2018年4月29日(日)イタリア その25 フィレンツェ(6)

今日でイタリアに入って4日目になりました。12時38分発のフレッチャロッサ(赤い矢)でローマに向かいます。午前中の時間を使って、フィレンチェの見残した街を歩きました。
このホテルは朝食が付いていなかったので、前日コンビニのスパーで買ったもので朝食を済ませました。スパー(SPAR)は欧州のあちこちに展開しているコンビニ。日本のコンビニ以上の品揃えがあり、しかもリーズナブル、旅行者にも優しいコンビニです。
7時40分、30Lのデイパックを携行してにホテルを出発しました。10時にホテルに戻ってチェックアウトします。このホテルは、アパートの居室を改造していました。アパートのエレベーターは旧式で、外扉と内扉の2段構え、ガシャン、ガシャンと大きな音を立てます。イタリアの旧式なアパートではごく普通な感じで、ボローニャのホテルのエレベーターも似たような旧式でした。

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サンタクローチェ教会に向かう途中、ラーメン屋さんを見つけました。朝が早いので閉店していました。

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メーンメニューは醤油ラーメンと味噌ラーメン。サブメニューは、豚の角煮、餃子、唐揚げ、南蛮漬け、枝豆といった具合に日本の食を代表するお料理がオンパレードでした。醤油ラーメンは並み11ユーロ(1400円)、大盛13ユーロ(1700円)、国内の2倍のお値段でした。

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サンタクローチェ教会まで来ました。オレンジの清掃員が道路の清掃をしていました。

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前日は土曜日、この広場は夜も大賑わいだったようです。宴の後の空いた酒瓶、コップ、吸い殻などが広場に散乱していました。このような清掃員のお蔭で気持ちの良い環境が整えられていました。ミラノやハンガリーのブダペストでも同じような光景を目にしました。日本ではゴミの収集まで、ゴミの片付けまではしてくれません。ご当地にお金とゴミを落とす観光客とそれを綺麗に片付ける清掃員の人たち、ある意味、上手く回っているなと感じました。

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サンタクローチェ教会のファサードは、ドゥオーモや洗礼堂と同じ建築様式で、シンプルな総大理石貼りでした。

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サンタクローチェ教会は1442年に完成、幅40m長さ140mの教会で、ミケランジェロ、マキャベリ、ロッシーニ、ガリレイの墓があるとか。

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ファサードから見た教会前の広場、清掃車も頑張っていました。広場は概ね幅50m、長さ100mの広さでした。

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ブラシ式の道路清掃車も頑張っていました。広場に赤紫のテントが用意されていることからも、今日もイベントがあるようです。

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土木工事・・・。

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サンタクローチェ広場に来た目的は、実はこの広場の一隅にある「標識」を観ることでした。「標識」は、正面の建物の縦長のアーチの玄関の脇にありました。

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お目当ての標識は、広場北西の隅に建つ、3階建ての建物の1階部分の壁にありました。

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2つの水位表示板の高い方は、1966年11月4日に記録された洪水の水位標で、路面から4.5mの位置に設置されていました。

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低い方は、1557年9月13日の洪水の水位標で、路面から4,0m。

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アルノ川は中世から暴れ川だったようです。掘り込み河川のアルノ川の普段の水位は路面から8m位下にありました。1966年の洪水で水位が概ね12m位上昇したことになります。
北イタリアの諸都市は日本並みに洪水の脅威に曝されているようでした。日本の川に似て、イタリアの川は流域面積が小さくて、勾配の急な河川だからでしょうか。昨日見たアルノ川河畔のパラペットは洪水防御施設を兼用しているのかもしれません。ドイツの主要河川エルベ川と比べると、アルノ川は日本の河川に近いなと思います。Googleの地図でアルノ川の沿川をざっと見ましたが、沿川にはエルベ川やライン川のあちこちで見られた河川港が見当たりませんでした。アルノ川は、産業舟運に必要な安定した流量、水深が得られにくい川なのかもしれません。

・アルノ川 延長241 km  平均流量110 m³/s 流域面積8,228 km²
・利根川  延長322 km  平均流量290 m³/s  流域面積16,840 km²
・エルベ川 延長1,091 km 平均流量711 m³/s 流域面積148,268 km²


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今から2年半前、2016年3月21日に放映されたBS-TBSで放映された「中井貴一 ヨーロッパ大紀行 天才ダ・ヴィンチからの挑戦状」は見応えのある番組でした。
最初、ダ・ヴィンチ(1452~1519)のモナリザは誰だったのかという『モデル探し』の旅が、段々とダ・ヴィンチの自然観や人生観、特に、水への思いを追い求める旅に変化して行きました。
モナリザの左肩の脇に描かれた、蛇行した川はアルノ川だそうです。よく見ると、アルノ川にアーチの石橋が描かれています。

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この橋は何処にあるのか?
13世紀に完成したブリアーノ橋(Ponte Buriano)はフィレンツェから上流60kmのアルノ川に架かる橋でした。中井さんはわざわざこの橋の現場に行って、モナリザの橋と実際の橋を見比べて、似た橋だと語っていました。

