに列挙すると・・・

・地形・地質
・気候(気温と雨)
・河川
・都市の分布
・歴史
・宗教・文化
・価値観
・法律、条例
・土地利用
・食文化
・衣食住
・産業(農業、工業、商業など)

当日のFBから・・・

6月28日(日)東京、埼玉は快晴、心地よい暑さ。
市民防災まちづくり塾、関東地域づくり協会共催の「荒川源流探検」に参加しました。
新小岩駅前に7時30分に集合、塾の語りべ土屋信行さんの司会でバスツアーが始まりました。
奥秩父の二瀬ダム、滝沢ダム、浦山ダムの見学会でした。待望のダムカードもゲットできました。
20年前までは建設会社でダム屋をやっていました。浦山ダムには1990年から2年、工事現場に在籍していました。
ダムの建設工事に直接携わってはいましたが、完成後の管理段階のダムには行ったことがありません。
荒川の最下流から中流部、上流部を一息で見た事で、日本と連休に行ったイギリスのさまざまな違いの理解が少し進んだように感じました。
梅雨の合間に思わぬ快晴に恵まれ、有意義なツアーになりました。


以下、次号・・・

by camino0810 | 2015-07-02 06:24 | 東京 | Comments(0)  

2015年3月18日(水)、東京案内(浅草、皇居前、日比谷公園ほか)

今日はイギリス在住のハンガリー人の若いカップルを休暇を取って東京を案内しました。
ガーボルさんは26歳の男性、キティ―さんは22歳の女性。イギリスのリーズで働いています。彼らにとって今回の旅は念願の日本旅行でした。
10時に雷門で待ち合わせをしました。
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一緒に歩きながら仲見世、浅草寺の案内を日本語で行いました。彼らは日本語が堪能です。事前のメールのやり取りはすべて日本語で行いました。
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3月17日にヒースローから成田に到着、飛行機の中ではほとんど睡眠がとれなかったそうです。時差ボケと戦いながら浅草のホステルに着いて、浅草や渋谷に出かけたそうです。

浅草寺を歩きながら日本人の好きな食べものを紹介しました。
お寿司、ラーメン、焼きそば、カレー、タコ焼き、お好み焼き、鯛焼きなど・・・
今半のあるアーケードでキティ―さんが鯛焼きを食べたいと言いました。彼女は熱々の焼き立ての鯛焼きを美味しそうに食べました。

吾妻橋の袂で隅田川や対岸のビール会社のオブジェ、スカイツリーの説明をしました。
「隅田川はブダペストのドナウにはとても敵わないけど隅田川の花火は東京名物ですごくいいです。。。」
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ガーボルさんはブダペスト郊外、キティ―さんはブダペスト市内に実家があります。去年の5月に僕もブダペストを観光しました。隅田川をはるかに超えた素晴らしい川でした。
スカイツリーまで歩いて行きました。途中の橋で二人の写真を撮りました。
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昔東京は武蔵の国といっていて、スカイツリーの高さは「武蔵の国」にちなんで634mにしたと説明すると彼らは大いに納得。スカイツリーはテレビ塔で、東京タワーの能力が不足してきたため建てられたと説明しました。
テレビ塔としては世界一の高さがあり、耐震性に優れた構造だとか、下部が三角で途中から円形に変わるなどと説明を加えました。案内にすぐ技術屋が出るのは仕方ないか・・・
スカイツリーの傍には早咲きの桜が咲いていました。
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スカイツリーは確か2012年5月に開業しました。実は、スカイツリーに登るのは今回が初めて、いつもは見てるだけでした。
平日にも拘わらず切符売り場には沢山のお客が並んでしました。
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とりあえず地上350mの第一展望台(2060円)に行って興が乗れば450mの第二(1000円)に行こうと決めました。エレベーター内には江戸切子が飾られていました。
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第一展望台からの眺めはお天気がイマイチでしたが、まずまずの眺望がありました。浅草寺、隅田川、ビール会社のオブジェ・・・東京の街を紹介しました。彼らは富士山を見たかったようですが、霞がかかって生憎見えませんでした。
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隅田川の向こうに荒川も見えました。川屋を自称する僕は、荒川は東京を洪水から守るために人工的に開削した河川だと、彼らにとってはどうでもいいかもしれない説明も加えたりしました。
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カップルの記念写真を撮りました。
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第二展望から下に降りると真下が透けたガラスの床がありました。
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結局、第一展望台には行かずにそのまま降りました。お昼になったのでご飯を食べようという事になり、彼らのリクエストを聞いて階下の東京焼きそばにしました。
出汁にそばを浸して食べる黒いソース焼きそばは初めての経験ですが、美味かったです。
食事をしながら今日の行程や5月の僕のイギリス旅行の概要などを説明しました。
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スカイツリー駅から東武線で浅草に戻り、銀座線で上野、山手線で東京駅に向かいました。
東京駅は100年前の開業時の赤レンガ駅舎がオープンして間もない事を伝えました。
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東京駅の丸の内口で記念写真を撮りました。
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丸の内のオフィス街を抜け皇居前広場を歩きました。アオコが浮いているのが気になりました。夏になると悪臭を発するようになるでしょう。外濠と同様にプランクトンの栄養源となるリンが多いのかもしれません。なんとか導水でもしてほしいと感じました。
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全くの偶然にガーボルさんの友人のハンガリー人グループに出会いました。リーダー格の案内者は流暢な日本語を話します。山梨大学で勉強してるそうです。
二重橋前で写真を取りました。
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皇居は天皇のお住まいで御所はお堀に囲まれた内側にあると説明しました。この広場は都心で最も広いオープンスペースとも・・・
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お隣の日比谷公園のカフェで一休みしようという事になりました。彼らは時差ボケの睡眠不足で疲れが出ていました。園内には早咲きの桜が咲いていました。
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日比谷茶廊のカフェテラスで休憩のお茶にしました。
ガーボルさんと僕はエスプレッソ、キティ―さんは緑茶をオーダーしました。ここで1時間くらい話しました。ハンガリーの国内事情、何故イギリスに出稼ぎに行ったのか?ブライトンの事、現在職場があるリーズの事、5月の僕のリーズ訪問の事などなど・・・
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ガーボルさんはブダペストの大学で日本語学科で勉強し卒業後大分大学で1年間日本語を勉強したそうです。キティ―さんはプダペストの日本語サークルでガーボルさんと知り合ったとか・・・
ハンガリー国内は物価が比較的高い割に賃金が低いとの事でした。消費税が27%もあるそうです。このような背景から外国に出稼ぎに行く人も多いようです。
お二人はイギリスに渡って4年が経ち、最初はイギリスの保養地ブライトンで働き、現在はリーズで飲食関係の仕事をしています。

