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2018年4月1日(日)ドイツⅡ その89 エピローグ(23)フランクフルト

フランクフルト:2017年5月7日(日)~8日(月)


・グダンスク発18時00分ポーランド航空3816便は定刻に出航、ワルシャワ空港に19時到着。

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・トランジットの余裕時間は1時間15分、トランジットは手荷物検査はなく単に移動だけで済んだ。シェンゲン協定というのはいい仕組みだと思った。フランクフルト空港行き、ワルシャワ空港発ポーランド航空383便ジェット機は定刻20時15分に出航。

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・ジェット機は定刻22時10分にフランクフルト空港に到着。

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・フランクフルト空港近くに予約したホテルまではタクシーにした。タクシー代は7.6ユーロ(950円)。ホテルの部屋からフランクフルト空港の第2ターミナルが良く見えた。

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・ホテルの部屋でテレビをつけると、BBCがマクロン大統領の誕生を伝えていた。

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・通信事情の良いドイツに戻ってこられたので、この日の日誌をフェイスブックにアップした。当日にフェイスブックにアップした記事・・・

5月7日(日)グダンスクは雨後曇り、寒い。
朝7時過ぎ、グダンスク本駅を手始めに街歩きを開始した。
この街の観光ホットスポットは本駅の東南に固まっていた。教会や市庁舎などメーンはすべて赤レンガで仕上げてある。
グダンスクは千年の歴史を持つ風格に溢れた街だった。大小様々な教会はそれぞれに素晴らしいがどちらかというと前菜かアラカルト、観光のメーンディシュは市庁舎のあるドゥーギ広場だろう。「黄金の門」を潜ると素晴らしい街並みが姿を現す。一番人気の市庁舎前でツアー客が写真を撮りまくっていた。
反対側の門を抜けるとモトワヴァバ運河が現れる。この運河河畔の景観にも驚かされた。建物と運河の間に広いところで20mくらいのスペースがある。カフェなどが並んでいて、建物は運河に向いている。観光舟運も盛んなようだった。
ヒルトンホテルが河畔のいい場所に立地していた。5つ星の超高級ホテルはこじんまりとした造りだった。建物のスカイラインに配慮したようだ。グダンスク空港の1階待合ロビーに「グダンスク・ヒルトン」が大々的に宣伝されていた。この河畔が5つ星ということだろうか。
11時にホテルに戻って12時にチェックアウト。駅前からバスで空港に向かった。途中、ラウンドアバウトを2つ通った。ポーランドにも信号なしの交差点が普及しているようだ。グダンスク空港はこじんまりとしているが、ピカピカでわかりやすい空港だった。
ポーランド航空18時00分発ワルシャワ行き3816便に乗り、ワルシャワでトランジットして22時10分にフランクフルトに到着した。
フランクフルト空港の近くのホテルでこの記事を書いている。4月28日にフランクフルトから旅を始めて10日振りに戻ってきた事になる。テレビをつけると、BBCがマクロン大統領の誕生を伝えていた。
明日の14時40分の中国東方航空の便で羽田に戻る。

・5月7日(日)は、午前中グダンスクの街歩き、午後からグダンスク、ワルシャワ、フランクフルト移動と忙しい一日だった。大きなトラブルもなく無事にフランクフルトに戻ることができホッと一息できた。
・5月8日(月)で4月28日にフランクフルト空港駅からICE(新幹線)で旅を始めて11日目になった。フランクフルトは曇って寒かった。そういえば、今回の旅行ではお天気にあまり恵まれなかった感じだ。フランクフルト空港発14時40分発の飛行機で上海に戻り、上海でトランジットして羽田に戻る。そんな訳で久し振りにのんびりできた。
・フランクフルト空港の地図を見ると工事箇所が意外にも沢山あることに気づいた。ホテルのある第2ターミナル周辺、反対側の第3ターミナルらしき工事場所やもうひとつの滑走路が増設中だった。この空港は、森の中に浮かぶ大きな島みたいな空港だが、新規の航空需要に対応するために新規インフラ投資が盛んに行われている様子が伺われた。

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(出展 Google)

・ホテルの窓からラウンドアバウトと新規開発の様子が見えた。工事中の場所には空港関連のハコモノができるのかもしれない。ラウンドアバウトはポーランドでも見たが、ドイツでも定着しているように感じた。

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・ホテルは意外にお洒落な外観、開業して間もない感じだった。

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・周りはお馴染みのホテルやドイツ国鉄のロジの会社などピカピカの建物が建っていた。何故か、DELLの建物もあった。去年のドイツ旅行ではフランクフルト空港付近の別のホテルに泊まった。そのホテルの隣はIBMの研究所だった。IT関連企業は国際空港の近くだと何かのメリットがあるようだ。


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・ホテルを10時30分にチェックアウト、空港行きのシャトルバスに乗車した。てっきり無料だと思ったら3.5ユーロ(440円)も取られた。グダンスクでは市内から空港まで3.2ズォティー(100円)だったので、料金というものは国で随分と違うもんだと思った。バスは例のラウンドアバウトをぐるりと回って提携ホテルに立ち寄って、第2ターミナルに向かった。乗客は一心不乱にスマホをいじっていた。何処の国でも同じ。

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・途中、不思議な土留めに出会った。深さ5mくらいのグランドアンカー付き自立型土留めだが、日本では見たことのない絵柄だった。グダンスクでは鋼管の切梁材を使った土留めを見た。それぞれの国にそれぞれの流儀があるものだと感じた。

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・シャトルバスは第2ターミナルに11時10分着、フラッグ・キャリヤのルフトハンザの黄色い幟がたくさん建っていた。チェックインカウンターのある1階のベンチで時間を潰した。
・時間潰しに建物の構造をザックリ目測で調べてみた。ターミナル2は幅が350m、奥行き100mくらいの巨大な建物だった。建物は5連のアーチ構造、アーチ支間は70m、高さは30m、ライズは1/7程度。アーチの支柱は20m真四角で高さは20m。アーチリブはトラス、鋼材は20cmと華奢な感じ。屋根は幅10mのトップライトと屋根板、材料は軽量のようだった。褄壁は全面透過型のガラスなので、今日みたいな曇りでも内部は明るいのが良い。

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・チェックイン12時50分完了、出国審査13時完了、セキュリティーチェック13時20分完了。最近、世界中のあちこちでテロが発生している。セキュリティーチェックでは万歳の格好でくるくると回って写真撮影された。検査員の愛想の良さに救われた。上海行き中国東方航空220便は定刻14時40分に出航した。

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・当日のフェイスブックにアップした記事・・・


5月8日(月)フランクフルトは曇り、肌寒い。
フランクフルト空港の近くのホテルを10時30分にチェックアウトし、シャトルバスでターミナル2に11時10分に着いた。いくつかのホテルが共同出資したバスみたいで、他のホテルの玄関に停車しては客を拾って行く。
空港まで20分程度だが、ラウンドアバウトを2つ通った。ドイツで都合7つ見た事になる。普及、定着が進んでいるようだ。
上海行き中国東方航空220便は14時40分に出航する。3時間の時間潰しをどうするか。
フランクフルト空港はドイツ最大級の空港だ。ポーランドの小振りな空港に比べると実に巨大だ。何処に何があるかさっぱり見当がつかない。
時間潰しにベンチから見上げてこの空港の構造をザックリ調べて見た。
ターミナル2は、5連のアーチ構造。アーチ支間は70m、高さは30m、ライズは1/7。アーチリブはトラス、鋼材は20cmと華奢な感じ。屋根は幅10mのトップライトと屋根板、材料は不明だが軽いようだ。褄壁は全面透過型のガラス。今日みたいな曇りでも中は明るい。
一定の大きさがあると、ハコモノもインフラもありがたみが出てくる。『大きい事は良い事だ』と言った音楽家がいたが、その通りだろう。
この空港のありがたみは、簡易に仕上げたアーチ屋根で造られた高くて広い明るい内部空間だろう。
チェックイン、出国検査、セキュリティチェックを終えて、空港の奥行きも判ってきた。
ターミナル2は幅が350m、奥行き100mはありそうだ。

以上、長々と書いてきましが、この辺で今回のドイツ・ポーランド旅行の『旅日記」と『覚書き』を終えることとします。
今年は、4月末から2週間を掛けてイタリアに行くことにしました。イタリアは細長い形をしていて日本と似ているし、日本のような急流河川も多そうです。どのような水辺やどのような街が待っているのか、今から楽しみにしています。


by camino0810 | 2018-04-01 09:25 | ドイツⅡ | Comments(0)  

2018年3月29日(木)ドイツⅡ その88 エピローグ(22)グダンスク

⑨グダンスク:2017年5月7日(日)その3


・ドゥーギ広場の「緑の門」を出ると、モトワヴァ運河だった。ジェロニー橋から運河が一望できた。グダンスクの伝統的な赤を基調とした建物が運河左岸にずらりと並んでいた。生憎の曇り空だったが、文句なしの素晴らしい水辺が拡がっていた。今回の旅行先にグダンスクを選んで正解だったなと思った。それくらい、モトワヴァ運河沿いの約800mの水辺は、価値が高かった。

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・最初にモトワヴァ運河を渡って中の島の再開発地区をぐるりと歩いた。

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(出展 Google)

・モトワヴァ運河の右岸はボードウォークになっていた。モトワヴァ運河の流路幅は約50m。

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・観覧車がある中の島は、再開発地区。既設の建物の地下室を撤去した直後だった。土留め用の切梁は円形の鋼管。日本では見たことのない光景というか、あり得ない光景だった。国より流儀が違うのはある意味刺激的でもある。モトワヴァ運河左岸は第2次大戦で消失した昔の街並みを忠実に復元したようだが、右岸側は再開発地区で老朽化した施設を壊して新しいものに造り変えていた。

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・完成予想図には運河沿いの賑わいの様子が描かれていた。運河沿いの白を基調とした建物群はマンションだそうだ。

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・新しい建物もモトワヴァ運河の風景と調和したデザインだった。三角屋根の建物のスカイラインも綺麗に揃える計画だ。

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・左岸側の背の高い黒い建物は、かつて港湾都市として繁栄したグダンスク名物の「木造クレーン」。跳ねだした頂部にウィンチでも取り付けて、接岸した船の荷揚げ、荷卸しをしていたようだ。産業インフラとしての役割を終え、現在は観光インフラとして活躍していることになる。

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・中の島の白い壁は海洋博物館。

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・再開発地区の古い赤レンガの建物の壁にはアーチ支保工が設置していた。この壁を再利用するようだ。欧州の「つぎはぎ流」、「使いまわし」の思想を感じさせる光景だ。空き家問題が顕在化した日本でも同様なリノベーションが盛んになってきた感じだ。

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・東側の運河沿いは、マリーナになっていた。建物群はマンションだそうだ。マリーナには、沢山のヨットが停泊していた。

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・モトワヴァ運河では警戒船らしき船が旋回中だった。観光舟運も盛んな感じだった。下段の遊歩道と水面の高低差は2m弱、上段で3m弱、転落防止柵が全線に設置されていた。

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・モトワヴァ運河の左岸河畔は、運河ウォーキングのハイライト。運河沿いのプロムナードの幅は、上段、下段合わせて20m。デュッセルドルフのライン河畔の遊歩道ほど広くはないが、プロムナードの幅が15~20mあると快適に歩くことができる。