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ダ・ヴィンチが21歳の時に描いた「風景素描」は、自分には水墨画の世界に思えました。そもそも、中世の絵画は、肖像画がメーン。写真のない時代なので、写真代わりの肖像画がメーンなのは当たり前の話しかもしれません。
ダ・ヴィンチの研究者はこの絵を世界で初めての風景画と言っていました。東洋人の自分からは、相当違和感のあるコメントでした。ダ・ヴィンチの時代以前から存在していた水墨画は、風景画そのもの。東洋人と西洋人の世界観や自然観の違いがあるのかもしれません。

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中井さんは、サンタクローチェ広場で例の水位標を見て驚いていました。彼の身長は180cm、1557年の洪水の水位は、路面から4.0mくらいはあるでしょう。

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「最後の審判」のオファーを勝ち取ったライバルのミケランジェロはバチカンのシスティーナ礼拝堂に有名な「最後の審判」を残しました。破れたダ・ヴィンチは「最後の審判」のデッサンを残していました。デッサンには荒ぶる水が描かれていました。ダ・ヴィンチは巨大な洪水で「最後の審判」が行われると考えていたようです。

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彼はフィレンツェ下流のアルノ川沿いのヴィンチ村の出身、庶子扱いだったので14歳でフィレンツェに丁稚奉公に出た苦労人だったようです。この天才は北部イタリアの河川の治水、利水にもその才能を発揮したようでした。ミラノの運河や閘門の設計も手掛けるなど水インフラにも深く関与した、優れた土木技術者でもありました。

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ダヴィンチにとって、生涯『水』が最大の関心事だったようです。幼少時代からアルノ川に親しんでいて、水を恵みと恐ろしさの両方を良く承知していたためかもしれません。

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ダ・ヴィンチは、アルノ川の治水計画と利水計画にもその天才を発揮していました。蛇行するアルノ川とは別に直線的で巨大な放水路の開削構想を考えていました。東京で言うと、隅田川と荒川放水路の関係と似ています。舟運路の旧アルノ川、洪水処理の新アルノ川という壮大な構想だったようです。

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ダ・ヴィンチが設計した、ミラノのナヴィリオ・グランデ運河が紹介されました。彼は、旧市街の中心部を流れるマルテサーナ運河の設計も手掛けていました。

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(ミラノのナヴィリオ・グランデ運河)

この記事を書いている約2ヶ月前、7月の初旬に西日本豪雨が発生し、200人を超える人が犠牲になりました。去年の7月には九州北部豪雨が発生し、40人を超える人が犠牲になりました。これまでの経験をはるかに超える豪雨が原因でした。これまで、日本は堤防、調節地やダムなどの防災インフラの整備を営々と重ねてきましたが、この数年、計画をはるかに超える雨が毎年のように降るようになったなと感じます。ダ・ヴィンチだったら、どのようにアクションするでしょうか。

2年半前、フェイスブックにアップした記事・・・・

3月21日(月)、埼玉は晴れ、温暖。
3連休も自宅に3日目となると流石に飽き飽きしてきた。
BS-TBSで放映された「中井貴一 ヨーロッパ大紀行 天才ダ・ヴィンチからの挑戦状」は見応えのある番組だった。
モナ・リザは誰だったのかという答え探しの旅が、途中からダ・ヴィンチの世界観の核心となっていた「水」とは一体何だったのかという答え探しに変化していった。
MCの中井さんは寡作の彼の代表作である「モナ・リザ」や「受胎告知」を観る度に、その背景に描かれた風景についつい眼が行ったと何度も言っていた。
レオナルド・ダ・ヴィンチの自然観の中心にあったのは、「水」だったと結論付られていた。モナ・リザの左肩に小さく描かれていたアーチ橋は、彼の故郷アルノ川に当時からあった橋だという。
彼は、ヴィンチ村の公証人と使用人との間に生まれた私生児だった。彼の恐るべき知識と想像力は一体何処から来たのか?その謎への解答はなかった。14歳でアルノ川の上流の街フィレンチェに働きに出た。多分、奉公人といった身分だったのだろう。
21歳で描いた「風景素描」は、不思議と水墨画の気分と似ていた。渓谷から街に流れ下る川のデッサンだった。
ダ・ヴィンチは水の怖さと恵みをよく承知していた。当時からアルノ川は暴れ川だったようだ。1557年、洪水がフィレンチェの街を襲っている。路面から4mの高さに水位標が残されていた。
この天才はフィレンチェの治水・利水計画も考案していた。
蛇行して洪水を起こすアルノ川の放水路を計画している。郊外にバイパスを開削して、本川を運河とする計画だ。フィレンチェの街から洪水を排除して船着き場を造って舟運での発展を考えていたようだ。
彼が果たして水理学や水工学を何処まで極めていたのか・・・川屋には実に興味深い。
バチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画はライバル、ミケランジェロの「最後の審判」だが、ダ・ヴィンチにもオファーがあったらしい。彼は暴れる川のデッサンを何枚も残している。「最後の審判」は「水」による裁きで行われると考えていたようだ。
2004年のスマトラ島沖津波災害、2011年の津波大震災や2015年の鬼怒川水害も「水」だ。
確かに「水」は怖い。唯、その一方で水の恩恵を享受している事も忘れてはいけない。水と共存する社会はいつの時代でも大事だったし、今後も変わらないだろう。
晩年の3年はフランス王フランソア1世のオファーを受けて、ロワール川中流のアンボアーズで過ごした。アンボアーズ城から見たロワール川も秀逸だ。
1519年、この地で67歳の生涯を閉じたとの事だった。2013年5月、ダ・ヴィンチの墓にお詣りした事を想い出した。


