2018年5月4日(金)イタリア その68 ヴェネツィア(7)

広々としたサン・マルコ広場から再び迷路のような路地裏通りを歩きました。3mもない路地にホテルやお土産物屋がビッシリと並んだ一角を歩いてリアルト橋へ向かいました。

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そう言えば、お昼過ぎにパレルモから飛行機でトレヴィーゾ空港に着いて、バスでヴェネツィアに渡り、慌ただしく街歩きを始めました。パレルモのホテルで食べた朝食以降、満足に食事を摂っていませんでした。流石におなかも空いているので、路地裏のファストフードのお店に入って、マルゲリータ(3ユーロ:390円)をオーダーしました。

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ヴェネツィアはカンポ(広場)の街、至る所にカンポがありました。大きな広場はサン・マルコ広場(Piazza San Marco)、ローマ広場(Piazzale Roma)。小振りな広場はCampoという名前が付いていました。カンポは、街中の小さい公園みたいな役割、井戸があるなどコミュニケーションの場となっていたのではと想像します。教会とセットになったカンポも多く、教会前広場という意味合いもあったようです。このサン・ルカ広場(Campo San Luca)には教会は見当たりませんでした。

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野菜も売っていました。定番のナス、キューリ、トマトは、3.8ユーロ(490円)/kg、花つきズッキーニ?5.5ユーロ(720円)/kg、アスパラ6.5ユーロ(850円)/kg。日本よりリーズナブルな感じます。

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路地裏通りのお菓子屋さん。

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路地の隙間から高さ97mのサンマルコ寺院の鐘楼が覗いていました。鐘楼の頂上の黄金像はヴェネツィアの守護聖人サン・マルコ。ヴェネツィアで一番高い塔の上からヴェネツィア市民を見守っているということでしょう。その下には羽根つきのライオンも見えました。

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リアルト橋を挟んだ大運河は両岸は、ヴェネチアで最も古く賑やか地区だと思います。赤屋根の建物がビッシリ並んでいました。

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(出典 Google)

塔が建っているサン・サルヴァドール広場(Campo San Salvador)まで来ました。写真左はサン・サルヴァドール教会( Chiesa di San Salvador)のファサード。ルネッサンス様式、着工1507年、完成1534年。

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リアルト橋の袂にあるサン・ボルトロミオ広場には造像が建っていました。

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リアルト橋の袂まで来ました。写真奥がリアルト橋。

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リアルト橋から見た大運河の河畔は、最もヴェネツィアらしさを感じた一枚でした。はるばるヴェネツィアまで来た甲斐がありました。

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リアルト橋から見た大運河の北側。

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リアルト橋は、フィレンツェのヴェッキオ橋と同じで、建物が載った橋でした。ヴェッキオ橋のお店は宝石店がメーンでしたが、リアルト橋も同じでした。何故でしょう?

https://camino0810.exblog.jp/28564687/ 

リアルト橋の南側。

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リアルト橋の北側。

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リアルト橋は、ヴェネツィアが最も元気だった16世紀末に木製から現在の石造りのアーチ橋に変えたそうです。この橋の界隈は、人通りが多く、賑わっていました。橋は白い石材で出来ていました。多分、大理石でないかと思います。アーチのライズを抑えた実に優美な橋でした。

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大運河の幅はこの橋の前後で概ね40mくらいに絞られていました。橋のスパンは概ね40mでも、橋台を張り出して、実質的にはスパンを30mくらいまで狭めていました。16世紀の技術では石造りのアーチ橋の限界スパンは30m程度だったようです。

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リヴァ・デル・ヴィン(Riva del Vin)という大運河の北側の船着場に降りて、大運河の河畔を西に向いて歩きました。

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ゴンドラの発着所から観た、大運河の南側の河畔。写真左の建物はヴェネツィア市庁舎。

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船着き場の石段には青海苔が付いていました。

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レストランの前の陳列ケースに豪華な食材が並んでいました。オマール、ホタテ、カニ、鱸、コウイカ。アドリア海の海産物は実に豊富で美味そうです。日本人なら生食ですが、ヴェネツィアでは火を入れるでしょう。

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河畔のリヴァ・デル・ヴィン(Riva del Vin)から街に戻って、ホテルを目指して歩いて行きました。