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・海賊船を思わせる黒塗りの帆船は水上レストランだろうか。この船は、ある意味常設の観光施設であり、同様の水上レストランは2014年に訪問したプラハのブルタヴァ河畔でも見かけた。

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・黒い顔をした「木造クレーン」があるプロムナードには常設のカフェがあった。

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・運河沿いの建物群は、伝統的な形式で、壁面と屋根のスカイラインを見事に揃えていた。しかも、建物は運河にしっかりと向いていた。通常、建物と川の間に車道があれば、建物は必然的に川を向く。しかし、この運河には車道はない。グダンスクは中世からハンザ同盟都市であったため、産業舟運が盛んだった。運河はある意味当時の「道路」、建物が運河を向くのは必定。第2次大戦で破壊された当時の街並みをグダンスク市民の努力で忠実に再現し、現在まで維持してきたと考えてみた。
・現在は、産業舟運はバルト海に直接面した水深のあるグディニア港という外港に譲り、モトワヴァ運河を観光舟運や水上レジャーの観光インフラとして復活させた感じだ。衰退したインフラや使われなくなったインフラを巧みに造り変えた成功事例だと考えてみた。

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・写真左の青い建物は全世界に展開するヒルトンホテル。ヒルトンも周りの建物と屋根を揃えていた。この一帯はピカピカでお洒落なデザインの建物にリノベーションした感じだ。ヒルトン前の河畔遊歩道からの運河の眺めも文句なしに素晴しかった。2015年に歩いたリーズの駅裏の運河再開発でもヒルトンがあった。ヒルトンが立地しているという事実は、この場所が採算性の見込める価値の高い水辺だからだと考えてみた。

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・赤レンガの大きな建物はショパンフィルハーモニー。老朽化した発電所をリノベーションしたという。屋根に沢山の窓をつけるやり方は先に見た「大製粉所」に見られるグダンスク流の流儀かもしれない。

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・Uターンして聖マリア教会に向かった。お天気が良ければ、この辺りのカフェでビールを一杯呑んだことだろう。

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当日にフェイスブックにアップした記事(グダンスクではモバイルが電波を拾えなかったのでフランクフルトのホテルでアップした)

5月7日(日)グダンスクは雨後曇り、寒い。
朝7時過ぎ、グダンスク本駅を手始めに街歩きを開始した。
この街の観光ホットスポットは本駅の東南に固まっていた。教会や市庁舎などメーンはすべて赤レンガで仕上げてある。
グダンスクは千年の歴史を持つ風格に溢れた街だった。大小様々な教会はそれぞれに素晴らしいがどちらかというと前菜かアラカルト、観光のメーンディシュは市庁舎のあるドゥーギ広場だろう。「黄金の門」を潜ると素晴らしい街並みが姿を現す。一番人気の市庁舎前でツアー客が写真を撮りまくっていた。
反対側の門を抜けるとモトワヴァバ運河が現れる。この運河河畔の景観にも驚かされた。建物と運河の間に広いところで20mくらいのスペースがある。カフェなどが並んでいて、建物は運河に向いている。観光舟運も盛んなようだった。
ヒルトンホテルが河畔のいい場所に立地していた。5つ星の超高級ホテルはこじんまりとした造りだった。建物のスカイラインに配慮したようだ。グダンスク空港の1階待合ロビーに「グダンスク・ヒルトン」が大々的に宣伝されていた。この河畔が5つ星ということだろうか。
(省略)

・モトワヴァ運河河畔から聖マリア教会を目指して旧市街に入った。旧市街の街並みは、赤い三角屋根の建物が道路沿いに綺麗にずらりと並んでいて、内部は中庭になっていた。この街区パターンは欧州の各地でよく見掛けた。その中で聖マリア教会は圧倒的な大きさを誇っていて、旧市街の中心的な存在のようだった。

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(出展 Google)

・「木造クレーン」の裏側の街路は、地味目なパステルカラーの建物が並んでいた。多分、集合住宅だろう。道路を駐車場にしてあった。

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・所々、運河沿いの建物に通行門が設置されていて、運河と市街地を連絡していた。

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・この通りの建物は入口に階段が付いていた。奥に聖マリア教会の尖塔が見えていた。

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・聖マリア教会は修復工事中。欧州の旧市街は何処へ行っても歴史的な建造物は何処か補修中だった。

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・聖マリア教会は赤レンガの大きな教会だった。1343年~1502年の約160年を掛けて建造されたそうだ。1361年、グダンスクはハンザ同盟都市になった。この教会はグダンスクの発展期に建造されていた。ケルン大聖堂の600年を筆頭に日本人から見て異常に長い建設工期の理由は一体どういう事か?
建設工事には①図面②材料③職人④お金⑤土地⑦合意形成などが必要だ。バルセロナのサクラダファミリア教会はすでに130年以上の時間を掛けて今でも建設途中だ。宗教施設の場合は、材料や仕上げレベルの高さが効いてくるのかもしれない。聖マリア教会の場合は、ハイレベルな仕上げをするための建設資金がまとまって調達できなかったためかもしれない。商人などの寄付で一定額の建設資金が調達できた段階で部分的に工事を行なう。その繰り返しで160年という時間が必要だったのではないかと推測する。
・もう一つは「継ぎ足しの思想」もあったのではないかと思った。最初は小さい教会だったが、経済力の増加に伴い設計変更を重ねて段々と大きくなったのではないか。小さい教会に外から被せるように柱や屋根を重ねて行ったのではないか。フランスのツールの大聖堂やドイツのシュットガルトの教会がそんな感じだった。とにかく、この教会は完成後500年間に亘りグダンスクの変遷を観てきたコアな建物だ。大阪人にとっての大阪城、名古屋人にとっての名古屋城みたいなものだろう。ファサードの高さは78m、市庁舎の82mと並んでランドマークの機能は今でも十分。


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・ハンザ同盟都市のブレーメン、リューベックにはカトリックの大聖堂があった。同じハンザ同盟都市グダンスクには大聖堂は見当たらなかった。カトリックでは、教区の司教座があるのが大聖堂だと聞いている。グダンスクには司教が居なかったようだ。それでも、聖マリア教会は大聖堂と同等の骨格を持っていた。上空から見ると十字架の形、ファサードは西向き、教会の長手軸が東西方向に向くなど大聖堂の基本ルールが感じられた。

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(出展 Google)

・聖マリア教会脇の街路には、「大武器庫」という呼ばれる歴史的な建造物もあった。1605年に建てられた豪華で精巧な彫刻のある建物だった。

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・ラドゥニ運河脇の建物にグダンスクの昔の絵図面が掲示されていた。絵図左に聖マリア教会、市庁舎が描かれていた。市庁舎が1561年完成なので、この絵図は16世紀後半~17世紀の黄金期のグダンスクだろうか。稲妻型運河の角は要塞になっていた。右手の大きな建物2棟は現在では確認できなかった。第2次大戦の戦災で焼失したままなのかもしれない。手前の稲妻型の土塁と運河は旧市街の防衛インフラ、現在は道路や鉄道に変わっていた。

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・絵図右端の門と橋が旧市街の入り口「高い門」かもしれない。絵図上のバルト海には沢山の帆船が浮かんでいてグダンスクの繁栄振りが伺えた。

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・旧市街の南側の稲妻型運河に帆船が浮かんでいた。運河は防衛インフラと産業インフラを兼ねていたようだ。田園地区には風車が4基描かれていた。グダンスクは現在でも地盤が低い場所だ。排水用兼製粉用の風車ではないかと思った。

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・ホテルの近くの歩道に奇妙な壁が展示されていた。ベルリンのポツダム駅広場でベルリンの壁が展示されていたことを想い出した。もしかして、その壁の一部をグダンスクに運んできたのかもしれない。1989年のベルリン壁の崩壊を受けて、1990年「連帯」指導者だったレフ・ワレサがポーランド大統領ポーランドに就任した。レフ・ワレサはグダンスクの造船所の労働者だったそうだ。

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・ホテルの窓から見えた「欧州連帯センター」と記念塔まで戻ってきた。よくよく考えると世界史に記載されるくらい大きな事件のあった場所にいるわけだが、歩いている時はそのような感慨など感じなかった。

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・12時、ホテルをチェックアウト。受付の女性は親切で英語も達者だった。空港への行き方と両替所の場所を丁寧に教えてもらった。本駅の前にあるピカピカのショッピングセンターは、グダンスクの赤レンガをコンセプトにしたデザインかもしれない。

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・ショッピングセンターはクラクフと似てお洒落なデザインだった。

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・駅前の新市街地区には高層ビルやメルキュールホテルが建っていた。建築中のビルなど新規投資もあり、元気さを感じた。

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・朝7時から13時までたかだか6時間の街歩きだったが、グダンスクに来て良かったなと思った。バスで空港に向かい、旅の出発点であるフランクフルトに戻った。グダンスク本駅前の210線バス乗り場で空港行きバスに乗車した。料金は3.2ズォティー(100円)。

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・郊外にはピカピカの高層マンションが建っていた。

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・ドイツでは日本車はあまり見掛けなかったが、ポーランドには日本車が結構走っていた。右ハンドルのトヨタのヴィッツも走っていた。

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・ピカピカの空港アクセス線が完成していた。駅舎の色は大胆な赤で仕上げていた。

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・グダンスク郊外にはドイツのクラインガルテンみたいな家庭菜園もあった。

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・バスは3箇所のラウンドアバウトを通過した。ポーランドでもラウンドアバウトが普及しているようだった。

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・「グダンスク・レフ・ワレサ空港」もピカピカだった。

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・空港鉄道駅もできたばかり。空港アクセス線は高架だった。新規鉄道や道路は地下化するのが欧州流だと思っていたので意外な思いがした。地下化するのはお金掛かるし、ここは土地もタップリあるので高架を選んだようだ。

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・空港のチェックインカウンターもピカピカだった。グダンスク発18時00分のワルシャワ行き3816便の航空券を予約していた。ワルシャワでフランクフルト行きの飛行機に乗り換えた。

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・ヒルトン・グダンスクの大きな垂れ幕が掲げられていた。例の顔の黒い「木造クレーン」や造船所の「鋼製クレーン」やヨットも描かれていた。モトワヴァ運河ウォーキングでこのホテル前も歩いたが、ホテルも周りの水辺も文句なしに素晴らしかった。

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・今回の旅行ではルータを2種類持参した。モバイルもスマホもこのルータ、ISP経由でネットに入っていた。グダンスクの通信事情は、ルータの能力不足なのかスマホには電波を届けたが、モバイルにはできない状況だった。ホテルや空港などの無料Wifiを利用したこともあるが、自分の現在位置にいつも無料Wifiがある訳ではないので、持参のルーターは大事なマストアイテムだった。チェックインカウンターの隅のファストフードで昼食を摂りながら時間を潰した。

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この時は、仕方ないのでスマホでフェイスブックに記事をアップした。