サンタクローチェ広場を後にして、アルノ河畔に出て、フィレンツェのリング(城壁跡)を歩きました。
以下、次号・・・


# by camino0810 | 2018-08-29 17:10 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月28日(土)イタリア その24 フィレンツェ(5)

15時30分、街歩きを始めて2時間が経過しました。フィレンチェのリング(城壁)の最南端にあるローマ門まで来ました。凹凸の城壁の高さは概ね8m。

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3Dの地図の緑の破線がフィレンチェのリング(城壁)。この城壁は、ローマ門から断続的に東側のミケランジェロ広場まで延々と続いていました。中世の北部、中部イタリアは都市国家の集合体、都市国家間の食うか食われるかの熾烈な戦いもあったようで、このような城壁は自国を防衛するマストアイテムだったようです。日本の戦国時代、室町政権の弱体化に伴う秩序崩壊がありました。中世のイタリアにも似たような皇帝政権や教皇政権の弱体化があったのかもしれません。

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(出展 Google)

宿泊したホテルのロビーに飾られていたフィレンチェの鳥瞰図(年代不詳:FIOREZA(フィオレンツァ)は中世におけるフィレンツェの名称、15世紀頃か?)を見ると、現在のフィレンツェ定番のドゥオーモ、ヴェッキオ宮、ピッティ宮などが描かれていて、現在の町割りと当時の町割りは概ね似ていました。リング(城壁)は、丘陵地では保存されていましたが、市街地は道路に変わり、城門のみが残されていました。これまで観てきたミラノ、ボローニャと同じでした。

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ローマ門は、1326年に城壁を拡張した時に建築されたそうです。庇付きのシンプルな造りの城門で明り取りも兼ねた小さな開口(銃眼?)が沢山付いていました。壁はレンガではなく自然石でした。名前は、ローマへ至る道の始点だったことに由来するとか。ダン・ブラウンの小説「インフェルノ」の舞台になったそうです。

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城壁は砂岩、粘板岩などの堆積岩でピッティ宮の壁石と同じでした。ミラノは「さざれ石」(集塊岩)の街でしたが、フィレンチェは砂岩・粘板岩が近くに産出するようです。

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ボーボリ庭園のお隣の公園・・・フィレンチェ旧市街の、植樹のない狭い路地ばかりを歩いてきたので、広々とした緑たっぷりの公園もいいものだと感じました。

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10ユーロ(1300円)を払ってボーボリ庭園に入場しました。2013年に世界遺産に登録されたメディチ家由来の庭園でした。アルノ川の左岸に拡がる丘陵地を丸ごと庭園にした公園で、やたらと広くて歩きでのある公園でした。

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途中の「島の噴水広場」・・・中の島を庭園にしていました。

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高木に囲まれた傾斜のきつい中央通路を延々と登って行きました。

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登り切った頂上から振り返った中央通路・・・恐ろしく急な砂利道で、路面排水に工夫を感じました。両脇には糸杉がありました。

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丘の上の広場からピッティ宮の裏手や旧市街の赤屋根が良く見えました。

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「ネプチューンの噴水広場」

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この庭園の頂上にある陶磁器博物館に入ってみました。

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ナポレオン1世の肖像画・・・ミラノのブレラ絵画館の中庭にも彼の彫像がありました。ナポレオン1世は、19世紀初頭イタリアの都市国家を解放した英雄として評価が高かったようです。

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庭園から観たフィレンツェ郊外の眺めは気持ちが良かったです。イタリアの郊外の丘陵地の田園風景とはこんな感じなのかと思いました。

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豊かな緑の中に住宅が立地していて、イタリア人の生活の豊かさを感じました。糸杉やオリーブ畑も広がっていました。写真右手はリングの城壁と城門。

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フィレンチェの松と糸杉。松は幹の下の枝をすべて刈って、プードルみたいに刈りこむのがイタリア流。ローマでもよく見掛けました。

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フィレンツェ南側旧市街の防衛の要だった「ヴェルヴェデーレ要塞」は休館中、上空から見ると変則的な五角形。

