2018年3月11日(日)ドイツⅡ その77 エピローグ(11)ベルリン

⑦ベルリン:2017年5月3日(水)その4


・シュロス橋(Schlossbrücke)はシュプレー川の派川運河に架かる小さな3連のアーチ橋だった。親柱の上には白の立派な彫像が建っていた。


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・運河脇に仮設の締切りが出来ていた。U5線の「博物館の島」駅の開削が始まるようだった。


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・運河沿いの道を南にあるホテルに向いて歩いて行った。歩いている時は単なる運河ウォーキングだったが、後で調べると運河やこの周辺が、意外にもベルリンの歴史を理解する上で、キーとなる場所だった。

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(出展 Google)

・Googleの地図にシュロス橋の袂に「ベルリン王宮」と記載される空き地があった。調べてみると、それとは知らずに歩いた運河河畔はかつてベルリンのヘソだった。運河は、東京でいえば、この運河は江戸城の内堀にあたるお堀といえそうだ。


Wikipediaから

ベルリン王宮はベルリン王宮(ベルリンおうきゅう、Berliner Stadtschloss)は、かつてドイツの首都ベルリンの中心部にあった宮殿。1701年からはプロイセン王国国王の、1871年からはドイツ帝国皇帝の居城であった。1918年のドイツ革命で君主制が滅びて以来、王宮は博物館として利用されてきたが、1945年の英米軍の空襲で焼失し、その廃墟は1950年にドイツ民主共和国(東ドイツ)政府によって取り壊された。

・王宮は下の図のピンクに着色された建物だった。


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(出展 Wikipedia)


・1688年、日本の江戸の元禄期にあたる時代、ベルリン城は直径概ね2kmの稲妻型のお堀で囲まれていた。ベルリン城はこれまで観てきたハンブルク、ブレーメン、リューベックと似た稲妻型のお堀で防衛されていた。王宮はシュプレー川の左岸側のケルン地区にあった。右岸のベルリン地区にはアレキサンダープラッツがある。ウンターデンリンデンは当時はお城の外にあった。ケルンはライン河畔の大きな街だが、古代ローマから栄えた歴史のある大きな街だったのでこの名前を借りたのかもしれない。確たるエビデンスはないが、江戸期の江戸城に例えると、ケルン地区は本丸御殿、ベルリン地区は旗本や親藩の屋敷、ウンターデンリンデン地区は宗教関係者や商工業者の仕事場みたいな職能別の住み分けがあったのかもしれない。稲妻型のお堀は、『総構え』と呼ばれる東京の外濠と同じ役割をしていたようだ。東京の外濠は東京の市街地の発展に伴い飯田橋~四谷、赤坂の一部の濠を残して埋め立てられて、外濠通りに変わっている。ベルリンも同様の理由からと想像するが、現在は稲妻型のお堀も埋め立てられている。内堀に相当するシュプレー川の本川と派川だけが残った状態だ。当時、シュプレー川は上水供給、産業舟運路の役割を果たしていた感じだ。現在のシュプレー川はベルリンの貴重な水辺空間となっており、観光舟運の舞台となっていた。河川の持つ役割が時代の要請で変化した典型的な事例だとも考えられる。王宮の隣にあるベルリン大聖堂がこの地図に記載されていないのは、何か理由があるのだろうか。


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(出展 Wikipedia)

・19世紀の王宮の絵には、彫像付きの親柱を持ったシュロス橋が描かれていた。シュロス橋の幅員は実にゆったりしている。


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(出展 Wikipedia)


・1900年の写真を見ると、王宮前の運河には恐ろしく立派な門があった。恐らく、第2次大戦の爆撃で宮殿も門も破壊され、誕生した共産党政権は政治的な理由から瓦礫を撤去したまま、その再建をせず現代に至ったものと考えらる。それにしても、宮殿前の広場は広大だ。3台の馬車が通行している様子も撮影されていた。大きいこと、広いことはそれだけで価値が高いことを示す貴重な写真だと感じた。それにしても、門を運河の中に造った理由は一体何か?


