2018年3月26日(月)ドイツⅡ その87 エピローグ(21)グダンスク

⑨グダンスク:2017年5月7日(日)その2


・グダンスクの街中にはモトワヴァ運河が流れていた。モトワヴァ運河はモトワヴァ川に繋がっている。モトワヴァ川は、地図にモトワヴァ・ヴィスワ川と記載されていることからも、かつてヴィスワ本川だった。ヴィスワ川はポーランド最大の河川、河口でグダンスクの街を流れていると考えることもできる。新潟市の信濃川となんとなく似ている感じだ。

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(出展 Google)

・自称川屋にはグダンスクの川や運河が何故か気になった。グダンスクは、ヴィスワ川の河口、ワルシャワは中流、クラクフは上流にある。今回の旅行でたまたま選択したポーランドの3都市は、意外にもヴィスワ川繋がりだった。ヴィスワ川はバルト海に注ぐ東欧の大河だが、河口のグダンスク周囲には独特の地形が形成されていた。地図右側にはヴィスワ川が運んだ土砂が砂州となって堆積し、内側に巨大な潟湖が出来上がっていた。干拓すれば大きな農耕地もできそうだが、ポーランドはオランダと違って土地がタップリありそうなのでその必要もなかったようだ。それにしても、この砂州のRの真円度の高さにも驚かされる。自然の営力の凄さを感じる。

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(出展 Google)

・中世の地図を見ると、ヴィスワ川は、河口手前で左側のグダンスクと右側の潟湖に分派していた。グダンスクはヴィスワ川が作った低平地にあって、バルト海に沿って形成された砂州のため洪水が抜けにくい地形になっていた感じだ。そのためか、常襲的に洪水被害に悩まされていたという。

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・調べると、グダンスク市街地の東側に放水路らしき水路が2本開削されていた。中世の地図には記載がないので放水路と考えて間違いなさそうだ。1840年に第一次ヴィスワ川放水路、1895年に第二次ヴィスワ放水路が開削されていた。第一次の放水路だけでは洪水流を吐き切らなかったようだ。潟湖にはヴィスワ川の派川Nogat川も流入していた。

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(出展 Wikipedia)

・この状況を見て新潟市を思い起こした。新潟市を流れる信濃川には、河口から約40km上流の大河津に放水路(分水路)があり、市内には関屋分水路がある。新潟市自体は信濃川が運んで来た土砂が堆積した場所に立地した、日本海側を代表する大きな都市だ。信濃川は海岸砂丘の陸地側に流れているので洪水が抜けにくい。新潟平野の人たちは、大河津分水路(1922年完成)が完成する前には信濃川の度重なる氾濫に悩まされていた。分水路の完成で市内の信濃川には洪水が流れなくなったため、市内では川幅を3分の1程度に縮小でき、洪水の被害もなくなった。グダンスクは日本でいえば新潟に似た都市ではないかと思った。グダンスクは、ヴィスワ川の河口に立地した2本の放水路を持つ港湾都市、新潟市は信濃川の河口に立地、同じく2本の放水路を持つ港湾都市という訳だ。ちなみにクラクフで見たグルンヴァルドの戦勝碑は、ヴィスワ川の河口付近の戦いだった。

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・グダンスクは、中世からハンザ同盟都市として繁栄してきた港町だった。稲妻型運河はハンザ同盟都市に共通した防衛インフラで、ブレーメン、ハンブルク、リューベックでも同じものがあった。17世紀のグダンスクの絵図面には旧市街西側にも稲妻型運河が描かれていた。現在、西側の運河は駅前の幹線道路や鉄道に変わっている。市街地の進展に伴い、役割を終えた運河が埋め立てられたケースもあった。グダンスクでは東側の稲妻型運河は歴史文化遺産として保存されているようだ。


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(出展 Google)