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高台の頂点から坂道を下って、ミケランジェロ広場を目指しました。道路脇にオリーブが植えられていました。

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急な下りの坂道を歩いて行きました。写真左側の壁を最初は擁壁と勘違いしていました。

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実は、この辺の擁壁は「フィレンチェの壁」と呼ばれる城壁でした。ミケランジェロ広場から確認できました。

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坂を下り切ったところにあるサン・ミニアート門はなんとも不愛想な城門でした。

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サン・ミニアート門からはきつい坂道の登り、疲れも出てきました。

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ミケランジェロ広場の専用登り口、延々と続く階段を懸命に登って行きました。

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16時40分、ミケランジェロ広場の展望台に到着しました。この広場はアルノ川左岸の小高い丘陵地にあって、右岸に拡がるフィレンチェ旧市街が綺麗に見えました。


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展望台から丘の上に建つ「ヴェルヴェデーレ要塞」から延々と続く城壁「フィレンチェの壁」がよく見えました。

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ミケランジェロ広場は文句のつけようがない優れた視点場でした。フィレンツェの旧市街が一望できました。


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ドゥオーモ・・・

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ヴェッキオ宮・・・

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アルノ川とヴェッキオ橋・・・

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折角の機会なので観光客の方にスナップ写真をお願いしました。

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この日は結構暑くて喉が乾きました。展望レストランで飲んだ冷えたコーラ(2.5ユーロ:330円)が喉にしみわたりました。一休みしてミケランジェロ広場からホテルに戻りました。
サン・ニッコロ門とアルノ川・・・
ン・ニッコロ門
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つづら折りの道路の擁壁は、アーチ型の開口を持った不思議な気分を持った壁でした。石積み擁壁に特殊な岩を貼り付けていました。

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サン・ニッコロ門とつづら折り道路。ミケランジェロ広場はこの丘の上にありました。

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アルノ川の左岸に出ました。川は写真右から左に流れています。直上流に取水用と思われる「斜め堰」があって、砂浜のような河川敷が拡がっていました。

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アルノ川の右岸全景。下流に向けて歩いて行きました。

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川は写真右から左へ流れています。アルノ川は、日本式の複式断面ではなくシンプルな単断面の掘り込み型河川。両岸とも直立護岸で河川幅は約100~150m、護岸高さは約6~8m。隅田川と同程度の都市内河川でした。

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河川敷の砂浜で沢山の人が日光浴をしていました。そういえば、日本の河川でこのような光景を見掛けたことはありません。


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2016年のドイツ旅行でミュンヘン中心市街地のイーザル川でも同じような光景を観ました。

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(ミュンヘンのイーザル河畔:2016年5月7日撮影)

グラツィエ橋は5連のアーチのRC製の大きな道路橋でした。アーチのライズが小さい橋なのでリニューワルした橋かもしれません。

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橋から見た上流側・・・

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川幅のある区間は河畔に豊かな植生がありました。ピンクの建物の向こう側の丘の上がミケランジェロ広場。

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下流側、ヴェッキオ橋が見えていました。

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フィレンツェはカヌー競技が盛んでした。

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再び、ヴェッキオ宮。

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旧市街の路地裏

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イタリアに来て初めて日本語表記の宣伝を観ました。

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18時、ドゥオーモのクーポラの近くのホテルに戻りました。4時間半の街歩きが終了しました。

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20時前、夕食を摂るために街に出ました。欧州にあって比較的低緯度のイタリアでは20時あたりから夕暮れが始まりました。ドゥオーモのファサード前の広場は相変わらず多くの観光客で賑わっていました。

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洗礼堂

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あちこちお店を探した結果、夕食は駅前の中華にしました。イタリアに入って3日目、早くもコメの飯が恋しくなりました。

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チャーハンは5ユーロ、席料の1.5ユーロが加算されて、締めて6.5ユーロ(850円)、美味しかったです。

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20時30分の旧市街、陽がすっかり落ちました。

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21時30分、ホテルの部屋から眺めたライトアップされたクーポラ。疲れて外出する気力は残っていませんでした。

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初日のフィレンチェの街歩きはお天気に恵まれて幸運でした。フェイスブックにこの日の出来事をアップしました。

4月28日(土)フィレンチェは晴れ、暑い。
電車は定刻11時07分にフィレンチェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅に着きました。
ホテルに12時にチェックイン。予約したホテルは路地にあり、ドゥオーモから歩いて2分という便利な立地でした。
13時30分から街歩きを始めました。ドゥオーモの巨大なドームは、総大理石張りの恐ろしく豪勢な建物でした。西側のファサードも総大理石で装飾も実に精緻にできていました。この大聖堂もこれまで見てきたゴシックの大聖堂と形が違っていました。土曜で好天のせいか、入場待ちの観光客も含め、半端ない人の多さでした。お金持ちの中国人の観光団はここにもしっかりご活躍でした。この数年、欧州の観光名所で日本人に会ったことはありません。
ヴェッキオ宮の広場も大賑わいでした。ウフィッティ美術館はスルー。アルノ川のヴェッキオ橋を渡りました。左岸にあるビッティ宮、ローマ門からボーボリ庭園、丘の道のアップダウンを経て、高台のミケランジェロ広場に行きました。この広場は、アルノ川左岸の高標高点にあるので、フィレンチェの街が一望できました。帰り道、アルノ側川左岸の河畔で日光浴の人たちに出会いました。アルノ川は川幅が150m程度の川ですが、河畔の植生も豊かで優れた水辺だと感じました。
アルノ川左岸の丘陵に高さが10m程度の城壁が続いていました。フィレンチェもミラノ、ボローニャと同様、城壁に囲まれた都市国家だったように思いました。
18時のホテルに戻りました。疲れたけど、お天気に恵まれて幸運でした。
明日は電車でローマに向かいます。