彼はマッサンのエリー(実名はリタ)を知っていました。
ガーボル:「リタスペシャルは12ポンドでお店で最高級のスコッチカクテルです。カクテル用の丸い氷は、3日掛けて凍らせて四角に切り出して鑿で丸く削ります。」
キティ―:「シュラスコのお店で働いています。25£のコースがおススメ、カレーは自分が造るので是非お試しを・・・」
リーズの近くにあるヨークは古い城壁があって観光を勧められました。

都営三田線に乗って芝公園で下車、増上寺、東京タワーに向かいました。このあたりからキティ―さんの足が止まり始めました。靴擦れがひどくなったようでした。増上寺の写真はありません。キティ―さんは熱心な写真家でした。片手でどんどん撮影していきます。彼女のFBに沢山の東京の写真がアップされていました。
彼女は願い事を板に書いて備える絵馬の習慣に興味を持ったようでした。境内の脇には可愛らしいお地蔵さんがどっさり並んでしました。
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東京タワーにようやくたどり着きました。二人とも時差ボケと靴擦れで辛そうでした。
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150mの展望台(900円)に上りました。東京タワーは都心にあるので周りには高層ビル群がまじかに見えます。お台場のレインボーブリッジ、ゲートブリッジなども説明しました。疲れが出たので三人で展望台のベンチに腰かけて休憩しました。

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3階のお土産売り場にワンピースの主人公が立っていました。彼らは日本のアニメももちろん大好きなようです。鳴れていてカメラを向けるとさっとポーズをとります。
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渋谷までは電車を止めてタクシーにしました。スクランブルで下車してハチ公前で写真を撮ってスクランブルを渡ってセンター街を少し歩きました。
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セルリアンタワーの40Fのバーに案内しました。ここから見る東京の夜景が気に入っているのでよくお客さんを案内します。
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キティ―さんが寝不足でとうとうダウン、お店の休憩室で休んでもらいました。少し無理をさせたかなと反省しました。
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2時間くらいして休んで元気が出てきたようでした。最後に記念写真を撮ってお店を後にしました。
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銀座線1本で浅草まで座って行けたのが良かったです。
21時前に浅草のホステルまで二人を送りました。このころには彼女の足取りがしっかりしていて安心しました。
彼らこれから京都、大阪、奈良、広島を観光するとの事でした。
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浅草寺の境内には人気がなく静かでした。ライトアップされた浅草寺もなかなか良かったです。
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今日1日、楽しい時間を過ごせました。
5月の連休にリーズで彼らに会うのが今から楽しみです。



by camino0810 | 2015-03-28 17:50 | 東京 | Comments(0)  

