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2015年1月22日(木)東京 外濠(その1)

今日の夜、第2回目の「水循環都市東京シンポジウム」が法大の外濠校舎で開催されました。
JR市ヶ谷駅を降りて、会場の法大の市ヶ谷キャンパスに向かいました。
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夜の外濠を歩くのは初めてです。千代田区側は台地にあって、高台から外濠を見下ろせます。少し暗すぎる気がしましたが、意外にも人通りが少なく静かな散策路でした。
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2013年の9月頃だったと思いますが、東京五輪の2020年の開催が決まりました。
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それ以降、外濠再生の機運が高まってきたように思います。外濠通りは、五輪のマラソンコースに当たっているので、男女別都合4回に亘って全世界の外濠が放映されるそうです。
外濠再生は、東京都市大学の前総長中村英夫先生がかなり前から熱心に提唱されてきました。以前、日本橋の再生にも取り組んだ先生です。日本のインフラに品格を取り戻すことが先生の変わらない思いのようです。
2014年4月に土木学会で外濠の水質浄化をテーマにしたシンポジウムが開催されました。まずは、外濠の浄化から開始しようという戦略のようです。

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中大の山田先生が外濠の水質に関する現況調査などを講演しました。
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5月の私学会館で開催されたシンポジウムでは、外濠周辺にある4つの大学がそれぞれのテーマに関して講演がありました。それからは、各大学持ち回りのリレーシンポジウムが開催されいます。僕の会社が外濠検討のメンバーに入っているので、これらのシンポジウムにシコシコと参加しています。
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基調講演は、東工大名誉教授の中村良夫先生でした。土木の景観デザインの創始者と言われる大御所の先生です。江戸城を母屋に例えると外濠は「縁側」の役割を持っていて、外庭には新宿側の下町の街並が相当する・・・確かそのような講演だった記憶がありますが、景観デザイン1年生の僕にとっては新鮮な切り口に思えました。
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それぞれの大学の再生構想が紹介されました。
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外濠通りを地下に埋設してその上部空間を公園や防災拠点にするのが計画に骨子です。お堀は2層河川のように上部に環境維持用水を流し、その直下に洪水貯留地を設置するようです。こうして外濠が親水性の高いオープンスペースと防災拠点に生まれ変わる事になります。
この手法はドイツのデュッセルドルフのライン河畔などで成功事例があるそうです。国内では札幌の創成川で実施されました。
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話しを戻します。

第2回目のシンポでは、法大の陣内秀信先生が中心になって行われてきた研究が紹介されました。司会者の法大の福井先生は「外濠市民塾」を開催して地元住民や会社とWSを行っています。
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陣内先生の研究のルーツはベネチアだそうです。ベネチアはアドリア海に浮かぶ水都で、東京も江戸時代は巨大な水都だったらしいです。明治以降、外濠や運河が次々埋めたてられましたが、基本的に大きなポテンシャルを有している事には変わりないそうです。
ただ、東京はベネチアとは地形や地質が違っています。先生は、東京の湧き水の活用に注目されているようです。
法大の岡本先生から外濠の歴史的変遷が紹介されました。外濠の水は、玉川上水から導水されていた事が理解できました。
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法大の高橋先生から外濠の「歴史エコ回廊」構想が紹介されました。実に壮大な構想です。
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他にも東京をターゲットにした都市再生のプロジェクトが進行しているかもしれません。
渋谷プロジェクトは現実に動いているプロジェクトだが、学識者を中心にして行政関係者、鉄道会社、不動産会社、コンサルタントが一体になった委員会ができていました。
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とにかく東京は、大きなポテンシャルを持った魅力ある巨大都市である事に変わりありません。外濠にも早くタイトな検討組織が出来上がると良いなと感じました。

以下、次号・・・




by camino0810 | 2015-01-31 07:19 | 東京 | Comments(0)  

