2018年4月29日(日)イタリア その29 ローマ(3)

ホテルに15時にチェックイン、荷物を降ろして一休みして16時からローマの街歩き開始しました。
ローマの日暮れは20時、街歩きに充てられる時間は4時間程度。ボローニャ程度の中規模の都市なら4時間もあれば核心部を歩けますが、ローマは、街の核ともいうべき広場自体を沢山有する多極分散型の巨大観光都市でした。結局、この日は、ホテルの東側の教会と大聖堂、コロッセオ、テヴェレ川を歩くことにしました。

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(出展 Google)

チェックインの時、ローマでも利用税(市税)をフロントで支払いました。2泊分で8ユーロ(1040円)でした。この市税は、イタリア全土のホテルに適用されているようです。今回の支払った利用税は、全部で11泊、平均2ユーロ(260円)とすると約3000円。超ザックリな試算ですが、ホテル利用税を仮に人頭税、ホテル利用率を30%とすると、5800万(イタリアの2017年の統計値)✕30%✕3000円/人=520億/年の市税が落ちる計算です。

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最初にメルラーナ通りの始点にあるサンタ・マリーア・マッジョーレ教会を目指しました。ホテル周囲の住宅街の通りは例の横目地の建物がずらりと並んでいました。

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メルラーナ通りに出て、少しローマテルミニ駅方面に歩くと、広場に行きつきました。サンタ・マリーア・マッジョーレ教会(Basilica Papale di Santa Maria Maggiore)は「ローマの4大聖堂」の一つで、カトリックの重要な巡礼地だそうです。キリスト教の国教化が392年、この教会は、4世紀、法王リベリウスが創建したローマで最も古い部類の教会。「地球の歩き方」では「大聖堂」と表記されていました。由緒ある教会だと思います。
この教会は、創建以来、何度も改築された歴史を持った教会で、様々な建築様式が持つ建築史的にも貴重な建物のようです。欧州の古い教会や構造物は「使いまわし」や「継ぎ足し」の痕跡を感じることがよくあります。欧州には「使いまわし」や「継ぎ足し」文化があり、創建時には小さかった教会がキリスト教や街の発展に従って徐々に増設を重ねて現在の姿になっているパターンをあちこちで観てきました。日本の「スクラップ&ビルド」方式とは根本的な文化の違いを感じます。この建物の場合、人の彫像を載せた、真ん中の柱頭型の建物がオリジナルのファサードで、その両脇に別の様式の建物を増築したようにも見えます。

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実は、この伝統的な教会には写真の建物(ファサードA)の裏側にも立派な広場Bとファサードがありました。どっちが本物のファサードなのか素人の自分には区分がつきません。広場AにはオベリスクA、広場BにはオベリスクBがついていました。イタリアやそれ以外の国でこれまで見てきた大聖堂や教会には表玄関のファサードと裏手の祭壇といった具合に明確な区分がありました。2つのファサードを持つ?教会施設を観たのは初めての経験です。
「この教会はファサードはどっち?」・・・またまた「お題」を出された気分です。
答えは割と簡単に思い付きました。学術的な論証などできません。素人の感想レベルの答えです。
「キリスト教が公式に国教と認定された時に建造された教会なので、まだ宗教施設の基本設計の確たるルールが出来ていなかった。その証拠に建物軸が東西方向を向いていないし、十字架の形もしていない。フランスのゴシック様式の大聖堂が建設ブームを迎えたのが、12世紀。800年の長い年月を掛けて基本設計のルールが出来上がった。よって、この教会の場合、両方ともファサードである」

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(出展 Google)

メルラーナ通りをサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に向けて歩いていきました。通りの両側の建物は6~7階建ての瀟洒で風格のある建物が続いていました。色合いは抑えた感じのパステルカラー、庇も付いていました。

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写真右側がメルラーナ通り、伝統的な横目地の建物がそこそこスカイラインを揃えていました。無電柱化は当たり前、派手な屋外広告物も見当たりません。

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メルラーナ通りは街路樹のプラタナスが濃い影を落としていました。

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大通りとの交差点に小さい教会がありました。調べると、随分と長い名前の教会でした。サンティ・マルチェッリーノ・エ・ピエトロ・アル・ラテラーノ教会(Chiesa dei Santi Marcellino e Pietro al Laterano)。日本人は何でも短縮言葉を造語しますが、イタリア人はどうするのか気になりました。


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メルラーナ通りの終点まで来ると、オベリスクのある広場で出会いました。サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(Basilica di San Giovanni in Laterano)も「ローマの4大聖堂」の一つで、ローマで最も重要で由緒ある教会。初めてキリスト教を公認したコンスタンチィヌス帝が314年に建設し寄進したそうです。


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この大聖堂のファサードは広場の裏側にありました。上空から見ると、建物の軸は概ね東西方向を向いていて、十字架の形をしていました。ただ、これまで観てきた大聖堂ではファサードは西側にあり、この大聖堂は反対の東側にありました。この大聖堂も4世紀の創建、サンタ・マリーア・マッジョーレ教会と同じで初期にはルール自体が決まっていなかったという事だと考えました。

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(出展 Google)

