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2015年10月16日(金)再び大阪

都賀川を見終えて大石駅から阪神電車の各駅と急行を乗り継いで梅田まで行きました。途中、武庫川駅で急行に乗り換えました。ホームから武庫川を見る事が出来ました。よく考えると大石駅は都賀川を跨いでいたし、武庫川駅も武庫川を跨いでいます。東京都内、近郊で電車はよく利用しますが、橋上駅というのは初めての体験でした。河川直上の駅舎のような構築物は河川法のどのような適用を受けるかは不明すが、こういうやり方もありという事でしょうか。落ち着いた気分のある良い川でした。河畔には釣り人もいました。


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大阪、神戸方面に来ることはあまりありません。これまで通った場所を地図に落としてみました。
大阪湾沿岸部の開発も随分と進んでいでいる事が判りました。神戸空港、ポートアイランド、六甲アイランド、淀川河口の咲洲など・・・沖合の防波堤が2つ出来ていました。多分、ゴミ処分場ではないかと思います。ゴミ問題はどこの都市でも深刻な問題になっているようです。この記事を書いている時、廃棄食品の横流し事件が発覚しました。
人が生きるという事は、食物を口に入れて未消化のモノを排出する事と言い換えられる事もできます。古代から不変の事実です。同時に、生きるという事はゴミを出し続ける事でもあります。モラル低下とともに資源の有効活用という課題もあぶり出すでしょう。廃棄物処理の法律は建設関係では最も処罰が厳しい法律になっている事を想い出しました。

今日の予定は大阪市の南にある長居公園内の大阪市立自然史博物館を訪問する事でした。


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阪神電車の梅田駅で下車して御堂筋線の梅田駅に向かいました。

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地下鉄御堂筋線の梅田駅はお洒落なドーム構造でした。この駅は朝ドラの「ごちそうさん」の舞台になっていた事を思い出しました。

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梅田駅構内でこの駅の歴史を展示していたのはラッキーでした。
大阪の地下鉄構想が練られていた当時は、関東大震災(1923年)で東京が壊滅的な打撃を受け、復興の真っ最中だったと思います。関西の復権を目指して風格のある駅舎を設計したようでした。地下鉄の駅舎は機能面から言うと真四角な箱で十分です。お金が掛かり施工が難しいドーム型にして意匠的な価値を加えた事が、建設当時には反発があっても将来的には地元の誇りにも繋がるし後世からの評価は高まるという事だと思います。

日本の国も高度成長時代を随分昔に終えて成熟社会に入りました。これからのインフラは機能だけ満たせばよいという事ではなくて、品格があり優美なモノを後世に残す努力をするのが良いと思っています。
橋梁がご専門のF先生の言葉を想い出しました。
「橋には3つのEがある。一つ目はEconomyのE(経済性)。二つ目はEfficiencyのE(機能性、効率性)。三つ目は、ElegantのE(優美)。」
3番目のEを客観公正に評価できる指標がなかなか見当たらないので、このEは建設コンサルタントにはハードルが高い部分です。もう少し建築の意匠設計のような自由度が許容されるとやりよいとは思うけど、インフラの原資は税金で賄われるのでそういう訳にも行きません。大きな課題だと思います。

梅田駅の工事は昭和5年(1930年)に開始されました。この工事は当時の社会状況から見ると、ある意味国家的なプロジェクトかもしれません。同時期、新潟の大河津分水路で起死回生とも言うべき可動堰が建設中だった事を想い出しました。


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「梅田」は「埋めた」が転じた地名だそうで、大川が造った沖積の軟弱地盤地帯だったようです。この工事は大変な難工事でしたが、当時の大阪市長や建設部長の不退転の意思で完遂されたようでした。

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開削工事だったので土留め壁に外国製の鋼矢板が使用されたとありました。当時の日本には鋼矢板を製造する技術がなかった事になります。