・ポーランドの歴史は、11世紀中頃から1600年頃までは首都のあったクラクフ、それ以降現在までは首都ワルシャワの2つの大都市を中心に展開されてきたように思う。グダンスクは中世から自治都市、ハンザ同盟の貿易都市として、独自の発展をしてきた都市国家みたいな街のように思える。自治権を持つとともに、納税や兵役などの義務を免除された「政治・経済特区」だったのではないか。調べると、グダンスクはドイツ騎士団との確執や何度か他国の支配を受けるなど複雑な歴史があった。

(グダンスク出身のKさんから戴いた資料などを編集)

・980年ごろポーランドのミェシュコ1世がグダンスクに砦を建設。
・1235年、グダンスク自治権を得る。1224年、リューベックと似た都市法を確立した。(リューベックは1226年、都市基本法を制定)
・1308年、グダンスクは、ドイツ騎士団により管理され、植民地化される。ドイツ騎士団との確執が始まるも経済成長。
・1361年、グダンスク、ハンザ同盟に加盟。輸出品は、穀物(特に小麦)、木材、炭酸カリウム、タールをヴィスワ川の舟運網を利用。
・1410年、ポーランド王国、グルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団に勝利。グダンスク市民はドイツ騎士団支配を嫌っており、ポーランド側に加盟。
・1457年、ポーランド王とともに13年戦争でドイツ騎士団に勝利、ポーランド王からポーランド王国の自治都市としての特権を得る。ポーランド国内の市場参加も認められる。
・ ポーランド王国の直接の庇護を得た16世紀と17世紀は、グダンスクの貿易と文化にとって「黄金時代」。

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(出展 Wikipedia)

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(出展 Wikipedia)

・多民族の住民が混住することにより、街は繁栄を極める。カトリック教徒との深刻な対立はみられなかった。ポーランド王国には一貫して民族・人種・宗派・宗教の違いを受け入れる寛容な風土があったからである。
・1734年、グダンスク攻囲戦ではロシアに占領される。1793年、第2次ポーランド分割により、グダンスクはプロイセン王国に併合され、公式名称も「ダンツィヒ」に変更。ダンツィヒでは住民のドイツ文化への同化政策が徹底的に行われ、住民の多くはドイツ人(バルト・ドイツ人)となっていった。

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(出展 Wikipedia)

・第一次世界大戦後はヴェルサイユ条約によりドイツ領から切り離され、どの国にも属さない国際連盟保護下の「自由都市ダンツィヒ」となる。堤防が破損し、氾濫が頻発する。
・1939年、ポーランド侵攻に際して、グダンスクはドイツに占領される。グダンスクはドイツ軍と連合国軍との激しい戦闘により大半が破壊された。
・1952年、ポーランドが独立を回復すると、もとの「グダンスク」を公式名称としてポーランド領に編入。159年ぶりにポーランド領へ復帰。旧市街など、戦争で廃墟となっていた市街地は、残された資料をもとにポーランド人の手によって完全に復元される。
・1990年、「連帯」指導者だったレフ・ワレサがポーランド大統領。現在のグダンスクはポーランド最大の観光地の一つで、内外の多くの観光客でにぎわい、また主要貿易港の一つでもある。ポーランド北部の文化の中心地でもあり、ポーランド市民が精密に復元したグダンスク旧市街はその文化的価値が認められ、そう遠くないうちに世界遺産として正式登録される見込みである。

・以上、長々とグダンスクの治水や歴史・文化に触れてきた。本末転倒な話しだが、実際はこのような知識はほとんど持たずにグダンスクの街を歩いた。予備知識なしでも素晴らしい街並みや水辺を楽しむことができたのは、詰まる所、グダンスク自体の観光的価値が非常に高かったということになる。今から思うと、一定の予備知識があった方がより楽しみや理解が深まったのではないかと反省している。

・ドゥーギ広場の出口にある「緑の門」を潜り抜けてモトワヴァ運河に出た。


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以下、次号・・・

by camino0810 | 2018-03-26 16:06 | ドイツⅡ | Comments(0)  

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