このファサードはサンタ・マリーア・マッジョーレ教会のファサードに似て、柱頭型の建物で頂部に沢山の偉人の彫像が載っていました。
2010年にスペイン巡礼に参加しました。ゴールのサンティアゴの大聖堂には、高弟のヤコブが眠っています。この大聖堂にはキリストの高弟ペテロとパウロとが眠っていて、巡礼者の聖地だとか。知っていれば、この大聖堂にお参りしたのにと少し残念な思いが残りました。教祖のキリストは、エルサレムの教会に眠っています。
中世、三大聖地の一つ、サンディエゴの巡礼が盛んに行われていました。フランス、ドイツなど大陸ヨーロッパの巡礼者にとって、エルサレムの巡礼は、ほとんど不可能であり、ローマの巡礼はハードルが高かったということかもしれません。アルプス越えが大事だった、あるいは、イタリア国内が都市国家の集合体で通り抜けが大変だったという事情があったのかなと想像します。

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(出展 Wikipedia)

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ通りをコロッセオ方面に歩きました。再び、コロッセオに戻ってきました。褄の部分は放置すると崩壊して危険なので転倒防止対策も兼ねて補強されていました。



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コロッセオは、ヴェスパシアヌス帝が建設を命じ、80年に完成した円形闘技場。高さ57m、長径188m、短径156m、周長527mと文字通り巨大な建物。収容人員は5万人、イタリア語で巨大という意味のコロッサーレから、この円形競技場はコロッセオと呼ばれるようになったそうです。石材の種類は砂岩系に見えました。石材の表面に無数の穴の不規則に空いていました。バチカン宮殿の建設にコロッセオの大理石が剥がされて使用されたとか。この穴は、①建設時や補修用の足場用の穴②大理石固定用ボルト穴の2つの説があるようですが、自分の見立てでは①、②とも正解だと思います。


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この写真の左側は補修完了、右が補修前・・・

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古代ローマ兵士のコスプレをした人たちが観光客を前にしてパフォーマンスをしていました。そういえば、名古屋城の本丸にもは武士姿のパフォーマーがいました。

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奇妙な白黒写真が展示されていました。1933年、解体前のメタ・スーダンと書いてあります。スーダン内戦と関係ありかと思いましたが、全く、無関係。90年頃に建造された噴水でした。20世紀初頭まで健在だったこの噴水は、1933年にムッソリーニの強い要望で凱旋門をくぐり抜ける道を作るため取り壊されたそうです。


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1890年頃のメタスーダン・・・現在のコロッセオ駅の建物はそのままですが、その下の道路擁壁は未完成でした。

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(出展 Wikipedia)

コロッセオの南面・・・

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コロッセオのお隣にコンスタンティヌス帝の凱旋門・・・高さ28m、315年、戦いの勝利を祝ってローマ元老院とローマ市民が建造。精巧なレリーフが沢山施されていました。当時と変わらぬ姿です。

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コロッセオをほぼ一周できた勘定になるので、お隣のパラティーノの丘とフォロ・ロマーノに向かいました。
以下、次号・・・・

# by camino0810 | 2018-11-12 17:14 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月29日(日)イタリア その28 ローマ(2)

古代ローマ時代から長い歴史を綴ってきたローマ・・・そんなローマの中央駅であるローマテルミニ駅のファサードは、ミラノ中央駅みたいな風格に溢れた古典的な駅舎だろうと想定していましたが、意外にも現代的なデザインの駅舎でした。いささか気抜けした気分でした。それにしても、この駅舎は恐ろしく幅の広い駅でした。かなり引いた位置からデジカメの広角で狙っても全体を収めきれません。


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旅行中はローマテルミニ駅の幅が何故こんなに広いのか?など考えたことはありません。今思うと理由は意外にも簡単。『行き止まり駅』では幅広になるのは当たり前でした。3Dの地図に見るように、駅舎の幅は、駅舎がプラットホームに直交するためプラットホームの数に比例してその幅が決まります。ローマテルミニ駅の場合、11基のプラットホームを収容できる幅が必要で、その幅は概ね250mでした。

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(出展 Google)

ドイツのライプチヒ中央駅も同じ『行き止まり駅』、300mくらいの幅があります。この駅舎は、その幅や駅舎内の内部空間の巨大さも含め、多分、ヨーロッパ最大級の駅舎だと思います。
https://camino0810.exblog.jp/26258476/

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(出展 Google)

日本の場合、東京駅、名古屋駅、京都駅、大阪駅など主要な駅は、全て『通過駅』。駅舎の軸は、線路に平行するので、駅舎の幅に線路の本数はそれほど影響しません。国内での事例は少ないとは思いますが、例えば、門司港駅が行き止まり駅、線路が少ないので幅が約60mとかなり小振り。

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(出展 Google)

ローマテルミニ駅は、プラットホームの3面を囲う『コの字』の巨大な駅舎でした。それでは、その側面はどうなっているか?
Googleのストリートビューを見ると、一棟のショッピングモールが延々と300mくらい続いていました。なるほど、建物は如何にもローマ風、これから向かうコロッセオあるいはポンデュガールを彷彿させるデザインでした。


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(出展 Google)

3Dの地図を見ると、ローマテルミニ駅の周辺には、高層ビルが見当たりません。駅周辺だけでなく、ローマ市街地全域でも高層ビルを探せません。ミラノでは、ミラノ中央駅に近いミラノ・ポルタ・ガルバルディ駅前に超高層ビルのオフィス街がありました。ドイツのフランクフルトなどの大都市にもピカピカの摩天楼の一角がありました。パリにもデフォンスと呼ばれる摩天楼地区があります。

