2018年3月17日(土)ドイツⅡ その80 エピローグ(14)ワルシャワ

ワルシャワ:2017年5月5日(金)その3


・9時20分、ワルシャワの旧市街に着いた。1980年、世界文化遺産に登録されたワルシャワの観光の中心地区だった。広々とした気持ちいい王宮前広場に伝統的な4階建てのパステルカラーの建物がスカイラインを揃えていた。

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・王宮の表側はクリーム色だったが、広場に面した王宮の裏側は赤い壁と赤い屋根で出来ていた。


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・ワルシャワはポーランドの首都で人口170万の大都市。元々はヴィスワ川沿いの小さな漁村だったそうだ。14世紀以降商業と工業の発展が盛んになり、1596年ジグムント3世がクラクフからワルシャワに首都を遷都した。ほぼ同時期、日本が1603年に徳川家康が京都から江戸へ実質的な首都移転をしたのとなんか似ている。クラクフは第2次大戦で焼失を免れた歴史のある古都であり、京都と全く同じ。つまり、東京とワルシャワは似た関係にあると言えそうだ。王宮より北側の「旧市街」は遷都以前の街、王宮より南側の「新市街」は遷都以降に出来上がった街だという。周辺には大きな庭園やたらと多い地域だった。ここでもポーランドの土地の広さを感じた。「旧市街」、「新市街」とも第2次世界大戦で破壊されたが、戦後、見事に復元され、今ではワルシャワ観光の目玉になっている。

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(出展 Google)

ワルシャワの語源・・・Wikipediaから


ワルシャワの起源に関する伝説[編集]
ワルシャワの起源に関する伝説[3]。 昔々、ヴィスワ川のほとりに小さな家があった。そこにはワルスとサワが住んでいた。ワルスは漁師であって、サワはワルスの妻である。あるとき、この近隣の地域を支配していたジェモメスゥ公(シェモメスゥ公とも)が狩に出かけた。獲物を追っているうちに、家来たちから離れ、森の中で迷ってしまった。夕暮れちかくになっても帰り道が見つからず、そのうちにヴィスワ川のほとりに行き着き、ワルスとサワの住む家を見つけた。夜に森を一人で歩くのは危険であるので、公はワルスとサワの家のドアをたたき、泊めてもらえるように頼んだ。ワルスとサワは見知らぬ客人を暖かく迎え、食事とベッドを用意した。このもてなしに公は大変感謝した。翌朝、公は、貧しい漁師夫婦に礼を言い、つづけて「見知らぬ人物を嫌がりもせず家に招きいれ、空腹、寒さ、野獣から救ってくれた。あなた方の親切がいつまでも忘れられることのないように、この地は今後いつまでもワルスの(ワルショヴァ Warszowa)土地である」

・事前の情報入手不足でこの王宮前広場が旧市街の核心部と勘違いし、そのまま新市街に向かった。実は、王宮前広場の北側に正真正銘の旧市街地の広場があった。Googleの地図を見ると、4階建てのパステルカラーの建物群が綺麗に軒を揃えていた。


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(出展 Google)


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(出展 Wikipedia)

・ワルシャワ城はリング状の城壁に囲まれた長径0.6km、短径0.2kmの随分と小振りなお城だった。ワルシャワ遷都以前は街自体が小さかったからだろう。リューベックの城壁が縦2km、横1kmなので随分と小さいお城といえる。旧市街の構造は、大聖堂の隣に広場があり、ドイツと同じパターンだった。小振りなお城がそのまま残った理由は、クラクフからの遷都後、政権が安定化し、外敵から身を守る城壁自体の必要性が低下したのではないかと想像する。城壁は街の発展から見れば支障物でしかないので、北側はそのままにして、経済発展、人口増加とともに南側の新市街地が発展したのではないかと考えてみた。


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(出展 Google)

・旧市街の城壁は空堀と2重の城壁で構成されていた。

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(出展 Google)

・ワルシャワ城を見て、1999年に行った南フランスのカルカソンヌ城を想い出した。このお城は、中世の気分を色濃く残した有名なお城で世界遺産にも登録されている。カルカソンヌ城はワルシャワ城と同じ空堀と二重城壁を持ち、ガロンヌ河畔の小高い丘に建っていた。川からお堀に揚水するのは大変なので空堀にするしかない。このパターンが中世の城の防衛の考え方かもしれない。

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(出展 Google)

・ワルシャワは遷都後、ヴィスワ川の河畔から徐々に内陸に向けて発展していったようだ。1656年の絵画にはヴィスワ川には沢山の帆船が航行していた。左岸の高台には王宮以外にも高楼を持つ重厚な建物が並んでいた。この絵が描かれた時期は、日本では大火事のあった江戸時代の明暦期にあたるが、ワルシャワの街は既に風格に溢れた立派な街に仕上がっていたことが判る。

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(出展 Wikipedia)

・1770年の絵画には王宮の隣に大聖堂らしき巨大な三角屋根の建物も出来上がっていた。ヴィスワ川の舟運の盛んな様子も窺える。現在のヴィスワ川の産業舟運、観光舟運はやや衰退しているように感じた。運輸手段が舟運、鉄道、道路にシフトした影響だろうか、ドイツのベルリン都心にあるベルリン城跡地の周辺と似た状況だった。


