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2017年2月21日(火)岩手県山田町、宮古市、岩泉町、田老町

2月21日(火)岩手湾岸は晴れ、気温は平年並みでした。
今日は、雪の峠道を越えて、月1回の大船渡駅前の工事連絡会に出席しました。

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工事連絡会は今回で28回目になりました。大船渡市の担当者から「今回で工事連絡会を終了させては如何か」いう提案があり、承認されました。関係者全員が関係する大きな調整事項の整理がついたためです。
2年前は大船渡市、岩手県、UR、JRの4つの事業者と2つのCMR(発注者代行業務受託者)、多数の建設業者が駅前地区で一緒に工事をしていて、40名を超える出席者がいたものです。最後になった今回の会議では出席者は20数名に減りました。
大船渡駅前の津波復興拠点は基盤整備はほとんど完成し、まちづくり会社「キャッセン大船渡」が運営する商店街の建物の鉄骨工事が始まっていました。4月に基幹県道が元の場所に戻ると駅前地区は概ね形が出来上がります。
お昼前にかねて懸案だった岩泉に向けて車で大船渡を発ちました。去年の夏、観測史上初めて台風が東北地方の大船渡に上陸しました。台風10号は長時間に亘って進路の右側にある岩泉町に多量の雨を降らせ、大きな被害を出しました。
大船渡から岩泉までは約140キロの道のりです。三陸沿岸道路、R45号を走りました。
山田町の海岸脇の高台にある墓地に登りました。ここから海岸沿いに建設中の高い防潮堤がよく見えました。大船渡の防潮堤は海面から7.5mですが、山田町の防潮堤は大船渡より1~2m位高いように感じました。


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お墓の墓碑銘には明治29年に発生した明治三陸大津波の犠牲者が刻まれていました。母親と子供2名が亡くなっていました。新暦では6月15日ですが、旧暦では5月5日だった事が判ります。
明治三陸の津波災害では岩手県で約2万3000人の方が亡くなったと記憶しています。当時の岩手県の沿岸部人口が約10万人なので住民の2割が死亡した事になります。2011年の大津波を超える大災害でした。

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2016年8月に吉村昭の「三陸海岸大津波」を読みました。衝撃的な事実が淡々と語られていました。

「三陸海岸大津波」は、1970年に刊行された「海の壁ー三陸海岸大津波」を1984年に文庫版の刊行にあたって改題したものだそうだ。内容は1970年(昭和45年)版と同じである。
三陸地方を襲った3つ津波の記録が彼らしい語り口で淡々と書かれていた。
①明治三陸大津波(1896年:明治29年)死者 26,360名
②昭和三陸大津波(1933年:昭和8年) 死者 2,995名
③チリ地震津波(1960年:昭和35年) 死者 105名
明治29年6月の明治三陸大津波の甚大な被害に驚かされた。読み進めながら記載された数字をEXCELに落として簡単な表にしてみたら、空恐ろしい思いに駆られた。
この地震津波の死者総数は26,360名、内岩手県は22,565名だった。津波の襲来が夜の8時過ぎだった事も被害を大きくしたようだ。
2011年の東日本大震災(死者・行方不明者約18,000名)を上回る被害が出ていた。死亡者数もさることながらその死亡率の異常な高さに驚かされた。
湾岸の岩手県4郡の数字を南から北に並べてみた。明治29年当時、大船渡、陸前高田や広田は気仙郡に属していた。
     人口   死者   死亡率
気仙郡   32,609  6,748   21%  大船渡、高田、吉浜、広田
上閉伊郡  16,259  6,969   43%  釜石、大槌
下閉伊郡  35,482  7,554   21%  宮古、山田、田老、普代
九戸郡   19,422  1,294   7%   久慈
 合計   103,772 22,565   22%
もっと驚かされたのは、吉浜村(現大船渡市)、釜石町(現釜石市)恐るべき死亡率の高さだった。海沿いの集落は全滅していた。
     人口  死者  死亡率
吉浜村  1,075  982   91%
釜石町  6,557  5,000  76%
大船渡市の北にある吉浜地区は2011年の大津波で犠牲者をだしていないと聴いている。この浜の住民は明治29年の津波の教訓を活かし全員が高台移転したそうだ。
釜石の湾口防波堤は、国の直轄事業として1978年より建設に着手、2009年に完成した。今年の3月に釜石港に行ってみた。埠頭には防潮堤が完成していた。大船渡の防潮堤より1~2m低い感じだった。
大船渡はチリ地震津波で52名(全体で62名)の死者を出している。大船渡の湾口防波堤は、国の直轄事業として1962年より建設に着手、1966年に完成した。現在、大船渡湾岸では海面から7.5mの高さの防潮堤工事が進められている。
X型防潮堤のある田老では、明治29年津波で1859名、昭和8年で911名の死者を出している。
何故、この危険な町に住み続けるのか?
吉村昭はこう書いていた。
「しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが、環境に恵まれ豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどできようはずもなかった。」
北海道の新十津川村を想い出した。明治22年8月の豪雨で奈良県吉野郡十津川郷は壊滅的な被害を受けたという。山体崩壊、河道閉塞による土砂ダムが発生し集落が壊滅したのだろう。この地での生活再建は不可能と判断し、北海道の地に集団移転した。十津川郷は陸の孤島であるとともに土地自体のポテンシャルが小さすぎたのかもしれない。
明治期、三陸海岸の町や村は交通の不便さはあるものの豊かな海があった。陸路は不便でも海路があった訳で、海産物を乾物や干物に加工すれば生計は充分維持できるという考えがあったのではないか。
江戸期までは、租税は収穫した米だった。そのため、住民は必ずしも土地に対する執着は大きくなかったと聞いた事がある。明治政府は土地に課税した。政策的に造られた土地本位制が高台移転に支障したのだろうか・・・
吉村昭が存命なら、2011年の大津波をどう記述するのだろうか・・・ふとそんな風に思った。


宮古市内の閉伊川では防潮水門が建設中でした。 


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宮古から峠越えの道で岩泉に向かいました。
岩泉の一部の地域には小本川氾濫の痕跡が残っていました。洪水で橋が流されたままになっていました。


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岩泉中心地区は洪水で一部の家屋が流出していました。


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小本川の河畔の道を海に向かって下りました。県道沿いの民家は1階部分が洪水で流出したまま放置されていました。


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逃げ遅れて多くの犠牲者が出た特養ホームは補修工事が行われていました。


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特養ホームの横にある新築の牛乳工場は浸水で休業中でした。


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洪水の痕跡から浸水深は地上から3mくらいだったようでした。


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下流にある道の駅は補修工事が行われていました。この記事をアップしている4月20日にオープン式典が開催されました。復興も確実に進んでいるようです。


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海沿いのR45号を南下して大船渡に戻りました。
宮古市の田老で途中下車しました。有名な田老のX型の防潮堤が小さく見えました。多分、陸前高田の巨大防潮堤を何度も見てきたからでしょう。


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夜の8時過ぎ、大船渡のホテルに戻りました。往復300キロの運転は結構こたえました。

by camino0810 | 2017-04-20 18:12 | 東北 | Comments(0)