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2018年4月29日(日)イタリア その25 フィレンツェ(6)

今日でイタリアに入って4日目になりました。12時38分発のフレッチャロッサ(赤い矢)でローマに向かいます。午前中の時間を使って、フィレンチェの見残した街を歩きました。
このホテルは朝食が付いていなかったので、前日コンビニのスパーで買ったもので朝食を済ませました。スパー(SPAR)は欧州のあちこちに展開しているコンビニ。日本のコンビニ以上の品揃えがあり、しかもリーズナブル、旅行者にも優しいコンビニです。
7時40分、30Lのデイパックを携行してにホテルを出発しました。10時にホテルに戻ってチェックアウトします。このホテルは、アパートの居室を改造していました。アパートのエレベーターは旧式で、外扉と内扉の2段構え、ガシャン、ガシャンと大きな音を立てます。イタリアの旧式なアパートではごく普通な感じで、ボローニャのホテルのエレベーターも似たような旧式でした。

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サンタクローチェ教会に向かう途中、ラーメン屋さんを見つけました。朝が早いので閉店していました。

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メーンメニューは醤油ラーメンと味噌ラーメン。サブメニューは、豚の角煮、餃子、唐揚げ、南蛮漬け、枝豆といった具合に日本の食を代表するお料理がオンパレードでした。醤油ラーメンは並み11ユーロ(1400円)、大盛13ユーロ(1700円)、国内の2倍のお値段でした。

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サンタクローチェ教会まで来ました。オレンジの清掃員が道路の清掃をしていました。

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前日は土曜日、この広場は夜も大賑わいだったようです。宴の後の空いた酒瓶、コップ、吸い殻などが広場に散乱していました。このような清掃員のお蔭で気持ちの良い環境が整えられていました。ミラノやハンガリーのブダペストでも同じような光景を目にしました。日本ではゴミの収集まで、ゴミの片付けまではしてくれません。ご当地にお金とゴミを落とす観光客とそれを綺麗に片付ける清掃員の人たち、ある意味、上手く回っているなと感じました。

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サンタクローチェ教会のファサードは、ドゥオーモや洗礼堂と同じ建築様式で、シンプルな総大理石貼りでした。

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サンタクローチェ教会は1442年に完成、幅40m長さ140mの教会で、ミケランジェロ、マキャベリ、ロッシーニ、ガリレイの墓があるとか。

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ファサードから見た教会前の広場、清掃車も頑張っていました。広場は概ね幅50m、長さ100mの広さでした。

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ブラシ式の道路清掃車も頑張っていました。広場に赤紫のテントが用意されていることからも、今日もイベントがあるようです。

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土木工事・・・。

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サンタクローチェ広場に来た目的は、実はこの広場の一隅にある「標識」を観ることでした。「標識」は、正面の建物の縦長のアーチの玄関の脇にありました。

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お目当ての標識は、広場北西の隅に建つ、3階建ての建物の1階部分の壁にありました。

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2つの水位表示板の高い方は、1966年11月4日に記録された洪水の水位標で、路面から4.5mの位置に設置されていました。

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低い方は、1557年9月13日の洪水の水位標で、路面から4,0m。

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アルノ川は中世から暴れ川だったようです。掘り込み河川のアルノ川の普段の水位は路面から8m位下にありました。1966年の洪水で水位が概ね12m位上昇したことになります。
北イタリアの諸都市は日本並みに洪水の脅威に曝されているようでした。日本の川に似て、イタリアの川は流域面積が小さくて、勾配の急な河川だからでしょうか。昨日見たアルノ川河畔のパラペットは洪水防御施設を兼用しているのかもしれません。ドイツの主要河川エルベ川と比べると、アルノ川は日本の河川に近いなと思います。Googleの地図でアルノ川の沿川をざっと見ましたが、沿川にはエルベ川やライン川のあちこちで見られた河川港が見当たりませんでした。アルノ川は、産業舟運に必要な安定した流量、水深が得られにくい川なのかもしれません。

・アルノ川 延長241 km  平均流量110 m³/s 流域面積8,228 km²
・利根川  延長322 km  平均流量290 m³/s  流域面積16,840 km²
・エルベ川 延長1,091 km 平均流量711 m³/s 流域面積148,268 km²


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今から2年半前、2016年3月21日に放映されたBS-TBSで放映された「中井貴一 ヨーロッパ大紀行 天才ダ・ヴィンチからの挑戦状」は見応えのある番組でした。
最初、ダ・ヴィンチ(1452~1519)のモナリザは誰だったのかという『モデル探し』の旅が、段々とダ・ヴィンチの自然観や人生観、特に、水への思いを追い求める旅に変化して行きました。
モナリザの左肩の脇に描かれた、蛇行した川はアルノ川だそうです。よく見ると、アルノ川にアーチの石橋が描かれています。

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この橋は何処にあるのか?
13世紀に完成したブリアーノ橋(Ponte Buriano)はフィレンツェから上流60kmのアルノ川に架かる橋でした。中井さんはわざわざこの橋の現場に行って、モナリザの橋と実際の橋を見比べて、似た橋だと語っていました。

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ダ・ヴィンチが21歳の時に描いた「風景素描」は、自分には水墨画の世界に思えました。そもそも、中世の絵画は、肖像画がメーン。写真のない時代なので、写真代わりの肖像画がメーンなのは当たり前の話しかもしれません。
ダ・ヴィンチの研究者はこの絵を世界で初めての風景画と言っていました。東洋人の自分からは、相当違和感のあるコメントでした。ダ・ヴィンチの時代以前から存在していた水墨画は、風景画そのもの。東洋人と西洋人の世界観や自然観の違いがあるのかもしれません。