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サンタポナール教会(Chiesa di Sant'Aponal)のファサードは、ゴシック様式のシンプルな赤レンガ、ヴェネツィアで初めて見るタイプの教会でした。これまで観てきた装飾的なバロック様式の石造りの教会に比べて質素な感じでした。赤レンガのひびわれと剥離が気になりました。

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サン・ポーロ広場(Campo San Polo)まで戻ってきました。

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(出典 Google)

サン・ポーロ広場(Campo San Polo)は手狭なヴェネツィアにあって広々とした広場で、井戸が残されていました。ヴェネツィアはラグーナと呼ばれる潟湖の中にある島。市民の飲料水、洗濯、お風呂用の真水はこの井戸から得ていたと想像します。井戸は相当深くないと真水は取れないし、塩水が入らないような工夫も必要だったと思います。 

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サン・ポーロ教会(Rettoriale di San Polo)脇の水道栓は垂れ流し型。

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狭い道を進んでいきました。写真右はサン・ポーロ教会( Rettoriale di San Polo)。

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サン・ポーロ運河を渡りました。

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幅2mの路地裏通りのレストランのランタンに灯りがともっていました。

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マスカレードのお店。

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サン・トーマ運河まで戻ってきました。ホテルはもうすぐです。

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サン・トーマ広場(Campo San Toma)とサン・ト―マ教会(Chiesa di San Tomà)。この教会は、バロック様式973年創建、1742年完成。広場の真ん中の井戸もバロック風の装飾が施されていました。

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デル・フラーリ広場(Campo Del Frari)には、大きな教会が建っていました。サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会(Basilica dei Frari)は赤レンガの大きな教会で、ゴシック様式、1250年着工、1338年完成。鐘楼は、1396年に完成したサン・マルコ寺院の次にヴェネツィアで2番目に高いとか。

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お隣は、サン・ロッコ広場(Campo San Rocco)でした。写真右が、サン・ロッコ教会(Chiesa di San Rocco)、ルネッサンス様式で着工1489年、完成1771年。写真左が、スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ(大同信組合)(Scuola Grande di San Rocco)。スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ(大同信組合)は、ルネッサンス様式で16世紀に建てられた同職ギルドのための集会場。

スクオーラ(同信組合):ヴェネツィア特有の制度で、商人や貴族を中心にした慈善事業を行う友好団体のこと。当時もこの町の興隆とそこに加入していた人々の社会的地位や経済力、宗教心を誇示するようにスクオーラ内には立派な礼拝堂、集会場、救済院がある。

つまり、この建物は美術館でもあり、「受胎告知」、「嬰児虐殺」、「最後の晩餐」、「キリストの磔刑」などの有名な絵画が展示されているとか。フィレンツェもそうですが、高度な芸術や文化の創造は、経済的な成功を得たパロトンが不可欠で、彼らの経済的支援、寄付や寄贈で成り立っていることがよく判る事例です。その恩恵を現在のヴェネツィアや観光客が受けているという構図は、イタリアに限らず世界共通の事象。

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サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂(Basilica dei Frari)の祭壇脇を歩いて行きました。

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幅2mくらいの狭い運河を渡りました。

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19時、夕食はホテルのすぐ近くの「Pizzeria Ristorante da Sara」にしました。表通りからは地味で目立たないレストランですが、中は大きな中庭のある快適なお店でした。

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ビール(3ユーロ:390円)、ペペロンチーノ(6ユーロ:780円)サービス料などを入れて、締めて12ユーロ(1600円)。

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20時、ホテルに到着、日暮れにまでに無事戻ってこられました。15時に街歩きを始めて、5時間を掛けてヴェネツィアを一通り観ることができました。

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ホテルのロビーにヴェネツィア本島を取り巻くラグーナ(潟湖)の地図が掲示されていました。ヴェネツィア本島は、アドリア海から砂嘴で仕切られたラグーナに浮いた島で、リド水路、マラモッコ水路、キオジャヤ水路でアドリア海と繋がっています。この3つの水路では起伏式の巨大防潮堤が稼働していて、ヴェネツィア本島を高潮から守っています。

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ホテルの中庭で一服しました。落ち着いた良い気分のある中庭でした。