翌日はお昼過ぎの電車でローマに向かいました。午前中は歩き残したフィレンチェの旧市街を歩きました。
以下、次号・・・

# by camino0810 | 2018-08-19 10:33 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月28日(土)イタリア その23 フィレンツェ(4)

ドゥオーモからカルツァイウォーリ通りを歩いて、シニョーリア広場を目指しました。

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(出展 Google)

ヴェッキオ宮はかつてフィレンチェ共和国(1115~1532年)の政庁舎、この建物もゴシック様式だそうです。2階の「500人広間」は共和国の会議場、ボローニャのマッジョーレ広場の市庁舎と似たような役割があったような感じです。塔の高さは94m、ドゥオーモと並んでフィレンチェ旧市街のランドマーク的存在。

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ヴェッキオ宮のファサード前にあるダビデ像に沢山の観光客が集まっていました。

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残念ながら、この彫像は複製。トスカーナ出身のミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564年)の高名な作品。本物は旧市街のアカデミア美術館 にあるそうです。

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ヴェッキオ宮の隣に、劇場の舞台風のユニークなホールがありました。ロッジア・ディ・ランツィ(ランツィの回廊)という3つのアーチの建物は、中世のフィレンツェ市民の集会場だとか。共和国時代のフィレンチェは、直接民主制の時代だったようです。


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シニョーリア広場は100m×100mの変則的な矩形で、観光客で大賑わいでした。この広場は、数百年に亘ってフィレンチェの歴史をみてきた広場で、サヴォナローラの火刑もあったとか。『シニョーリア』は『僭主』という意味合いで、フィレンツェの僭主は歴代のメディチ家の人たちでした。

Wikipedia ・・・

シニョリーア(伊: signoria)は、イタリア語で支配、統治、主権などのことで、特に歴史上13世紀後半から15世紀頃のイタリア諸国に現れた、僭主が支配する政治体制を指す。紳士、主人、領主などを意味するシニョーレ(signore)の派生語である。
概要
12世紀以降、北部・中部のイタリアの諸都市は都市国家の形態をとり、共和制の伝統が根付いていた。しかし、戦争など緊急の際には共和政ローマにおける独裁官と同様に、臨時に1人に主権を任せることがあり、やがてこれが終身化し、のちには世襲化していった。ルネサンス期には、世襲の僭主国家が各地に見られるようになった。その後、多くの僭主たちは皇帝・教皇から公・侯などの封建領主に封じられ、世襲支配に制度的保障を獲得することになる。


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コジモⅠ世(1519~1574年)はメディチ家出身の初代トスカーナ大公。そういえば、フィレンツェで1870年のイタリア統一の英雄ヴィットリオ・エマニュエル2世やガルバルディの像を観た記憶がありません。何故でしょうか?

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ヴェッキオ宮の脇にある「ネプチューンの噴水」はリノベーション中でした。簡易なテント式の覆いはいいアイデアだなと思いました。

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写真右のウフィツィ美術館はヴェッキオ宮と高架の連絡通路で繋がっていました。もともとこの美術館はヴェッキオ宮とセットの建物だったようです。

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かつて、ウフィツィ美術館はフィレンチェ共和国(≒メディチ家)の役所の建物だったそうです。「ウフィツィ」は「オフィス」の意味合いだそうで、日本でいえば、ヴェッキオ宮は国会議事堂、ウフィツィ美術館は霞が関のお役所のような建物と考えると妙に納得できました。この美術館は、役所(≒メディチ家)の建物を世界的にも有名な美術館にリノベーションしたとも考えられます。

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ウフィツィ美術館は、僭主にして豪商、芸術家の大パトロンだったメディチ家の人たちが蒐集した絵画品が展示されている美術館でした。芸術品の価値が判らない自分は、内観はスルーして、近くにあるヴェッキオ橋を目指しました。

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細長い通路に沿って、高名な芸術家や科学者の彫像が沢山展示されていました。恥ずかしい話ですが、名前を知っている人はわずかでした。

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振り返って見たウフィツィ美術館。向こうにヴェッキオ宮が見えていました。

