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2015年10月16日(月)博多(その2)

福岡空港はアクセスの良い空港だといつも感じます。JR博多駅は空港から2つ目です。東口に出てみるとピラミッドがありました。東京の街でも千駄ヶ谷と恵比寿で見ました。意外にブームかもしれません。


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会社の九州支社にタクシーで寄って、支社の方の車でK大のS先生を訪問しました。S先生は、河川環境などがご専門です。


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車で市内を抜けて市街地の西にあるキャンパスに向かいました。高速道路から博多の街がよく見えました。魚市場だと思います。

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ヤフオクドームを過ぎるとピカピカの新都心が見えました。

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K大のキャンパスもピカピカでした。都心からのアクセスがいいともっと良いキャンパスになるでしょう。

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工学部の入り口には測量器具が展示されていました。

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研究室でS先生にご挨拶をしていろいろとお話をしました。先生とは様々なシンポジウムで度々お会いしており、かねがね一度きちんと挨拶しておこうと思っていました。先生と僕は同じ時期に社会に出た事や共通の知人がいる事も判りました。実際に人に会ってお話しする事の大切さが感じられた面談になりました。
S先生と30分ほどお話をした後、再び博多の都心に戻りました。高速から電波塔が見えました。東京の新宿にはエンパイアステートビルを模した電波塔がありますが、博多の電波塔はオリジナルでしょうか。

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巨大なヤフオクドームの脇を走り抜けました。

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斜張橋を渡りました。

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旧式のテレビ塔が左右に1基づつ見えました。塔博士と呼ばれた内藤多仲の設計かもしれません。

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天神で下車して、街歩きを始めました。博多の街は多分江戸期に入って福岡藩が開発した街ではないかと思います。那珂川の左岸に福岡城があり、右岸が商人の街、歓楽街の中洲は那珂川と博多川に挟まれた文字通り中州だったようです。中州は江戸期から東京の吉原みたいな花街だったのではないかと思います。
博多の街の街路は全体的に不整形ですが、御笠川と博多川に挟まれたゾーンが綺麗に区画整理されていました。博多の街も例外なく太平洋戦争で米軍の空襲を受けて焼け野原になった事でしょう。戦災復興の時、関東大震災後の復興で実践された区画整理の手法が使われたのかもしれません。

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街の骨格形成には、その街の歴史、文化や災害が深く関わっている事を最近強く感じるようになりました。大船渡の復興のお手伝いを始めて1年半くらいが経ちました。2011年3月に発生した巨大な津波災害からもうすぐ5年が経過します。東北地方の復興の有り方については様々な課題も指摘されています。防潮堤の有り方、街づくりのやり方については完全に一致した見解はないようです。
地域毎に歴史、文化が違うから復興の仕方も地域の数だけあると考えるのが一番正解に近いだろうと思うようになりました。防潮堤に安心・安全を相当部分を委ねる地域、防潮堤にあまり頼らない地域・・・。
解は、黒か白ではなく、地域毎に沢山の中間域の灰色があるという事だと思います。

天神の歩道はタイル舗装になっていて、官民境界を明確にしていないため連続性があって優れたデザインだと感じました。

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那珂川の支川の脇にアクロス福岡という建物がありました。アクロス福岡は郊外移転した県庁の跡地にできた福岡県施設と民間施設が同居した公民複合施設で1995年4月開業。公益財団法人アクロス福岡が運営管理しているそうです。言わば、PFIのはしりみたいな感じでしょうか。
そもそも、福岡市を「福岡」と言わず「博多」と呼ぶ理由はなにか?
前から不思議に思っていました。どうも、那珂川左岸の武士ゾーン(政治・教育)、右岸の町人ゾーン(経済)間の対立や確執があったようです。県庁の郊外移転は、中心市街地の膨張発展で手狭になる事態を解消する事に加えてその対立を解消する目的もあったようです。
自宅のある埼玉県の、「浦和」(政治・教育)と「大宮」(経済)のライバル意識と似たものを感じます。この2つの街は合併して「さいたま市」になりましたが、年配の人は「さいたま市に住んでいる」とは言わないでしょう。福岡市、さいたま市の両市に「政治・教育」VS「経済」の対立構造を感じました。
アクロス福岡脇はカミソリ護岸になっていました。正直な感想を言うと、もう一工夫あっても良かったかなとは感じますが・・・

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那珂川を渡りました。川は写真上から下に流れています。

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那珂川の右岸河畔沿いの散策路を上流に向けて歩きました。

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ライオンズクラブの石碑が建っていました。
御笠川、那珂川、樋井川、室見川に12万匹の錦鯉を放流したそうです。博多には大きな一級河川がありません。すべて福岡県が管理する二級河川でした。人口が150万を超える福岡市を流れるこれらの川を国が管理する一級河川に指定しなかった理由は不明です。そういえば、北九州市の中核都市小倉を流れる紫川も二級河川でした。