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2階の自分の部屋から見た中庭。

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当日にフェイスブックにアップした記事・・・

5月4日(金)ヴェネツィアは晴れのち曇り、雨のち晴れ、適温。
ライアンエアー8922便は定刻12時30分にヴェネツィア郊外のトレヴィーゾ空港に着きました。シャトルバスはヴェネツィア本島のローマ広場に13時50分に到着。14時30分、迷路のような路地を歩いて、やっとの思いでホテルにチェックイン。街角に表示された通りや運河の名前と地図を照合しながら辿り着けました。ナポリでスマホをすられ、あわせて磁石を無くし、コンパスを喪失したのが苦戦のおおもとです。
15時から街歩きを始めました。
ヴェネツィアの街は一言では言い表せないくらい素晴らしい街でした。無数の小さな運河と太鼓橋、狭くて迷路のような路地裏、点在する小さな広場と古い教会・・・21世紀のこの時代によくぞこれだけのものを残してくれたなという感じです。
ヴェネツィアの看板のサン・マルコ広場は勿論素晴らしかったけど、自分的には観光のホットスポットは大運河沿いの水辺の光景でした。リアルト橋から眺めた大運河の眺めは文句のつけようがありませんでした。
街全体が水辺そのものなので、水辺のアクセスは文句がありませんし、これほど歴史・文化が感じられる街も珍しいでしょう。
ヴェネツィアは中世から自らの安全・安心のために、沖合いの潟湖の砂州を次々と埋め立てては杭を打ち込んで建物の増設をした特異な街に思えます。運河は道路、ゴンドラは車みたいなもので、陸上の迷路は防衛上の目的だったようにも思えます。陸地と水面と段差は60cm程度、津波や高潮は大丈夫、温暖化の海面上昇は?火事対策は?などついついいつもの防災癖が顔を出します。
19時にホテルの近くのレストランで夕食にしました。6ユーロのペペロンチーノは文句なしに美味かったです。
明日はお天気が良ければ、もう一度街を歩いて、サンタ・ルチア駅から電車でヴェローナに向かいます。

翌日の朝、積み残したヴェネツィアの観光スポットを歩きました。
以下、次号・・・

# by camino0810 | 2019-03-16 19:52 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月4日(金)イタリア その67 ヴェネツィア(6)

時刻は16時過ぎ、陽が落ちる20時までに街歩きの時間はまだ4時間が残されていました。サン・マルコ運河沿いのプロムナードを東に向けて歩いて行きました。

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サン・マルコ運河の河畔はゴンドラ、水上バスや観光船の船着き場になっていました。写真奥のドームは、対岸のサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会。河畔プロムナードと海面の高低差は1m程度、転落防止策もなく、水辺のアクセスは文句なしに素晴らしかったです。

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サン・マルコ広場からサン・マルコ運河沿いにアルセナーレ運河までを往復し、大運河の中央に位置するリアルト橋を渡って、ホテルに戻りました。

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(出典 Google)

ドッカーレ宮殿を少し行くと、橋の上から『溜息の橋』と呼ばれる橋が見えました。写真左の建物がドッカーレ宮殿。この橋を渡ると2度とこの世に戻って来られないそうです。橋の小窓からこの世の別れを惜しみ溜息をついた逸話があるとか。さしづめ、この運河は三途の川みたいなもの、死生観に洋の東西はあまり関係ない感じです。

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突然、スコールに襲われました。

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ピエタ橋からグレーチ運河を眺めました。写真奥の尖塔はギリシャ正教会の聖ジョルジオ・デイ・グレーチ大聖堂(Chiesa San Giorgio dei Greci)の鐘楼。この大聖堂は、ルネサンス様式で1539年着工、1573年竣工。1453年、オスマントルコの攻撃でコンスタンチノープルが陥落し、東ローマ帝国が崩壊しました。その時のギリシア正教徒がヴェネツィアに逃避、保護され、この教会を建設したそうです。

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サン・マルコ運河の河畔散策路は、幅30mと実に広々としている上に、眼前に広大な海が広がっており、オープンスペース感満載のプロムナードでした。実に快適なプロムナードでした。これまで歩いてきた迷路ような路地と運河もヴェネチアらしい風景ですが、この眺めも実に素晴しかったです。

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船着場には小型の観光船も停泊していました。ボラード(係船柱)は鋼製ではなく、丸太組。細部への拘りも感じます。運河沿いの建物は4階建て、スカイラインを揃えていました。

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写真左のドームは、対岸のサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会、写真右はサンマルコ寺院の鐘楼。

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アルセナーレ運河で折り返しました。この運河は両側に道が付いた中運河。突然降りだした驟雨で人通りが絶えて、静的な風景が出来ていました。