5月7日(日)グダンスクは雨のち曇りのち晴れ。
午前中にグダンスクの観光ホットスポットを見終えた。
グダンスク空港の搭乗ロビーでこの記事を書いている。
ルータの能力不足なのかスマホには電波を届けるが、モバイルにはできない。写真はスマホを使わないので、ネタが空状態だ。
搭乗ロビーでポーランド航空18時00分発ワルシャワ行き3816便を待っている。ワルシャワでトランジットしてフランクフルトに22時10分に到着する。
ようやく旅も最終ステージに入った。明日、フランクフルトから羽田に戻る。今回は何故か睡眠不足で活動力が低下した気がする。年齢を考慮した旅程を検討する時期かもしれない。


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・ポーランド航空18時00分発ワルシャワ行き3816便は定刻に出航、ワルシャワ空港に19時10分に到着する。ポーランド航空機はプロペラ機だった。

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・ワルシャワでトランジットして22時10分にフランクフルトに到着する予定。今回の旅行もいよいよ最終ステージに近づいてきた。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2018-03-29 06:16 | ドイツⅡ | Comments(0)  

2018年3月26日(月)ドイツⅡ その87 エピローグ(21)グダンスク

⑨グダンスク:2017年5月7日(日)その2


・グダンスクの街中にはモトワヴァ運河が流れていた。モトワヴァ運河はモトワヴァ川に繋がっている。モトワヴァ川は、地図にモトワヴァ・ヴィスワ川と記載されていることからも、かつてヴィスワ本川だった。ヴィスワ川はポーランド最大の河川、河口でグダンスクの街を流れていると考えることもできる。新潟市の信濃川となんとなく似ている感じだ。

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(出展 Google)

・自称川屋にはグダンスクの川や運河が何故か気になった。グダンスクは、ヴィスワ川の河口、ワルシャワは中流、クラクフは上流にある。今回の旅行でたまたま選択したポーランドの3都市は、意外にもヴィスワ川繋がりだった。ヴィスワ川はバルト海に注ぐ東欧の大河だが、河口のグダンスク周囲には独特の地形が形成されていた。地図右側にはヴィスワ川が運んだ土砂が砂州となって堆積し、内側に巨大な潟湖が出来上がっていた。干拓すれば大きな農耕地もできそうだが、ポーランドはオランダと違って土地がタップリありそうなのでその必要もなかったようだ。それにしても、この砂州のRの真円度の高さにも驚かされる。自然の営力の凄さを感じる。

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(出展 Google)

・中世の地図を見ると、ヴィスワ川は、河口手前で左側のグダンスクと右側の潟湖に分派していた。グダンスクはヴィスワ川が作った低平地にあって、バルト海に沿って形成された砂州のため洪水が抜けにくい地形になっていた感じだ。そのためか、常襲的に洪水被害に悩まされていたという。

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・調べると、グダンスク市街地の東側に放水路らしき水路が2本開削されていた。中世の地図には記載がないので放水路と考えて間違いなさそうだ。1840年に第一次ヴィスワ川放水路、1895年に第二次ヴィスワ放水路が開削されていた。第一次の放水路だけでは洪水流を吐き切らなかったようだ。潟湖にはヴィスワ川の派川Nogat川も流入していた。

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(出展 Wikipedia)

・この状況を見て新潟市を思い起こした。新潟市を流れる信濃川には、河口から約40km上流の大河津に放水路(分水路)があり、市内には関屋分水路がある。新潟市自体は信濃川が運んで来た土砂が堆積した場所に立地した、日本海側を代表する大きな都市だ。信濃川は海岸砂丘の陸地側に流れているので洪水が抜けにくい。新潟平野の人たちは、大河津分水路(1922年完成)が完成する前には信濃川の度重なる氾濫に悩まされていた。分水路の完成で市内の信濃川には洪水が流れなくなったため、市内では川幅を3分の1程度に縮小でき、洪水の被害もなくなった。グダンスクは日本でいえば新潟に似た都市ではないかと思った。グダンスクは、ヴィスワ川の河口に立地した2本の放水路を持つ港湾都市、新潟市は信濃川の河口に立地、同じく2本の放水路を持つ港湾都市という訳だ。ちなみにクラクフで見たグルンヴァルドの戦勝碑は、ヴィスワ川の河口付近の戦いだった。

https://camino0810.exblog.jp/18604722/

・グダンスクは、中世からハンザ同盟都市として繁栄してきた港町だった。稲妻型運河はハンザ同盟都市に共通した防衛インフラで、ブレーメン、ハンブルク、リューベックでも同じものがあった。17世紀のグダンスクの絵図面には旧市街西側にも稲妻型運河が描かれていた。現在、西側の運河は駅前の幹線道路や鉄道に変わっている。市街地の進展に伴い、役割を終えた運河が埋め立てられたケースもあった。グダンスクでは東側の稲妻型運河は歴史文化遺産として保存されているようだ。


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(出展 Google)

・ポーランドの歴史は、11世紀中頃から1600年頃までは首都のあったクラクフ、それ以降現在までは首都ワルシャワの2つの大都市を中心に展開されてきたように思う。グダンスクは中世から自治都市、ハンザ同盟の貿易都市として、独自の発展をしてきた都市国家みたいな街のように思える。自治権を持つとともに、納税や兵役などの義務を免除された「政治・経済特区」だったのではないか。調べると、グダンスクはドイツ騎士団との確執や何度か他国の支配を受けるなど複雑な歴史があった。

(グダンスク出身のKさんから戴いた資料などを編集)

・980年ごろポーランドのミェシュコ1世がグダンスクに砦を建設。
・1235年、グダンスク自治権を得る。1224年、リューベックと似た都市法を確立した。(リューベックは1226年、都市基本法を制定)
・1308年、グダンスクは、ドイツ騎士団により管理され、植民地化される。ドイツ騎士団との確執が始まるも経済成長。
・1361年、グダンスク、ハンザ同盟に加盟。輸出品は、穀物(特に小麦)、木材、炭酸カリウム、タールをヴィスワ川の舟運網を利用。
・1410年、ポーランド王国、グルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団に勝利。グダンスク市民はドイツ騎士団支配を嫌っており、ポーランド側に加盟。
・1457年、ポーランド王とともに13年戦争でドイツ騎士団に勝利、ポーランド王からポーランド王国の自治都市としての特権を得る。ポーランド国内の市場参加も認められる。
・ ポーランド王国の直接の庇護を得た16世紀と17世紀は、グダンスクの貿易と文化にとって「黄金時代」。

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(出展 Wikipedia)

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(出展 Wikipedia)

・多民族の住民が混住することにより、街は繁栄を極める。カトリック教徒との深刻な対立はみられなかった。ポーランド王国には一貫して民族・人種・宗派・宗教の違いを受け入れる寛容な風土があったからである。
・1734年、グダンスク攻囲戦ではロシアに占領される。1793年、第2次ポーランド分割により、グダンスクはプロイセン王国に併合され、公式名称も「ダンツィヒ」に変更。ダンツィヒでは住民のドイツ文化への同化政策が徹底的に行われ、住民の多くはドイツ人(バルト・ドイツ人)となっていった。

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(出展 Wikipedia)

・第一次世界大戦後はヴェルサイユ条約によりドイツ領から切り離され、どの国にも属さない国際連盟保護下の「自由都市ダンツィヒ」となる。堤防が破損し、氾濫が頻発する。
・1939年、ポーランド侵攻に際して、グダンスクはドイツに占領される。グダンスクはドイツ軍と連合国軍との激しい戦闘により大半が破壊された。
・1952年、ポーランドが独立を回復すると、もとの「グダンスク」を公式名称としてポーランド領に編入。159年ぶりにポーランド領へ復帰。旧市街など、戦争で廃墟となっていた市街地は、残された資料をもとにポーランド人の手によって完全に復元される。
・1990年、「連帯」指導者だったレフ・ワレサがポーランド大統領。現在のグダンスクはポーランド最大の観光地の一つで、内外の多くの観光客でにぎわい、また主要貿易港の一つでもある。ポーランド北部の文化の中心地でもあり、ポーランド市民が精密に復元したグダンスク旧市街はその文化的価値が認められ、そう遠くないうちに世界遺産として正式登録される見込みである。

・以上、長々とグダンスクの治水や歴史・文化に触れてきた。本末転倒な話しだが、実際はこのような知識はほとんど持たずにグダンスクの街を歩いた。予備知識なしでも素晴らしい街並みや水辺を楽しむことができたのは、詰まる所、グダンスク自体の観光的価値が非常に高かったということになる。今から思うと、一定の予備知識があった方がより楽しみや理解が深まったのではないかと反省している。

・ドゥーギ広場の出口にある「緑の門」を潜り抜けてモトワヴァ運河に出た。


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以下、次号・・・

by camino0810 | 2018-03-26 16:06 | ドイツⅡ | Comments(0)  

2018年3月25日(日)ドイツⅡ その86 エピローグ(20)グダンスク

⑨グダンスク:2017年5月7日(日)その1


・20時00分発ポーランド空港LO3502便はグダンスク空港に21時05分に到着した。夕暮れ時の街がオレンジの街路灯で浮かび上がっていた。写真上側がバルト海、写真真ん中の川は、市内を流れるモトワヴァ川。

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・グダンスク・ワレサ空港の空港ターミナルもピカピカでお洒落だった。クラクフ空港とそのアクセス線もピカピカ、グダンスク空港とそのアクセス線もピカピカだった。ポーランドは新規投資が盛んな国かもしれない。

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・空港からホテルのあるグダンスク本駅までは約8kmとアクセス良好。バスを利用したが、料金は3.2ズオティー(100円)、クラクフよりも更にリーズナブルだった。

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(出展 Google)

・グダンスク本駅までの乗車時間は約40分、通勤客との乗り合わせなので車内は結構込んでいた。車内で乗客の若い男性に英語で「このバスは、グダンスク本駅まで行きますか」と尋ねると、英語で「OK、車内の検札機に切符を通すのも忘れないように・・・」と返してくれた。とても親切な印象があった。

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・22時、グダンスク本駅に到着、駅前に人通りはなかった。駅のコンビニや売店が閉まっていたので、夕食用に開いていたマックでハンバーガーを購入した。

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・初めての街でホテルまで暗い道を重い荷物を背負っていくのはとても危険だ。タクシーにした。料金は、12.55ズオティー(390円)と随分とリーズナブル。マックは消費税込み13.6ズオティー(420円)、コカコーラは税込み4.9ズオティー(150円)。マックのような食料品は消費税が23%、コカコーラのような飲料は消費税8%という具合に消費税を差別化していた。頻繁に食べるものや使用するものは消費税を安く、贅沢品?は消費税を高くしてあるだろうか。ポーランドでは日付の書き順が日本と同じ西暦、月、日の順番だった。ドイツを含め欧州では、普通、日、月、西暦の順。そう言えば、ハンガリーも日本式だった。1386年、ポーランド・リトアニア連合が成立した時のポーランド女王はハンガリー出身なので、何か関係があるのかもしれない。

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当日にフェイスブックにアップした記事・・・

5月6日(土)グダンスクは晴れ、少し寒い。
22時、やっとの思いでグダンスク本駅近くのホテルにチェックインできた。クラクフ発のプロペラ機の出航時刻が1時間40分遅れた。グダンスク空港はグダンスク・レフ・ワレサ空港が正式名らしい。グダンスク空港もピカピカの空港だった。本駅行きのバスにうまく乗車できた。本駅まで40分、3.2ズウォンティ(90円)とは驚きのアクセスの良さとリーズナブル過ぎる料金だ。
駅のキオスクが閉店していたので久し振りにマックの夕食にした。
グダンスクが今回の旅行の最終地点になる。明日の18時の飛行機で出発点のフランクフルトに戻る。
明日のお天気が今一つなのが残念だ。