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基礎の下には沢山松杭が打設されていました。


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当時の配筋図がホームに展示されていました。昭和10年(1935年)の図面でした。

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御堂筋線長居駅で下車して、長居公園内にある市立博物館の館長を務めるT先生を訪問しました。先生から「たまごとたね」特別展のお誘いを受けていました。
地下ホームから地上に出たら先生とバッタリお会いしました。郡山で開催されたある大会に次いで今回が2回目のバッタリになりました。
長居公園のベンチに腰かけてコンビニ買った弁当を食べました。園内のタイル舗装は良かったです。


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「たまごとたね」特別展の看板がありました。

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園内では小学生の見学会が行われていました。

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館長室でT先生と少しお話しをした後、「たまごとたね展」を観ました。「たまご」と「たね」を色々な観点で対比してみるという斬新な切り口でした。
世界一大きい「たまご」と大きい「たね」が並べてありました。この勝負は「たね」の勝ちでした。


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17世紀まで生きていたマダガスカルのエビオルニスの直径34cm重さは9kg、フタゴヤシのタネは直径30cm、重さは10kgだそうです。


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バジルのタネには驚かされました。毎年、庭で種から育てているので良く知っています。乾燥状態では黒い1mmくらいの小さな黒い粒ですが、水に浸すとカエルの卵に大変身します。


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水浸したバジル入りの飲料もあるとか・・・カエルの玉子が沢山入っていました。家で試してみる気にはとでもなれません。

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キーウイは偉い鳥だと思いました。自分の体の三分の一くらいの大きな卵を産みます。羽根の無い奇妙な鳥ですが・・・

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イースターエッグも紹介されていました。復活祭に食べるゆで卵です。玉子は復活の象徴。精巧なロシアのイースターエッグが有名です。


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この博物館で「かもめの玉子」に出会いました。大船渡で製造しているお菓子です。説明書きに「よく知られている」という文言がありました。大阪まで知られているとは嬉しい事です。

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「たまごとたね展」を観終えて、常設コーナーに行きました。博物館なので大阪の地質の成り立ちの歴史などが紹介されていました。御堂筋線の地下鉄工事が軟弱地盤で大変だった事が判りました。
大阪には難波累層と呼ばれる軟弱地盤が厚く堆積していました。上町台地という高台がせり出して背後に巨大な淡水湖が造られていました。

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2000年前は海進の影響で河内湖と呼ばれる巨大な湖がありました。「河内」の地名の由来は「河の中(内)にあった」という事かもしれません。江戸時代に入り、人口の集積に伴って新田開発が進められ湿地が水田に変わっていったようです。1704年、上町台地を開削して大和川を付け替え、淡水湖に流入する河川水を遮断して以降、その動きが加速したようです。1960年以降、今度は湾岸の埋め立てが加速しました。同時に地下水のくみ上げにより地盤沈下も進行したと考えられます。

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御堂筋線で新大阪に行き、新幹線で帰京しました。
結構、2日間でしたが、忙しかった関西出張でした。


by camino0810 | 2016-01-24 17:01 | 国内 | Comments(0)  

2015年10月16日(金)神戸(その3)

「医療センター駅」で途中下車して「市民広場駅」まで街歩きをしました。

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ポートライナー線の脇には立派なペデが付いていました。

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動く歩道も付いていました。実に充実したインフラが完成していました。

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ポートアイランドの一部は「神戸医療産業都市新医療都市」に指定されていて、医療関係の研究機関のオフィスが沢山ありました。この周辺は先端的な研究を売りにしているようなエリアだと思います。
小保方論文問題で世間を騒がせた理研の研究センターもここにありました。このセンターが中心となって先端医療をリードしているようでした。

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この地域の計画策定から現在までの経過を説明した看板がありました。