2015年1月24日(土)東京 銀座

高校の同窓会が銀座5丁目のビルでありました。
巣鴨でマルジの赤パンを買って、山手線に乗車、有楽町で下車して歩いて行く事にしました。昼間の有楽町や銀座を歩くのは久し振りです。時間がある時はなるべく歩いて街を観察するのが癖になりました。
このあたりもミニ再開発で立派になった感じでした。
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銀座方面を行くとすぐに高速道路が眼に入りました。実はこの高架の道路は首都高ではありませんでした。
会社線と呼ばれる一般道路でした。上京して40年を超えましたが、長い間それを理解できてなかったです。
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高々2kmの道路ですが、1959年には部分開通しており、運営会社は民間会社でした。建設費と運営費を道路下のビルの賃貸収入で回収するスキームだそうです。
ようやく日本でも定着しつつあるPFIの先駆けを行く、当時としては画期的な会社でした。採算性が可能な仕組みは、周辺の土地の価値の高さにあると考えられます。
今後こんな感じの官民連携事業が増えていくように思います。

以下、Wikipedia より引用。

東京高速道路(とうきょうこうそくどうろ、英語: Tokyo Expressway)は、東京都中央区付近にある一般自動車道である。また、東京高速道路株式会社は、この一般自動車道の運営と道路下の不動産賃貸を事業とする会社である。この一般自動車道については外部から東京高速道路株式会社線、会社線、KK線とも呼ばれる。

1951年(昭和26年)、戦後の銀座の復興と飽和点に達した自動車交通量の緩和を目的として設立。銀座を囲む外堀、汐留川、京橋川を埋め立て、高架の自動車道路を建設し、その建設費と運営費をビル賃貸収益で回収するという現代のPFIにも通じる画期的な運営の仕組みを導入した[8]。部分開通は1959年であり、首都高速道路より長い歴史をもつ。全線開通は1966年である[9]。


川屋の僕が気になったのが、外堀、汐留川、京橋川を埋めたててその上に高架の道路を作った事。
都市部の開発が進むと、人口の急激な増加に下水処理が追いつかず未処理の下水が川に流れ出ます。水流が停滞しがちな低平な都市内河川では汚染が進み悪臭を放つようになり、洪水の心配がないと埋め立ての選択肢が選ばれるようになります。
隅田川は上流の赤羽で域外の洪水が流れ込まない仕組みになっているので、多分、埋め立ての選択が為されたのだと思います。
かつての「水都東京」が経済成長に伴って消えていったようです。江戸期までは物資運搬は舟運、川やお堀は現在の道路に相当します。鉄道輸送や道路輸送が主体になった明治期以降、この転換はある意味避けられない事でもあります。都内には埋め立てられた中小河川やお堀はいたる所にあるようです。大半は道路や公園に化けました。
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外堀通りもかつては江戸城を防衛する外濠でした。今はその面影が全くありません。京橋川は、確か親柱だけが残されています。
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外濠通りを渡ると銀座の街です。高級ブランドのお店がそのデザインを競っていました。ミキモトのデザインはユニーク、ただこの窓の不規則な配置だと中の人から外の風景はどんな風に見えるのでしょうか・・・
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デビアスのデザインはユニーク、ぐにゃりと歪んだ建物はインパクトがありました。ムンクの「叫び」という有名な絵がありますが、そのイメージでしょうか。。。
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街の景観デザインには「遊び」の精神も必要です。一律同じデザインでは少し飽き飽きします。敢えて「傷」みたいな違和感や異質感を意図的に創ると、双方の面白さを際立出たせる事も可能です。
2014年5月に見たウィーンのドナウ運河沿いには「景観逆特区」のようなゾーンがありました。欧州の街並みの特徴は、軒を揃える事。このゾーンは意識的にそこから逸脱させていたような意図を感じました。傾いた高層ビルが建っていて驚かされました。
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銀座中央通りは、歩行者天国をやっていました。車道の真ん中から見る銀座は新鮮でした。テレビ関係者が歩行者にインタビューしていました。
松屋から新橋方面はこんな風・・・
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日本橋方面・・・
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銀座4丁目の交差点からの絵柄はなかなか貴重なショットです。
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会場の銀座コアビルは銀座5丁目の中央通り沿いにありました。中はちょっと古めで陳腐化した印象がありました。
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同窓会は盛会でした。僕は体調不良だったので中座しました。
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19時前、すっかり日が落ちていつもの見慣れた夜の銀座に戻っていました。
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赤ワインが効いてホウホウの体で自宅までたどり着きました。


by camino0810 | 2015-02-28 13:39 | 東京 | Comments(0)  