・海外旅行のマストアイテム「地球の歩き方 チェコ ポーランド スロヴァキア(’13~’14)」にグダンスクの紹介があった。グダンスクのキャッチコピーは「バルト海沿岸の歴史ある美しい港町」。

『バルト海沿岸の港湾都市グダンスクは、ポーランドで最も美しい町のひとつ。クラクフと並び、ポーランドが世界に誇る文化・歴史・観光の一大拠点だ。
町は1000年以上の歴史を誇り、14世紀にはハンザ同盟都市として繁栄を謳歌した。旧市街は、ゴシック、ルネッサンス、バロックといった各時代の建物で埋め尽くされており、当時の繁栄振りを今に伝えている。
華やかな街並みをもつ一方、グダンスクは、激動の歴史を歩んできた町でもある。グダンスクはドイツ名ではダンツィヒといい、自由都市、ポーランド領、プロイセン領とその帰属をたびたび変えてきた。第1次大戦後には、国際連盟管理下の自由都市となったが、1939年9月1日、ドイツ軍がヴェステルプラッテに奇襲をかけ、結果的にこれが第2次世界大戦の勃発につながった。戦争中には大きな被害を受けたが、その後復興し、町はかっての美しい姿を取り戻している。』

・グダンスク市内を貫流するモトワヴァ川の河口にヴェステルプラッテがある。第2次世界大戦が、ドイツ軍のヴェステルプラッテ侵攻で始まったとは知らなかった。グダンスクは、ワルシャワとともに第2次世界大戦の戦火で街はほとんど破壊されたが、戦前の姿を再建し、見事に復興していた。朝7時20分、ホテルを出発、街歩きを開始した。街歩きに充てる時間は4~5時間程度しかないので、グダンスクの核心部を歩いてお昼にホテルに戻る作戦にした。

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(出展 Google)

・ホテルの前に奇妙なデザインの茶色の建物が建っていた。2014年8月にオープンした「欧州連帯センター」という建物だった。1980年8月、レーニン造船所の一労働者だったレフ・ワレサ(後の大統領)が労組を結成し自由を求めて、立ち上がったそうだ。1989年、ベルリンの壁が崩壊、ワレサの率いる「連帯」が政権を取り、2004年にEU加盟。この建物は現在のポーランドの原点を記念するものだと感じた。

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・生憎、日曜日のこの日は朝から冷たい雨が降った。日本の真冬並みの寒さでだった。グダンスク本駅を目指して歩いた。グダンスク本駅は赤レンガ造りの実に優美な駅舎。大きな駅ではないが、ディテールまで手抜きが感じらない歴史的、観光的価値の高い駅舎だと感じた。

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・グダンスク本駅の東南にある旧市街の観光の核心部を歩いた。グダンスク本駅に近い、教会が集中している地区から歩き始めた。聖ヨゼフ教会の門柱の表面は真新しい赤レンガでリノベーションされていた。門柱の背後の赤レンガは創建当時のものかもしれない。

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・門柱には複十字が建っていた。複十字は2本の十字架を縦に並べた形をしている。腕木が2本の十字架はスロバキアの国旗にもなっているし、ハンガリーでもこの複十字を見た。東欧では十字架といえばこの複十字になっているようだ。

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・グダンスクの観光の中心部はグダンスク本駅の東南部(写真の右側)に集中していた。

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(出展 Google)

・聖ヨゼフ教会の斜向かいにある旧市庁舎は可愛らしい赤レンガ一色の小さな建物。外面は鮮やかな赤なのでリノベーション済みかもしれない。

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・花壇の手入れも文句なしに丁寧だった。

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・旧市庁舎前の公園には天体観測をしている人物の彫像があった。JAN HEWELUSZ(1611年~1687年)はグダンスク生まれの天文学者。月の地形学の創始者だそうだ。そういえば、コペルニクスは地動説を最初に唱えたマルチな才能を持つ天才的ポーランド人。ポーランドにはショパンやキュリー夫人など学術に秀でた人が多いように思った。

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・公園の脇には巨大な屋根の「大製粉所」があった。中世、近世にラドゥニ運河の水位差を利用して水車で製粉していたそうだ。そう言えば、ハンブルクの巨大な内アルスター湖は水車を回すための貯水池だった。リューベックの大聖堂脇の大きな湖には水車小屋があった。水車は中世~近世の都市の食を支える大事な産業インフラだと気づいた。役割を終えた産業インフラを見事に観光インフラに変えていた。

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・朝の早い時間で冷たい雨が降っていたせいか、ラドゥニ運河周りは静かで落ち着きがあった。路面と運河水面の高低差は3m弱、転落防止策が設置されていた。赤レンガの眼鏡橋は、レンガの色が新鮮なのでリノベーションが終わったばかりのようだ。重要な歴史的建造物の補修は観光インフラとしての価値を維持する上でも欠かせない。これまでの欧州旅行で補修中の大聖堂などの歴史的建造物をよく見掛けた。グダンスク市当局はしっかり予算を付けているようだ。

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・赤レンガの眼鏡橋からラドゥニ運河下流側を眺め。高欄には南京錠・・・有名な観光地によく見られる光景だ。中の島の奥に「大製粉所」がある。


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「大製粉所」と聖カタルツィナ教会・・・

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・旧市庁舎前の公園は、現代的なオブジェと中世からの歴史的建造物を見事に調和させていた。グダンスクには優れた「アーキテクト」がいるようだ。

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・大通りを歩いて、ドゥーギ広場を目指した。建設中の大きな施設が見えてきた。水平な腕木を持つジブクレーンが沢山建っていた。ポーランド人はジブクレーン派、ドイツ人と同じ。新規投資もしっかり行われている様子が伺えた。

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・グダンスク観光のホットスポットまで来た。入口の「高い門」は1588年に完成した、風格のある石造り風に仕上げた門。グダンスク旧市街の表玄関で、当初は跳ね橋だったそうだ。3つのエンブレムはポーランド、ドイツ騎士団、グダンスク市のエンブレムだとか。赤レンガのリューベック、ブレーメンと似ていた。この3つの都市はハンザ同盟の都市、貿易で繁栄してきた港湾都市だ。


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・その背後に控えるのが背の高い「囚人塔」、元々は街の防衛施設だったとか。外敵をいち早く発見する監視塔だったのだろう。

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・囚人塔の後に「黄金の門」が続いた。1614年完成したオランダ・ルネサンス様式だそうだ。

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・「黄金の門」からドゥーガ通りが見えた。

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・「高い門」などはある意味「前座」。ドゥーガ通り、ドゥーギ広場は「真打ち」、グダンスク観光の核心部だと感じた。生憎のお天気だったが、中世、近世の気分を感じさせる素晴らしい街並みだった。絵葉書のような美しい街並みが続いた。ドゥーガ通りは幅が20mの石畳の通り、車の通行はなかった。スカイラインを揃えた建物の向こうに背の高い市庁舎が見えていた。

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・グダンスク市庁舎は、高さは82m、1379年着工、1561年に完成、建設工期は182年。グダンスクの最盛期の建造物かもしれない。そういえば、クラクフの中央広場に建つ聖マリア教会も同じ82mだった。

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・市庁舎のファサードは小振りだが、精巧な彫刻で飾られていた。エンブレムは、王冠の下に十字架が2つ並んでいた。「複十字」とは2つの十字架の合成体かもしれない。

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・ドゥーギ広場は、幅40mで長さが200mの石畳の広場。5階建てのパステルカラー建物群が綺麗に屋根と壁面を揃えていた。正面の門の向こうにお目当てのモトワヴァ運河があった。


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・門を潜り抜けて、モトワヴァ運河を歩いた。

当日にフェイスブックにアップした記事・・・

5月7日(日)グダンスクは雨後曇り、寒い。
朝7時過ぎ、グダンスク本駅を手始めに街歩きを開始した。
この街の観光ホットスポットは本駅の東南に固まっていた。教会や市庁舎などメーンはすべて赤レンガで仕上げてある。
グダンスクは千年の歴史を持つ風格に溢れた街だった。大小様々な教会はそれぞれに素晴らしいがどちらかというと前菜かアラカルト、観光のメーンディシュは市庁舎のあるドゥーギ広場だろう。「黄金の門」を潜ると素晴らしい街並みが姿を現す。一番人気の市庁舎前でツアー客が写真を撮りまくっていた。
反対側の門を抜けるとモトワヴァバ運河が現れる。この運河河畔の景観にも驚かされた。建物と運河の間に広いところで20mくらいのスペースがある。カフェなどが並んでいて、建物は運河に向いている。観光舟運も盛んなようだった。
(省略)

以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-03-25 10:38 | ドイツⅡ | Comments(0)  

2018年3月24日(土)ドイツⅡ その85 エピローグ(19)クラクフ

⑨クラクフ:2017年5月6日(土)その4


・12時にホテルをチェックアウトしてクラクフ本駅へ、クラクフ空港から飛行機でグダンスクに向かった。ホテルのスタッフに空港まではクラクフ本駅からの電車を勧められた。

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・40Lのバックパックと30Lのデイパックを携帯してクラクフ本駅まで歩いた。

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(出展 Google)

・中央広場の旧市庁舎・・・

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・12時30分、中央広場のカフェで一休みした。ビールは500ccで14ズオティー(430円)、他に比べてビールは少し割高な感じだった。カフェのテラス席から見た聖マリア教会や織物会館・・・

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・ポーランドのタバコは、平均13ズオティー(400円)、日本より少し安めのお値段。タバコの健康障害表示は各国毎に様々だが、ポーランドは東南アジアで売られているタイプの、グロテスクな写真付きのタバコも置いてあった。

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・リングの外に出てクラクフ本駅に向かった。リング公園にはチューリップが綺麗に咲いていた。庭の手入れの完璧さに改めて驚かされた。

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・公園の一隅で男性と女性が握手をしている彫像に出会った。台に刻まれた2つの数字、1386、1886の意味を調べてみた。

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・1386年は、ポーランド・リトアニア連合によりヤゲェウォ王朝始まった年だった。この像は、その中心人物の二人の国王で、その500周年を記念して1886年に建てられた顕彰碑だと考えてみた。

wikipediaから

ピャスト朝が1370年にカジミェシュ3世の死により途絶えると、アンジュー朝のハンガリー王ラヨシュ1世が選ばれポーランド王ルドヴィクとして即位した。1382年のルドヴィクの死後、ポーランド王位を継承した11歳の末娘ヤドヴィガは、1386年にリトアニア大公ヤギェウォ(ヨガイラ)と結婚した。ヤギェウォはキリスト教に改宗してヴワディスワフ(2世)を名乗り、ヤギェウォ朝を築いた。

・左側の女性はポーランド王位を継承した11歳の末娘ヤドヴィガ、右の男性はリトアニア大公ヤギェウォ。その二人が結婚したのが1386年ということだろう。ポーランド・リトアニア連合国は当時欧州有数の大国だったそうで、ポーランドが絶頂期を迎えた時代だったと思う。