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磁器の看板がありました。大正初期のこのあたりの地図が焼きこまれていました。中州は那珂川地と博多川に挟まれた中の島でした。那珂川の右岸は東中洲と言われていたようです。博多川沿いには明治座がありました。

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当時は、路面電車も走っていました。

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福博であい橋で意外な人とバッタリ出会いました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2016-02-27 18:17 | 国内 | Comments(0)  

‎2015‎年‎10‎月‎26‎日(月) 博多(その1)

2年振りに博多に出張しました。
羽田空港に来るのもこの年の5月のイギリス旅行以来です。

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羽田8時15分発のJAL307便は、定刻に出航しました。窓際の席をいつも予約します。この日は日本全国が快晴、ラッキーでした。

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左主翼の窓側席なので、主翼の幕板の接合部分が目に入りました。ツルンと見えますが、幕板とリブとの接合は、溶接ではなくリベット接合でした。

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この月始めに長岡に行って、山本五十六元帥の搭乗した一式陸攻の主翼の一部を見学した事がありました。リベット接合でした。70年を経過しても主翼の部材接合方法はあまり変わっていないようでした。

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JAL307便は、小学生時代に習った太平洋ベルト地帯を縦断しました。飛行ルートはほぼ直線の最短距離ルートでした。
東京、横浜、名古屋、京都、大阪、広島、北九州の上空をなぞって福岡空港に着きました。

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何処の上空を飛んでいるか?高度1万mから眺めると意外に判りません。空のランドマーク?がヒントになりました。
ジェット機は、多摩川河口に新設された滑走路から発進しました。東京湾の中央防波堤と若洲ゴルフリンクスを連絡するゲートブリッジが見えました。恐竜みたいな特殊構造なのですぐに判ります。

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横浜の市街地や港湾施設は2つ並んだ斜張橋、鶴見つばさ橋とベイブリッジで判りました。

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富士山のちょい北側を飛んだので、単独峰の巨大で綺麗な山体が完全に見えました。火口がしっかり見えたのはラッキーでした。

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名古屋のランドマークは、伊勢湾に浮かぶ中部セントレア空港といった具合・・・。渥美半島と知多半島で囲まれた三河湾が見えました。2本の光りの帯は木曽三川、写真左側は木曽川、右側はよく見ると長良川と揖斐川が一緒になって1本の川に見えていました。実際は、背割堤という導流堤で長良川と揖斐川が仕切られています。
この3本の川はゆったりと綺麗に蛇行していました。川は本来好き勝手に流路を変える生き物です。大都市圏の川は、放水路も含めて人と共存するために流路が整形されているのが普通です。日本の川の中流、下流は必ずといっていいほど人の手が入っていて、手つかずの自然河川はないと思います。

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2015年5月、イギリスを旅行した時、ジェット機はスカンジナビア半島を通過しました。手つかずの自然河川の河口とはこんな形ではないかと思います。

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京都上空では琵琶湖から流れ出る瀬田川が見えました。

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瀬田川下流の宇治川、桂川、木津川が合流して淀川になっている場所も見えました。写真の下側に川が京都から南下する桂川、写真右側の川が伊賀から流下する木津川だと思います。

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淀川が大阪湾に注いでいる様子が判りました。

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神戸の裏六甲を通過しました。グローブみたいな形をしたポートアイランド(写真右)と六甲アイランドが見えました。神戸空港はポートアイランドの更に沖合の人工島です。

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明石大橋が見えました。明石と淡路島を連結する大きな吊橋でした。写真中央にの大阪湾に浮かぶ関西国際空港が見えました。

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瀬戸大橋が見えました。写真手前左手は水島工業地帯。沖合には吊橋は2本見えました。離れ小島に大きなアンカーがあった事を記憶しています。それぞれの吊橋の主ケーブルの引張力が相殺されるのでアンカーが小さくできたのかもしれません。


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すぐにしまなみ海道が見えました。生口島(写真中央の大きくて細長い島)と右隣の大三島を繫ぐ多々良大橋(写真右手)が微かに見えました。このあたりには沢山の島が浮かんでいるのでルート選定にはご苦労があった事でしょう。


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関門海峡を通過しました。下関半島が随分と右に伸びていました。埋め立て地に立地する北九州工業地帯(写真右側)が見えました。埋め立て地の前面が綺麗に揃っていました。公有水面専用の縛りがあったのではと思います。

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博多上空に近づきました。玄界灘に浮かぶ小島が見えました。

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博多湾の湾岸開発も盛んに行われていました。アイランドシティーは博多湾の東端の人工島でした。