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ウフィツィ美術館の門の向こう側がアルノ川でした。

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アルノ川に出ました。イタリアに来て、3日目にようやく川に出合えて嬉しかったです。川は写真下から上に流れています。下流にお目当てのヴェッキオ橋が見えていました。

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アルノ川の上流側・・・

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河畔には高架の連絡路(写真左)が延々と続いていました。この連絡路はヴェッキオ宮、ウフィツィ美術館、ヴェッキオ橋経由で対岸のピッティ宮を連絡する通路だそうです。
フィレンチェの旧市街はアルノ川を挟んで直径約2kmの城壁(リング)で囲われていました。アルノ川北側の旧市街の中心ヴェッキオ宮と南側旧市街のピッティ宮を直接結ぶ専用連絡通路はフィレンチェの防衛上重要な施設だったのではないか。電話もスマホもない中世、外敵の侵入をいち早く伝える、安全な専用ホットラインは最も大事な通信インフラ、ヴェッキオ橋はその通路確保の役目を背負っていたのかもしれません。現在流に言えば、恵比寿駅とガーデンプレイスを結ぶ「動く歩道」みたいな施設でしょうか。

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ヴェッキオ橋はアルノ川に架かる3連に石造りのアーチ橋でした。「ヴェッキオ」は人名か地名と思っていたら、古いという意味のイタリア語、ヴェッキオ橋は「古い橋」ということになります。
橋長は概ね100m、アーチのライズが小さい橋で、アルノ川は隅田川と同程度の川でした。フィレンツェ最古の橋であり、先の大戦を生き延びたフィレンツェ唯一の橋だとか。河川の氾濫などで何度か建て直されており、現在の橋は1345年に再建されたもの。ヴェッキオ橋は橋上住居が残された現在では珍しい橋で、橋上の四角の窓が付いた建物が連絡通路。

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橋上の建物は橋からかなりはみ出して建てられていて、基礎は斜材で支えられていました。アルノ川の氾濫はこれまで何度かあったとかで、流木を引き連れた洪水流による攻撃でこの斜材が壊されなければいいなと心配しました。

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橋上住居は2015年のイギリス旅行で、イングランドのバースでも見ました。バース市街地中心部にあるパルトニー橋は中央が車道で両側の歩道にお店が並んでいました。


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(パルトニー橋(バース):2015年5月8日撮影)

ロンドンのテムズ川に架かるロンドン橋は童謡でも有名な橋ですが、17世紀のロンドン橋は橋上住居でした。


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(1632年のロンドン橋:出展 Bridges Now and Then)

中世、パリのシテ島には沢山の橋上住居がありました。橋の上に住むのは極当たり前で、商売するにも便利だったようです。洪水で度々流出する災害が起きたので、セーヌ川のポンヌフ(フランス語で新しい橋:1607年完成)は初めて道路専用の橋になったそうです。現在では考えられないことです。


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フェイスブック(2018年2月5日)にアップした橋上住居に関する記事は我ながら面白いコメントでした。

1632年のロンドン橋・・・。
昔の人たちは何故橋の上に住んでいたのでしょう?ほぼ同時代のパリのシテ島を描いた古地図を見ると、架けられた5本の橋のすべてに橋上住居がありました。
それにしても、これだけ多くの橋脚が林立するとテムズ川の河積が阻害されて、洪水がスムーズに流れそうにありません。流木も引っ掛かかり易いし、安心、安全と言えそうにありません。
それを承知の上で橋の上に住むメリットとは一体何か?
当時の橋の役割は通路機能以外に市場のような商業的な役割もあったのかも。ロンドン橋はロンドンの臍、沢山のロンドン市民が否が応でもこの橋を渡らざるを得ないので、商売的には最高の立地だったのでしょうか。
ロンドン橋の建設資金がどう工面されたのかも興味深いところです。もし橋上住居の組合員の共同出資で建設し、通行料金収入で運営されたとすれば、PFI先進国イギリスのPFIの魁かもしれません(^^)/
ロンドン橋の上には、建物が建っていない空きスペースが散見されます。現在流に考えると、区画整理や市街地再開発事業の保留地や保留床にも見えます。本当?

ヴェッキオ橋は沢山の観光客で賑わっていました。写真左の建物が連絡通路。

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橋のお店は、宝石店が目立ちました。


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橋の中央部にはお店のない展望スペースがありました。橋上商店の断面や跳ね出しが良く判る絵柄です。

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アルノ川の下流側。

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アルノ川の上流側。

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水の無料サービス・・・橋の上での水のサービスは初めて観ました。

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ヴェッキオ橋は、車道が5m、両サイドの歩道が6m、全幅で17m程度の橋だったと記憶しています。

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カルティエも出店していました。

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ヴェッキオ橋の左岸側の袂まで来ました。写真右手が連絡通路。

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左岸袂の小さな広場、正面の建物が連絡通路。

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ひさし付きの建物の狭い路地をピッティ宮の方向に歩いて行きました。