Q1:何をしているの?
A1:研究所・病院・医療関係の企業が集まって、高度な医療を神戸市民に届け、神戸市経済を活性化させ、アジア等外国の方へ医療を通じて貢献する活動をしています。
Q2:いつ始まったの?
A2:平成7年の阪神淡路大震災を受けて神戸市の震災復興プロジェクトとして、平成10年に検討が始まりました。
Q3:私たちによってもっと身近な取組はないの?
A3:「健康を楽しむまちづくり」として、様々な取り組みを行っています。2000人規模の神戸市民に協力頂き、どのような生活習慣の人が長く健康でいられるのかを科学的に分析する取り組み等です。
以下、省略・・・

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このエリアの発展の経緯が説明されていました。
1998年:進出企業数 0社(構想検討開始)
2001年:18社、2007年:125社、2011年:215社
構想開始から13年で一定の成果が得られたようです。神戸の持っている高いポテンシャルを上手に取り込んだプロジェクトのように感じました。

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現在、大船渡で復興のお手伝いをしています。被災した東北沿岸地方のポテンシャルは何か?と考えると、なかなか良い解が得にくいように感じます。大船渡市は大きな被害を受けてはいますが、大きなセメント工場、水産加工会社、製菓会社、スーパーなど街の雇用を支える主要産業は元気を残しているように感じます。そのような基幹産業がない街の再興は厳しいのではないかと感じます。

神戸大学や民間の研究施設が整然と建っていました。

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少し歩くと公園がありました。

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優れたデザイン性の高い公園でしたが、仔細に見ると課題も感じました。維持管理に手が回っていないようでした。予算がないのかどうかは不明ですが、折角の立派な施設がもったいないなと感じました。


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草茫々の場所も目につきました。

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「市民広場駅」には広場に大きなモニュメントがありました。

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立派なホテルもあります。

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ポートライナーに乗車して三宮に戻りました。

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神戸本土とポートアイランドを結ぶ赤いアーチの連絡橋は2層構造になっていました。

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神戸市街地が眼前に迫ってきました。

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神戸市街地に入りました。

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三宮駅で阪神電車に乗り換えました。阪神電車は市街地は地下、途中から高架になっていました。

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阪神大石駅で下車して、都賀川(とががわ)を歩いて見ました。

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2008年の夏、都賀川はゲリラ豪雨で鉄砲水が出て、川で遊んでいた人たちが逃げ遅れて亡くなりました。
池袋の下水道工事でもゲリラ豪雨で工事関係者が逃げ遅れて死亡した事案もありました。温暖化で極端気象が進行しているので、水の出やすい急流河川や都市内河川の危険度が高まってきました。

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高水敷を散歩する人は結構沢山いました。事故の教訓を活かして橋には黄色のパトライトが設置されていました。

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2012年7月、わずか3分で川が一気に増水した録画が掲示されていました。

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増水した時に河川敷からすぐに脱出できるよう黄色いステップも設置されていました。

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川のデザインにも工夫が施されていました。低水路を屈曲させて変化を付けていました。唯、河川区域内しか改築できないのでどうしてもこのような形にならざるを得ません。周囲の道路や公園、民地を取り込むともっと素晴らしい河川空間ができるでしょう。

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瀬や淵を意識した構造もありました。

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一部を雁木と呼ばれる階段式の護岸にして水辺にアクセスしやすい構造にしていました。

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水はとても澄んでいてハヤが沢山泳いでいました。

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そのハヤを大きなアオサギ?が狙っていました。

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阪神電車で大阪に向かいました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2016-01-23 19:30 | 国内 | Comments(0)  

2015年10月16日(金)神戸(その2)

2日目の神戸は快晴でした。
三ノ宮駅前のそごうは何事の無かったように建っていました。20年前の悲惨な姿など微塵も感じません。

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1995年の直下型大地震でこの建物の1階分が完全に地震で潰されていました。

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(出典 Wikipedia)