2015年1月24日(土)東京 巣鴨

久し振りに巣鴨で電車を降りて地蔵通りにやって来ました。夜、銀座で高校の同窓会があります。その景品を買うためです。
R17沿いの商店街には太陽光発電のパネルがずらりと並んでいました。都内をあちこち歩きましたが、こんな街は初めてです。
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よく手土産にする大塚の「千成もなか」は巣鴨にもありました。こっちの方が本店みたいでした。5色の千成ひょうたんの最中です。
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巣鴨地蔵通りの入り口にあるお寺に寄ってみました。年輩の参拝者が阿弥陀傘を被ったお地蔵に熱心にお参りしていましyた。
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檀家のスポンサーたちの提灯もどっさり飾られていました。お目当ての「マルジ」の提灯もありました。
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関東大震災の犠牲者の慰霊塔が建っていました。1923年9月1日の記載もありました。あれから92年が経過しました。そろそろかなとも思います。
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地蔵通商店街は、年輩者で大賑わいでした。1976年から2年間、ここから歩いて10分くらいにある庚申塚の大学の寮に住んでいました。当時からこの通りは賑わっていました。
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それでも今日の混み具合は特別でした。年の瀬のアメ横並みでした。
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同窓会の世話役の女性からの注文は、マルジの赤パンを男性用1枚、女性用1枚でした。この店は有名な芸人が着用しているとかで随分と有名になりました。学生時代は地元の一衣料店でしかなかったです。
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店内は繁盛していました。店員の方にこの混雑の理由を聞いてみました。「この人出は、とげ抜き地蔵のご開帳と土曜が重なったからでしょう・・・」
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赤一色の店内はやはりインパクトがあります。青カエルのアップリケの付いたパンツにしました。
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買い物を終えて、とげ抜き地蔵にお参りに行きました。正式には「高岩寺」と言います。
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お香の焚き場で線香の煙を直したいところに手で誘います。そうすると患部が治るという言い伝えがあります。頭に何度もお香を掛けました。
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R17の歩道橋を渡って巣鴨の駅に戻りました。昔の中仙道です。この道を延々と歩いていくと約500km離れた京都の四条まで行くことができます。江戸末期、和宮が京都から籠に乗せられてやって来た事を思い出しました。
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山手線で同窓会の会場へ向かいました。

by camino0810 | 2015-02-25 17:20 | 東京 | Comments(0)  

2015年1月22日(木)東京 外濠(その1)

今日の夜、第2回目の「水循環都市東京シンポジウム」が法大の外濠校舎で開催されました。
JR市ヶ谷駅を降りて、会場の法大の市ヶ谷キャンパスに向かいました。
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夜の外濠を歩くのは初めてです。千代田区側は台地にあって、高台から外濠を見下ろせます。少し暗すぎる気がしましたが、意外にも人通りが少なく静かな散策路でした。
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2013年の9月頃だったと思いますが、東京五輪の2020年の開催が決まりました。
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それ以降、外濠再生の機運が高まってきたように思います。外濠通りは、五輪のマラソンコースに当たっているので、男女別都合4回に亘って全世界の外濠が放映されるそうです。
外濠再生は、東京都市大学の前総長中村英夫先生がかなり前から熱心に提唱されてきました。以前、日本橋の再生にも取り組んだ先生です。日本のインフラに品格を取り戻すことが先生の変わらない思いのようです。
2014年4月に土木学会で外濠の水質浄化をテーマにしたシンポジウムが開催されました。まずは、外濠の浄化から開始しようという戦略のようです。

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中大の山田先生が外濠の水質に関する現況調査などを講演しました。
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5月の私学会館で開催されたシンポジウムでは、外濠周辺にある4つの大学がそれぞれのテーマに関して講演がありました。それからは、各大学持ち回りのリレーシンポジウムが開催されいます。僕の会社が外濠検討のメンバーに入っているので、これらのシンポジウムにシコシコと参加しています。
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基調講演は、東工大名誉教授の中村良夫先生でした。土木の景観デザインの創始者と言われる大御所の先生です。江戸城を母屋に例えると外濠は「縁側」の役割を持っていて、外庭には新宿側の下町の街並が相当する・・・確かそのような講演だった記憶がありますが、景観デザイン1年生の僕にとっては新鮮な切り口に思えました。
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それぞれの大学の再生構想が紹介されました。
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外濠通りを地下に埋設してその上部空間を公園や防災拠点にするのが計画に骨子です。お堀は2層河川のように上部に環境維持用水を流し、その直下に洪水貯留地を設置するようです。こうして外濠が親水性の高いオープンスペースと防災拠点に生まれ変わる事になります。
この手法はドイツのデュッセルドルフのライン河畔などで成功事例があるそうです。国内では札幌の創成川で実施されました。
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話しを戻します。

第2回目のシンポでは、法大の陣内秀信先生が中心になって行われてきた研究が紹介されました。司会者の法大の福井先生は「外濠市民塾」を開催して地元住民や会社とWSを行っています。
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陣内先生の研究のルーツはベネチアだそうです。ベネチアはアドリア海に浮かぶ水都で、東京も江戸時代は巨大な水都だったらしいです。明治以降、外濠や運河が次々埋めたてられましたが、基本的に大きなポテンシャルを有している事には変わりないそうです。
ただ、東京はベネチアとは地形や地質が違っています。先生は、東京の湧き水の活用に注目されているようです。
法大の岡本先生から外濠の歴史的変遷が紹介されました。外濠の水は、玉川上水から導水されていた事が理解できました。
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法大の高橋先生から外濠の「歴史エコ回廊」構想が紹介されました。実に壮大な構想です。
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他にも東京をターゲットにした都市再生のプロジェクトが進行しているかもしれません。
渋谷プロジェクトは現実に動いているプロジェクトだが、学識者を中心にして行政関係者、鉄道会社、不動産会社、コンサルタントが一体になった委員会ができていました。
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とにかく東京は、大きなポテンシャルを持った魅力ある巨大都市である事に変わりありません。外濠にも早くタイトな検討組織が出来上がると良いなと感じました。