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中井さんは、サンタクローチェ広場で例の水位標を見て驚いていました。彼の身長は180cm、1557年の洪水の水位は、路面から4.0mくらいはあるでしょう。

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「最後の審判」のオファーを勝ち取ったライバルのミケランジェロはバチカンのシスティーナ礼拝堂に有名な「最後の審判」を残しました。破れたダ・ヴィンチは「最後の審判」のデッサンを残していました。デッサンには荒ぶる水が描かれていました。ダ・ヴィンチは巨大な洪水で「最後の審判」が行われると考えていたようです。

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彼はフィレンツェ下流のアルノ川沿いのヴィンチ村の出身、庶子扱いだったので14歳でフィレンツェに丁稚奉公に出た苦労人だったようです。この天才は北部イタリアの河川の治水、利水にもその才能を発揮したようでした。ミラノの運河や閘門の設計も手掛けるなど水インフラにも深く関与した、優れた土木技術者でもありました。

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ダヴィンチにとって、生涯『水』が最大の関心事だったようです。幼少時代からアルノ川に親しんでいて、水を恵みと恐ろしさの両方を良く承知していたためかもしれません。

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ダ・ヴィンチは、アルノ川の治水計画と利水計画にもその天才を発揮していました。蛇行するアルノ川とは別に直線的で巨大な放水路の開削構想を考えていました。東京で言うと、隅田川と荒川放水路の関係と似ています。舟運路の旧アルノ川、洪水処理の新アルノ川という壮大な構想だったようです。

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ダ・ヴィンチが設計した、ミラノのナヴィリオ・グランデ運河が紹介されました。彼は、旧市街の中心部を流れるマルテサーナ運河の設計も手掛けていました。

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(ミラノのナヴィリオ・グランデ運河)

この記事を書いている約2ヶ月前、7月の初旬に西日本豪雨が発生し、200人を超える人が犠牲になりました。去年の7月には九州北部豪雨が発生し、40人を超える人が犠牲になりました。これまでの経験をはるかに超える豪雨が原因でした。これまで、日本は堤防、調節地やダムなどの防災インフラの整備を営々と重ねてきましたが、この数年、計画をはるかに超える雨が毎年のように降るようになったなと感じます。ダ・ヴィンチだったら、どのようにアクションするでしょうか。

2年半前、フェイスブックにアップした記事・・・・

3月21日(月)、埼玉は晴れ、温暖。
3連休も自宅に3日目となると流石に飽き飽きしてきた。
BS-TBSで放映された「中井貴一 ヨーロッパ大紀行 天才ダ・ヴィンチからの挑戦状」は見応えのある番組だった。
モナ・リザは誰だったのかという答え探しの旅が、途中からダ・ヴィンチの世界観の核心となっていた「水」とは一体何だったのかという答え探しに変化していった。
MCの中井さんは寡作の彼の代表作である「モナ・リザ」や「受胎告知」を観る度に、その背景に描かれた風景についつい眼が行ったと何度も言っていた。
レオナルド・ダ・ヴィンチの自然観の中心にあったのは、「水」だったと結論付られていた。モナ・リザの左肩に小さく描かれていたアーチ橋は、彼の故郷アルノ川に当時からあった橋だという。
彼は、ヴィンチ村の公証人と使用人との間に生まれた私生児だった。彼の恐るべき知識と想像力は一体何処から来たのか?その謎への解答はなかった。14歳でアルノ川の上流の街フィレンチェに働きに出た。多分、奉公人といった身分だったのだろう。
21歳で描いた「風景素描」は、不思議と水墨画の気分と似ていた。渓谷から街に流れ下る川のデッサンだった。
ダ・ヴィンチは水の怖さと恵みをよく承知していた。当時からアルノ川は暴れ川だったようだ。1557年、洪水がフィレンチェの街を襲っている。路面から4mの高さに水位標が残されていた。
この天才はフィレンチェの治水・利水計画も考案していた。
蛇行して洪水を起こすアルノ川の放水路を計画している。郊外にバイパスを開削して、本川を運河とする計画だ。フィレンチェの街から洪水を排除して船着き場を造って舟運での発展を考えていたようだ。
彼が果たして水理学や水工学を何処まで極めていたのか・・・川屋には実に興味深い。
バチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画はライバル、ミケランジェロの「最後の審判」だが、ダ・ヴィンチにもオファーがあったらしい。彼は暴れる川のデッサンを何枚も残している。「最後の審判」は「水」による裁きで行われると考えていたようだ。
2004年のスマトラ島沖津波災害、2011年の津波大震災や2015年の鬼怒川水害も「水」だ。
確かに「水」は怖い。唯、その一方で水の恩恵を享受している事も忘れてはいけない。水と共存する社会はいつの時代でも大事だったし、今後も変わらないだろう。
晩年の3年はフランス王フランソア1世のオファーを受けて、ロワール川中流のアンボアーズで過ごした。アンボアーズ城から見たロワール川も秀逸だ。
1519年、この地で67歳の生涯を閉じたとの事だった。2013年5月、ダ・ヴィンチの墓にお詣りした事を想い出した。


サンタクローチェ広場を後にして、アルノ河畔に出て、フィレンツェのリング(城壁跡)を歩きました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-08-29 17:10 | イタリア | Comments(0)  

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