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ジェット機は博多市街地の真上から徐々に高度を落としました。福岡空港は、都心からのアクセスは文句なしに最高ですが、何かトラブルがあると大変な空港でもあります。


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10時過ぎ、JAL307便は福岡空港に着陸しました。

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営々と造り重ねてきた橋、道路、空港や川などの「太平洋ベルト地帯」のインフラ群を高い所から眺める事ができました。
このベルト地帯の使用前写真と現在の写真を対比させるとといろいろと興味深い事項が浮かんでくるでしょう。

支社の方と一緒に河川環境などがご専門のK大のS先生を訪問しました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2016-02-21 19:07 | 国内 | Comments(0)  

2016年2月2日(火)名古屋(その4)

この記事でちょうど400本目になりました。2011年4月から書き始めました。5年間で400本、年間80本、月7本のペースで書いてきた事になります。

名古屋城の天守閣の展示物は実に興味深かったです。

・オリジナル
1931年(昭和6年)に中日新聞社が撮影した天守と本丸御殿の航空写真が展示されていました。1945年の名古屋空襲で焼失したとの事でした。周囲には平屋の家が密集していて、天守閣は下々を見下ろしていました。創建時の1615年も概ね似たような光景だったのかもしれません。
天守の奥の方に広大な空き地が拡がっていました。現在は名城公園となっている場所です。澪筋みたいな水路か散策路らしきものがある事からもここは堀川の遊水地となっていたようです。
徳川家康がこの地に名古屋城を築いて清洲から家臣団や町民が集団移転させたそうです。名古屋城築造の資材運搬のために堀川を開削したとありました。
治水は領国経営の根幹です。もともとあったであろう堀川を拡幅して流下能力を高めるとともに遊水地を造成し、名古屋の街の洪水防御能力を高めたという事だと思います。
彼は同時期に江戸の大改造も行っていました。江戸城の前にある日比谷の入り江を神田の山を削った土で埋め立てて家臣や平民の居住地を造成しました。
戦国時代から江戸時代初期に活躍した高名な武将は、インフラ整備に熱心な優秀な都市計画者兼土木技術者だったと思っています。徳川家康、豊臣秀吉、織田信長以外にも黒田如水、加藤清正など名の通った武将は、単なる戦上手ではありません。領国経営に都市計画やインフラ整備が不可欠だったからでしょう。

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(出典:中日新聞社)
・賑わい
7代藩主徳川宗春時代(1700年前半)の名古屋の広小路あたりの賑わいが描かれていました。沢山の人で賑わっている様子が活写されていました。江戸時代はある意味現代よりも幸せな時代だったのかもしれません。


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・都市計画
正門のチケット売り場に「スマホで見よう!名古屋城」という案内がありました。その下に「名古屋城下は徳川家康により建設され、現在の名古屋市の中心部を形成しています」という説明書きに思わず目が行きました。

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「スマホで見よう!名古屋城」(http://nagoyajo.info/)いうサイトには興味深いコンテンツが掲載されていました。
1600年頃の図面を見ると、中心市街地の錦や栄の街区は碁盤の目のように整然としていて、現在の市街地とほとんど同じでした。つまり、家康が現在の名古屋の骨格を形成した事が判りました。当時の道路は人主体、広小路通しかありませんでした。現在は車が主体なので2本の街路を拡幅して桜通、錦通を加えたという事でしょう。
徳川家康という人物のずば抜けた経国能力を再認識させられました。これまで、家康は辛抱に辛抱を重ね、チャンスを気長に待って、巧みな戦略で権力を握ったタヌキ親爺というイメージしかありませんでしたので・・・。このイメージを完全に撤回しました。
1600年前後、豊臣勢力との権力闘争を戦いつつ、領国の都市計画を立案・実行し、防災インフラを整備していた家康のとてつもない力量は実に尊敬に値するものだと思います。

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(出典:スマホで見よう!名古屋城)

5年前、「水が世界を支配する」(スティーブン・ソロモン)という本を読みました。巻末の解説で竹村公太郎は以下のように記述していました。

近代文明は持続可能でない事は誰の目にも明らかになった。ポスト近代でいかなる持続可能な社会を構築していくか。
持続可能な社会とは、自然資源を永続的に享受し、再生可能なエネルギーで生きていく低炭素社会である。それには江戸時代の流域社会が参考になる。
すなわち、洪水・高潮から国土を守り、限られた水を分かち合い、水インフラを整備し、食糧を自給し、暗い山林を再生し、大地を緑化し、河川・湖沼・海の水循環を再生させ、汚泥を肥料に再資源化し、太陽エネルギーの水力を利用する流域社会である。
人類の歴史上、自然の恩恵を最大限に享受し、物質を循環させる流域社会を構築したのは江戸時代の日本文明であった
二一世紀の日本人は、未だ江戸時代の循環流域社会のメモリーを保有している。
そのメモリーを持つ日本人こそが、水危機の二一世紀に世界が進むべき指針を示すことができる。