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橋の上から歩いてきた散策路を振り返りました。手前の船着場は、市民と観光客の足となっているヴァポレット(水上バス)の船着場。

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17時、折り返し地点近くのカフェ『San Giorgio』に入って、カプチーノ(5ユーロ:650円)を飲みながら一休みしました。

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カフェのスタッフにスナップ写真をお願いしました。


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河畔プロムナードには余計な施設が一切ありません。あるのは、石畳、石のベンチと照明灯だけ。何もしないのが最良のデザインということかもしれません。

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ヴァポレット(水上バス)の乗り場の案内には日本語の標記も付いていました。

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サンマルコ広場に近づいていくに従って、船着場が賑わってきました。

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イタリア建国の英雄ヴィトリオ・エマニュエーレ2世の彫像もいい場所に立地していました。唯、なんとなくヴェネチア以外の都市と比べて、この英雄に対する温度は少し低いようにも感じられました。1797年、ナポレオンに征服されるまで、ヴェネツィアは独立を維持した都市国家だったからかもしれません。

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『溜息の橋』まで戻ってきました。

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ドッカーレ宮殿と橋とゴンドラ・・・お天気が良ければ絵葉書の世界でしょう。

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大運河の対岸にあるサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会。

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サン・マルコ運河対岸の島に建つサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。サン・マルコ運河をヴァポレット(水上バス)が通り過ぎていきました。

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18時、再びサン・マルコ広場に戻ってきました。

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ドッカーレ宮殿のパステルピンクの壁は、パステルカラーのモザイクで出来ていました。

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サン・マルコ寺院の豪勢なファサードとドーム。

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サン・マルコ寺院のファサードは色違い大理石で出来ていました。恐ろしく贅を尽くした建物でした。

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サン・マルコ広場と外周の建物。1階から3階まですべてポルティコ(柱廊)仕様という初めて見る建物でした。

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サン・マルコ寺院と鐘楼とカフェ。こんなカフェでゆっくり時間を使うという贅沢ができないせっかちな性分なので、先を急ぎました。

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ポルティコ(柱廊)の内側を歩いてみました。

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広々としたサン・マルコ広場を後にして、路地裏通りを歩いて、大運河に架かるリアルト橋を目指しました。
以下、次号・・・


# by camino0810 | 2019-03-13 19:21 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月4日(金)イタリア その66 ヴェネツィア(5)

16時、街歩きを始めて1時間が経過しました。お目当てのサン・マルコ広場に到着しました。広場を囲う外周の建物の通路を潜り抜けると、正面にサン・マルコ寺院と鐘楼が現れました。
手狭なヴェネツィア本島の中にあって、長さ200m、幅100mという広大な広場が出来上がっていました。この広場を歩いた観光客は誰でもサン・マルコ広場がヴェネツィアの核心部であることを感じることでしょう。そのような設えを感じる、実に立派な広場でした。手前の赤レンガの鐘楼もその威信を添える役割をしている感じです。この鐘楼は高さ97ⅿ、ヴェネツィア本島にこの鐘楼を超える建物はないそうです。

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これまで、欧州の大きな広場を結構歩いてきました。大きな広場を歩く度に、広いこと、大きなことはそれだけで価値が高いなと感じました。2017年の5月に歩いた、ポーランドのクラクフ旧市街の中央広場は忘れることができません。この広場は200m真四角の実に大きな広場でした。クラクフのヘソになっていて、多くの観光客を集めていました。


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(ポーランド・クラクフ旧市街の中央広場)

広場を進むと、正面のサン・マルコ寺院(Basilica di San Marco)が近づいてきました。サン・マルコは、ヴェネツィアの守護聖人。823年、ヴェネツィア商人がエジプトのアレクサンドリアから持ち帰ったサン・マルコの聖遺物をこの寺院に埋葬したそうです。寺院の前は大勢の観光客でごった返していました。手前の3本の赤いポールの天辺には、黄金の羽を持ったライオン。

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サン・マルコ寺院は、建築様式はロマネスク様式 、 ビザンチン、ゴシック様式の混合型。随分と複雑な建築様式みたいで、建築の知識に乏しい自分にはその価値を十分に感じることができません。
現在の建物は、着工1063年、完成1617年。1096年の十字軍の遠征からヴェネツィアの隆盛が始まりました。1600年、オランダの東インド会社設立でヴェネツィアの凋落が始まりました。サン・マルコ寺院は、ヴェネツィアが繁栄した500年間を掛けて、潤沢な資金を投入して建設した、贅を尽くした聖堂だと思います。サン・マルコ寺院もこれまで観てきた教会と同様、ヴェネツィアの隆盛、衰退、再生をずっと見てきた宗教施設でした。