今回、改めて神戸の街は完全に復活したと感じました。1995年の神戸地震は直下型だったので、被害が比較的限定的だったのが幸いだったと思います。お隣の大阪や京都が都市機能を維持していたため、迅速かつ手厚い支援が行われ復興が速かったのでしょう。多くのボランティア活動も貢献したようです。
2015年1月に公表された兵庫県の震災の総括によると、電気・水道・ガス・下水道などのライフラインは3ヶ月で復旧していました。基幹運輸インフラであるJR山陽新線やJR東海道・山陽線は4月に復旧していました。阪神電鉄、阪急電鉄は6月に復旧。阪神高速は橋脚が根元から折れて倒壊しました(出典:You Tube )。その阪高も翌年には復旧を遂げていました。阪神・淡路復興対策本部が2000年2月の解散していました。概ね5年で復興が完了したという事だと思います。被害総額は約10兆円とありました。スピード感が感じられる復興だと感じました。

2014年11月から岩手県大船渡市で復興のお手伝いを始めました。大船渡では国、岩手県、大船渡市が各々復興関連事業を展開しています。沢山の事業が同じ地区内で展開されています。その事業調整などを岩手県サイドに立って支援しています。岩手県が進めている防潮堤も確実に完成部分が増えてきました。

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会社は発災直後から岩手県大槌町でまちづくりの支援を始めました。発災2年後の2013年3月に初めて大槌の町を訪れて衝撃を受けました。甚大な被災状況は報道で承知してはいましたが、街の中心地区は壊滅して、まだ瓦礫処理が行われていました。同時に復興の遅れにも驚かされました。東北地方の津波で壊滅的な被害を受けた地域が膨大過ぎて、建設会社の対応能力を超えていたのかもしれません。

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2011年の津波震災は1995年の神戸地震とは物理現象が大きく異なっていました。プレート型の地震は広範囲で地震動が恐ろしく長い間続きました。大阪咲洲の高層府庁舎が随分と揺れましたと聞いています。長周期振動で1000km近くも離れた高層ビルをも揺らすエネルギーを持った空前の大地震でした。
被災範囲が岩手、宮城、福島と広大だった事も被害を深刻にしたようです。岩手、宮城の沿岸地帯を支えるR45号が各所で寸断された事が復旧を大きく遅らせました。瓦礫の処理をするにも復旧資材を運搬するにも建設機械や運搬機械が不可欠です。東北地方の内陸部の高速道路や基幹国道は損傷が少なかったので、基幹道路と沿岸のR45号を結ぶ道路を復旧させる「くしの歯作戦」が大規模に展開されました。道路を復旧させる「啓開」という言葉が注目を浴びました。
2013年3月国交省の東北地整を訪問した折、展示室に発災直後の対応の記録が展示されていました。

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発災直後に徳山日出男局長(当時)が在庁していた事は幸運だったと思います。発災直後に書かれた徳山局長のメモも展示されていました。

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首都圏の防災体制も強化されて来ている事でしょう。首都高、外環道、圏央道のネットワーク化が進展してきた事は実に頼もしい事です。首都圏を襲う直下型地震、火災、高潮、洪水などを想定した「道路啓開」のシュミレーションも検討されている事と思います。2015年9月の鬼怒川の破堤災害は水害の恐ろしさを改めて喚起させた事案だったと思います。荒川の都内の一部区間には堤防が低い箇所があります。ここが破堤した場合、都内の低地部分が水没するCGがテレビで紹介された事がありました。タイムラインと呼ばれる事前準備計画も脚光を浴びてきました。

3.11の津波災害からもうすぐ5年が経過します。東北地方の復興は道半ばと言った感じもします。福島の原発周辺はいまだに時間が止まっている事にも心が痛みます。
集中復興期間の5年がもうすぐ終了します。これからどうなるのか?基本的には一旦始められてた事業を中途で放り出す事はできないでしょう。事業継続は不変でも自治体の一部事業費負担で事業の集中と選択が迫られてくるように感じます。