竹村さんは、江戸時代こそがこれからの「世界標準である」と述べていました。その基礎を構築した徳川家康の絶大な力量に改めて尊敬の念を抱かざるを得ません。

・後継者
家康(1542年~1616年)の凄さは、偉大な軍人、偉大な経国家、偉大なインフラ都市計画者だけではなかった事です。彼は当時にしては相当長命で74歳まで生きていました。当時の栄養事情や衛生事情からザックリ男性の平均寿命は50歳程度と考えられます。現在換算すると105歳くらいまで生き抜いたと言えるのではないか。
その子供の数にも驚かされました。16名の子を成し、第1子の信康(1557~1582)は15歳で、第16子の市姫(1607~1610)は65歳の時の子でした。
彼の恐るべき生命力、生殖能力にも脱帽するしかありません。

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・模型
名古屋城の天守は5層構造でした。この大きな天守をどうやって造ったか。建物周りに丸太足場を組めばクレーンが無くても出来そうな気がします。木材や瓦は足場の脇に柱を建てて滑車で吊り上げたと思います。シャチ鉾は大きくて重いので持ち上げるのは大変だっだでしょう。

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・ ジオラマ
このジオラマを見て、歩いてきた街の造りが納得できました。官庁街などは旗本の地所だったようで、御土居風の外濠Aと外濠Bの間が官庁オフィス街に変わっていた事が判りました。

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・忠誠心
家康の巧妙な戦略は、名古屋城の城普請にもよく表れていました。1610年、関ヶ原で敗退した西軍の武将たちに城普請を命じていました。「お手伝い普請」と呼ばれる、無償で技術者、労務や材料を提供する工事です。
工事の割り振りは家康が決めたと思います。関ヶ原における抵抗の激しさの程度、経済力に応じて担当範囲を決めた事でしょう。
この時点では徳川の政権基盤が固まり、抵抗勢力だった西軍の大名たちは自国の生き残りを掛けて、徳川への忠誠心を具体の形で示すため参加を余儀なくされたと思います。

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加藤清正(熊本藩 52万石)は、天守台の石垣を一手に引き受けて、忠誠心でも一番槍を目指したようです。
実家のある大分県の大名が何と3名も参加していました。毛利高政(佐伯藩、1.9万石)、稲葉典通(府内藩 2万石)、木下延俊(日出藩 3万石)。江戸期、大分県は豊後、豊前と呼ばれていました。鹿児島を除く九州一円を制圧した大友家が薩摩に敗退、崩壊し、小藩が多数林立するモザイク状の地域になり、戊辰戦争では蚊帳の外だったようでした。
気になったのは、西軍のある雄藩がこのリストに入っていない事でした。
薩長土肥と言われる戊辰戦争で徳川政権を打倒した雄藩のひとつ、鹿児島藩は、このリストから外れていました。島津は関ヶ原では西軍のメンバーでした。鹿児島藩は、どんな形で忠誠を示したのか。名古屋縁辺部の洪水防止インフラ整備や新田開発、江戸のまちづくりやインフラ整備で「お手伝い普請」に参加したのではないか・・・。


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・眺め
天守は外見は5層でも内部は6階建てでした。最上階から名古屋駅前の高層ビル群が見えました。


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・ シンボル
西側の内堀から観た天守は何時みても最高に素晴らしいビュースポットです。

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 ・ 鹿
内堀の草を2頭のシカが無心に食べていました。観光の目玉にもなるし、雑草もただで刈ってくれます。いいアイデアだと思います。

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・ はらみだし
土木屋にはどうしても気になる事がありました。天守の北側の石垣のはらみだしでした。3年前にも同じ写真を撮っていました。多分、何らかの手法で計測が行われているだろうとは思います。3年前と大きな差異は感じられないけど、地震でもあると心配は心配です。天守本体は確かニューマチックケーソンでしっかり硬い地盤に付いているので心配はないと思いますが・・・

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・ 駅
お昼前、名駅の摩天楼に戻ってきました。見上げると首が痛くなるくらい高いビルが沢山建っていました。


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・ 昼ごはん
名古屋駅の新幹線ホームの「住よし」のきしめん(350円)にようやくありつけました。トッピングされた削り節が効いていて今日も美味かったです。

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2日間の名古屋出張は、大変勉強になりました。
お昼過ぎに大塚の会社に戻りました。

by camino0810 | 2016-02-14 10:17 | 国内 | Comments(0)  

2016年2月2日(火)名古屋(その3)

