2010年11月24日(水) 大分 中津
2011年 12月 29日
東京駅9時30分発の新幹線に乗車。小倉駅に14時43分着、ここで日豊本線に乗り換えて中津駅へ・・・小倉駅のホームに降りると、何となく九州の匂いや気分を感じます。
日豊本線のホームで定番のかしわうどんを食べました。
特急ソニック号のデッキはこんな風・・・
15時13分、中津駅に到着。
北口に出て、駅前ロータリーの左側にある「日の出町」アーケードへ・・・
中津市は福沢諭吉の生誕地。福沢諭吉記念館には、一万円札の第2号が展示されています。第1号は、東京の日本橋にある日銀本店にあるらしいです。
アーケードの中間あたりの路地を右折すると、「宝来軒本店」があります。ここのトンコツラーメンは地元では旨いことで超有名。帰省した折には必ず食します。
福沢通りを挟んで向い側に、「壽屋」がありました。かって、九州一円に展開したデパートです。建物だけが残ってテナントも入っていません。1974年頃、完成した記憶があります。当時は、「日の出町」アーケードと「壽屋」は多くの人で賑わっていました。
地域の中核をなす地方都市の衰退と現在の日本の元気の無さは、完全にパラレル状態。このまま推移すると、生産年齢人口が益々減って、もっと深刻な状況に陥るでしょう・・・
山国川の方へ歩いて行きました。橋の上から観た河口の風景はこんな感じ・・・
河口の三角州に城を建てる理由は、多分、お堀を掘る必要がないため安くできること。当時は物資の主要輸送手段は舟運、陸地ぎりぎりに川や運河を設置できれば、城下町の発展に何かと便利だったのでしょう。
但し、軟弱地盤対策や、洪水の処理を上手にやる必要もあるし、干満の差が大きいため、潮位調節も必要でしょう。黒田如水は、色々な点を考慮して、この地にお城を築造したのでしょうか・・・
まずは、石垣の勾配に目が行きました。大阪城や姫路城などの石垣に比べて緩くなっていることに気付きます。これは、河口の柔らかい地盤上にあるため。多分、基礎石の下には、どっさり松杭が打ってあるでしょう。
まずは、主材料の石材の調達と運搬。石材の種類がよくわかりません。写真から判断すると、安山岩か角礫凝灰岩のように思えます。運搬距離が短い方が良いので、近場の石切り場から持ってきたと思われます。まあ、地産地消というところでしょうか。この岩石は、山国川の上流の耶馬溪地方に豊富にあります。多分、耶馬溪の石切り場から概ね1m程度の大きさに切り出して船積して、山国川を下って、運んできたのでしょう。
その前に、石垣設置個所の水替えをして、水を掻い出す。設置位置が、川の水位より低いので、風車型の排水ポンプで湧水を掻き出す。地ならしをした後、松杭を櫓に吊るした大型の鎚で打ち込む。あとは、下から石材を1段並べる。裏側に砂利を詰めて固める。これを繰り返して完成。
中津城の石垣は結構アバウトな積み方でした。石垣をよく見ると、補修した跡が・・天守閣の下の石垣は少し小振りで真新しい・・・
高さが50mの東大寺と違って、5層の木造の建物。1層あたり3mとして全高15m。普通の木造家屋が大きくなった程度。外周に足場を巡らせて、1層づつ仕上げる。柱、梁、壁材、屋根材はすべて人力で運搬が可能だと思われます。
お城の中はこんな風・・・奥平神社という小さい神社がありました。
「天は人の上に人をつくらず、人の下にひとをつくらず」という福沢の有名な言葉は、単に、西欧の啓蒙主義から出たものだけではなく、彼自身の幼少時代の不遇な体験に根ざしたもののように思えます。
その福沢の「独立自尊」の記念碑が近くにありました。
地元の中津市を結構真剣に見ることができた1日でした。
by camino0810 | 2011-12-29 19:14 | 大分 | Comments(0)