2016年1月14日、NHKのニュースで福島第一に近い楢葉町でサケの収穫が5年振りに再開された様子が放映されました。この町はこの放射能の影響が薄まり避難指示が解除されたばかりです。依然として多くの人が避難先に留まっていて戻って来ていないのが気になります。

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話を元に戻します。
三宮と神戸空港間を「ゆりかもめ」式のガイドウェイ電車で往復しました。神戸空港はポートアイランドの沖合に完成していました。

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2006年開港の神戸空港は小振りなピカピカの空港でした。

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この空港のアクセスは抜群です。三宮からポートライナーで20分弱。滑走路は2500m1本、空港島の広さは270haだそうです。

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経営再建中のスカイマークが頑張っていたようでした。茨城空港行きも飛んでいました。

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屋上の展望台に上がりました。気持ちのいい景色が拡がっていました。

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気になったのが、空港脇の空き地・・・折角の敷地が未利用の状態でした。

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帰りは電車の最前列に座ることができました。航路船舶の桁下を確保するため連絡橋を中央部で持ち上げていました。

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ポートアイランドが見えてきました。沢山の建物が立ち並んでいました。

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「京コンピュータ前」という駅がありました。ネットで検索すると、例の理研がこの膨大な計算能力を持つスパコンを運用しているとありました。

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ポートアイランドの一部は「神戸医療産業都市新医療都市」に指定されていて、医療関係の研究機関のオフィスが沢山ありました。この周辺は先端的な研究を売りにしているようなエリアだとと思います。


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この駅で途中下車して街歩きをしました。

以下、次号・・・


by camino0810 | 2016-01-17 15:26 | 国内 | Comments(0)  

2015年10月15日(木)神戸(その1)

4年振りに神戸に来ました。今回が3回目になりました。
神戸在住の大学時代の同級生と懇親するためです。17時過ぎにJR三ノ宮駅に着きました。宿泊したホテルは駅ビルの中にあり、大変便利でした。

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会場は駅前のお洒落な雑居ビルの居酒屋でした。確か、2014年の夏、同じメンバーで梅田の居酒屋で一杯やりました。

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2時間あまり大いに呑んで大いに食べて大いに語り合いました。二人とも大変元気でした。お開きする前に駅ビルの2階の喫茶店でコーヒーを飲みました。


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ホテルの部屋から三ノ宮駅のホームがよく見えました。何処にでもある通勤風景でした。普段は自分もあの人たちと同じように電車を待って、電車が来たらソソクサと乗り込む。そんなありふれた日常の通勤風景を、高い所から少し不思議な思いを感じながら眺めていました。

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1995年2月、初めて神戸に来ました。阪神淡路大震災の発災から2週間後だったと思います。当時は建設会社の本社設計部に勤務していました。ダム関係の課長を務めていたので、裏六甲のトンネルや淡路島の北淡町の地すべり調査に出向きました。神戸や大阪の街は混沌とした状態だったので、連絡用に携帯電話を持って移動しました。それまでの携帯は自動車に付いていた大型のものでした。初めてケータイに接した時期でもありました。
三宮の駅前には地震で1階部分が潰れた建物がありました。公園では炊き出しが行われていました。ブルーシートが掛けられた民家が沢山ありました。食満(けま)というところでは新幹線の高架の柱がせん断破壊で崩れ落ちていました。現場では材木を井桁状に組んだサンドルと呼ばれる支保で桁を懸命に持ち上げていました。当時の運輸大臣は亀井静香さんでした。5月に連休前に新幹線を通すという指示が出ていた記憶があります。桁の安全性を確認する時間的な余裕などなかったようです。淡路島の北にある北淡町の港では至る所でクラックから砂が噴き出ていました。野島断層も見ました。田んぼの畔が見事にずれていました。