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(ミラノの新オフィス街:出展 Google)

何故、ローマには超高層ビルのオフィス街がないのか?しかも、300万の人口を抱えるイタリアの首都で有りながら、地下鉄はわずかに2本しかありません。人口130万のミラノは地下鉄が3本でした。何か不思議な気分、ちょっとした「お題」を出された気分です。

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(出展 Google)

その答えを考えてみました。
① ローマの歴史・文化的あるいは観光地としての景観的な価値をがっちり維持するために、一定の高さ以上の建物を許可しない条例などの縛りを設けた。日本でいう建築基準法のようなルールを規定したのでは考えてみました。これは、判りやすい理由です。実際、2日にわたりローマを歩いた感想は『ローマは街で稼いでいる』といった感じで、至る所が観光客で溢れ返っていました。日本でも関東大震災が発生する少し前に建物の耐震性能の限界から建物の高さを100尺(30m)で縛った法が存在していたと聞いています。ローマは歴史・文化や景観の保存、日本は地震対策でそれぞれ建物の高さを縛ったということでしょうか。そのおかげでローマやかつての東京で建物のスカイラインを揃えたスッキリした景観が出来上がったようです。
② ローマが2500年の年月を掛けて築いてきた歴史的建造物やインフラがローマ市内の至る所に存在しているからだと考えてみました。フォロロマーノやパラティーノの丘はその典型ですが、それ以外のローマ市内にも沢山の遺跡があり、古代ローマ人の高度なインフラ建造技術で造られた下水のトンネルなどが各所に存在するとか。ローマ市内は埋蔵文化財の宝庫で、ちょっとでも地下を掘ると文化財に出くわす。超高層ビルの基礎は直接基礎であっても地面を深く掘り下げて堅固な地盤を基礎にするし、地下鉄の駅舎やトンネルを造るためには大規模な開削工事やシールド工事が必要です。文化財の宝庫であるローマでは超高層ビルや地下鉄の建設はハードルが高すぎるためではないかと思います。現在営業している2本の地下鉄も建設時の埋蔵文化財の調査に多くの時間を費やしたのではないかと想像します。現在、日本では大深度地下の制度を使ったトンネル工事が行われています。深いトンネルを掘って、埋蔵文化財をかわす手もありますが、大江戸線の六本木駅のような地下50mの駅舎やトンネルはお金と時間が掛ります。

ローマテルミニ駅の地下に地下鉄の駅がありました。地下鉄、バス、トラムの1日券(7ユーロ:910円)を購入しました。地下鉄コロッセオ駅は地下鉄B線の2つ目の駅。ミラノと同様、公共交通を使ったのはこの1回のみ、結局、この日も翌日もローマ市内を徒歩で歩き回りました。

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地下鉄B線のホームは、アーチのライズが小さい扁平なトンネルでした。


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ほどなく、コロッセオ駅に到着、この駅舎もアーチ型のトンネルでした。

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コロッセオ駅を出ると、目の前にいきなりコロッセオが視界一杯に拡がりました。コロッセオの巨大さ、迫力に圧倒されました。持参した小さい三脚で自撮りしました。田舎からはるばる東京に出てきたお上りさんみたいな気分でした。


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(出展 Google)


コロッセオは、数あるローマの観光スポットの中でも特別なホットスポットでした。日曜、快晴ということもあり、人、人、人で溢れ返っていました。


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旅行に携帯するメモに、コロッセオのサイズを目測した走り書きが残っていました。「12✕3+15=51m」(1階分が12m、3層分に天辺の壁高15mを加えると、ザックリ51mという計算。自信はありません)とにかく、2000年も前のローマ人が、このような巨大な構造物を完成させ、かつ、現在でも使用可能な状態が維持されていることに驚きの念を禁じえません。

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予約したホテルに早く着いて、荷物を降ろすことが最優先、そそくさとコロッセオを後にしてホテルを目指して歩きました。大通りの脇には文化財が保存されていました。


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大通りの階段を登り切ると公園でした。ローマの松は、フィレンツェの松と同じで、プードルみたいに剪定されていました。


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しばらく行くと、横目地の立派な建物がずらりと並んだ落ち着いた住宅街に入りました。建物のスカイラインが綺麗に揃えられていました。

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予約したホテルは、この住宅街の一角にありました。値段の割には随分と立派な3つ星のホテルでした。15時10分、ホテルにチェックイン、このホテルに2泊してローマを歩きました。

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ホテルの玄関でローマのネコが寛いでいました。人は東西、南北で人種、文化や考え方が違いますが、猫や動物にはその差異はありません。何故でしょうか?