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ピッティ宮はすぐでした。ピッティ宮のファサードは、恐ろしく大きな茶色の石材を重ねたシンプルな構造でした。この日は晴天で無茶苦茶暑い日でした。日陰で一休みして水分を補給して体力の消耗を抑えました。

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石材は褶曲した堆積岩でした。多分、粘板岩ではないかと思いました。

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ピッティ宮前の広場。傾斜した広場は植樹が1本もないシンプルなデザインでした。

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フィレンチェの城壁(リング)の最南端にあるローマ門を目指して歩きました。
以下、次号・・・


# by camino0810 | 2018-08-15 14:18 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月28日(土)イタリア その22 フィレンツェ(3)

13時30分、街歩きを始めました。ドゥオーモは、ホテル前の路地裏通りからすぐでした。

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ドゥオーモの正式名称は、『カテードラーレ・ディ・サンタ・マリア・デル・フィオーレ』、直訳すると「花の聖母マリア大聖堂」、この地域の司教座教会でもありました。1296年から172年を掛けて建設されたそうです。欧州の教会施設では100年を超える工期は珍しくありません。ドゥオーモの建設期間はフィレンチェが最も栄えた時期と重なっていました。

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ドゥオーモはフィレンチェ旧市街の中で圧倒的な大きさと存在感を感じさせる建物でした。

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(出展 Google)

ドゥオーモは、晩期ゴシック建築および初期ルネサンス建築だそうです。この大聖堂もイタリア以外の国々で観て来たゴシック様式の大聖堂と随分形が違っていました。ドゥオーモの最大の特徴は十字架の交点部のクーポラと呼ばれる巨大なドームでした。八角形のクーポラは、高さ107m、内径は43mの恐ろしく巨大な構造物でした。ちなみにドゥオーモは全長153m、最大幅90m。

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フィレンチェのドゥオーモもミラノのドゥオーモと同様、大聖堂の基本ルールを踏んでいました。真上から見ると十字架の形をしていて、長軸がキッチリ東西方向を向いていました。ルールどおり西側の端部がファサードでした。祭壇は東の端にあると思います。
十字架の交点部分にある、八角形の巨大なクーポラは、フィレンツェ最大のマストアイテムと言ってもいいでしょう。中世には現在のような大型のクレーンがありません。人力で高さ100mを超える巨大なドームを造り上げた技術力や精神力にただただ感心するばかりでした。

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(出展 Google)

折角の機会なので、クーポラの前で自撮りしました。1417年、建築家ブルネレスキ(1377~1466年)により着工され1436年に完成したそうです。クーポラの屋根の造り方は相当に難しかったようです。

https://www.y-history.net/appendix/wh0902-061.html

13世紀の末から造営が始まっていたが、15世紀になってもまだ完成していなかった。最大の問題は中心の大円蓋をどのように建造するかであったが、当初の建築責任者であったギベルティに代わって建築を監督したブルネレスキが、妨害や無理解にめげずに1421~36年の間に、八角形の胴部の上に二重殻構造を持った煉瓦作りの円蓋を載せることに成功した。このルネサンス様式を代表する建造物は、現在もフィレンツェの中心に当時のまま見ることができる。


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クーポラからドゥオーモの脇を通ってファサードの方に歩いて行きました。

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振り返って見たクーポラ。この日は土曜日、好天にも恵まれ、沢山の観光客が入場待ちで並んでいました。

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ファサードの脇に建つ高い塔はジョットの鐘楼で高さ85m。

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西側のファサードは、総大理石貼りの建物でミラノのドゥオーモのファサードに勝るとも劣らないほど絢爛豪華でした。外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾されていました。19世紀に完成したネオ・ゴシックによる混成様式だそうです。

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観光馬車・・・

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洗礼堂はドゥオーモと比べるとシンプルですが、総大理石張りの建物で、外装はドゥオーモと似ていました。フィレンツェ出身のダンテもここで洗礼を受けたそうです。

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洗礼堂の金色の扉は、ロレンツィオ・ギベルティ(1378~1455年)の「天国の扉」。

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ドゥオーモ広場は、半端ない賑わいでした。幅広のマルテッリ通りにはひさし付きの建物が並んでいました。旧市街の建物は概ね4階建て、1階は例の「横目地」の建物が目立ちました。

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幅広のカルツァイウォーリ通りをシニョーリア広場の方へ歩いて行きました。

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この大通りと直交するスペッチアーリ通り、向こうに「レプッブリカ(共和国)広場」の城門が覗いていました。

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コルソ通りは、古都フィレンツェを感じさせる路地裏通りでした。

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カルツァイウォーリ通りにもひさし付きの建物が沢山並んでいました。

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オルサンミケーレ教会は、かつては穀物倉庫で商工会館を経て現在は教会。

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コンドッタ通りも雰囲気を感じさせる路地裏通り。

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ヴェッキオ宮のあるシニョーリア広場に出ました。

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以下、次号・・・


# by camino0810 | 2018-08-13 04:19 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月28日(土)イタリア その21 フィレンツェ(2)

電車は定刻11時07分にフィレンチェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅に着きました。
フィレンチェの旧市街は概ね2km強の多角形のリング(緑の破線)で囲まれていました。観光のコアスポットはドゥオーモを中心に固まっているので歩きやすい街でした。