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・リングの外にある広場で大きな彫像に出会った。「グルンワルド」というドイツ語風に綴られた文字が気になった。1386年に成立したポーランド・リトアニア連合が、1410年ポーランド北部のグルンワルドの戦いでドイツ騎士団を撃破したそうだ。ドイツ騎士団はこれから向かうグダンスクとも深く関係している。とにかく、ポーランドはそのドイツにも勝利した訳で、最盛期を象徴する戦いとして記念碑を造ったのではないかと思った。ポーランドは受難の歴史を背負った国だった。愛国や独立を示す顕彰碑が多いのはこのような歴史を反映した結果だろう。

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・14時、クラクフ本駅に到着。駅前広場は実に広々として気持ち良かった。この駅舎は使用されていなかった。建築遺産として保存されているようだった。何か別の施設として使用されているかもしれない。役割を終えたインフラやハコモノを別の用途に転換するやり方は欧州でよく見てきた。

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・駅のホームはショッピングモールの真横にあった。

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・ショッピングモールは、日本と似ていた。グダンスク駅前もこんなショッピングモールだった。

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・ポーランドでもお寿司は人気商品のようだった。この店では日本の都市名を商品名に充てていた。Nagoya 26ズオティー(810円)、Tokyo 25ズオティー(780円)、Yokohama 36ズオティー(1100円)、Osaka 32ズオティー(990円)。ニギリと海苔巻きの数で値段を決めているようだが、日本に比べて割高な高級食となっている。

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・当日のフェイスブックにアップした記事・・・

5月6日(土)クラクフは曇り、適温。
久し振りに遅めに起きてノンビリできた。10時から1時間半掛けて旧市街をおさらいした。12時ホテルをチェックアウト、駅まで重いバックパックを背負うのが辛くなってきたので、一休みしている。
クラクフ空港発18時20分発グダンスク行きの飛行機まで時間が有り余っている。時間潰しに中央広場のカフェでビールを飲むことした。
ポーランドは英語が通じにくい国だと聞いていたが、ホテル、スーパー、カフェのスタッフは英語が堪能で助かった。僕の下手くそな英語も理解してくれる。
結局、空港にはクラクフ本駅から電車で行くことにした。ホテルのスタッフの話しでは、所要時間は20分、9ズオティ(270円)だという。アクセス、料金も文句なしにありがたい。

・クラクフ本駅14時36分発の空港行きの電車に乗車した。これから、今回の旅行の最終目的地グダンスクに向かう。クラクフはポーランドの国境沿いの南端、グダンスクはバルト海に面した北の端にあり、その直線距離は概ね600km。クラクフ・バリツェ空港は市内から約13kmの場所にあった。9ズオティー(280円)、所要時間20分とは料金も含めて文句なしのアクセスの良さだった。

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・郊外の高層アパート群・・・。

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・戸建て住宅・・・

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・街中は電柱・電線が地下化されていても郊外での送電は日本と同じ鉄塔・架空線方式・・・。

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空港駅の駅舎は出来立てのピカピカだった。

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・空港駅と空港の建物は渡り廊下で繋がっていた。クラクフ・バリツェ空港のターミナルもピカピカのお洒落な建物だった。「 ヨハネパウロ2世・クラクフ・バリツェ国際空港」が正式名称、クラクフ出身のヨハネ・パウロ2世の名が付いていた。

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・クラクフ・バリツェ空港は、長さ3kmの滑走路が1本用意されていた。もう1本くらいは増設ができるよう用地が取得されていた感じだ。土地の広い国はうらやましい限り。

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(出展 Google)

・滑走路は小振りでも国際空港、アムステルダム、ロンドンの3つ空港、フランクフルト、リーズ、ベルリン、マドリッドなど欧州の主要空港行きの便が沢山運航していた。イージージェット、ライアンエアーなどのLCCも乗り入れていた。

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・もともと時間がたっぷり余っている上に、グダンスク行きの飛行機が遅れた。コーヒー(6.5ズオティー:200円)でも飲みながらPCで暇つぶしをした。

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・軍服姿の係員による手荷物検査が完了して搭乗ロビーへ。チェックインの時、係りの女性から「40Lのバックパックを機内持ち込みにすると155ズウォンティ(4500円)の追加チャージが発生する」と言われた。キャビン持ち込みなら無料だそうだ。当然のことながら、キャビン持ち込みを選択した。ベルリン~ワルシャワ間もキャビン持ち込みにすれば余分に60ユーロ(7500円)を支払う必要もなかった訳でチョッピリ悔しい思いがした。

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・LCCのイージージェットは移動式通路を使っていなかった。ジェット機を降りた乗客はエプロンを歩いてターミナルに移動していた。日本では見たことのない光景だった。空港施設利用料金を省いて安くするためかもしれない。

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・「RYANAIR」はアイルランドのLCC。

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・ポーランド航空LO3502便は小型のプロペラ機だった。クラクフ、グダンスク間の料金は3000円程度、格安のお値段で予約できたので文句はいえない。プロペラ機は80人乗りの小型機だった。ポーランド航空LO3502便は1時間40分遅れて、20時に出航した。

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当日のフェイスブックにアップした記事・・・

5月6日(土)クラクフは曇り、適温。
14時36分クラクフ本駅発の空港行きは15時にクラクフ空港に着いた。正式にはヨハネパウロ2世クラクフバリツェ国際空港というそうだ。ワルシャワにはショパンの名前が付いていた。個人を顕彰するお国柄かもしれない。
この空港は出来立てのピカピカの空港だった。
出発案内板にはがっかりさせられた。18時20分発グダンスク行きLO3502便は20時出航と1時間40分遅れになっているではないか。もともと時間潰しに困っていたので搭乗ゲートでこの記事を書いている。チェックインの時、係りの女性は40Lのバックパックを機内持ち込みにすると155ズウォンティ(4500円)の追加チャージが発生するという。キャビン持ち込みなら無料とアドバイスを受けた。キャビン持ち込みを選択したわけだが、ベルリン~ワルシャワ間もキャビン持ち込みにすれば余分に60ユーロを支払う必要はなかった訳でチョッピリ悔しい思いがした。

21時05分、グダンスク・ワレサ空港に到着。この空港ターミナルもピカピカでお洒落でした。

以下、次号・・

by camino0810 | 2018-03-24 16:30 | ドイツⅡ | Comments(0)  

2018年3月24日(土)ドイツⅡ その84 エピローグ(18)クラクフ

⑨クラクフ:2017年5月6日(土)その3


・宿泊したホテルは三ツ星だがリーズナブルで、ヨーロッパでよく見掛ける伝統的な外観や内装のホテルだった。


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・このホテルはヨーロッパでよく見掛けた『横目地』の伝統的建物だったが、その外壁が、結構、痛んでいた。外壁は赤レンガの表面をモルタルで仕上げていた。この痛んだ外壁は目抜き通りから丸見えで、かなりの間放置されている感じだった。

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・10時、再び旧市街の南端にあるヴァヴェル城から街歩きスタートした。伝統に溢れるこのお城も良く見ると補修の跡が沢山あった。城壁は赤レンガと自然石の2種類で出来ていた。お城本体の外壁も同じ。欧州の建造物は基本的に『ツギハギの思想』が基本的なコンセプトになっているように感じる。使い古した衣服を修繕して何度も使うというスタンスだ。それが貧相に見えないのが欧州流だろう。日本は、典型的なスクラップ&ビルト型のフロー社会だ。欧州は、日本とは対照的なストック社会だといつも感じる。

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・良く見ると、旧市街の教会の外壁もツギハギだらけだった。これが決してみすぼらしく見えないのが実に不思議だ。欧州では昔のものを大事に使いまわす伝統が今でもしっかり根付いているように感じる。

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・旧市街のモルタル造りの建物・・・例の『横目地』が落ち着いた風格のある気分を出していた。

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・旧市街の路地裏も石畳の舗道にモルタル造りの建物がしっくりと収まっていて落ち着いた良い気分を出していた。路地裏でも電柱や電線などは勿論ない。

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・『横目地』の建物もあった。

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・職人さんが外壁の補修をしている珍しい場面に遭遇した。このような職人がクラクフの街の落ち着いた景観を支えているようだ。プレミックスのモルタルをハンドミキサーで溶いていた。粗仕上げを終えた外壁のタッチアップをどう処理するのかが腕の見せ所だろう。

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・聖マリア教会は高さ82m、旧市街で最も高い建物。1222年に完成したゴシック様式だそうだ。この教会は、ヴァヴェル大聖堂があるので、クラクフにおいて教会の序列はNO2でもクラクフを代表する宗教施設だと感じた。リューベックの旧市街の中央部には、大聖堂を上回る大きさの聖マリア教会があった。リューベックの聖マリア教会もほぼ同時期の建物。尖塔以外は何となく似たような感じもした。西欧の大聖堂のファサードの尖塔はほとんど左右対称だったが、この有名な教会の2本の尖塔は非対称。ブダペストの王宮の近くにあった教会のファサードも非対称だった。日本的な感覚だと左右を揃えるのがしっくりくるが、東欧の人たちは違う感覚があるのかもしれない。良く見ると窓などのディテールも微妙に違っていた。設計者の意図は何か、少し気になるところだ。

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・広場に大きな彫像があった。ポーランドの国王と思いきや、19世紀の革命詩人で愛国詩人のアダム・ミツキエヴィッチという人だった。銅像は19世紀末に造られた。後で判ったことだが、詩人が中央広場のセンターを占めている理由はポーランドの受難の歴史に関係しているようだ。

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・中央広場の真ん中にある織物会館にはお土産物さんがずらりと並んでいた。東欧の気分が溢れた民族色豊かなお土産がどっさり陳列されていた。彫刻が入った小箱、素朴な木彫りの人形、ユダヤ人の人形、名産の琥珀を使ったペンダント、民族衣装など。ポーランドはほぼ100%カトリックだが、ロシア正教のイコン像、マトリョーシカ、イースターエッグなども並んでいた。何故か?・・・ワルシャワ市民は、ソ連から贈られた科学文化宮殿を嫌っていたが、ポーランドは18世紀末からソ連以前のロシアに支配されていた歴史がある。ロシアの生活様式が浸透していたということだろうと考えてみた。

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・琥珀を買ったお土産さんの若い女性店員は愛想が良かった。カメラを向けるとポーズをとってくれたし、英語もOKだった。


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・旧市街の北側にあるフロリアンスカ門の裏側は絵画の展示売り場になっていた。旧市街を守る城門・城壁はフロリアンスカ門付近だけが保存されていて、それ以外は撤去され、リングとして公園と道路に変わっていた。クラクフも人口集中に伴う市街地の進展で城壁を撤去したように感じる。

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・フロリアンスカ門の東側には風格に溢れた建物があった。ユリウシュ スウォヴァツキ劇場という劇場だった。ユリウシュ・スウォヴァツキ(1809年~1849年)は、ポーランドのロマン派詩人、劇作家。彼の遺骸は1927年、ヴァヴェル大聖堂に移されそうだ。お隣のお墓にはアダム・ミツキェヴィチが眠っているとか。アダム・ミツキェヴィチは、19世紀の革命詩人で愛国詩人、その銅像が中央広場の真ん中にあった。両人とも苦難の歴史を歩んできたポーランド人を芸術で励ました英雄たちだったようだ。