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以下、次号・・・・


# by camino0810 | 2018-11-09 06:05 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月29日(日)イタリア その27 ローマ(1)

予約していた電車が11番線プラットホームから発車することが駅構内の掲示板に表示されました。12時38分発ナポリ行きの「フレッチャ・ロッサ」9419号は、ローマ・テルミニ駅に14時10分に到着します。
トーマスクックのヨーロッパ鉄道時刻表(2010年版)で調べると、駅間距離は、ミラノ中央駅を起点としてフィレンチェSMN駅は316km、ローマテルミニ駅まで632kmでした。偶然ですが、フィレンチェSMN駅とローマテルミニ駅間の距離は、ミラノ中央駅とローマテルミニ駅間距離のぴったし半分の316kmでした。所要時間は約1時間半、平均時速は210km。東京、名古屋間は366km、「のぞみ号」は1時間40分、平均時速220kmで駆け抜けます。
イタリア国鉄の代表選手「フレッチャ・ロッサ号」と日本のJR代表選手「のぞみ号」は同程度の走力を有した好敵手だと考えてもよさそうです。


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イタリアの国土は日本に似て細長い形状、ミラノとローマが600km、ローマは地図を見るとイタリア全土のほぼ真ん中に位置するので、イタリアの長さはザックリ1200kmという計算になります。

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(出展 Google)

「フレッチャ・ロッサ」は「赤い矢」を意味するイタリア語、短い鼻でスッキリしたスポーティーな顔つきの赤い電車です。

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車内は座席が左右2列づつでゆったりしていました。座席間隔も日本の新幹線より広めの感じでした。

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「フレッチャ・ロッサ」9419号は、フィレンチェSMN駅を定刻に出発しました。


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フィレンチェ郊外の集合住宅・・・地価の高い?中心部は中高層アパート。


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郊外に行くに従って、集合住宅の階数が減ってきました。この時期、プラタナスはわずかに新芽を出したばかり、欧州ではプラタナスを結構激しく剪定するやり方を感じます。


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電車はアルノ川の上流に沿って南下しました。車窓に青々とした麦畑が拡がりました。


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アルノ川の河畔は緑が豊かでした。

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工場の周囲にも新緑が溢れていました。

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住宅街も豊かな緑に囲まれていました。

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このルートは、日本でいえば東海道新幹線相当のイタリアの基幹路線ですが、車窓の豊かな環境に驚かされました。

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アレッツオという街まで来ました。


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広大な麦畑に向こうに緩やかな山が見えました。アペニン山脈だと思いますが、たおやかな優しい山脈かも。

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再び、麦畑・・・気持ちの良い眺めが続きました。


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牧草地でしょうか、手入れが行き届いていました。


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一面のブドウ畑が車窓に拡がりました。ドイツのブドウ畑もそうでしたが、ブドウは高さ1mで剪定されていました。なんかかわいそうな気もしますが……


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3階建ての集合住宅群が見えました。住環境もよく整っているようです。

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高速道路が路線に平行するように走っていました。多分、欧州自動車道路E35だと思います。E35は東名高速みたいな基幹高速道路です。

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骨材プラントでしょうか。土中の砂利を採取してコンクリートや舗装に使う骨材を生産しているようです。

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ローマが近づいてきました。多分、この川はローマを貫流するテベレ川で、横断橋はE35だと思います。テベレ川の河畔も豊かな緑に溢れていました。

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電車はローマの郊外駅を通過しました。よく見ると、この駅のプラットホームには屋根がありません。ローマは雨の少ない乾燥気候なのかもしれません。


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「フレッチャ・ロッサ」9419号は、ローマ・テルミニ駅に定刻14時10分に到着しました。プラットホームにはカラフルな電車が停車していました。イタリア国鉄は、電車のデザインにも気合いを入れている感じです。


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ローマ・テルミニ駅は「Roma Termini」という名称のとおり「行き止まり駅」でした。沢山のプラットホームの行きどまり部分に直交するように駅舎が拡がっていました。この駅は現代的な造りの新しい駅舎でした。

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目的地に着いて最初にやるべきことは、予約したホテルにチェックインして、身軽になること。40Lの重いバックパックを背負ったままでは街歩きでの機動力が大きく低下します。予約したホテルは駅から2kmくらいでした。歩こうか地下鉄で行こうか迷いましたが、結局、地下鉄を使うことにしました。初めての街で地下鉄の切符を買うのは結構ハードルが高いものです。何とか切符を買って、ホテルの最寄り駅「コロッセオ駅」に向かいました。
以下、次号・・・


# by camino0810 | 2018-11-05 07:01 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月29日(日)イタリア その26 フィレンツェ(7)

サンタクローチェ教会前の広場を8時過ぎに出発して、アルノ川河畔に出て、上流のサンニッコロ橋まで歩きました。その後、フィレンチェのリング(城壁)に沿って、旧市街の端を半周し、ホテルに戻りました。

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(出展 Google)

フィレンツェ国立中央図書館は風格のある石造りの建物でした。

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アルノ川の河畔に出ました。川は写真下から上に流れています。下流に昨日渡ったグラツィエ橋が見えていました。

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アルノ川河畔を上流のサンニッコロ橋を目指して歩きました。赤レンガの転落防止柵は、高さが1m程度と低めに抑えられていて河畔の様子が良く見えます。パラペットと呼ばれる洪水防止用の堤防を兼ねているのかもしれません。建物のスカイラインもそこそこ揃えられていました。

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左手にゼッカ塔(Torre della zecca)が見えてきました。アルノ川右岸、フィレンツェ本体の旧市街を防護するリング(城壁)の端に位置する城門です。窓の数も少なく窓が小さいなどかなり不愛想な外見の建物でした。もしかして、囚人塔を兼用していたのかもしれません。

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対岸にサン・ニッコロ門(Porta San Niccolò)が見えていました。アルノ川左岸側のリング(城壁)の端部にあたる城門です。昨日、手前の砂浜で沢山の人が日光浴をしていました。