以下、次号・・・




by camino0810 | 2015-01-31 07:19 | 東京 | Comments(0)  

2015年1月20日(火)東京 霞が関

1月20日(火)、東京は快晴、何時もより少し暖かい。
久し振りに霞が関に来た。
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早めに着いて、農水省の友人Yと少しばかり世間話などして国交省に行った。
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関係者との挨拶などを終えて、夜のRFCの懇親会まで時間があるので、この界隈を歩いてみた。霞が関は各官庁の本省が集合した日本の行政の中核だ。ここがテロなどでやられると日本は完全に息の根が止まるだろうと歩く度に感じる。だから役所玄関の警備も厳重だし、道路には警察官が歩哨替わりに立っている。
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法務省の旧館は、赤レンガの風格のある建物だった。1994年に重要文化財に指定されたそうだ。
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なぜ霞が関というのか?霞が出そうな地形ではないように思うが・・・。
先日、駒込の六義園で1860年の江戸末期の地図を見た。この地図を現在の様子を対比させるといろいろな事が判ってきた。
霞が関は、江戸城の西側(西御丸)の内堀と外側の外濠に挟まれた地区だ。しかも譜代大名の屋敷が目立つ。当時から日本の中枢だったことになる。
幕末まで江戸城の外濠は完全に繋がっていた。現在、外濠は現在ほとんど埋め立てられて「外濠通り」に変わっている。「溜池」の交差点には当時まさに「溜池」があった。
何故、溜池を造ったかは不明だ。東京の街は高低差がかなりある。多分、外濠の水面の高低差処理かもしれない。江戸城の東側の外濠は今でも健在だ。飯田橋から市ヶ谷、四ッ谷までに高低差のある3つのお堀があり、おのおの土堤で仕切られている。その高低差はザックリ5mくらいはある。
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「霞が関」は江戸時代は譜代、親藩大名の屋敷跡のようだ。徳川家のルーツである松平姓の屋敷が多い。「松平」はいたるところに登場している。「松平肥後」、「松平陸奥」、「松平美濃」、「松平相模」、「松平土佐」、「松平阿波」・・・多分、「松平」の次男、三男などが諸藩に養子に入ったのではないか、姻戚外交のようにも思えるが。。。。
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井伊家は桜田門から少し国会議事堂よりにあった。今の憲政記念公園あたりだ。井伊直弼はお屋敷から桜田門に向かう途中に暗殺されたらしい。六義園に雪吊りがあったところを見ると、当時の東京は寒くて、結構、雪が積もったのだろうか。
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皇居の二重橋前の広大な広場は、この当時は大名屋敷だった。また、その下(東側)には現在の「丸の内」が、更に綺麗に小さく区画された地域が続いている。ちょうど、日本橋、京橋、有楽町や銀座がある場所だ。
日本橋は全国から来た物資の集散地のようなので、多くの商人が蔵やお店を構えて営業していたように思える。太い水路は多分外濠で、現在は埋め立てられて外濠通りになっているようだ。
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このあたりの水路は荷物を積んだ船が沢山往来していたのだろう。当時は鉄道は無く道路や橋自体も貧弱だったのだろう。この橋を貨物を積んだ大型馬車も走れなかっただろうし、首都防衛のために意識的に貧弱にしていたのかもしれない。
とにかく江戸末期までは、物資輸送の主役は舟だった。水路や運河は現在の鉄道や道路に相当する。したがって、水路や運河沿いには賑わいが出来たはずだ。三越の日本橋本店の地下通路に1805年の江戸期の日本橋界隈の賑わいを描いた絵が展示されていた。当時の橋はアーチ型なので、馬車を走行させるのも一苦労だったに違いない。
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先の農水省の友人Yに質問してみた。彼は30歳くらいの時に2年間パリに留学していた。
僕 「パリのセーヌ川に蓋をして、幅150mくらいの公園を造る計画があったとしてどう思う?」
Y 「それは、全くNG。パリ市民は絶対受け付けないよ・・・」
僕 「プラハのブルタヴァ川に蓋をして、幅200mくらいの公園を造る計画があったとしてどう思う?」
Y 「それも同じだろうね・・・」
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彼は、僕が川屋であることを承知していて、こんな事も言ってくれた。気を使ったようだ。
Y 「それと日本橋は、なんとかした方がいいと思っているけど。。。」
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最近、水都東京を復活させようという動きが出てきた。外濠再生のシンポジウムなどが大学で開催されている。三環状の完成に伴い、運河や水路の真上を走る首都高の必要性も薄れつつある。近い将来、日本橋がお天道様を仰げる時が来るかもしれない。
いささか「我田引水」の観もあるが、やはり洋の東西を問わず「川」や「水辺」は大事な財産だと思っている。そこそこ水を綺麗にして、水辺の賑わいが復活してくれればと思っている。



by camino0810 | 2015-01-24 13:37 | 東京 | Comments(0)  