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・旅行先の国、街、建物や風景をそれなりに理解するには、その国やご当地の歴史的な成り立ちを一応知っておく方がいいと思うようなった。この街を歩いている時点では、クラクフに関する自分の知識が相当不足していた。クラクフは11世紀中頃から1596年まで約550年間ポーランドの首都だった。以下、『地球の歩き方』からポーランドの歴史を概括してみた。

1025年:ボレスワフ1世がローマ教皇から正式にポーランド国王として認められる。
1370年:カジミエシュ3世(在位1333年~70年)により最盛期を迎えたが、彼の死によりビャスト朝断絶。
1386年:ポーランド・リトアニア連合によりヤゲェウォ王朝始まる。
1654年:”大洪水”と呼ばれる、ロシア軍、スウェーデン軍などによりポーランド侵攻始まる。
1772年:18世紀に入り大北方戦争勃発、1733年には国内で王位継承戦争が起こるなど、戦争によって国は衰退の一途たどる。そして、ロシア、プロシア、オーストリアによる第1次ポーランド分割が行われる。
1795年:1793年には第2次ポーランド分割、そして1795年の第3次ポーランド分割によりポーランド王国は消滅する。
1830年:フランス7月革命に呼応してポーランド民衆のなかに独立の機運が高まり、11月蜂起発生。戦闘は9ヶ月続いたが、敗北。以後、ロシア化が強化され、ロシア帝国に併合される。1846年クラクフ蜂起(反オーストリア)発生。
1863年:1月蜂起(反ロシア蜂起)発生。ロシア領ポーランドで農奴解放令布告。独立運動は沈静化に向かう。

・1493年の旧市街の絵図面は北側から俯瞰した絵だろう。クラクフの街はヴィスワ川を挟んで2つに分かれていた。当時のヴィスワ川は大きく蛇行していたようだ。絵図の左側の市街地にはカジミエシュ地区も含まれていたのではないか。カジミエシュ地区はユダヤ人が現在でも生活する地区だが、1335年、カジミエシュ大王の手でクラクフとは別の街として造られたそうだ。大王は当時迫害されていたユダヤ人保護の熱心に取り組んだ王として知られ、彼の時代には多くのユダヤ人がクラクフに移り住み商工業の発展に寄与したと言われている。ポーランド人はドイツ人と違ってユダヤ人には比較的寛大だったと言えそうだ。当時の旧市街は、フロリアンスカ門に見たような城門と城壁で全周をガッチリ守られていたことが判る。

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(出展 Wikipedia)

・1896年の旧市街の地図に1493年の旧市街の絵図面の旧ヴィスワ川を入れてみた。およそ川というものは生き物みたいなもので、放置すると、どんどん蛇行していくものだ。人口増加に伴う市街地の拡大や洪水防御のために、川の付け替えや直線化は洋の東西と問わず行われてきたと考えてもいいようだ。

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(出展 Wikipedia)

・16世紀末の絵図面には西側から俯瞰した旧市街が描かれていた。ヴァヴェル城、聖マリア教会が描かれている。手前の広場で軍隊が行軍していた。ヴィスワ川には、材木で組んだ筏が浮かんでいて、筏に物資を載せて輸送していた。

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(出展 Wikipedia)

・同じ16世紀末のヴァヴェル城とヴィスワ川の産業舟運・・・

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(出展 Wikipedia)

・1654年、「大洪水」と呼ばれるロシア軍、スウェーデン軍などによるポーランド侵攻始まった。1655年のスウェーデン軍によるクラクフ城攻撃の様子が克明に描かれていた。この絵は東側から俯瞰的に描かれていた。スウェーデン軍の大群がクラクフ城を囲み、沢山の大砲からクラクフ城内へ飛ぶ砲弾や砲弾が炸裂している様子が描かれていた。この戦いでクラクフは陥落したという。

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(出展 Wikipedia)

・ワルシャワ旧市街に名門ワルシャワ大学があったように、クラクフ旧市街にも名門ヤゲェウォ大学があった。中欧ではプラハのカレル大学に次ぐ歴史のある大学で、コペルニクスや前ローマ法王ヨハネパウロ2世も学んだそうだ。このような関係からだろうか、旧市街には古本屋さんもあった。羊皮紙で包まれた古書も並んでいた。クラクフは、学問の街でもあった。

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・11時30分、ホテルに戻って、部屋で出発の支度をした。
以下、次号



by camino0810 | 2018-03-24 01:24 | ドイツⅡ | Comments(0)  

2018年3月21日(水)ドイツⅡ その83 エピローグ(17)クラクフ

⑨クラクフ:2017年5月5日(金)その2


・海外旅行で携行する、マストアイテム「地球の歩き方 チェコ ポーランド スロヴァキア(’13~’14)」にクラクフの紹介があった。クラクフのキャッチコピーは「ポーランドの京都と称される美しい古都」。

『クラクフは11世紀中頃から1596年までの約550年間ポーランド王国の首都として栄えた都。特に1386年から1572年まで続いたヤギェウォ王朝の時代は黄金期といわれ、当時のクラクフはボヘミアのプラハ、オーストリアのウィーンと並ぶ文化の中心であった。旧市街の南、ヴィスワ川河畔の丘に華麗な姿を見せるヴァヴェル城には歴代のポーランド王が住み、同じ敷地内にある大聖堂は、王の戴冠式が行われたとともに、永眠の場所であった。
ポーランドのほかの都市が第2次大戦で壊滅的な打撃を受けたなか、クラクフが戦災を免れたのはここにドイツ軍の司令部がおかれていたためだという。「ワルシャワが東京とすればクラクフは京都」ともたとえられる歴史的な町並みは、1978年にユネスコに世界遺産に登録されている。ヴァヴェル城や旧市街をはじめ町全体が中世のたたずまいを残し、しっとりした古都の趣きが薫り立つ。時代を超えた雰囲気のなか、足の向くままに街をそぞろ歩いてみよう。風にのってどこかから漂ってくる音楽の調べが、遠い歴史の彼方へ誘ってくれる』

・第2次大戦中、アメリカ軍は京都だけを爆撃目標から外し、ドイツ軍はフランスのパリを無血開城し、その街並みを保全した。高名な歴史文化資産は市民をも守る力があったと考えてもいいだろう。18時、再び、ヴァヴェル城の北側まで戻って、クラクフ旧市街の街歩きを開始した。

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(出展 Google)

・写真左側の建物が王宮、ポーランド歴代国王の墓所もあるという。そのお隣の青い屋根の尖塔がヴァヴェル大聖堂。城壁の赤レンガと芝生の緑のコントラストも優れた景観になっていた。

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・旧市街の入り口・・・車を排除して人の通行だけにしている感じだ。欧州の中心市街地でよく見かけたパターンだった。石畳の道を北に向けて歩いて行った。


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・小学生らしい一団に出会った。服装は日本の小学生と似たような感じだった。

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・引率の先生だろうか。女性は全員パンツルック。これまで欧州の街でスカート姿の女性はほとんど見かけたことはない。日本人女性のスカートの割合が高いのは何故だろうか。

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・聖ペテロ聖パウロ教会は白壁のどっしりしたファサードで、賢人像がずらりと並んでいた。

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・聖アンデレ教会のファサードは尖塔タイプ。教会建築にもいろいろな流儀があるようだ。この辺りは教会が多く、宗教施設が集中していた。江戸時代の東京のみたいに職能別の住み分けがあったのかもしない。

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・旧市街には観光用の馬車がひっきりなしに走っていた。馬車の装丁もゴージャスだが、馬のお化粧も負けずに豪華だった。

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・今日は金曜日、5月のヨーロッパは21時くらいまで明るいので、これから益々人出があるだろう。

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・「SPAR」に寄って夕食を買い求めた。ドイツではコンビニが見当たらず結構困ったものだ。日本ほど高密度ではないけど、ポーランドはコンビニがあった方だ。惣菜パン、菓子パン、ジュースなどで15.18ズオティー(470円)、とにかくリーズナブルだった。コンビニでも野菜なども販売していた。
 オレンジ1kg 5.05ズオティー(160円)
 ブドウ 1kg 9.39ズオティー(290円)
 パプリカ1kg 11.48ズオティー(360円)
 ズッキーニ1kg 4.69ズオティー(150円)
 菓子パン1個 1.95ズオティー(60円) 
 食パン1個 2.79ズオティー(90円)

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・ドミニカン修道院のファサードは、閻魔大王の帽子みたいで日本人には怖い思いをするだろう。写真左端に「GETTO」という標識が写っていた。ユダヤ人居住区の「ゲットー」だろう。クラクフにはユダヤ人が沢山居住しているそうだ。ヴァヴェル城の東南にはゲットーがあり、映画「シンドラーのリスト」のロケが行われたそうだ。クラクフの近くのオシフェンチムにはアウシュヴィッツ強制収容所もある。

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・クラクフ旧市街といえば、何といってもヘソにあたる「中央広場」だろう。大きな尖塔は旧市庁舎の塔だった。

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・中央広場は200m四方の実に大きな広場だった。ワルシャワ旧市街の広場が70m×90mなので、ワルシャワの6倍の面積があることになる。中央にある織物会館は、お土産物さんが沢山入った一種のショッピングモールだった。中央市場は、東京でいえば、築地市場みたいなものかもしれない。広場の右上に「聖マリア教会」があった。

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(出展 Google)

・旧市庁舎の塔と織物会館・・・

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・これまで、これだけ広々とした広場を歩いたことはない。ドイツのライプチヒの駅舎もそうだが、大きいこと、広いことはそれだけで十分価値が高いなと感じた。

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・聖マリア教会は1222年に建てられたゴシック式の教会で塔の高さは82m。旧市街のランドマークになっていた。教会のファサードの2本の尖塔は左右非対称だった。尖塔は赤レンガ製、ドイツもそうだが、石材が乏しい地方だったのかもしれない。

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・織物会館のファサードは多連のアーチで長さは100m。ゴージャスな建物だった。クラクフの繁栄を象徴する建物だろう。2Fはクラクフ国立美術館。

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・広場周囲の建物群は5階建てでスカイラインを綺麗に整えていた。

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・中央広場の西側の通路を歩いて外側のリングに向かった。道路にはトラムの線路跡が残っていた。中央広場へのトラムの乗り入れを止めたようだった。ドイツのブレーメンでは中央広場にトラムを入れていたが、クラクフの方が正解ではないかと思った。