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アルノ川の固定堰は、斜め堰になっていました。取水堰だと思います。この堰の上流、下流にも斜め堰がありました。北スペインでも斜め堰を見たことがあります。吉野川の下流にある第十堰も斜め堰。斜め堰は昔のやり方で、日本にも200を超える斜め堰があるとか。

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(出展 Google)

川は写真左から右に流れています。写真上の塔がサン・ニッコロ門。アルノ川の斜め堰は、石造りで高さが低く、水叩きを幅広にしていました。浸透流に抵抗する水叩きの幅は経験的に判っていたのではないかと思います。

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現在の堰は、構造の基本を定めるルールがあり、川に直角(直角堰)に造ります。直角堰の方が堰の長さが短くできるのに何故わざわざ斜め堰にするのか?斜め堰は造るお金も時間も余計に掛かります。
お題を出された気分なので、その答えを探してみました。
 1.直角堰に比べて、洪水流をかわし易く流水抵抗性を高められる、あるいは洗堀抵抗性を高められる?
 2.斜めにして水流の摩擦抵抗を大きくして、洪水流のエネルギーを落として下流を守ることができる?
 3.斜めにして三角の褄を造り、水を集め易くして取水しやすくできる?
いずれの答えもスッキリしません。水工学、水理学、土質力学などの土木工学的な知識、知見に乏しいから仕方ありませんが・・・
この理由は、多分、材料の発展の歴史で説明できるのではと考えてみました。
橋の歴史は材料の発展とセットで考えると判りやすいなと感じます。橋は18世紀までは支間は30mくらいが限界のようでした。その理由は橋の材料が石、漆喰、木材くらいしかなかったためでしょう。19世紀後半に入って、良質な鋼とそれを使った鉄筋コンクリートが開発されました。構造解析技術の進展と相まって一気に支間長が増えました。1864年に完成したイングランドのクリフトン橋は支間200m、1890年に完成したスコットランドのフォース鉄道橋は支間500mといった具合です。
同様に、18世紀までは斜め堰に使う材料は石と木材や竹くらい。この材料で洪水や水圧という巨大な外力に対抗するには限界もあり、流出、沈下や水漏れの問題と戦わなければならなかったのではないかと推定します。水の階段を形成する閘門も同様、18世紀までは木製ゲートなので水位差はせいぜい2m程度でした。
つまるところ、材料強度や耐久力の不足を形状で補うしか選択肢がなかった、斜めにすると必要な強度を小さくすることができたのでないかと考えてみました。
古代や中世、アルノ川の取水堰も最初は直角堰だったのかもしれません。洪水の度に流出したり、沈下したり、水が漏れて取水できなかった。そんな失敗経験の繰り返しから斜め堰が誕生したのではないかと推定します。この時代、水理計算や構造計算などないでしょうから土木の世界はまさに「経験工学」だったと思います。
この20年くらい河川の伝統工法が着目されてきました。機械力が乏しかった江戸時代やそれ以前、洪水を上手に「受け流す」、「すかす」、「かわす」知恵が必要でした。堤防の一部を意図的に切る「霞堤」や木組みの枠中に玉石を詰めた「木工沈床」などの先人の知恵は現在の治水にも活かされています。自然の改変が少ない分、環境にも優しいやり方です。この斜め堰も川に優しい堰ということでしょうか。

堰越流部の天端と傾斜部では石の貼り方を変えていました。傾斜部はスレートのような扁平な石材を流水方向に丁寧に張り合わせてありました。洪水流をかわす「先人の経験知」かもしれません。


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斜め堰の上流側を歩きました。

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高水敷には立派な河畔林が植樹されていました。

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サン・ニッコロ橋はライズの小さいアーチ橋でスッキリしたデザインでした。

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橋から見たアルノ川、川は写真下から上に流れています。

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橋から見たアルノ川の上流側・・・

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河岸は自然河岸のようでした。

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リング道路の歩きを開始しました。このあたりまで来ると観光地を完全に外れていて、人通りもありません。

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最初は、クローチェ門(Porta alla Croce)、修復工事中でした。


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門に展示されていたフィレンツェの地図・・・赤い線がリング(城壁)です。リング内にはかなり空き地がありました。地図が作成された時代を特定するのは困難ですが、この地図の左下に記載された「ボーボリ庭園」が完成していることからも16世紀以降の地図だと思います。

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ひと昔前のクローチェ門には屋根が付いていました。

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周囲は、ベッカリーア広場(Piazza Beccaria)・・・

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リング内側の旧市街の建物も「横目地」の建物が目立ちました。

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しばらくリング道路を歩くと、墓地でした。

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リング道路は片側3車線の幅広の道路でした。

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フィレンチェの松はプードル風に刈り込まれていました。

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サンガッロ門まで来ました。この門はクローチェ門と似た屋根付きのデザインでした。

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門の周囲は自由広場(Piazza della Libertà)・・・モニュメントが建っていました。

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赤い建物は、ボローニャでよく見かけた柱廊(ポルティコ)風でした。

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リング道路は片側3車線の幅広の道路でした。

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擬似横目地の建物、モルタルで横目地を造っている感じです。

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コンドームの自販機(6ユーロ:5個)・・・日本は至る所にコンビニがあるため街中の自販機が減りました。欧州はコンビニに相当するキオスクみたいな小売店が少ないので街歩きで時々見掛けます。