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とにかく、サン・マルコ寺院のファサードは、初めて見る建築様式でした。多塔式のファサードを見て、何故か、2013年に観たフランスのロアール地方にあるシャンボール城のファサードを思い出しました。

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(フランス・ロアール地方のシャンボール城)



金の羽を持ったライオンの上、ファサードの頂点に建っている彫像がサン・マルコだと思います。その下の壁画の真ん中にキリストが描かれていました。

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内観は時間がないのでスルー。ネットで内部の様子を調べてみました。

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(サン・マルコと羽を持つ黄金のライオン:出典 Wikipedia)

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(出典 Wikipedia)


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(出典 Wikipedia)

サン・マルコ寺院を後にして、サン・マルコ運河の河畔に出ました。写真右のパステル・ピンクの建物がドゥカーレ宮殿。

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ドゥカーレ宮殿は、ヴェネツィア共和国総督の政庁として9世紀に建設、何度かの大火で焼失、現在の建物は15世紀の物。この宮殿は100m四方の巨大な建物でした。ファサードはゴージャスな外壁と2段構えのポルティコ(柱廊)。宗教施設のサンマルコ寺院と行政施設のドゥカーレ宮殿は棟続きのセットになっていました。政教一体型の支配機構は、洋の東西を問わず、中世、近世の共通した体制。

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ヴェネツィアでは、ドゥオーモと呼ばれる大聖堂を見つけることが出来ませんでした。唯、サン・マルコ寺院には、大聖堂という訳も付けられている場合もあり、この教区の司教座教会(大聖堂)ではないかと想像します。サン・マルコ寺院は航空写真を見ると、大聖堂のルール通り、東西方向を長軸とする十字架の形をしていました。唯、十字架の交点と端部がドームになっていました。初めて見る光景です。ファサードはルール通り、西側にありました。

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(出典 Google)

サン・マルコ運河の河畔を東の方に歩きました。

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サン・マルコ運河の河畔には、文句のつけようがないほど素晴らしい水辺が延々と続いていました。
以下、次号・・・


# by camino0810 | 2019-03-10 16:09 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月4日(金)イタリア その65 ヴェネツィア(4)

15時、ホテルを出発して、ヴェネツィアの街歩きを始めました。旧市街を南に歩いて、大運河に架かるアカデミア橋を渡って、サンマルコ広場を目指しました。

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(出典 Google)

最初の運河は、カ・フォスカリ運河。写真奥に見える運河が、大運河。

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カ・フォスカリ運河の西側。ブレジャーボートが通りすぎていきました。

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太鼓橋の北側に見える鐘楼はサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会の鐘楼。ヴェネツィアでサンマルコ寺院の鐘楼に次いで2番目の高さだとか。識別困難な街では貴重なランドマークです。


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ヴェネチアの観光ホットスポット、アカデミア美術館とサン・マルコ寺院の案内矢印が貼ってありました。方向音痴の初心者にはありがたい配慮です。

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路地裏の建物は結構壁が傷んでいました。

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マスカレードのお店・・・

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サン・バルナバ教会の広場はすぐでした。広場とサン・バルナバ運河の水面の高低差は50~60cm。水辺のアクセスは文句なしで、柵もありません。大変素晴らしい水辺だと思いました。職業柄、高潮や津波は大丈夫?と要らぬ心配をしてしまいました。

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サン・バルナバ教会(Chiesa di San Barnaba)は、936年に建立。ファサードは1749年に完成。

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通路のない運河を渡りました。運河が通路替わりなので、当たり前と言えば当たり前ですが、ヴェネツィアでこのタイプの運河はよくみました。道路に等級があるように、運河にも等級がありました。大運河は、例の逆S型の大運河。中運河は両脇に通路が付いた運河、小運河は通路のない運河。
この運河は、小運河ですが、何故、埋めて道路にしなかったのか?
車がない時代、陸上運搬は結構大変な作業です。牛馬が必要な上に、積み替え用の船着き場が必要。舟運だと、本土からきた船便の大量の重い荷物を積み替えなしで、軒下まで運搬が可能です。ヴェネツィアは、沖合を埋め立てた人工島なので、最初から最後まで舟運によるロジスティックスでシームレスで通したというか拘った街だったということかもしれません。