名古屋出張2日目は、気持ちよく晴れてくれました。川歩き、街歩きをした後、名古屋城を見学しました。2012年の秋から2013年の春までこのお城の近くにある役所に仕事で来ていた事を想い出しました。記憶が正しければ3年振りの訪問ということになります。当時、本丸御殿は全面工事中で見学するのにお金が別途必要でした。今回は完成した一部が公開されていてお金を取られなかったのが嬉しかったです。

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・ 空堀A(外濠)
久屋大通を北に向けて歩くと空堀に出ました。石垣もない、ただのお堀というよりも窪地でした。京都の御土居(おどい)とはこのようなシンプルな土工事で造られた防衛施設だと思っています。敷地側が土手になっていました。掘削した土を脇に盛ったということでしょうか。てっきり名古屋城の外濠だと思っていたら違っていました。外濠の外濠でした。


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外濠の大きさをざっくり比べると、名古屋城は1.5km四方。江戸城3km四方。大阪城は1km四方。徳川家のルーツかつ御三家筆頭のステイタスを反映したサイズのように感じました。
大阪城の外濠に比べると、この程度の窪地だと外敵の侵入を遅らせる程度で抑止力になるとは思えません。言い換えると、その必要性が低下したと考えました。名古屋城は1615年頃に完成したようです。同時期の大阪夏の陣で徳川は豊臣に完全勝利し、徳川政権が安定した政権基盤を確立したからでしょう。

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(大阪城外濠)

・ 文化財
外濠を過ぎると名古屋城内です。沿道は閑静な官庁街でした。愛知県の公館などがひっそりと佇んでいました。

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西に歩くと愛知県庁と名古屋市役所の本館がありました。
愛知県庁はある意味とてもユニークな外見をしています。レンガ造りの西洋建築の土台に名古屋城天守の屋根がついています。和魂洋才という今ではあまり聞かなくなった言葉を想いだしました。
名古屋には名古屋メシと言われるユニークな食文化があります。その原点なのかもしれません。

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お隣にある名古屋市役所も似たようなコンセプトでした。多分、同じ設計者なのかもしれません。

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・ 空堀B(外濠)
空堀AとBの間は、国の官公庁街がゆったりと配置されていました。東京の霞が関の官庁街と似でいます。霞が関は、内堀と外濠の間の親藩大名の跡地に立地していました。名古屋城のジオラマで似たような立地だという事が判りました。

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官庁街を抜けると、ようやくお城の正門が近づいてきました。外濠の石垣の高さや石の大きさ、積み方の精緻さは大阪城の方がはるかに優れているように感じました。名古屋城は、徳川の権勢を国内に知らしめるというプロパガンダの意味合いが大阪城より薄いなと感じました。

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(大阪城内堀の石垣)

・ 門
大手門といわず正門と呼ばれていました。お城の玄関だけあって風格を感じさせる佇まいでした。石垣の間に粘板岩の小石を詰めて隙間を埋めていまいました。

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大阪城の大手門の枡形の石垣は実に巨大でした。2代将軍徳川家忠は豊臣秀吉が築城した初代大阪城の痕跡を徹底して消し込んだそうです。そして徳川の権勢を広く世間に知らしめた・・・。権力者とはそういうものだと思います。

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(大阪城大手門)

・内堀
名古屋城の内堀は全周空堀でした。何故、空堀なのか。大阪城の内堀は空堀と水を張った堀の混合タイプ。但し、名古屋城の外濠は混合タイプでした。その答えを考えてみました。
①水を張る必要性が無かった。水を張るには外濠や堀川からの導水施設が必要ですが、導水施設を造るとお金が掛かる。
②導水施設を何らかの理由で閉塞した。あるいは、意図的に閉塞した。
③水を張った方が天守の石垣の安定性は上がるが、維持管理には水が無い方が楽なので水を切った。
④秘密の抜け道を堀の下に造ったので水を張る事ができなかった。
多分、①ではないかと思います。
立派な隅櫓が建っていました。江戸城には隅櫓しかありません。江戸城の天守は明暦の大火で焼け落ちました。補佐役の保科正之は江戸の街の復興を優先し、天守の再建を断念したそうです。

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・本丸御殿
本丸御殿は天守閣のお隣にありました。

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一部完成した本丸御殿が一般公開されていました。会社でいえば社長室兼社長の居室みたいなものです。総檜の豪勢な造りでした。基本的な造りは京都と二条城とよく似ていました。


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本丸御殿の上棟式の写真が掲示されていました。全天候の工事用の覆いの中で建物を築造する様子が判りました。前職の会社の印半纏が沢山映っていました。工事費もさぞや豪勢だったと思います。

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謁見の間も含めて障子には狩野派の豪勢な絵が描かれていました。案内係の方によれば、現在の絵師が丁寧に復元したものだとか・・・。
室内は天気が良かったので意外に明るかったです。当時は電気がないので、雨や曇りの日には蝋燭照明に頼るしかない訳で年月を重ねると室内が煤で黒ずんできただろうと思います。