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(出展 Wikipedia)

・「地球の歩き方」は海外旅行において自分のバイブルであり、マストアイテムの一つだ。同書からポーランドの歴史年表から抜粋すると、どうもこの絵が描かれた1770年あたりがポーランドの絶頂期であり、これ以降ポーランドの受難の歴史が始まっていた。同時期の江戸期、日本は海に守られたある意味極めて平和な国であり、他国の侵入を許した経験がない。日本は、地続きの国々の興亡の悲哀を経験しなかった幸福な国かもしれない。

1772年:18世紀に入り大北方戦争勃発、1733年には国内で王位継承戦争が起こるなど、戦争によって国は衰退の一途たどる。そして、ロシア、プロシア、オーストリアによる第1次ポーランド分割が行われる。
1795年:1793年には第2次ポーランド分割、そして1795年の第3次ポーランド分割によりポーランド王国は消滅する。

以降、ポーランドは独立蜂起を繰り返したが、そのたび、大国ロシア、ソ連に押し潰された辛い受難の時代が続いたようだ。1989年、ベルリンの壁の崩壊に呼応して「連帯」のワレサ大統領による自由主義体制が成立、2004年EUに加盟して現在に至った。ワレサ大統領を顕彰してグダンスクの空港は「グダンスク・レフ・ワレサ空港」と名前が付けられていた。

・新市街を南に向けて歩いた。通路というよりも広場に近い道路は優に50m以上もあり、歩いていて実に快適だった。日本の皇居前の広場と同様、一定以上の広さやスケール感があると人はそれだけで「有り難味」を感じるものだ。この通りも完全に車を排除してあった。これまで歩いてきた欧州の街に共通したやり方だった。


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・写真左の大きな建物は「カトリック教会」という名称の教会だった。パルテノン風のファサードを持つ珍しい教会だった。

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・来た道を振り返ると、首都ワルシャワを造ったジグムント3世のオベリスクと緑屋根の聖ヨハネ大聖堂が見えた。

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・スカイラインを揃えた建物が見事に並んでいた。

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・クラクフ郊外通りを南に歩いて行くと、建物の壁の色が赤系から白系に変化して行った。

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・鮮やかな花が供えてあった。

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・もう一つの「カトリック教会」のファサードも教会とは思えないほど豪華だった。

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・街灯、高欄は実に凝っていて繊細にして豪華・・・。

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・大統領官邸・・・。

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・大統領官邸まで来ると車道が通っていた。車道と歩道の段差を無くしてユニバーサルデザインとし、境をぼやかして歩車道の連続性を高めていた。

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・中国のお金持ちの観光団と出会った。中国パワーはポーランドでも健在のようだ。

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・ホテルブリストルは実に豪奢なホテルだった。多分、5つ星だろう。一度でいいからこんなホテルに宿泊してみたいものだ。


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・3つ目の「カトリック教会」、このファサードなら教会でしょう・・・。

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・ワルシャワ大学は一等地にあった。ベルリンのウンターデンリンデンにあるフンボルト大学と同様、歴史のある名門大学のようだ。

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・ポーランド語は全く不明だが、日本文化や日本文学への憧れもあるようだ。

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・聖十字架教会にはショパンの心臓が埋葬されているそうだ。欧州には、人の最も大事な部位は頭ではなく、心臓という考え方が根強く残っていると聞いたことがある。ウィーンの大聖堂には歴代国王の心臓が保存されているという。この教会は上空から見ると確かに十字架の形をしてはいたが、ファサードは西向きではなく東を向いていた。旧市街の聖ヨハネ大聖堂の形も自分が見てきた大聖堂の基本ルールとは無関係ようだった。


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・コペルニクスの像のある広場まで来た。恥ずかしながらコペルニクスがそもそもポーランド人とは知らなかった。語感からイタリア人だとずっと思っていた。彼は、天文学者、知事、長官、法学者、占星術師、医者、司祭を務めた実に多才な天才だったようだ。

以下、Wikipedia
ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Pl-Mikołaj Kopernik.ogg Mikołaj Kopernik[ヘルプ/ファイル]、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。また経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。
コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。


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・当日にフェイスブックにアップした記事・・・

5月5日(金)ワルシャワは曇り後晴れ、適温。
朝7時に起きて街歩きを開始した。
ターゲットは川と旧市街、最初に市街地の東にあるヴィスワ川河畔まで歩いた。川幅が500m位はある大河川だったが、観光舟運や産業舟運での利用はほとんど感じられなかった。
河畔を歩いて北側の旧市街を目指した。大通りを越えると宮殿風の建物が見えてきた。高台に旧市街の観光スポットが展開していた。観光バスが次々とやってくる。ワルシャワ観光のホットスポットと言っていいくらい建物も街路も綺麗にしていた。格式のある建物がスカイラインを揃えていた。クラクフ郊外通りという名前が付いている。ワルシャワ大学もあった。
(以下省略)

・クラクフ郊外通りから聖十字架通りに入って、ワルシャワ中央駅を目指した。

以下、次号・・・



by camino0810 | 2018-03-17 03:58 | ドイツⅡ | Comments(0)  

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