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・当日にフェイスブックにアップした記事・・・

5月5日(金)クラクフは晴れ、温暖。
15時にホテルにチェックイン、一休みして17時から街歩きを始めた。5月のヨーロッパは21時位まで明るいので時間は十分に取れる。
クラクフの街はリューベックと似ていた。旧市街は楕円状のリング道路、公園、城壁に囲まれている。中世の時代には、かなりの防衛力を持った都市国家だったのではないか。
リング道路はドイツのフランクフルト、ケルン、ライプチヒ、レーゲンスブルクでも見掛けた。中世~近世には、リング道路はお堀になっていて、現代になって埋め立てて公園や道路にしたのではないか。
ホテルはリングの南端にあるので、南のヴァヴェル城から歩き始めた。お城の城壁からヴィスワ川がよく見える。ワルシャワのヴィスワ川は河川利用がなかったが、上流のクラクフでは観光舟運が割と盛んだった。
リングの中は大勢の観光客で賑わっていた。第2次大戦で京都が爆撃対象から除外されたようにクラクフも爆撃を逃れたという。そのため中世からの歴史的建造物が沢山残されている。なるほど、古都クラクフが世界遺産に登録された所以だ。
欧州の街は大聖堂、教会や市庁舎と広場がセットになっているパターンが多いように感じる。
クラクフの広場はざっくり200m×100mが2面あり、大勢の人が集まっていた。
リングの北端まで行ってリング道路沿いに南下した。ホテルに帰り着いたのが19時、2時間の歩きでもこの街の素晴らしさが理解できた。
リング道路の外周には風格ある建物が並んでいた。リング公園は新緑が瑞々しかった。夕方近くでも沢山の人がせっせと歩いていた。
明日は雨の予報なので今日中歩いておいたほうが得策と考えてかなり無理して歩いた。朝はワルシャワで歩き、夕方クラクフで歩き相当疲労した。
明日の夕方、今回の旅の最終目的地グダンスクに向かう。

・引き続き、リングの西端から時計回りに北端まで行って、リング沿いに南下してホテルに戻った。

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・北を下にしたクラクフの旧市街の地図。リングを時計回りに歩いてホテルを目指した。

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(出展 Google)

・リングは道路と公園でできていた。道路はトラム、車、歩行者が混在していた。夕食時のせいか、買い物客らしい多くの市民が歩いていた。リングの内側は公園にしてあった。

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・リング内側の公園の手入れは実に丁寧だった。

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・リング外側の建物は、見事にスカイラインを揃え、デザインも合わせていた。統一感のある、風格に溢れた街並みだった。クラクフでは街区を綺麗に整えることがごく当たり前に浸透しているのかもしれない。十数年前、東京郊外の国立でマンションの建設が差し止めになった事案があった。確か、新規のマンションが周囲の景観を毀損する恐れがあって反対運動が起こったと記憶している。日本は未だ景観後進国という気がするが、最近、良い景観を目指そうという機運が高まってきたように感じる。

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・リング最北端の公園に入ってみた。恐るべき手入れの良さに唖然とした。

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・良く手入れされた瑞々しい新緑と水のある光景は、文句なしに素晴らしかった。

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・道路を渡って、リングの外側にある広場に立ち寄ってみた。

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・再び、リングの内側の公園に戻った。円形の赤レンガの建物は、バルバカンという1498年に完成した昔の砦だそうだ。ワルシャワ城の城壁にも似たような円形の城門があった。城壁から半島状に飛び出した防衛施設のようだった。

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・この辺りにはクラクフ城の外壁が残っていた。かつてリングの公園部分はお堀で、その内側に城壁が張り巡らされていたと想像する。フロリアンスカ門は、1300年に完成、高さが20m近い高い鐘楼になっていて、監視塔の役割もあったようだ。中世から近世に掛けてこのような城門が城壁の各所にあったと思う。城壁の高さは、10m程度はあったと思う。

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・バルバカンの裏側・・・現在は周囲と地続きだが、近世頃まではフロリアンスカ門とはお掘を横断する道路で繋がっていたのではないかと想像する。江戸城の半蔵門や平川門みたいな感じだったのではないかと思う。

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・何故か、公園内に東京の風景写真が展示されていた。道路上に高架の鉄道が走っているので、多分、秋葉原だろう。建物のスカイラインやデザインのバラバラ感、ど派手な宣伝看板などはクラクフ市民には全く異次元とも言える世界ではないだろうか。そもそも、京都ではなく東京の秋葉原の写真が何故展示してあるのか?日本人の自分としては自虐感を捨てて、肯定的な理由を考えてみた。もしかして、クラクフ市民は東京の街の価値をそれなりに認めているのではないか。
 ①東京の街並みは、クラクフとは相当違っていて、異文化的存在でなんか不思議で面白そう。
 ②漫画、お寿司、ラーメンなどの娯楽や食文化が興味深い。

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・再び、リングに戻り南に向けて歩いた。風格のある建物が続いた。

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・クラクフでもトラムは大活躍の様子だった。

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・クラクフ本駅の近くの噴水広場まで来た。沢山の通勤客が歩いていた。

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・写真の赤レンガの建物は消防署だった。

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・リング内の公園の遊歩道を歩いて行った。手入れは何処でも行き届いていた。

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・ホテルの裏口まで戻ってきた。

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・19時30分、ホテルの玄関に到着した。17時にここを出発したので、2時間半の街歩きだったが、クラクフの旧市街は大きな街ではないので一通り歩けた。部屋はシックで古風な部屋で、ブラウン管テレビが置いてあった。

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・この日は、朝早くからワルシャワを歩き、お昼に電車でクラクフに着いて、夕方からクラクフを歩いた。相当疲れたが、ポーランドを代表する2つの街を無事歩き終えて満足できた。翌日も再び旧市街を歩いた。

以下、次号・・・

by camino0810 | 2018-03-21 17:20 | ドイツⅡ | Comments(0)  

2018年3月21日(水)ドイツⅡ その82 エピローグ(16)クラクフ

⑨クラクフ:2017年5月5日(金)その1


・ワルシャワ中央駅で特急電車に乗車した。クラクフまでは2時間半の電車旅だった。ワルシャワ中央駅は地下にホームがあり、市街地の約2kmの区間は地下化されていた。


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・地下ホームは全部で4本、大都市のわりには少ないと感じた。4番線からクラクフ行きの特急が発車した。


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・座席はゆったりしていて、快適な車内だった。ワゴンサービスも付いていた。

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・クラクフはワルシャワの約300km南にある古都。地図を見ると、ポーランドはいろいろな国と地続きの国だと判る。西からドイツ、チェコ、スロバキア、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア。陸続きの欧州の国々は中世の昔から隣国からの侵入に警戒が必要なのが改めて理解できる。


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(出展 Google)

・ワルシャワの郊外の住宅、何となくドイツとは違った印象があるものの何処がどう違うのか上手く言えない。


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・麦畑・・・

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・ほとんどいじった形跡のない川があった。もしかして、手付かずの自然河川かもしれない。


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・牧草地も何となくドイツと違った気分があった。ドイツとの明らかな違いはポーランドには菜の花畑が見当たらなかったことだった。


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・沿線の風景からポーランドとは「平原」を意味する単語でもある事が納得できたような気がした。どこまでもなだらかな地形が続いているのかもしない。ポーランドの国土は、鉄道や道路インフラを造るには大助かりだ。基本的に切土や盛土だけの「明かり土工」で処理できるのでリーズナブルな投資で済むだろう。山や川の多い日本ではどうしてもトンネルや橋が必要になり、その分お金が掛る訳で羨ましい限りだ。ゆったりした住居周りの敷地、広々した牧草地など田舎の住環境も良さそうだ。ドイツとの違いはうまく説明できない。

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・電車は定刻14時07分にクラクフに到着した。ドイツの短い顔と違って、この電車は長い顔をしていた。


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・電車に記された「IC」はINTERCITY 、都市間長距離列車という意味だろう。東京~名古屋間の東海道新幹線が約370km、のぞみで1時間40分、平均時速は220km。ワルシャワ、クラクフ間の路線距離は、「トーマスクックのヨーロッパ鉄道時刻表」で約300km、平均時速は約120km/時。かなりの移動速度があると思った。ホームは天井が塞がれてはいたが、地下ではなく地上に設置されたホームだった。地図を見ると、ホーム直上は広大な駐車場にしてあった。日本で線路直上に駐車場を持った駅舎を知らない。日本では駅舎に対する法的な縛りがあるのかもしれないが、「この手もありか」という感じた。


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(出展 Google)

・持参した2つのルーターが使えず、スマホのGoogleのマップも使えなかった。海外の初めての地で自分の位置とターゲットを特定できないのは結構致命的だ。予約したホテルまで3kmあった。40Lのバックパックと30Lのデイパックを携行して歩くのはとても難儀な話だ。やむなく、タクシーを使ってホテルに行くことにした。

当日にフェイスブックにアップした記事・・・

5月5日(金)ワルシャワは曇り後晴れ、適温。
(省略)
11時45分発の特急電車は定刻14時07分にクラクフに到着した。困ったことに持参したルーターが2つとも電波を拾えない事態が生じた。海外旅行で自分の位置やホテルの場所を特定できないのは致命的だ。仕方ないのでホテルまでタクシーを利用した。
ホテルのWihiでこの記事を書いている。明日のグダンスクでもルーターが使えないと相当な難儀を覚悟しなくてはならない。


・ホテルは旧市街の南端にあるヴァヴェル城の近くにあった。タクシー料金は20ズオティー(610円)、日本なら1000円くらいの距離なのでタクシーもリーズナブル。運転手は市街地でもかなりスピードを出した。15時、ホテルにチェックイン。3つ星だが、伝統的でシックな外見のホテルだった。


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・一休みして17時に街歩きをスタートした。クラクフの旧市街は、南北1.5km、東西1kmでリューベックに似た形をしていたが、リューベックより少し小振りだった。外周部のリングはお堀ではなく公園になっていた。


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(出展 Google)

・ヴァヴェル城はホテルのすぐ目の前にあった。お城の裏側の城壁は高さは10mくらいはあった。これまで欧州のお城を見てきたが、高さは10mがひとつの基準のように感じる。


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・城の南側の坂道を登り切った場所に城門があった。日本のお城みたいな枡形はなかった。


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・城門を潜ると、城内には綺麗に整えられた中庭が拡がっていた。実に丁寧に手入れされていた。

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・尖塔を有する建物が、ヴァヴェル大聖堂だった。ポーランドは、ほぼ100%カトリックの国。この大聖堂にはクラクフ教区?の司教座があることになる。クラクフは11世紀中頃から1596年まで約550年間ポーランドの首都だった。クラクフは、日本の鎌倉時代から戦国時代まで首都だったことになり、日本の京都に相当するポーランドの古都だと言えるだろう。大聖堂の右隣りの赤屋根の建物が代々のポーランド国王の王宮。宗教と行政が渾然一体となった、中世の政教一致の支配体制が感じられる典型的な事例だと感じた。


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・ヴァヴェル城のレプリカを見ると、このお城はヴィスワ川河畔の小高い丘を巧みに利用した防衛力の高いお城だと感じた。


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・川沿いの防衛力の高いお城は展望も良い。ヴァヴェル城はヴィスワ川河畔にある比高差20mくらいのお城なので頂上からヴィスワ川がよく見えた。ヴィスワ川はポーランドの国土の半分くらいの流域面積を持つ大きな河川で、中流にワルシャワ、河口にグダンスクがある。上流側の河畔は青々とした緩傾斜の堤防と2段の散策路でできていて、沢山の人が歩いていた。