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謁見の間は藩主がお客の挨拶を受ける最も重要な部屋だと思います。

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この部屋には武者隠しも付いていました。京都の二条城と同じです。案内係の方によれば、普段は空けているけど客人が来た時には障子を閉ざして警護役の武士が後ろに控えるそうです。

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観光客の方の記念写真をお願いしました。

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・ タイムスリップ
本丸御殿を出ると、イケメンの若武者が観光客に愛想を振りまいていました。彼は日焼けサロンに通っているようでいい色に焼けていました。テレビで紹介されていた記憶があります。

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・ 天守
名古屋城の天守は前職の会社が1959年に完成させた鉄筋コンクリート製の建物です。オリジナルは1945年の空襲で焼け落ちたそうです。本丸御殿が完成したら次は天守を木造建築に造り替えるのでしょうか?

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天守の入り口の石垣もその隙間を粘板岩の小石で埋めてありました。

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・シャチホコ
名古屋城といえばシャチホコ。鯨の一種の鯱は当時から勇猛果敢な生き物として珍重されていたようです。そのレプリカが展示されていました。実際の鯱は鱗もないし、むなびれも尾びれもツルンとしていていてその向きも違っています。イメージ先行で龍のような想像上の動物に変容したようです。

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1959年、天守完成の後にシャチホコの設置式典の写真がありました。前職の会社がにぎにぎしく式典を挙行していました。幟には名古屋城ではなく「金鯱城」と書いてありました。

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・街並
内部の展示は実に興味深かったです。昼過ぎには東京に戻るので、時間不足が残念でした。江戸期の街並が再現されていました。道路は舗装されていないので雨の日はぬかるんで大変だったでしょう。

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・ 本屋
江戸期の本屋が復元されていました。現在の本屋と違ってお客が直接本を手に取ってパラパラとめくる事ができない仕組みでした。店員に言って取ってもらうしかあいません。本は戸棚に重ね置きでした。韓国歴史ドラマでも同じ積み方です。必ずしも合理的とは言えない積み方です。店員は何処にどの本が置いてあるか良く承知していたのでしょう。


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・台所
かまどは3基、ご飯用1基、汁や菜用に2基。井戸も付いていました。納戸にはお櫃や膳が納められていました。動線を考えた江戸期のシステムキッチンというところでしょうか。
実家は1974年に新築しましたが、それ以前の家の台所はこれに近かったです。居間には囲炉裏が付いていました。

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・殿様
藩主の居間は上品で落ち着いた空間にしてありました。火鉢も豪勢でした。

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・ご馳走
祝いの膳は豪勢でした。魚や野菜など非常にバランスの取れた食事で、世界遺産に登録された和食の良さを感じさせる食事だと感じます。

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・駕篭
豪勢な駕篭が展示されていました。随分と小さい乗り物でした。「女乗物」は大名家の子女が嫁入りに使ったとか・・・名古屋の嫁入りは今でも豪華で有名。そのルーツかもしれません。

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・ オフィス
当時の役人はこういう部屋で一日書き物仕事をしていたようです。行燈部屋みたいな感じです。蝋燭照明だけでは暗すぎて小さい字が読めたのだろうかと思います。正座で1日は流石に辛すぎます。胡坐が許されていたのでしょうか・・・

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・ 運搬
土木屋には最も興味深いコーナーにやってきました。大型トレーラーも大型クレーンのない当時、恐ろしく大きくて重い石をどうやって運搬して据え付けたのか。
基本は真下にコロを入れて人力か牛馬に曳かせて運搬するしかないでしょう。写真の石程度でも0.6m☓1.0m☓2.0m☓2.7t/m3≒3.0t位はあります。急勾配の坂道ではさぞご苦労があった事だろうと察します。
名古屋城築城の建設資材を運搬するために堀川が開削されました。石を積んだ船から3tの石をどうやって陸揚げしたのか・・・興味深いです。

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名古屋城の記事はまだまだ続きます。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2016-02-13 08:39 | 国内 | Comments(0)  

2016年2月2日(火)名古屋(その2)

昨日とは打って変わって、名古屋出張2日目は、気持ちよく晴れて暖かかったです。川歩き、街歩きをした後、名古屋城を見学しました。
吉野家で朝食を摂った後、名古屋駅の太閤口から桜通口に建つ高層ビル群を眺めました。数年前は2本くらいだったのが、何時の間にか6本に増えていました。2027年のリニア開通を目指して更に再開発が加速しそうな気がしました。