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サンドイッチは4.5ユーロ(590円)。

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トロヴァソ運河は、両脇に通路が付いた運河なので、中運河。

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大運河を渡るアカデミア橋は生憎の補修中。大運河は幅50~70mの基幹水路、これを1スパンで飛ばす橋は技術的なハードルが高いので、大運河に架かる橋は、このアカデミア橋、リアルト橋、駅前のスカルツィ橋とコスティトゥツィオーネ橋の4本でした。

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(出典 Google)

アカデミア橋北側のサン・ヴィダル教会(Chiesa di San Vidal)はコンサートホール。1084年、建立。豪勢なファサードは1688年~1694年に完成。ヴェネツィアの隆盛期を見てきた教会だと思います。

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内部はこんな感じ。ナポリでは由緒ある教会が博物館として利用されていました。歴史的な建築遺産を別の用途に替えて維持するやり方は、賢明な方法だと思います。

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北側のサント・ステーファノ広場は、手狭なヴェネツィアにしては随分と広々した広場でした。ヴェネツィアには沢山の大小の広場がありました。この広場は、「Campo Santo Stefano」。「Campo」(カンポ)は 広場という意味だと思います。ヴェネツィアは運河の街ですが、同時に、「カンポ」の街でもありました。街歩きではこの「カンポ」の名前で自分の位置を確認しました。

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小運河のサンチシン運河、向うは大運河。

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サンチシン運河と並行するカッレ・ドゼ・ダ・ポンテという路地裏通り。違いがほとんど判りません。サンチシン運河を埋め立てて道路にすると、この路地裏通りと似たような感じになるでしょう。

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サンチシン運河の水はそこそこ透明度あり、カキが付いていました。

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カッレ・ドゼ・ダ・ポンテ通りを南に行くと大運河に出ました。対岸の大きなドームは、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会。翌日の朝、この教会まで足を伸ばしました。

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大運河の右手には、補修中のアカデミア橋が見えていました。

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大運河の大半の河畔は、ぎりぎりまで建物が建っていて、観光客には水辺のアクセスが意外にも良くありません。河畔の一部区間だけ、船着き場になっていました。

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船着き場からゴンドラが出航しました。ヴェネツィアらしい一枚が撮れて良かったです。

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サン・マウリツィオ広場まで来ました。サン・マウリツィオ教会( Chiesa di San Maurizio)のファサードと鐘楼。

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ドゥオド・オ・バルバリーゴ橋と運河。太鼓橋の桁下をゴンドラが通り過ぎて行きました。

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サンタ・マリア・デル・ジッリョ教会(Chiesa di Santa Maria del Giglio)は、沢山の彫像が建っている豪華なファサードでした。建築様式はバロック式、着工は966年、完成は1680年。

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ラルポロ運河の河畔の通路はオープンカフェにしてありました。

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サン・モイゼ教会(Chiesa di San Moisè)もサンタ・マリア・デル・ジッリョ教会と似た豪華なファサードでした。建築様式はバロック式、着工796年、完成1632年。ヴェネツィアがフランク王国に勝利して独立国として誕生したのが810年なので、この教会はヴェネツィアの興隆、衰退、再生の一連の歴史を見てきたことになります。1105年、ヴェネツィアを壊滅させた有名な火事が起こり、1632年に再建されたとか。

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モイゼ運河には沢山のゴンドラが浮かんでいました。

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16時、街歩きを始めて1時間が経ちました。お目当てのサン・マルコ広場の入り口に到着しました。

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建物を潜り抜けると、サン・マルコ広場でした。
以下、次号・・・

# by camino0810 | 2019-03-09 22:04 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月4日(金)イタリア その64 ヴェネツィア(3)

ヴェネチィア本島は東西4km、南北2kmの島。航空写真を見ると、島はボローニャと同様赤い屋根の建物でビッシリ埋め尽くされていました。島の中央の逆S字の大運河で島が半分に分けられています。大昔、蛇行した澪筋がそのまま沈み込んで、現在の地形が出来た感じです。

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(出典 Google)