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(出展 Google)

フィレンチェは、豪商メディチ家が支配した、イタリアを代表する世界的な観光都市程度の知識しかありませんでした。

Wikipedia・・・

フィレンツェ(イタリア語: Firenze ( 音声ファイル))は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。 

駅からドゥオーモを通ってホテルまで歩きました。重い荷物を背負ったままでは街歩きはできません。フィレンツェもボローニャと同じで赤い屋根の建物で埋め尽くされた赤の街でした。

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(出展 Google)

駅前のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会も修復中でした。欧州の宗教施設ではよく見られる光景です。

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駅前の4つ星ホテル。何か不思議な形の建物でした。

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サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の隣のウニタ・イタリアーナ広場も工事中。

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脇道を行くと、ドーム型の大きな建物が目に入りました。フィレンチェといえば、大きなドームのドゥオーモ。似てはいるけど、何か違うなと思いました。この建物はメディチ家の礼拝堂でした。


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礼拝堂のファサードには6つの玉が付いたメディチ家の紋章が飾られていました。

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メディチ家の起こりは薬屋なので玉は丸薬だという説もあるそうです。

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礼拝堂の内観はスルーしましたが、礼拝堂の内にはメディチ家の権勢を示す豪華な装飾があることを後で知りました。ネットから内部の豪華さが判る写真を載せてみました。

豪華な天井画、高名な画家の作品だと思います。

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(出展 https://4travel.jp/travelogue/)

地味な外観とは裏腹に内部は豪華な総大理石の壁、様々な色合いの大理石を張っていました。そういえば、ボローニャの斜塔のお隣の教会も地味な外見に比べて内部は豪華でした。

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(出展 https://4travel.jp/travelogue/)
祭壇の真ん中にメディチ家の紋章。

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(出展 https://4travel.jp/travelogue/)

メディチ家の礼拝堂の脇の広場を歩いて行きました。アーチ窓の庇つきの建物はフィレンチェ流の建築様式でしょうか。先の4つ星ホテルと同じ造りです。

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メディチ家の礼拝堂と隣り合わせのサン・ロレンツォ教会は、メディチ家の菩提寺だそうです。手前の銅像の台座にもメディチ家の紋章が付いていました。サン・ロレンツォ教会のファサードは素朴な造りで、筋状にレンガを壁から飛び出させて、独特の風合いを出していました。

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フィレンチェの旧市街の道路は基本的に路地裏通りみたいに狭かったと記憶しています。このマルテッリ通りは旧市街では珍しく幅広の大通りで、歩行者専用の通りでした。通りの向こうに珍しい形の建物が見えてきました。

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八角形の屋根を持つ建物は洗礼堂、総大理石張りの豪華な建物でした。

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洗礼堂のある広場に出ると、ドゥオーモのファサードが現れました。総大理石張りの恐ろしく豪華な建物で洗礼堂と同じ仕様の外観、壁は緑の大理石で隈取りされていました。

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その奥にクーポラと呼ばれるドゥオーモの巨大なドームが現れました。クーポラを抜きにフィレンツェを語ることができないでしょう。


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ドゥオーモ広場の路地を2分も歩くと、予約した1つ星のホテルでした。アーチの付いた大きな茶色の扉が入り口でした。看板もない小さいホテルでしたが、立地の良さは文句なしでした。

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写真左がホテルの玄関、お隣は雑貨屋さん。大きな扉の脇にあるインターホンでホテルのスタッフに自分の名前を告げると、扉が解錠。中に入って外扉と内扉が付いた旧式のエレベータで3階に上がって、玄関のドアを開けるとホテルのフロントでした。
12時にチェックイン。受付スタッフから3つの鍵を渡されました。1階の建物の大きな扉の鍵、3階のホテルの玄関の鍵、自分の部屋の鍵の3つ。

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このホテルは、建物の3階部分の居室をホテルにしていました。そう言えば、ヴェローナのホテルも同じでした。つまり、リノベーションしたネイティブの住居と考えてもいいと思います。予約した部屋は路地側にあり、窓からクーポラが良く見えました。

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窓から見える向かい側の古めかしい建物は、生活感に溢れた古都フィレンチェらしい光景、なんか旅情が湧いてきました。建物の屋根に小さいひさしを付けるのがフィレンチェ流だと思います。

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古風な調度品を供えた部屋は清潔に整えられていました。このホテルもボローニャのホテルで経験した共同トイレ、バス方式。初めて経験する1つ星ホテルですが、リーズナブルな料金と街歩きに便利な立地を考えると満足度は高かったです。

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一休みして、13時30分から街歩きを始めました。
以下、次号・・・


# by camino0810 | 2018-08-08 22:23 | イタリア | Comments(0)