2回目は、2011年5月。三ノ宮や北野、ポートアイランドに行きました。神戸の街は、地震からすっかり復興を遂げていました。

1995年の神戸の大地震は、土木の設計思想やインフラ整備の有り方に大きな変革をもたらしたエポックメーキングな大災害だったと思います。神戸大地震は死者・行方不明者が約6000人でした。
戦争や大災害を契機に技術革新が進む事はある意味仕方ない事だと承知しています。1959年の伊勢湾台風では死者・行方不明者が約5000人でした。これを契機に災害対策基本法が制定され、その後大幅に災害犠牲者が減少しました。

当時の土木学会が提案したL1、L2の設計思想は、それまでの耐震設計を大きく変えました。結果として、日本の土木構造物の耐震性能は大きく向上したと思います。2004年の新潟地震では上越新幹線は良く耐えたと思っていますし、2011年の東北津波震災でも新幹線や高速道路に限るとその被害は比較的軽微でした。
1995年の神戸の大地震で淀川河口の堤防が液状化で大きく沈下しました。河川堤防の耐震設計が本格的に始まる契機になった事案だと思っています。被災時が真冬の渇水期だったのが幸いでした。夏場の増水期に地震が起きていたら大騒ぎだったと思います。同じ事は2004年の新潟地震でも言えるでしょう。山古志を崩壊させた地震の前に、洪水で新潟の川が破堤しました。順番が逆だったら大変な事態になっていたでしょう。

2011年の東北津波震災は、死者・行方不明者が約18000人。津波で甚大な被害が生じました。
当初、L1、L2は地震に限定された概念でしたが、津波や洪水などの災害の再現期間に応じた2段階対応にするという概念に拡大されました。L1レベル(50年~100年に1回)は防災(インフラで守る)、L2レベル(1000年に1回)は減災(逃げる事が基本、粘り強いインフラにして復旧し易くする)という基本スタンスは良く練り上げられた優れた概念だと感じています。

「のど元過ぎれば熱さ忘れる」、「羹に懲りて鱠を吹く」という2つの対照的なことわざがあります。
日本人はどちらかというと前者のタイプ、ドイツ人は過去の過ちを決して忘れてはいないように感じます。もうすぐ1月17日、1995年の神戸地震からまる21年を迎えます。

大船渡の津波伝承館の斎藤賢治館長は「語り部」として、3.11の津波災害の悲惨さを語り継ぐ活動を3年前から始められたと聞いています。
「東北の津波災害で亡くなったあるいは行方不明になった方の40%は逃げなかった。20%は逃げる途中に亡くなった・・・」

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「釜石の奇跡」では、小学生や中学生が自ら危険を察知して自主的により安全な場所に移動して難を逃れたと聞いています。普段の防災教育の成果だと思います。自分も含めて「のど元過ぎれば熱さ忘れる」日本人を変えるには、防災教育が手間が掛かるようで実は実効性が最も高いのでは感じます。

正月に2人の娘が埼玉の自宅に帰ってきました。東京での家さがしを話になった時、家族にこう伝えました。
「木造密集地帯はNG。地震で火事が出たら逃げられないよ。○○坂上なら良し。○○坂下はNG。洪水が来るのでハザードマップを確認する事。東京の東側の低地は基本的にNG、どうしても住むならマンションの3階以上。洪水や液状化もあるし、高潮が来るから・・・」

2014年の暮れから大船渡の復興のお手伝いを始めました。東北の復興に少しでも力になれればと思い毎週大船渡に通っています。
2015年12月の大船渡の復興の写真です。津波で破壊された大船渡駅前地区の盛土工事がほぼ完了し、新しいホテルが建設されています。

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大船渡湾沿いには完成した防潮堤が増えてきました。

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朝、東京を発ち、京都で降りて、宇治を歩き、大阪で降りて街を歩いて、神戸に着いた訳で相当タフな1日になりました。
翌日は、神戸アイランドや都賀川を見て、再び、大阪に戻りました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2016-01-11 17:41 | 国内 | Comments(0)  

2015年10月15日(木)大阪(その2)