空港シャトルバスは、定刻13時50分にヴェネチィア本島のローマ広場に到着しました。目的地に着いてやるべき最初の仕事は、予約したホテルに40Lのバックをおろして身軽になること。迷路のような運河沿いの路地を歩いてホテルを目指しました。ヴェネツィアの街は車が一切無いので交通事故の心配は全くありません。歩行者には、極めて安心・安全な街ですが、風景が似通った識別不能な街でもあります。翌日も迷路のような路地を歩きましたが、方向音痴の自分には最期までハードルの高い街でもありました。

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(出典 Google)

ローマ広場の脇のパパドポリ橋 を渡りました。ヴェネツィアには大小150の運河があるそうです。考えてみれば、当たり前で、この街は運河が道路の替り、ゴンドラやモーターボートが車の替わりという世界でも稀有な街ですから・・・。

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パパドポリ橋 の上から運河を眺めました。このアングルは、大運河の支川リオ・ヌオーヴォ運河の北側。写真奥の赤い建物はヴェネツィア・サンタ・ルチア駅。

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こちらは、リオ・ヌオーヴォ運河の南側。運河の水は、結構、澄んでいて、臭いもありませんでした。

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橋を渡ってパパドポリ公園の中に入りました。

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リオ・ヌオーヴォ運河のひとつ東側の小運河、トレンティーノ運河まで来ました。運河の横断橋は、ゴンドラが通過できる桁下空間を確保するため、全部階段式の太鼓橋。ハンデキャップのある人たちにはハードルが高い街でもあります。

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写真左の建物は、四つ星ホテルのパパドポリ・ホテル。

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トレンティーノ運河の南側。写真左側が広場になっていて、奥に教会が建っていました。広場と水面の高低差は50~60cm、転落防止柵はありません。

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広場奥の教会は、サン・ニコラ・ダ・トレンティーノ教会。ファサードはパルテノン神殿風でした。ルネッサンス様式で着工1591年、完成1602年。

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内観はスルー、教会の中は多色の大理石仕上げだとか。

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(出典 Wikipedia)

マガゼン運河の西側、写真奥がリオ・ヌオーヴォ運河。


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マガゼン運河の東側。この運河脇には転落防止策が設置されていましたが、その理由は不明。なんとなく、人通りが多く、通路の幅は狭い場所には柵を入れているようです。柵の色は黒っぽい部材で高さを抑え、透過度を大きくして、運河の良い景色を支障しないような配慮を感じます。

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再び、広々したリオ・ヌオーヴォ運河に戻りました。このアングルは、リオ・ヌオーヴォ運河の南側部分。戻ったというより、迷ったというのが実態。スマホのGoogleのマップという『カーナビ』をナポリで失っているので、地図と太陽の位置でホテル探しをせざるを得ません。建物の角には、運河名を記した表示版が貼ってありましたが、運河名の入った地図がないので当惑しました。
建物のスカイラインは、これまで観てきた他のイタリアの街と同様そこそこ揃えられていました。建物の色にパステル・ピンクが多く用いられているのも同じ感じ。

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リオ・ヌオーヴォ運河の東側・・・水辺のアクセスの良さは、当たり前ですが、文句のつけようがありません。散策路と水面の高低差は50cmくらい、転落防止柵はありません。この一枚は人通りがなく、何処か、静的。近代的な建物もあって、自分が持っているヴェネツィアのイメージとは違った、別の一面が感じられる一枚。


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14時30分に何とかホテルにチェックイン。ローマ広場からホテルまでは、たかだか600~800m。普通に歩けば、10分で着くところが、40分も掛かりました。このホテルは路地裏の2つ星ですが、ヴェネツィアの観光スポットに近い旧市街の濃い場所に立地していました。今回のイタリア旅行から共同トイレ、共同バスのホテルを試しましたが、慣れると悪くないなと思いました。中庭も素晴しくて、スタッフの対応も良く、リピーターもありかなと思っています。

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イタリアを代表するミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、バーリ、パレルモを北から順番に歩いてきました。その街の歴史・文化について一定の知識があると、その街の理解がより深まるように感じました。
ヴェネツィアの歴史や文化を地球の歩き方(2018~2019)から抜き出してみました。これまで歩いてきたイタリアの都市と同様、この街が輝いていたのは16世紀まで。17世紀以降(日本の江戸期)、トルコ、イギリス、オランダに地中海貿易の主役の座を奪われて衰退していった感じです。唯、ヴェネツィアは18世紀の終りまで独立した国家を維持していました。海上都市国家としての防御能力の高さが幸いしたようです。
これまで観て来た街では、最初に、城壁探しをしてきましたが、ヴェネツィアの城壁は海でした。ラグーン内の浅瀬を埋め立てて、逐次、人が住める敷地を拡げていった感じです。ヴェネツィアの人たちが、この街をどのように造成してきたかは土木屋には見逃せません。