2015年1月20日(火)東京 霞が関

1月20日(火)、東京は快晴、何時もより少し暖かい。
久し振りに霞が関に来た。
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早めに着いて、農水省の友人Yと少しばかり世間話などして国交省に行った。
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関係者との挨拶などを終えて、夜のRFCの懇親会まで時間があるので、この界隈を歩いてみた。霞が関は各官庁の本省が集合した日本の行政の中核だ。ここがテロなどでやられると日本は完全に息の根が止まるだろうと歩く度に感じる。だから役所玄関の警備も厳重だし、道路には警察官が歩哨替わりに立っている。
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法務省の旧館は、赤レンガの風格のある建物だった。1994年に重要文化財に指定されたそうだ。
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なぜ霞が関というのか?霞が出そうな地形ではないように思うが・・・。
先日、駒込の六義園で1860年の江戸末期の地図を見た。この地図を現在の様子を対比させるといろいろな事が判ってきた。
霞が関は、江戸城の西側(西御丸)の内堀と外側の外濠に挟まれた地区だ。しかも譜代大名の屋敷が目立つ。当時から日本の中枢だったことになる。
幕末まで江戸城の外濠は完全に繋がっていた。現在、外濠は現在ほとんど埋め立てられて「外濠通り」に変わっている。「溜池」の交差点には当時まさに「溜池」があった。
何故、溜池を造ったかは不明だ。東京の街は高低差がかなりある。多分、外濠の水面の高低差処理かもしれない。江戸城の東側の外濠は今でも健在だ。飯田橋から市ヶ谷、四ッ谷までに高低差のある3つのお堀があり、おのおの土堤で仕切られている。その高低差はザックリ5mくらいはある。
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「霞が関」は江戸時代は譜代、親藩大名の屋敷跡のようだ。徳川家のルーツである松平姓の屋敷が多い。「松平」はいたるところに登場している。「松平肥後」、「松平陸奥」、「松平美濃」、「松平相模」、「松平土佐」、「松平阿波」・・・多分、「松平」の次男、三男などが諸藩に養子に入ったのではないか、姻戚外交のようにも思えるが。。。。
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井伊家は桜田門から少し国会議事堂よりにあった。今の憲政記念公園あたりだ。井伊直弼はお屋敷から桜田門に向かう途中に暗殺されたらしい。六義園に雪吊りがあったところを見ると、当時の東京は寒くて、結構、雪が積もったのだろうか。
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皇居の二重橋前の広大な広場は、この当時は大名屋敷だった。また、その下(東側)には現在の「丸の内」が、更に綺麗に小さく区画された地域が続いている。ちょうど、日本橋、京橋、有楽町や銀座がある場所だ。
日本橋は全国から来た物資の集散地のようなので、多くの商人が蔵やお店を構えて営業していたように思える。太い水路は多分外濠で、現在は埋め立てられて外濠通りになっているようだ。
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このあたりの水路は荷物を積んだ船が沢山往来していたのだろう。当時は鉄道は無く道路や橋自体も貧弱だったのだろう。この橋を貨物を積んだ大型馬車も走れなかっただろうし、首都防衛のために意識的に貧弱にしていたのかもしれない。
とにかく江戸末期までは、物資輸送の主役は舟だった。水路や運河は現在の鉄道や道路に相当する。したがって、水路や運河沿いには賑わいが出来たはずだ。三越の日本橋本店の地下通路に1805年の江戸期の日本橋界隈の賑わいを描いた絵が展示されていた。当時の橋はアーチ型なので、馬車を走行させるのも一苦労だったに違いない。
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先の農水省の友人Yに質問してみた。彼は30歳くらいの時に2年間パリに留学していた。
僕 「パリのセーヌ川に蓋をして、幅150mくらいの公園を造る計画があったとしてどう思う?」
Y 「それは、全くNG。パリ市民は絶対受け付けないよ・・・」
僕 「プラハのブルタヴァ川に蓋をして、幅200mくらいの公園を造る計画があったとしてどう思う?」
Y 「それも同じだろうね・・・」
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彼は、僕が川屋であることを承知していて、こんな事も言ってくれた。気を使ったようだ。
Y 「それと日本橋は、なんとかした方がいいと思っているけど。。。」
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最近、水都東京を復活させようという動きが出てきた。外濠再生のシンポジウムなどが大学で開催されている。三環状の完成に伴い、運河や水路の真上を走る首都高の必要性も薄れつつある。近い将来、日本橋がお天道様を仰げる時が来るかもしれない。
いささか「我田引水」の観もあるが、やはり洋の東西を問わず「川」や「水辺」は大事な財産だと思っている。そこそこ水を綺麗にして、水辺の賑わいが復活してくれればと思っている。



by camino0810 | 2015-01-24 13:37 | 東京 | Comments(0)  

2015年1月16日(金)東京 駒込

久し振りに国内のブログを書きます。
今日の東京は快晴。昨日は朝から冷たい雨が降っていました。
お昼に東大に行って、同級生のヒゲがお似合いの先生といろいろなお話をしました。会社のある大塚に戻るために南北線の東大前で地下鉄に乗りました。
電車に乗り込む時に、またもやヒゲ先生にバッタリ会いました。以前、本郷の同窓会の帰りに本郷三丁目の駅で同じことが起きました。この先生とは不思議な縁があるようです。座席に並んで座って、再び会話を交わしました。話好きな先生なので、お互いに話し込んで降車駅をやり過ごすところでした。
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駒込駅で下車して、駅前の六義園に寄ってみました。前々から一度は行ってみようと思っていましたし、思い立った時に行っておかないといつまで経っても行かないものです。300円の入場料を払って入園しました。
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ネットで検索すると以下の説明が・・・六義園は、元禄に柳沢吉保が造園し、明治に岩崎弥太郎が購入したそうです。説明書きによると、この地は武蔵野台地にあった、つまり、標高が高いので池の水を引き込むのに苦労したようです。千川上水の水を引いて・・とあります。