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バッソ要塞が近づいてきました。トラムの軌道が建設中でした。架線は設置完了、フィレンチェも都市内交通にトラムを導入したようです。

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この生コン車は優れもの、自らのバケットでコンクリートが打設できます。日本にもあれば便利だなと思いました。


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バッソ要塞に到着、フィレンチェのリングを半周歩いたことになります。

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バッソ要塞は5角形の要塞、函館の五稜郭も同じタイプ。


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5角形の角が飛び出していました。飛び出した角から襲来する敵の側面を攻撃できます。いわゆる「十字砲火」を意図した形状ではないかと考えてみました。

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ミラノ、ボローニャと同様、フィレンチェのリング(城壁)は門だけが保存されて、壁は撤去されていました。壁が残っているのは、アルノ川左岸の丘陵部のみでした。市街地の進展に壁は邪魔だったようです。

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フィレンツェからアルノ川を100kmほど下った河口付近に、「ピサの斜塔」で有名なピサがあります。ピサはフィレンチェと同じ都市国家、かつてフィレンチェと覇権を争い敵対していた時期もあったとか。当初、ピサに寄って「ピサの斜塔」を観る計画を試みましたが、時間が取れず、断念しました。
ピサの旧市街を取り囲むリング(城壁)はフィレンチェより小振りの一辺が1.6km程度の方形でした。

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ピサの旧市街(出展 Google)

ピサの旧市街にはかなりの区間に亘って城壁がしっかりと保存されていました。

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ピサのリング(城壁)とドゥオーモ広場(出展 Google)

大聖堂(ドゥオーモ)はルール通り、上空から見ると十字架の形をしていて、主軸は東西方向を向いていました。ドゥオーモの十字架の交点にあるドームは割に地味で小振りな感じです。フィレンツェのクーポラと名前まで付いた巨大ドームはやはり特別な存在だと思います。有名な「ピサの斜塔」は鐘楼かもしれません。フィレンチェではドゥオーモの脇に「ジョットの鐘楼」が並んでいました。ドゥオーモの西側の大きなドームは洗礼堂。フィレンチェのドゥオーモ広場の建物の配置と概ね似ていました。
これまで観て来た欧州の旧市街は、大聖堂を芯にして同心円上に街区が拡がるパターンでした。ピサは少し変っていて、何故か大聖堂が北に偏っていました。「お題」が出された感じですが、すぐに答えが思い浮かびません。

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ピサの大聖堂(ドゥオーモ)と斜塔(出展 Google)

城壁の高さは8m~10mくらいだと思います。出入口には立派な城門が保存されていました。


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ピサのリング(城壁)(出展 Google)

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再び、フィレンチェ旧市街に戻って来ました。狭い路地裏は、いかにも古都フィレンチェといった感じ、庇付きの緑の格子窓の建物がずらりと並んでいました。


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珍しく赤提灯がぶら下がっていました。

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カミッロ・カヴール通りは旧市街中心部のメーン通りのひとつ、旧市街では珍しく幅広の大通りです。

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9時40分、すっかりお馴染みになったドゥオーモ広場に戻ってきました。

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この看板を見ると、先にふれたピサのドゥオーモ広場とフィレンチェのドゥオーモ広場の建物配置が近似していることが判ります。


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ホテルに戻って、荷物を整理して10時30分、チェックアウト。フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅はすぐでした。

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12時38分発ナポリ行きの「赤い矢」9419号はローマ・テルミニ駅に14時10分に到着します。

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駅中のマックは恐ろしく込んでいました。やっとの思いで席を確保できました。1.3ユーロ(170円)のエスプレッソを飲みながら、今日の記事をフェイスブックにアップしました。

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4月29日(日)フィレンチェは曇り一時雨、適温。
朝、アルノ河畔のサンタ・クローチェ教会に行ってみました。広場の脇の建物に過去の洪水の痕跡が記録されていました。1966年には過去最大の洪水があり、洪水位は地上3.5mだったそうです。普段のアルノ川は掘り込み河川で地表より10mくらい低い水位です。ザックリ14mも水位が上がったとは驚きです。
アルノ川右岸を上流方面に歩きました。河畔の高さ1mのパラペットは洪水対策かもしれません。そういえば、あるテレビ番組でレオナルド・ダ・ヴィンチがアルノ川の放水路を計画した話しが紹介されていたのを思い出しました。イタリア半島は日本と似ているので急流河川みたいです。水の出方も早いのかもしれません。
その後、旧市街を囲うリングをぐるりと歩きました。現在は広々とした道路ですが、当時の城門が保存されていました。
フィレンチェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅のマックでこの記事を書いています。今日は日曜日、駅には猛烈な数の観光客が押し寄せていました。
「赤い矢」9419号は12時38分発、ローマ・テルミニ駅に14時10分に到着します。

イタリアの主要鉄道駅は、欧州では珍しい改札が付いていました。この駅もミラノ中央駅と同様、乗車券がないとホームには入れない仕組みでした。

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予め日本で印刷、持参した乗車券を係りの人に示して入場しました。これからローマに向かいます。
以下、次号・・・・