桜門から本丸に入りました。

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ここにも枡形がありました。多重防御という事でしょうか・・・門の奥に巨大な石と天守が覗いていました。

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大阪城名物の蛸石に会うのは2年振りくらいかもしれません。大改修を命令した徳川秀忠が大阪城に居たかは不明ですが、謁見に来た諸大名はこの石を見て徳川の偉大さを再認識した事でしょう。

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蛸石の大きさは大阪城で一番だったので、当時の日本で一番面積の大きい巨石だったと思います。面積は60m2、重さは108tとありました。石の厚みを超音波探査のような非破壊検査で計ったようです。
平均厚さは花崗岩の単位重量を2.7tとすると、約70cmという計算になります。意外な薄さに驚きましたが、扁平で巨大な石材を切りだして割れない様に慎重に運搬した技術にも驚かされました。柔らかい綿のようなもので包んで木材で補強して運んだのかもしれません。
この辺のテクニックを日本通運のスペシャリストに聞いてみたいものです。

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本丸は沢山の観光客で賑わっていました。東南アジアのお客さんが多かったように思います。

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大阪城に本丸御殿がないのが少し不思議に思います。名古屋城ではそろそろ本丸御殿が完成しているかもしれません。
内堀に面した石垣も実に立派でした。

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北側の広場から見上げた天守がお最も大阪城を感じるアングルだと思っています。

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通りががりのカップルの方にスナップ写真をお願いしました。

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北口の極楽橋を渡って内堀沿いを歩きました。ここから仰ぎ見る天守も素晴らしいです。

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京橋口で大阪城を出て天満橋に戻りました。大阪城北側の寝屋川を渡る歩道橋から大阪城を振り返りました。実にシンボリックな建物だと思います。

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寝屋川沿いに大阪ビジネスパークが見えました。沢山の高層ビルが立ち並んでいました。川は写真上から下に流れています。写真左側の河畔はカミソリ堤防になっていて、河畔のビルは川に背中を向けている様子が感じられました。東京の隅田川河畔にもこのような光景が結構沢山あります。

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寝屋川が大川と合流する場所には土佐堀通りや京阪本線が走っていました。

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天満橋で地下鉄に乗って梅田に出ました。歩いて行けない距離ではありませんが、宇治でかなり歩いてきたので大分疲れが出ていました。
JR大阪駅は新装オープンされていました。プラットフォームの屋根がワントップの半円アーチ構造になっていました。ヨーロッパの駅舎ではよく見掛けたタイプですが、国内で見たのは初めてでした。
国立競技場のデザイン問題で屋根のアーチが話題になりました。ザハさんが設計した案が見直され、2015年12月に隈研吾さんの設計が正式に決定されました。

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梅田の再開発もどんどん行われている感じでした。1975年頃には背後に見える茶色の丸い高層ビルしかなかった記憶があります。


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神戸在住の同級生と懇親するためにJR東海道線で三宮へ向かいました。
翌日は神戸の現地調査に行きました。


by camino0810 | 2016-01-11 06:48 | 国内 | Comments(0)  

2015年10月15日(木)大阪(その1)

京都大学防災研究所でN先生に挨拶を済ませて大阪に向かいました。
京阪電車の中書島で特急に乗り換えました。関東の私鉄電車に比べると随分とゴージャスな車内でした。

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天満橋で下車しました。このあたりは大阪の北側の中心地だと思います。中之島公園はその名前のとおり中の島になっていて、大川が分派しています。左岸が土佐堀川、右岸が堂島川。土佐堀川の左岸にある「北浜テラス」に立ち寄らなかった事を少し後悔しています。
寝屋川と大川の合流地点に大阪城がありました。大阪城西方の街区は碁盤の目のように実に整然としています。江戸期にこのような整然とした都市計画があったのか、第二次大戦で焦土化したために区画整理をかけたのか判りませんが、東京の不規則な街路と随分違っています。