元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉から与えられたこの地に、柳沢吉保が、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水(かいゆうしきつきやませんすい)庭園」を造りました。ここは平坦な武蔵野の一隅だったので、庭を造るにあたり池を掘り、山を築き、千川上水の水を引いて大泉水にしました。
 六義園は吉保の文学的造詣の深さを反映し、和歌の趣味を基調とした繊細で温和な日本庭園になっています。庭園の名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」に記されている「誌の六義」すなわち風、賦、比、興、雅、頌という六つの分類法の流れを汲んだ和歌の六体に由来します。
 庭園は中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、万葉集や古今和歌集に詠まれた紀州(現在の和歌山県)の和歌の浦の景色を始め、その周辺の景勝地や中国の故事にちなんだ景観が映し出されています。
 庭園は明治時代に入って三菱の創業者である岩崎家の所有となり、昭和13年に東京市に寄付されて一般公開されました。なお、昭和28年3月31日に国の特別名勝に指定されました。

水は高いところから低い場所に向かって流れます。どうやって高台の庭園に水を持ってきたか?川屋の僕はどうしても気になります。
再び、ネットで検索すると明解な答えが出ていました。千川上水は、玉川上水の最下流の分水路、つまり流末でした。玉川上水の取水口は、あきる野の羽村の多摩川です。羽村から延々40kmくらい武蔵野台地の中を導水したことが判りました。江戸時代、都心の人口が増えてきて、河川水や井戸水だけでは賄えきれなくなったのかもしれません。千川上水の水を一部この庭園にも回したのかも・・・

玉川上水の流路上、東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近にある境橋(旧武蔵国多摩郡上保谷村地先)に分水口があり、ここから豊島区西巣鴨まで、武蔵野台地上をほぼ東西に流れる。分水口付近の海抜は約64m、巣鴨付近は約23mであるから、落差は約41mとなる。なお、流路は台地上で、神田川(支流の善福寺川、妙正寺川等を含む)と石神井川との分水界をほぼ成している。
現在、練馬区・武蔵野市への移管分2.1kmを除いた部分(13.8km)を、東京都第四建設事務所が管理している[1]。

中央の大泉水と呼ばれる大きな池に流れ込んでいる澪筋がありました。チョロチョロと水が流れ込んでしました。多分、ここが千川上水から分派した水路ではないか・・・
流入水がないと、停滞した池の水にプランクトンが発生して、濁って嫌な臭気が発生します。特に、夏場は最悪の状況になりやすく、折角の庭園の価値を大きく損ないます。環境維持用水を考えた江戸期の先人たちは流石だと思います。
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園内の江戸末期(1860年)の地図がありました。歳を重ねると回顧趣味になりました。昔の事が気になります。
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赤字の駅名は、推定した駅の場所です。駅名を結ぶと山手線になります。当時、山手線の周辺は空白地帯、全くの田舎でした。池袋は「池袋村」でした。中山道の通り道だった巣鴨は沿道にわずかに民家があったようです。会社のある大塚は窪地にあるので当時の川のそばだったと思います。当時は何もなかったようです。
この地図には建物の枠の中に居住者の名前がコマゴマと記載してあります。「ゼンリン」の地図みたいなものです。
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会社に戻らなければならないので、池の周りをソソクサと一周しました。
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途中、雪吊りがありました。金沢の兼六園の雪吊りが有名です。こんなものが都内にあるのでビックリしました。
江戸末期の東京は寒くて雪もよく降っていたという事でしょうか。現在は、温暖化やヒートアイランドが進行して積雪日はせいぜい年に1回くらいです。そういえば、去年の2月に大豪雪がありました。大塚でも20㎝位積もって大変でしたが・・・
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渡月橋を渡りました。京都の嵯峨野にある桂川の木製とは恐ろしく気分が違っていました。大きな細長い石が橋桁になっていました。
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園にいたのはせいぜい20分程度、もう少しユッタリとしたかったです。
9万m2の庭園は周囲をビルに囲われた都会のオアシス、新緑の頃に再来するのもありかなと感じました。



by camino0810 | 2015-01-17 06:24 | 東京 | Comments(0)