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名古屋にはこれまで何度も出張で訪れました。駅と相手先の往復で一杯一杯で、名古屋の街をじっくり観る時間がとれませんでした。今回は、時間があるのであちこち歩いてみました。
名古屋中心市街地の街区は碁盤の目のように真四角で、道路は真っ直ぐで幅の広い歩道が付いています。火災防災を意識した街づくりになっているように感じました。名古屋の中心市街地には、桜通、錦通、広小路通の3本の基幹道路があります。

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桜通は、名古屋駅の東口から東に延びる最も大きな幹線道路だと思います。

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建物のスカイラインは凸凹してるのが少し残念、京都の御池通りや堀川通りみたいに軒を揃えられたらもっと壮観な眺めになっただろうと思います。

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錦通は桜通より少し手狭な印象を受けました。観覧車の付いたビルが建っていました。

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大津通はこの3本の道路と直交する基幹道路でした。桜通に比べると少しランクが落ちているような印象を受けました。

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久屋大通は大津通と並行する幅が100mくらいある大通りでした。中央分離帯が公園になっていて、有名な名古屋テレビ塔があります。札幌の大通公園と似ていました。防火帯を意識した道路のようにも感じました。

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錦通沿いに蒲焼町という標識がありました。LEDの形は多分シャチホコではないかと思います。

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名古屋テレビ塔は、久屋大通の公園になっている中央分離帯にあります。

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東京タワーを設計した内藤多仲の作品で高さは180mだそうです。完成当時は、名古屋一番の高さを誇ったと思うけど、駅前に高いビルが次々と完成するとどうしても存在感が薄くなるのは仕方ない事でしょう。

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ネットで調べたらこのテレビ塔は1954年の完成、自分と同じ年齢で東京タワーより4年先輩でした。建物も人間も50歳を過ぎるとあちこち不具合が発生します。銀色は亜鉛系のさび止め塗装のようで、しっかりとケアされているようでした。

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テレビ塔のある栄から名駅に人やモノのシフトが始まっているのかもしれないと感じました。いささか古めかしさを感じた栄の三越は元気にしているのか気になりました。4年前新潟市に1年近く住んでいました。かつて最も繁華だった古町から駅前へのシフトが始まっていました。古町の三越もリニューワルが少し中途半端でした。その当時新潟で感じた気分と同じような気分を感じました。

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久屋大通公園はせせらぎ水路など様々な修景施設が配置されていました。

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歩道の地上照明用の行灯も沢山設置されていました。

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ワントップ型の歩道用斜張橋がありました。

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ロサンゼルス広場の池は掃除中でした。

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思わぬものを発見しました。名古屋市は姉妹都市の関係にあるロサンジェルス市からレプリカを贈られていました。エルトンジョンやオードリーヘプバーンの名前が刻まれた蓋がありました。


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グレゴリーペックの靴型は自分の靴より少し小さかったです。自分の足は27cmで普通サイズ、ペックは身長191cmのわりには小足の人だった事になります。

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名高速のある道路が見えてきました。外国の帆船用の碇が展示されていました。

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高架を潜って名古屋城内を歩きました。

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以下、次号・・・


by camino0810 | 2016-02-10 17:10 | 国内 | Comments(0)  

2016年2月1日(月)名古屋(その1)

名古屋に来るのは多分去年の夏以来だと思います。名古屋初日は曇って寒かったのが残念。
新幹線が減速し始めました。いよいよ名古屋駅です。車窓から外を眺めると駅の南側には沢山の高層ビルが建設中でした。オリンピック招致には失敗しましたが、2027年のリニア開通を視野に再開発が盛んな様子が伺われました。

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名古屋駅に9時21分に到着。錦にあるNEXCOの本社に向かいました。桜通口の変わりようにも驚かされました。「大名古屋ビルヂング」はピカピカのお洒落なビルに生まれ変わっていました。
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桜通を挟んで反対側に立つ高層ビルには、トヨタの本社機能がかなり移転したそうです。


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お馴染み、2本の塔を持つ駅ビルにはホテルとJR東海などが入っているそうです。NEXCO本社を訪問するのは3年ぶり、時間がせっていたのでタクシーで行くことにしました。


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NEXCO本社で打合せを終えて、会社の支社に戻りました。歩いていける距離にあります。長者町繊維街から桜通を眺めてみました。名古屋の街路は整然と区画され、車線も片側3車線、歩道も幅広です。
幹線道路である桜通はこのあたりではコンクリート舗装になっています。珍しい事例だと何時も思います。東京でこのような事例を見た事がありません。支社の人に理由を聞いてみました。「地下鉄が下にあるからではないか」と答えてくれました。確かに桜通の下には地下鉄桜通線が走っています。シールドではなく開削方式で築造されたのでしょう。地下鉄完成後に埋め戻しをする訳ですが、道路復旧はアスファルト舗装でも特段問題はありません。どうにも得心が行きませんでした。