①誕生と興隆
 5世紀に蛮族(フン族)の侵攻を逃れて、人々が本土からアドリア海の干潟に移り住んだ。425年はヴェネツィア誕生の年。漁業から製塩業・水上運送業へ。ブレンダ川、ポー川を遡上して、河川交易で発展。
②フランク軍を打ち破る
 810年、フランク王国の侵攻を受けるも、フランクの艦隊を湿地帯へ誘い込んで座礁させ勝利。813年、首都をリド島マラモッコからリアルトに移転。
③守護聖人サン・マルコのもとに
 823年、ヴェネツィアの商人がアレクサンドリアから聖マルコ(12使徒の次に位置する福音書作者)の遺体を持ち帰った。ヴェネツィアは、聖マルコを守護聖人にして発展。
④十字軍とヴェネツィアの繁栄
 1096年、十字軍遠征。パレスチナ地域へ商業網拡大。ライバルのピサやジェノヴァと地中海貿易で競い合う。
⑤国営造船所の設立
 1104年、国営造船所設立。ヴェネツィアの海軍力は質量ともに飛躍的に充実。安全航行の確保、船舶部品の標準化、地中海の補給基地で部品交換可能。
⑥東西貿易の発展とヴェネツィアの繁栄
 12、13世紀の農業の発展と人口増加で穀物、塩、ワインの貿易の進展。1270年頃羅針盤発明。1280年頃遠洋航海用大型船登場。イタリア商船北海進出、フランドル、北ドイツ寄港。
⑦コンスタンチノープルの占領
 1204年、ヴェネツィアは、第4回十字軍を先導してコンスタンチノープルを占領、東ローマを滅ぼしラテン帝国。クレタ島獲得、東地中海制海権確立。東西貿易で 莫大な利益。黒海進出。ヴェネツィア人マルコポーロ登場。
⑧組織の勝利とヴェネツィアの繁栄
 13世紀末から14世紀の初めにかけて、ヴェネツィアは貴族による寡頭支配体制強化。1310年、防衛と治安を担当する十人委員会設置。1330年代、遠距離交易制度成立。1378年~81年、ジェノヴァ戦争引き分け。政治的、経済的な安定で繁栄。
⑨ルネッサンスのヴェネツィア
 15世紀前半、繁栄を謳歌。1405年、パドヴァを支配下。ヴェネツイアの歳入は、イタリア諸国家中最大、フランス、イギリスを超えた。強大な軍事力を維持できた。1453年、オスマン・トルコがコンスタンチィノープル占領。ヴェネツィアはこの都市への防衛には不熱心。1479年、ネグロポンテをオスマンに譲渡して、凋落が始まる。
⑩芸術と学問の都市へと変わる
 対外的には衰退するも国内的には絵画を中心とする文化が開花。1494年、印刷所設立。パドヴァ大学の名声確立。ガリレオ、パドヴァ大学で天文学を講義。
⑪平和な国内の繁栄
 1494年、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻後、イタリアの多くの地域が外国の支配を受けるようになるも、ヴェネツイアは1797年まで独立を維持した。ガラス製品、モザイク、金銀宝石細工、織物業はヴェネツイアに大きな富をもたらした。
⑫農業の発展と保守的傾向
 クレタ島や1489年にヴェネツイア領になったキプロスでがワインや木綿生産。貴族の企業家精神衰退。
⑬ヴェネツィアの没落
 1573年、キプロスをトルコに奪われる。1590年以降イギリス、オランダ船が地中海に進出、海運国ヴェネツイアの没落に拍車。1600年に設立されたオランダ東インド会社は、香料貿易の主役をヴェネツイアから奪った。16世紀末の木材不足はヴェネツイアの造船業に打撃。1630年以降、不況慢性化。1699年、クレタ島を失い、18世紀初めまでに海外植民地をほとんど失う。没落期のヴェネツィアはカーニヴァルなどの祝祭にエネルギーを費やした。

部屋に40Lのバックパックを下ろして、15時、ヴェネツィアの街歩きを開始しました。
以下、次号・・・


# by camino0810 | 2019-03-07 20:27 | イタリア | Comments(0)