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「八軒屋浜」という船着場付近は、水都大阪を代表する観光ゾーンになっているようです。

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天神橋は、中之島公園に架かる上路タイプのアーチ橋で優れたデザインでした。隅田川の橋たちと同様、大川の橋もそれぞれに個性がありました。

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上流側には天満橋があります。3年位前に見たライトアップした天満橋はとても綺麗でした。

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大川の遊覧船は高さを抑えた扁平な形をしていました。桁下空間が小さいので仕方がない選択です。大阪城公園の船着き場で遊覧船に乗った事がありました。確か屋根が30cmくらい上げ下げした事を想い出しました。


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天満橋の桁下を遊覧船が通り抜けました。

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桜並木から斜張橋が見えました。桜の頃にはいい眺めを見せてくれるでしょう。。。

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この近くにあるお役所に挨拶に寄りましたが、お目当ての方は不在でした。その足で大阪城に歩いて行きました。
外濠の銀杏は大分紅葉していました。

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大阪城は外濠外縁でたてよこ約1kmもある大きなお城です。一部を空堀にした内堀と外濠で本丸がガッチリガードされていました。

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外濠の水面幅は70mくらいあります。外濠の石垣の高さはゆうに20mはあるでしょう。軍勢を率いてこの堀を渡って石垣を乗り越えて内部に侵入するのは至難の業です。

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比較のために江戸城の大きさをザックリ測ってみました。大阪城よりはるかに大きかったことに驚かされました。内堀はたて2.0km、よこ1.5km。外濠はたてよこ3.0kmもありました。
大阪城との大きな違いは大きさだけではなく、コンセプトも違っているようです。内堀と外濠に挟まれた区域に旗本や親藩を居住させていました。この違いは時代背景の違いによるものでしょうか。大阪城は秀吉が造った原型を2代将軍徳川秀忠が大幅に改造したようで、戦国時代をコンセプトを色濃く残した防衛主体のお城です。一方、江戸城は政権が安定期に入り、防衛色が薄まり行政施設としての役割が大きくなったと考えられます。

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江戸城内堀の石垣は、せいぜい高さ10mくらいで大阪城の半分もありません。

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大手門からお城に入りました。平日でも多くの外国人観光客で賑わっていました。

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大手門を潜ると枡形と呼ばれる矩形の門が現れます。敵の侵入を喰い止めるために通路を直角に折ってありました。石垣の上の建物から侵入者を攻撃する仕掛けのようでした。

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石垣は巨大な1枚ものの花崗岩で出来ていました。説明書きによるとこの巨石を含む枡形は肥後熊本藩が担当したとありました。50m2の巨石は厚さを1mと見積っても体積が50m3、重さはゆうに130t以上はあります。
1620年から10年の工期で大阪城の大改修工事が行われたようでした。肥後熊本藩は外様大名だったようで「お手伝い普請」で徳川に忠誠心を示したように思います。瀬戸内海の島で100tを超える花崗岩を切りだし、船に載せ、大川を上って船着き場で降ろし、現場まで運搬し、据え付ける・・・大型機械が揃った現在でも大工事です。400年前にこの偉大な土木工事をやり遂げた工事関係者の人たちは実に偉かったといえるでしょう。

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枡形を潜ると内堀に出ました。本丸の石垣も実に立派でした。高さは底から15m位はありそうです。この一隅だけ空堀にしてありました。水を張った方が防衛力が上がると思います。こんな風景を見るといつもその理由が気になります。
水を張ったけど水みちがあって水が抜けてしまった、本丸からの秘密の脱出トンネルを空堀に下に設置したため水を張れなかったなどと考えてみました。


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本丸に連絡する連絡路は地続きにしてありました。一部を切り欠いて橋にした方が防衛力が上がると思いますが・・・

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桜門と呼ばれる本丸の門まで来ました。

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本丸には天守があります。
以下、次号・・・




by camino0810 | 2016-01-10 19:12 | 国内 | Comments(0)