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(出展 Wikipedia)

・運河脇に説明書きがあった。1897年にはこの門が出来ていたことが判る。

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・説明書きの1652年の絵図を見ると、ベルリン城の骨格が出来上がっていたことが判る。お堀の中が旧市街で、お堀の外は森。ケルン地区には広大な庭園が出来上がっていた。1688年の絵図ではベルリン城の整備が完成していたので、シュプレー川本川と派川を利用して外濠を造るなど、36年間でベルリン城の整備事業が完成したということになる。フランスのルイ14世が活躍した時代にベルリンも負けずに都市整備に頑張っていたようだ。江戸城の整備は1590年の徳川家康の関東への国替えから始まったと言われている。総構えの外濠の完成が1636年、46年の年月を掛けて江戸城は完成したことになる。


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・説明書きの1798年のベルリンの絵図によれば、ベルリンの総構えにあたる外濠の外側は市街地と田園地帯が半々だった事が判る。ただ、稲妻型のお堀は埋め立てたてられていた。ベルリン都心への人口集中が始まったようだ。ウンターデンリンデンの南側には綺麗に区画された街路が出来上がっていた。ベルリンの外濠は直径が概ね2km、東京の外濠の直径は概ね4km、しかも、同時期の江戸期の東京は外濠を大きく超えて市街地が展開していた。江戸は巨大な都市だったといえる。

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・運河は本川が30m、両サイドの道路が10m、合計で50mのオープンスペースだった。運河沿いに道路があるので建物は運河を向いていた。写真左側がかつて王宮のあったケルン地区だった。水位調整用の自在堰?があった。堰の右岸の小さな構造物は魚道か閘門かもしれない。


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・かつてはベルリンの花形だったであろう運河は、現在は静かで地味な印象だった。「栄枯盛衰世の流れ」という諺を想い出した。物資の運搬手段が舟運、鉄道、道路と変遷した結果だと感じた。


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・ユングフェルン橋はメカニカルな跳ね橋だった。手動の巻き上げ機が付いていた。シュピテルマルクト駅の壁に昔の写真が貼ってあった。かつては産業舟運用に活躍した橋だったようだ。


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・説明書きに1909年当時のこの橋の写真があった。貨物船がこの橋の下を通過していた。この運河が運輸インフラとして活躍していた様子が判る。1912年に大衆車フォードT型が発売された。物資運搬の主役だった船や馬車から鉄道に替わる直前だろうか。


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・運河水面と道路面の高低差は3m弱、しっかり転落防止策が取り付けてあった。植樹がないためか、かなり無機質な眺めだったが、東京の神田川や日本橋川と違って建物自体は運河を向いていた。


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・シュピテルマルクト駅付近の運河はさっきの無機質感が薄らぎ、有機質な豊かさや賑わいも感じられるようになってきた。


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・運河ウォーキングのゴール、グリューンシュトラーセン橋が見えてきた。


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・グリューンシュトラーセン橋は、重厚な石造りのアーチ橋だった。

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・グリューンシュトラーセン橋の上から運河を眺めてみた。道路脇に植栽があるため親しみを感じる運河に変わっていた。やはり、水辺に木は必須アイテムだと感じた。両岸のコンクリート製の直壁護岸にはもう一工夫あってもいいかなと思った。ハノーファーの都市内の水辺は水辺のアクセスが良かった。部分的に階段式護岸を入れて、水辺のアクセスを確保するともっと良くなるだろうと感じた。


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・この日にフェイスブックにアップした記事・・・

5月3日(水)ベルリンは晴れ、温暖。
ICE845号は定刻12時09分にベルリン中央駅に到着した。ピカピカの駅舎の巨大さに度肝を抜かれた。ハンブルク、ケルンやフランクフルトはホーム階は当たり前に1階だった。ところがこの駅のホーム階は上下に3層分くらいはあった。ワントップのドーム屋根で全面ガラス張りだった。
DBのインフォでホテルの最寄り駅への行き方を教えてもらい、Sバーン(都市近郊鉄道)、Uバーン(地下鉄)と乗り継いでホテルの近くの地下鉄駅まで来た。
チェックインを済ませて14時30分から街歩きを開始した。Uバーンのポツダム駅で下車してミッテ地区を歩いた。ベルリンの壁は高さ4mのプレキャストのRC擁壁だった。ブランデンブルク門の前は大賑わいだった。連邦議事堂は巨大かつ風格に溢れた建物だった。シュプレー川は観光ボートが沢山運航していた。水辺のデサインは興味深いし、なにより観光舟運が盛んなのに驚かされた。ウンター・デン・リンデンの大通りには歴史的建造物が沢山建っていた。運河を南に歩いて18時にホテルに戻った。疲れがピークに達した。
明日のお昼過ぎにベルリン国際空港からワルシャワに飛ぶ。空港に上手くたどり着けるか心配だ。