# by camino0810 | 2018-11-02 15:46 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月29日(日)イタリア その25 フィレンツェ(6)

今日でイタリアに入って4日目になりました。12時38分発のフレッチャロッサ(赤い矢)でローマに向かいます。午前中の時間を使って、フィレンチェの見残した街を歩きました。
このホテルは朝食が付いていなかったので、前日コンビニのスパーで買ったもので朝食を済ませました。スパー(SPAR)は欧州のあちこちに展開しているコンビニ。日本のコンビニ以上の品揃えがあり、しかもリーズナブル、旅行者にも優しいコンビニです。
7時40分、30Lのデイパックを携行してにホテルを出発しました。10時にホテルに戻ってチェックアウトします。このホテルは、アパートの居室を改造していました。アパートのエレベーターは旧式で、外扉と内扉の2段構え、ガシャン、ガシャンと大きな音を立てます。イタリアの旧式なアパートではごく普通な感じで、ボローニャのホテルのエレベーターも似たような旧式でした。

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サンタクローチェ教会に向かう途中、ラーメン屋さんを見つけました。朝が早いので閉店していました。

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メーンメニューは醤油ラーメンと味噌ラーメン。サブメニューは、豚の角煮、餃子、唐揚げ、南蛮漬け、枝豆といった具合に日本の食を代表するお料理がオンパレードでした。醤油ラーメンは並み11ユーロ(1400円)、大盛13ユーロ(1700円)、国内の2倍のお値段でした。

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サンタクローチェ教会まで来ました。オレンジの清掃員が道路の清掃をしていました。

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前日は土曜日、この広場は夜も大賑わいだったようです。宴の後の空いた酒瓶、コップ、吸い殻などが広場に散乱していました。このような清掃員のお蔭で気持ちの良い環境が整えられていました。ミラノやハンガリーのブダペストでも同じような光景を目にしました。日本ではゴミの収集まで、ゴミの片付けまではしてくれません。ご当地にお金とゴミを落とす観光客とそれを綺麗に片付ける清掃員の人たち、ある意味、上手く回っているなと感じました。

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サンタクローチェ教会のファサードは、ドゥオーモや洗礼堂と同じ建築様式で、シンプルな総大理石貼りでした。

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サンタクローチェ教会は1442年に完成、幅40m長さ140mの教会で、ミケランジェロ、マキャベリ、ロッシーニ、ガリレイの墓があるとか。

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ファサードから見た教会前の広場、清掃車も頑張っていました。広場は概ね幅50m、長さ100mの広さでした。

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ブラシ式の道路清掃車も頑張っていました。広場に赤紫のテントが用意されていることからも、今日もイベントがあるようです。

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土木工事・・・。

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サンタクローチェ広場に来た目的は、実はこの広場の一隅にある「標識」を観ることでした。「標識」は、正面の建物の縦長のアーチの玄関の脇にありました。

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お目当ての標識は、広場北西の隅に建つ、3階建ての建物の1階部分の壁にありました。

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2つの水位表示板の高い方は、1966年11月4日に記録された洪水の水位標で、路面から4.5mの位置に設置されていました。

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低い方は、1557年9月13日の洪水の水位標で、路面から4,0m。

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アルノ川は中世から暴れ川だったようです。掘り込み河川のアルノ川の普段の水位は路面から8m位下にありました。1966年の洪水で水位が概ね12m位上昇したことになります。
北イタリアの諸都市は日本並みに洪水の脅威に曝されているようでした。日本の川に似て、イタリアの川は流域面積が小さくて、勾配の急な河川だからでしょうか。昨日見たアルノ川河畔のパラペットは洪水防御施設を兼用しているのかもしれません。ドイツの主要河川エルベ川と比べると、アルノ川は日本の河川に近いなと思います。Googleの地図でアルノ川の沿川をざっと見ましたが、沿川にはエルベ川やライン川のあちこちで見られた河川港が見当たりませんでした。アルノ川は、産業舟運に必要な安定した流量、水深が得られにくい川なのかもしれません。

・アルノ川 延長241 km  平均流量110 m³/s 流域面積8,228 km²
・利根川  延長322 km  平均流量290 m³/s  流域面積16,840 km²
・エルベ川 延長1,091 km 平均流量711 m³/s 流域面積148,268 km²


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今から2年半前、2016年3月21日に放映されたBS-TBSで放映された「中井貴一 ヨーロッパ大紀行 天才ダ・ヴィンチからの挑戦状」は見応えのある番組でした。
最初、ダ・ヴィンチ(1452~1519)のモナリザは誰だったのかという『モデル探し』の旅が、段々とダ・ヴィンチの自然観や人生観、特に、水への思いを追い求める旅に変化して行きました。
モナリザの左肩の脇に描かれた、蛇行した川はアルノ川だそうです。よく見ると、アルノ川にアーチの石橋が描かれています。

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この橋は何処にあるのか?
13世紀に完成したブリアーノ橋(Ponte Buriano)はフィレンツェから上流60kmのアルノ川に架かる橋でした。中井さんはわざわざこの橋の現場に行って、モナリザの橋と実際の橋を見比べて、似た橋だと語っていました。

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ダ・ヴィンチが21歳の時に描いた「風景素描」は、自分には水墨画の世界に思えました。そもそも、中世の絵画は、肖像画がメーン。写真のない時代なので、写真代わりの肖像画がメーンなのは当たり前の話しかもしれません。
ダ・ヴィンチの研究者はこの絵を世界で初めての風景画と言っていました。東洋人の自分からは、相当違和感のあるコメントでした。ダ・ヴィンチの時代以前から存在していた水墨画は、風景画そのもの。東洋人と西洋人の世界観や自然観の違いがあるのかもしれません。