2015年1月16日(金)東京 駒込

久し振りに国内のブログを書きます。
今日の東京は快晴。昨日は朝から冷たい雨が降っていました。
お昼に東大に行って、同級生のヒゲがお似合いの先生といろいろなお話をしました。会社のある大塚に戻るために南北線の東大前で地下鉄に乗りました。
電車に乗り込む時に、またもやヒゲ先生にバッタリ会いました。以前、本郷の同窓会の帰りに本郷三丁目の駅で同じことが起きました。この先生とは不思議な縁があるようです。座席に並んで座って、再び会話を交わしました。話好きな先生なので、お互いに話し込んで降車駅をやり過ごすところでした。
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駒込駅で下車して、駅前の六義園に寄ってみました。前々から一度は行ってみようと思っていましたし、思い立った時に行っておかないといつまで経っても行かないものです。300円の入場料を払って入園しました。
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ネットで検索すると以下の説明が・・・六義園は、元禄に柳沢吉保が造園し、明治に岩崎弥太郎が購入したそうです。説明書きによると、この地は武蔵野台地にあった、つまり、標高が高いので池の水を引き込むのに苦労したようです。千川上水の水を引いて・・とあります。

元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉から与えられたこの地に、柳沢吉保が、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水(かいゆうしきつきやませんすい)庭園」を造りました。ここは平坦な武蔵野の一隅だったので、庭を造るにあたり池を掘り、山を築き、千川上水の水を引いて大泉水にしました。
 六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映し、和歌の趣味を基調とした繊細で温和な日本庭園になっています。庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」に記されている「誌の六義」すなわち風、賦、比、興、雅、頌という六つの分類法の流れを汲んだ和歌の六体に由来します。
 庭園は中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、万葉集や古今和歌集に詠まれた紀州(現在の和歌山県)の和歌の浦の景色を始め、その周辺の景勝地や中国の故事にちなんだ景観が映し出されています。
 庭園は明治時代に入って三菱の創業者である岩崎家の所有となり、昭和13年に東京市に寄付されて一般公開されました。なお、昭和28年3月31日に国の特別名勝に指定されました。

水は高いところから低い場所に向かって流れます。どうやって高台の庭園に水を持ってきたか?川屋の僕はどうしても気になります。
再び、ネットで検索すると明解な答えが出ていました。千川上水は、玉川上水の最下流の分水路、つまり流末でした。玉川上水の取水口は、あきる野の羽村の多摩川です。羽村から延々40kmくらい武蔵野台地の中を導水したことが判りました。江戸時代、都心の人口が増えてきて、河川水や井戸水だけでは賄えきれなくなったのかもしれません。千川上水の水を一部この庭園にも回したのかも・・・

玉川上水の流路上、東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近にある境橋(旧武蔵国多摩郡上保谷村地先)に分水口があり、ここから豊島区西巣鴨まで、武蔵野台地上をほぼ東西に流れる。分水口付近の海抜は約64m、巣鴨付近は約23mであるから、落差は約41mとなる。なお、流路は台地上で、神田川(支流の善福寺川、妙正寺川等を含む)と石神井川との分水界をほぼ成している。
現在、練馬区・武蔵野市への移管分2.1kmを除いた部分(13.8km)を、東京都第四建設事務所が管理している[1]。

中央の大泉水と呼ばれる大きな池に流れ込んでいる澪筋がありました。チョロチョロと水が流れ込んでしました。多分、ここが千川上水から分派した水路ではないか・・・
流入水がないと、停滞した池の水にプランクトンが発生して、濁って嫌な臭気が発生します。特に、夏場は最悪の状況になりやすく、折角の庭園の価値を大きく損ないます。環境維持用水を考えた江戸期の先人たちは流石だと思います。
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園内の江戸末期(1860年)の地図がありました。歳を重ねると回顧趣味になりました。昔の事が気になります。
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赤字の駅名は、推定した駅の場所です。駅名を結ぶと山手線になります。当時、山手線の周辺は空白地帯、全くの田舎でした。池袋は「池袋村」でした。中山道の通り道だった巣鴨は沿道にわずかに民家があったようです。会社のある大塚は窪地にあるので当時の川のそばだったと思います。当時は何もなかったようです。
この地図には建物の枠の中に居住者の名前がコマゴマと記載してあります。「ゼンリン」の地図みたいなものです。
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会社に戻らなければならないので、池の周りをソソクサと一周しました。
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途中、雪吊りがありました。金沢の兼六園の雪吊りが有名です。こんなものが都内にあるのでビックリしました。
江戸末期の東京は寒くて雪もよく降っていたという事でしょうか。現在は、温暖化やヒートアイランドが進行して積雪日はせいぜい年に1回くらいです。そういえば、去年の2月に大豪雪がありました。大塚でも20㎝位積もって大変でしたが・・・
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渡月橋を渡りました。京都の嵯峨野にある桂川の木製とは恐ろしく気分が違っていました。大きな細長い石が橋桁になっていました。
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園にいたのはせいぜい20分程度、もう少しユッタリとしたかったです。
9万m2の庭園は周囲をビルに囲われた都会のオアシス、新緑の頃に再来するのもありかなと感じました。



by camino0810 | 2015-01-17 06:24 | 東京 | Comments(0)  