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Googleの地図を見ると、桜通は伏見通から久屋大通までの約1kmの間がコンクリート舗装になっていました。幅が50mの真っ直ぐな道路です。
何故か?名古屋に来る度に答えを探し続けてきました。この記事を書いている最中にある答えを思いつきました。
もしかして、災害時の非常用滑走路ではないか・・・
飛行場の滑走路はコンクリート製です。この区間の桜通は災害時に飛行機が離発着できる幅50m、長さ1000mの滑走路ではないかと考えてみました。中央分離帯の照明などの支障物を撤去すれば、大型飛行機や大型ヘリの離発着に使えそうです。
名古屋の中心街は、碁盤の目みたいに真四角の幅広の街路で構成されています。火災防災を意識した都市構造になっているなと感じました。この1000m間の道路は、防火帯兼非常用輸送インフラなのかもしれません。
1995年の神戸の地震では阪神高速の橋脚や新幹線のラーメン高架が倒壊し運輸インフラが一時的に麻痺しました。海から船による物資運搬などが行われたと聞いています。名古屋には庄内川という川がありますが、新幹線から見る限り大きな船は入って来られそうにありません。2004年の新潟地震で初期段階で活躍したのは自衛隊のヘリでした。この時は建設会社に在籍していて、山古志村の復旧に派遣されました。ヘリに何度か乗った事を想い出しました。
仮に名古屋が直下型の大地震に襲われた時には、1000m区間の桜通を使えると自衛隊の大型輸送機や大型ヘリで緊急用資材や怪我をした人たちを運べるかもしれません。それには街路に面した高層ビル群の損傷が軽微である事、深刻な火災が発生していない事などが必要ですが・・・


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(出典:Google)

自転車専用道路もきっちり整備されていました。

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お昼は、恥かしながらこの年齢で初めて「ひつまぶし」を戴きました。ルーチンは1杯目はそのまま、2杯目はワサビとネギをトッピング、3杯目はワサビとネギに出汁を掛けていただきます。堅めに焼き上げたうなぎを3回楽しむ事が出来ました。関東の柔らかく蒸しあげたウナギに慣れた自分には実に新鮮でした。美味かったです。

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(出典:ぐるなび)

午後は、名古屋大学のN先生、H先生を訪問しました。N先生はラウンドアバウト、H先生は国土計画や交通計画がご専門の先生です。名古屋大学は初めての訪問でした。東山動物園の近くの丘陵地に広がる大きなキャンパスでした。

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予約していた駅前のホテルに向かいました。名古屋大学から地下鉄名城線で栄で乗り換えました。名城線は「名古屋城線」という意味合いだと思いますが、環状線になっていました。東京で言えば「大江戸線」みたいな路線です。最初に完成したのが都心から郊外に行く放射状の桜通線、東山線、鶴舞線だったと思います。
大都市では最初に鉄道や高速道路は最初に放射状に発達し、次にそれらをネットワークする環状線が形成されてきました。首都高や東名などの放射状の路線が3環状と呼ばれる環状線でかなりの部分が連結されてきました。環状線を追加する事により域内全体の交通渋滞が低減し、更なる経済発展が望めるという予測が立ったからでしょう。


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名駅の太閤口にあるホテルに荷物を預けて街歩きを始めました。街を理解するにはやはり歩きが一番です。東海道線のガードを潜って駅に東側に出ました。


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東京の新宿にある東京モード学園のビルもユニークですが、親戚筋のこのビルも同じです。舞子の踊りの仕草にも見えるし、クリオネにも似ています。

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街歩きをする時は必ず歩道と隣接するビルの外周部に注意を払います。どの街を歩いても、歩道のタイルと民地のタイルの風合いが似ています。官民境界を意識的に無くして繋がりを高める工夫のように感じます。

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広小路通沿いにはオブジェも展示されていました。

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ほどなく堀川に着きました。1600年初め、名古屋城の建設資材を運搬するために開削された運河です。「かわまち」を意識した整備が行われていました。

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唯、再整備はこの周辺だけで少しはずれると東京の中小河川と同じ状況でした。

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納屋橋は土木遺産としてしっかり保全されていました。風格のある親柱が建っていました。


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錦通には錦橋が架かっていました。

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堀川沿いのカフェで一休みしました。このカフェの窓辺から納屋橋が見えます。夜になるとライトアップされて綺麗に見えるでしょう。

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夜は同級生と錦で懇親会、ワインと料理の美味い店でした。
歩いて駅前のホテルに戻りました。堀川に架かる納屋橋はライトアップされていました。

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来るたびに進化する駅前の街なみに何時も驚かされます。

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朝からあちこち動き回って疲れました。2日目は好天に恵まれました。

以下、次号・・・



by camino0810 | 2016-02-10 00:35 | 国内 | Comments(0)