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中井さんは、サンタクローチェ広場で例の水位標を見て驚いていました。彼の身長は180cm、1557年の洪水の水位は、路面から4.0mくらいはあるでしょう。

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「最後の審判」のオファーを勝ち取ったライバルのミケランジェロはバチカンのシスティーナ礼拝堂に有名な「最後の審判」を残しました。破れたダ・ヴィンチは「最後の審判」のデッサンを残していました。デッサンには荒ぶる水が描かれていました。ダ・ヴィンチは巨大な洪水で「最後の審判」が行われると考えていたようです。

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彼はフィレンツェ下流のアルノ川沿いのヴィンチ村の出身、庶子扱いだったので14歳でフィレンツェに丁稚奉公に出た苦労人だったようです。この天才は北部イタリアの河川の治水、利水にもその才能を発揮したようでした。ミラノの運河や閘門の設計も手掛けるなど水インフラにも深く関与した、優れた土木技術者でもありました。

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ダヴィンチにとって、生涯『水』が最大の関心事だったようです。幼少時代からアルノ川に親しんでいて、水を恵みと恐ろしさの両方を良く承知していたためかもしれません。

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ダ・ヴィンチは、アルノ川の治水計画と利水計画にもその天才を発揮していました。蛇行するアルノ川とは別に直線的で巨大な放水路の開削構想を考えていました。東京で言うと、隅田川と荒川放水路の関係と似ています。舟運路の旧アルノ川、洪水処理の新アルノ川という壮大な構想だったようです。

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ダ・ヴィンチが設計した、ミラノのナヴィリオ・グランデ運河が紹介されました。彼は、旧市街の中心部を流れるマルテサーナ運河の設計も手掛けていました。

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(ミラノのナヴィリオ・グランデ運河)

この記事を書いている約2ヶ月前、7月の初旬に西日本豪雨が発生し、200人を超える人が犠牲になりました。去年の7月には九州北部豪雨が発生し、40人を超える人が犠牲になりました。これまでの経験をはるかに超える豪雨が原因でした。これまで、日本は堤防、調節地やダムなどの防災インフラの整備を営々と重ねてきましたが、この数年、計画をはるかに超える雨が毎年のように降るようになったなと感じます。ダ・ヴィンチだったら、どのようにアクションするでしょうか。

2年半前、フェイスブックにアップした記事・・・・

3月21日(月)、埼玉は晴れ、温暖。
3連休も自宅に3日目となると流石に飽き飽きしてきた。
BS-TBSで放映された「中井貴一 ヨーロッパ大紀行 天才ダ・ヴィンチからの挑戦状」は見応えのある番組だった。
モナ・リザは誰だったのかという答え探しの旅が、途中からダ・ヴィンチの世界観の核心となっていた「水」とは一体何だったのかという答え探しに変化していった。
MCの中井さんは寡作の彼の代表作である「モナ・リザ」や「受胎告知」を観る度に、その背景に描かれた風景についつい眼が行ったと何度も言っていた。
レオナルド・ダ・ヴィンチの自然観の中心にあったのは、「水」だったと結論付られていた。モナ・リザの左肩に小さく描かれていたアーチ橋は、彼の故郷アルノ川に当時からあった橋だという。
彼は、ヴィンチ村の公証人と使用人との間に生まれた私生児だった。彼の恐るべき知識と想像力は一体何処から来たのか?その謎への解答はなかった。14歳でアルノ川の上流の街フィレンチェに働きに出た。多分、奉公人といった身分だったのだろう。
21歳で描いた「風景素描」は、不思議と水墨画の気分と似ていた。渓谷から街に流れ下る川のデッサンだった。
ダ・ヴィンチは水の怖さと恵みをよく承知していた。当時からアルノ川は暴れ川だったようだ。1557年、洪水がフィレンチェの街を襲っている。路面から4mの高さに水位標が残されていた。
この天才はフィレンチェの治水・利水計画も考案していた。
蛇行して洪水を起こすアルノ川の放水路を計画している。郊外にバイパスを開削して、本川を運河とする計画だ。フィレンチェの街から洪水を排除して船着き場を造って舟運での発展を考えていたようだ。
彼が果たして水理学や水工学を何処まで極めていたのか・・・川屋には実に興味深い。
バチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画はライバル、ミケランジェロの「最後の審判」だが、ダ・ヴィンチにもオファーがあったらしい。彼は暴れる川のデッサンを何枚も残している。「最後の審判」は「水」による裁きで行われると考えていたようだ。
2004年のスマトラ島沖津波災害、2011年の津波大震災や2015年の鬼怒川水害も「水」だ。
確かに「水」は怖い。唯、その一方で水の恩恵を享受している事も忘れてはいけない。水と共存する社会はいつの時代でも大事だったし、今後も変わらないだろう。
晩年の3年はフランス王フランソア1世のオファーを受けて、ロワール川中流のアンボアーズで過ごした。アンボアーズ城から見たロワール川も秀逸だ。
1519年、この地で67歳の生涯を閉じたとの事だった。2013年5月、ダ・ヴィンチの墓にお詣りした事を想い出した。


サンタクローチェ広場を後にして、アルノ河畔に出て、フィレンツェのリング(城壁跡)を歩きました。
以下、次号・・・


# by camino0810 | 2018-08-29 17:10 | イタリア | Comments(0)