・5月4日(木)、ベルリンからポーランドのワルシャワに向かった。テーゲル国際空港はベルリン市街地から近い場所にあった。地下鉄U2と路線バスの乗継ルートで、都心から1時間、2.8ユーロ(350円)のアクセスは、時間も値段も文句なしだった。


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(出展 Google)

・エルンスト・ロイター・プラッツ駅で下車して、路線バスを待った。


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・エルンスト・ロイター・プラッツ駅はベルリンの中心ミッテ地区にあるウンターデンリデン通りを西に4km行ったリング広場だった。パリの凱旋門みたいな広場で、ここから放射状に道路が伸びていた。ベルリン郊外のハブ駅といったところでだろうか。

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・路線バスから見たベルリン郊外の様子。


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・高速道路は日本と似たような感じだった。

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・テーゲル国際空港は意外にも地味目な空港なので少し驚いた。

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・テーゲル国際空港は、約3kmの主滑走路と2.5km補助滑走路2本の国際空港だった。意外にも小振りな国際空港でした。超過密スケジュールをこなすドイツ人の高い管制能力を感じた。


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(出展 Google)


・構内は一見すると、カラフルでお洒落だが、よく見ると屋根はデッキプレートを並べただけ、配管類はむき出しといった具合で、意外にも安普請な空港だった。これまで利用してきた羽田国際空港、上海プードン空港、フランクフルト国際空港のピカピカで豪華な空港との差異を感じた。

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・ほぼ5分間隔で国内便、国際便が出航する過密な時刻表だった。13時05分にはザールブリュッケン、カールスルーエ、クラクフ、プラハ、ウィーン行きの飛行機が同時刻に出航すると恐ろしく忙しい空港だった。流石にドイツを代表する国際ハブ空港だった。

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・出国審査はなく、10分程度の簡単な手荷物検査で搭乗ロビーに行くことができた。やはり、シェンゲン条約の加盟国間の移動なので出国審査はないということだった。この条約は加盟国間の人、モノが自由に移動できる取極め、国境を低くすることのメリットを感じた。この記事を書いている現在、EUとイギリスの離脱交渉が盛んに行なわれている。個人的には、何故イギリスがEU離脱を決断したのか、少し疑問を感じるが・・・。

空港の搭乗ロビーでにフェイスブックアップした記事・・・

5月4日(木)ベルリンは雨、温暖。
ホテルを9時半にチェックアウトした。ホテルのスタッフの指示どおりに地下鉄とバスを利用したら10時半と順調にベルリン国際空港に着いた。都心から1時間、2.8ユーロとはアクセスも値段も文句なしだ。
それにしてもテ-ゲル空港は随分と地味な空港だ。利用するターミナルCは倉庫を改造したような感じの鉄骨造りで天井がデッキプレ-トでできている。
13時10分発エアベルリン8214便はワルシャワに14時30分に着く。チェックイン、手荷物検査を終えて搭乗ロビーでこの記事を書いている。
シェンゲン条約の加盟国間の移動なので出国審査はないという事だろうか。国境がないのは旅行に限らず経済でのメリットも大きいだろう。ドイツのテレビでもフランス大統領選が毎日放送されていた。
チェックインの時、男性スタッフが40Lのバックパックには別途料金が発生するという。チケットカウンターで60ユーロを支払ってチェックインした。こんな事態は初めての事だ。
エアベルリン、高過ぎないかい?

・ワルシャワ行きの飛行機はなんとプロペラ機だった。意外にもプロペラ機は未だに活躍していた。機体自体の安さに加えて燃料代や整備費が節約できるメリットがあるのかもしれない。

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以下、次号・・・

by camino0810 | 2018-03-11 17:35 | ドイツⅡ | Comments(0)  

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