2014年3月12日(水) 渋谷、下北沢そして駒場(その2)

駒場東大前で乗車、渋谷で下車。
渋谷の街は日々変わり続けていました。2013年にヒカリエと副都心線が開通後に更に加速した感じです。
僕にとって副都心線の開通はかえって不便になった気がします。以前は山手線から東横線の乗り換えは、ホームが隣接していて簡単だったけど、今はヒカリエの地下4階?まで降りる必要が生じたからです。
井の頭線の駅ビルは、渋谷マークシティーに生まれ変わりました。
現在解体中の”東横のれん街”はこのビルの地下に移転したはず。
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外国人が珍しがるスクランブル交差点の人の多いことは、40年前も同じだった気が。。。
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ハチ公像は相変わらずですが、外国人が記念写真を撮っていました。
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東急東横店は、どんがら自体は同じでもお洒落な外装を纏っていました。
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渋谷西口の東急プラザは建物自体は同じ感じ。1974年の4月か5月頃、皆で屋上のビアガーデンに行った記憶があります。
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R246沿いの”セルリアンタワー”は、2000年頃に完成した記憶が。。。40Fのバーから素晴らしい夜景が堪能できます。
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渋谷東口は激しく変わった気がします。
1974年当時、東急文化会館があった場所は、”ヒカリエ”に変わりました。最近オープンした”阿倍野ハルカス”は、ヒカリエと設計コンセプトが似た感じ・・・
この最上階にあった映画館で”スティング”や”エクソシスト”などを観ました。当時は、館内の観客席でも喫煙が可能でした。今ではとれも考えられないことです。
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宮益坂はあまり変わった印象はありません。
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渋谷のランドマークだった”東横のれん街”は、現在解体中。ヒカリエ級の超高層ビルに生まれ変わるようです。
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ハチ公の近くに旧式の緑の電車が陳列されていました。渋谷の今と昔の写真が展示されていました。
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1969年には道玄坂を都電が上り下りしていたようです。
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川屋の僕には、渋谷川の行方が気になります。東京には、道玄坂、赤坂、渋谷、四谷といった具合に、坂、谷がついた地名が多いです。台地の高いところは高級住宅地、低いところは、下町になっている感じです。銀座線が明治通りの地上10mの線路を走行していることからも、渋谷は渋谷川が削り取った盆地です。その最低部を渋谷川が流れていたはず。
現在の渋谷川は、駅のバスターミナルの地下を暗渠になって流れています。ようやく渋谷駅の新南口で顔を出します。最近、ゲリラ豪雨の頻度が増えてきました。渋谷盆地が集中豪雨にどれくらい耐えられか少し心配です。溢れた雨水が地下深くに設置された駅のホームに流れ込むと大変な事態が発生します。

このあたりは一体が工事中。完成予想図に暗渠の渋谷川が記載されていました。
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写真の左側が現在、右側が過去。渋谷川は1957年には三面張りの河川で、お天道様を仰いでいました。
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東京には、埋め立てられた河川や運河が結構あります。
築地付近の半地下の首都高には、かって築地川が流れていました。多分、1964年のオリンピックの直前に埋められたようです。
東京はかつて水都と呼ばれるほど、お堀や運河が発達していました。2020年のオリンピックに向けて、埋め立てられた河川や運河を取り戻し、水都を復活させようという機運も出てきたようです。

”渋谷プロジェクト”と呼ばれる委員会が立ち上がっていて、土木、建築、都市工学の先生、国や東京都、区役所などの行政、コンサルタンツ、不動産屋さんが一緒になって、渋谷の街の大改造を計画しています。丸の内ともに東京の2大プロジェクトのようです。
2020年に五輪開催が決まったのでそれを視野に入れた工程の前倒しが進められるかもしれません。

2027年の完成予想図が張り出してありました。図中の左端のビルがヒカリエ。その右側の高層ビルが旧東横のれん街跡地に建てられるようです。
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1955年と2013年の使用前、使用後の写真もありました。そういえば、東急文化会館の屋上にはプラネタリウムがありました。
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2020年、2回目の東京オリンピック開催、2027年に東京、名古屋間のリニアが開通。同年、渋谷の街も完成。2045年、東京、大阪間のリニア開通。
その時に僕たちが何歳になっているか。。。敢えて書きませんが、長生きする目標の一端にはなるでしょう。

by camino0810 | 2014-03-17 15:01 | 東京 | Comments(0)  

2014年3月12日(水) 渋谷、下北沢そして駒場(その1)

ひさびさに東京編をアップします。
2012年の夏からFBを始めました。僕は、FBを日記替りの位置づけにもしています。そのため、ブログの日記的な役割が相対的に低下したからです。

同窓会幹事長から大学の同窓会のネタ作りの取材をお願いされました。幹事長はイギリス、副幹事長は大阪在住。東京在住の副幹事長の僕が引き受けることになりました。

僕たちは、1974年から1年半、駒場の教養学部にいました。取材対象は、駒場キャンパス、下北沢、渋谷です。当時と現在がどう変わったか皆さんにご披露しようという訳です。

使用前、使用後の対比写真があればよいのですが、1974年当時の使用前はありません。使用前は、各人の記憶のみです。
最初に井の頭線渋谷駅から電車に乗って、下北沢に・・・駒場東大前に戻って、キャンパスを歩き、渋谷に戻りました。

まずは、渋谷駅。
40年間でかなりに変貌しました。渋谷は2027年の完成を目指して大改造中でした。僕たちの多くが、井の頭線渋谷駅を利用したはずです。
改札階には岡本太郎の巨大な壁画が・・・駅ビルは、渋谷マークシティに変貌していました。
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改札口も随分お洒落になりました。
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ホームも電車もピカピカで垢ぬけたような・・・
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急行で下北沢駅へ・・・この駅舎の変貌は渋谷以上でしょう。小田急線の複々線工事が終息に向かっていました。新宿から多摩川べりの和泉多摩川間の高架化とセットで工事が進行中。確か、梅が丘から東北沢間は地下化されました。地図中の上下の点線が小田急線、図の上側が新宿方面。斜めの線が井の頭線、右側が渋谷方面です。小田急線は地下化されたので点線表記に変わっていました。
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断面図の一番下に明示されたメガネ型が小田急線の地下ホームで、その上の箱型が駅舎です。
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井の頭線下北沢駅のホームから小田急線を見降ろすと、小田急線の地上にあった線路はすっかり無くなっていました。
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小田急線下北沢駅は地下に潜りました。乗客が階段を下りて地下駅に向かっていました。
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改札を出ると、風景がかなり変わっていました。地上の線路跡地に何ができるのか?地上権を売却して事業費に充てる手法でも考えているでしょうか?
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駅の周りを歩いてみました。下北沢は小劇場で有名なスポット。1974年当時、本多劇場があったかどうか?
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当時から"シモキタ”と省略形で呼んでいた記憶があります。当時、”シモキタ”は、ごちゃごちゃしたB級グルメ的な若者の街といった気分がありましたが、この気分だけは変わってなかった感じでした。
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井の頭線の改修工事も行われていました。
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再び、駅に戻りました。ほとんどが仮店舗みたいな感じ。。。
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各停に乗車して、駒場東大前で下車。ホーム、駅舎は当時と変化なし。但し、駅名の看板には、中国語、韓国語が併記されていました。日本自体が国際化したという証拠でしょう。
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駅の階段を下りると、懐かしい光景が現れました。お馴染み、1号館の時計台がこんなに小さかったかなと感じました。。
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最近、仕事で本郷に行くことが増え、大きな安田講堂を見ることが増えたからでしょう
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案内図を見ると、随分と建物が増えた印象が・・・18号館までありました。もっとも、僕はほとんど授業に出なかったので、学舎自体の記憶もありませんが・・・
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正面から右手方向に歩きました。構内には勧誘の立て看板がところ狭しと立てかけてありました。
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僕は、悪名高い?駒場寮に住んでしました。3連棟の4階建て、大正時代に完成した建築遺産級の建物でした。お酒を飲んで、屋上から大声をあげて騒いでいました。その寮がなくなり、ピカピカのレストランや生協に変わっていました。
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3組のグループが、ガラスを鏡替りにして、ブレイクダンスの練習をしていました。40年前には考えられないことです。
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構内を東西に横断する銀杏並木を西に向かって歩きました。工事中の建物もありました。このあたりに生協があった記憶が・・・
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西門を出て、お隣の駒場公園に行ってみました。ほぼ40年振りでしたが、懐かしい洋館は当時のままでした。
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再び、キャンパスに戻りました。人工芝のグランドでホッケーの対抗戦が行われていました。
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グランドから正門の方に歩きました。この辺りの気分は当時のまま。
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岡鹿之助の絵みたいな静謐な気分は変わっていませんでした。
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こじゃれたフレンチのレストランを発見。これもとても想像もできない事象です。
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正門に戻ってきました。キャンパスをちょうど一周したことになります。
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電車に乗って、渋谷に戻りました。渋谷の変貌ぶりにはただ驚かされるばかり・・・
以下、次号

by camino0810 | 2014-03-13 17:48 | 東京 | Comments(0)