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・下流側にも青々とした気持ちいい水辺が拡がっていた。


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・クラクフは、ポーランドの南端にあり、ヴィスワ川河口のグダンスクからザックリ600kmのところに位置している。ヴィスワ川の堤防間の河川幅は概ね200m、流路幅は130mで、隅田川と同じくらいだった。ヴィスワ川は、ヴァヴェル城の直上流でほぼ90度流路を曲げていた。水衝部と呼ばれる、洪水流が河岸を攻撃する箇所を少し上流にずらしていてお城の安全性を高めているように感じた。


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(出展 Google)

・河畔の散策路から見たヴァヴェル城は赤レンガの城壁でがっちり守られていた。この城壁を超えて攻め込むのは難儀な気もするが、1655年スウェーデン軍の大砲攻撃で陥落している。城壁は槍、刀、弓や火玉の時代には有効でも、砲弾による遠距離攻撃には有効とは言えなかったようだ。武器の進展によって城壁の、防衛インフラとしての役割が縮小したという解釈もあるだろう。


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・河畔公園に沢山の人がいた。お天気の良い金曜日の夕方ということもあって、ワルシャワのヴィスワ川より河川利用が盛んな様子が伺えた。堤防の斜面に大きな木が植えてあった。


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・ヴィスワ川の水衝部にあたる公園からヴァヴェル城の北面にあるヴァヴェル大聖堂の尖塔が見えていた。


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・河畔のパラペットには工夫を感じた。この部分はヴィスワ川が90度折れ曲がる治水上の要ではないかと感じた。洪水流は曲がる時の遠心力で水位が傾くと言われている。堤防道路脇に高さ1m弱のパラペットが設置されていた。パラペットはベンチ替わりの修景施設も兼ねていた。洪水防止の目的が隠されていることに気付く市民は少ないだろう。天端には洪水防止板を嵌め込む柱が取り付けられるよう、ボルト穴の付いたベースプレートが2mピッチで設置されていた。パラペットの切り欠き部分の陸閘用角落しと洪水防止板用のベースプレート、このような洪水対策はケルンのライン河畔、ブラチスラバのドナウ河畔、プラハのエルベ河畔でも見たことがある。


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・ヴァヴェル城を借景にしたヴィスワ川河畔の眺めは優れた光景だと思った。青々とした緩傾斜堤防でノンビリ寛いでいる人たちもいた。堤防斜面に大きな木を配置にしたのも優れたデザインになっていると感じた。この景観のポイントとなっている、青々とした芝生の手入れは文句なしに素晴らしい。日本もこうありたいと思うが・・・・河畔には係船施設があり、遊覧船が停泊していた。


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・公園の八重桜はほぼ満開だった。ポーランド、ドイツでも八重桜は人気の樹みたいだ。


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当日にフェイスブックにアップした記事・・・

5月5日(金)クラクフは晴れ、温暖。
15時にホテルにチェックイン、一休みして17時から街歩きを始めた。5月のヨーロッパは21時位まで明るいので時間は十分に取れる。
クラクフの街はリューベックと似ていた。旧市街は楕円状のリング道路、公園、城壁に囲まれている。中世の時代には、かなりの防衛力を持った都市国家だったのではないか。
リング道路はドイツのフランクフルト、ケルン、ライプチヒ、レーゲンスブルクでも見掛けた。中世~近世には、リング道路はお堀になっていて、現代になって埋め立てて公園や道路にしたのではないか。
ホテルはリングの南端にあるので、南のヴァヴェル城から歩き始めた。お城の城壁からヴィスワ川がよく見える。ワルシャワのヴィスワ川は河川利用がなかったが、上流のクラクフでは観光舟運が割と盛んだった。
(省略)

河畔から旧市街に戻って街歩きを続けた。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-03-21 11:22 | ドイツⅡ | Comments(0)  

2018年3月18日(日)ドイツⅡ その81 エピローグ(15)ワルシャワ

ワルシャワ:2017年5月5日(金)その4


・クラクフ郊外通りとの交差点から見た聖十字架通りの街並み。

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・交差点から南に延びる新世界通りには綺麗にスカイラインを揃えた3階建ての建物が連なっていた。ポーランド人も建物をパステルカラーで塗り分けるのが大好きな国民のようだ。この街路は中欧の街でしばしば見かけたパターンで、来訪する前に自分が持っていたワルシャワのイメージだった。


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・聖十字架通りを西に歩いて、ワルシャワ中央駅を目指した。地下鉄の出入り口は総ガラス張りの斬新なデザインにしてあった。薄紫の透明なガラスはメトロの「M」をイメージしているようだ。不思議なことに違和感は全く感じなかった。ワルシャワの街は伝統的な街路に新しいものを上手に取り込んでいた。


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・折角の機会なので地下の駅舎に降りてみた。地下鉄の改札はピカピカの自動改札だった。


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・聖十字架通りもスカイラインを揃えた建物が見事に並んでいた。ポーランド国旗を掲揚した建物は貨幣博物館。


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・クラクフ行きの電車の切符を買うためにワルシャワ中央駅に戻った。


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(出展 Google)

・ワルシャワのシンボル文化科学宮殿とピカピカの摩天楼群が見えてきた。


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・駅前通りも建物のスカイラインが見事に揃えられていた。地下鉄の出入り口はデザインは同じにして駅ごとにガラスの色を変えていた。

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・ワルシャワの中心部は、凹凸の激しいスカイラインの摩天楼群だった。これまでのスカイラインを整えた伝統的な街並みとは真逆の街並みが出来上がったいた。飛行機でベリリンからワルシャワまで来た時、ワルシャワ上空から見えた不思議な光景は、これだった。


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・文化科学宮殿の脇を通ってワルシャワ中央駅に向かった。


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・文化科学宮殿は風格に溢れた建物でロシア色が濃厚だった。調べると、この建物はいわくつきの建物でもあった。ワルシャワには、社会主義時代を象徴するこの建物を嫌う気分が今でも残っているようだった。

以下、Wikipedia

文化科学宮殿は、高さ237メートル、42階立て、尖塔の高さは49メートルあり、総室数は3288室。地震の少ない地域のため柔構造を取る必要がなく当時の技術で作ることが出来た。(省略)
文化科学宮殿の建設は1952年に開始され、1955年に完成した。スターリンによって、ソビエト連邦からのポーランド人民への贈り物としてワルシャワ市内に建設された。文化科学宮殿はソビエト当局によって設計され、ほぼ全工程に渡ってソビエト連邦から派遣された3500人の労働者によって建設された。(省略)
ワルシャワ市街のランドマークとして、文化科学宮殿は当初から論争の的となった。ワルシャワ市民を始めとするポーランド国民は、文化科学宮殿をソビエト支配の象徴であると考え、この建築を嫌悪した。社会主義体制崩壊の現在に至るも、このような否定的な見方は存在しており、ポーランド人の中には、政治的見解に関係なく、文化科学宮殿がワルシャワの伝統的な景観を損ねているとして批判する人々が存在する。ワルシャワ子たちは、「どこに行くんだい」「文化科学宮殿だよ。あそこに行けば宮殿を見なくて済むからね」というジョークを作ってこの摩天楼を揶揄して溜飲を下げた。


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・この建物を今でも保存する理由は何か?政治的な背景は別にして、建物自体は古典的な風格や美しさを持っており、建物自体の芸術性が高いこと、東京タワーやスカイツリー的な、ワルシャワのランドマークとして観光的な価値が高いことなどがあるためではないかと思った。この建物に東日本大震災の震災遺構のような役割を持たせたとも考えられる。ベルリンにはポツダム駅前にベルリンの壁が展示されていた。同様に、辛い社会主義時代を忘れないための特異な歴史遺産という位置づけもあるのではないかと考えてみた。一番シンプルな考え方は、この建物の除却費用が莫大だったからではないか。高さが200mを超える建物を安全かつ周囲に迷惑を掛けずに解体するのは簡単ではない。東京の赤坂の赤プリ新館の解体工事は特殊な作業室を用いたユニークな解体方法で話題にもなった。費用もそれなりで掛ったことだろう。


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・ワルシャワ中央駅が近づいてきた。お隣の高層ビルはマリオットホテル。

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・ワルシャワの新名所?摩天楼地区に来た。「景観特区」ともいえる光景だと感じた。2016年のドイツ旅行で行ったフランクフルトの新市街を超える、結構、衝撃的な光景だった。
http://camino0810.exblog.jp/26033466/

・日本では都市計画法で用途地域を決め建物の種類を縛り、容積率や建蔽率で建物高さや配置を縛っている。ポーランドでも似たような仕組みがあるのかもしれない。昨日、初めてワルシャワ中央駅を降りて、超高層マンションを見て『よくぞここまで突き抜けた。あっぱれ』と感じた。ワルシャワ市民は文化科学宮殿の保存と引き換えに敢えてこのような都市計画を選択したのではないかと考えてみた。超高層ビル群で、高さ200mを超える文化科学宮殿の価値を相対的に抑え込む目論見のようなものを感じた。ポーランドの受難の歴史は、ソ連やそれ以前のロシアの支配からの独立蜂起とその失敗の繰り返しだった。2004年にEUに加盟して、念願の自由で独立した国を取り戻すことができた。そのことを具体の形にしたのが、このピカピカの摩天楼群ではないかと感じた。


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・ワルシャワ中央駅の窓口でクラクフ行きの切符を購入した。英語で必要事項を書いたメモを窓口のオバサンに渡した。年配の方に英語は通じなかった。切符の発着の記載”OD、VON、DE:DO、NACH、À”はポーランド語、ドイツ語、フランス語の順。何故か、英語表記はなかった。


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・当日にフェイスブックにアップした記事・・・


5月5日(金)ワルシャワは曇り後晴れ、適温。
朝7時に起きて街歩きを開始した。
ターゲットは川と旧市街、最初に市街地の東にあるヴィスワ川河畔まで歩いた。川幅が500m位はある大河川だったが、観光舟運や産業舟運での利用はほとんど感じられなかった。
河畔を歩いて北側の旧市街を目指した。大通りを越えると宮殿風の建物が見えてきた。高台に旧市街の観光スポットが展開していた。観光バスが次々とやってくる。ワルシャワ観光のホットスポットと言っていいくらい建物も街路も綺麗にしていた。格式のある建物がスカイラインを揃えていた。クラクフ郊外通りという名前が付いている。ワルシャワ大学もあった。
大通りに戻って中央駅を目指した。建物のスカイラインは綺麗に揃っていた。欧州の街並みとは普通こんな感じだろう。
文化科学宮殿という高い建物はワルシャワの街のランドマークになっていた。どこからでも見えるので一見さんにはありがたい建物だ。ロシアの伝統的な建物と良く似ていた。
中央駅付近には奇抜な超高層ビル群が並んでいた。欧州の街には珍しい光景だと言えそうだ。同じような光景をウィーンでも見たことがある。2014年、市内のドナウ運河沿いを歩いている時に見かけた。周囲の伝統的な建物の中に突然違和感のある奇妙な建物が並んでいた。多分、ワルシャワもウィーンも『景観特区』のようなルールを造ったのではないかと思った。奇抜な建物も百年経てば伝統様式に変わるかもしれない。
ワルシャワ中央駅の窓口でクラクフ行きの切符を購入した。英語で必要事項を書いたメモを係りのオバサンに渡したら、彼女は3人分と勘違いして450ズウォンティ(14000円)を請求してきた。事前に相場を知っていたのでクレームを入れるとオバサンは1人の切符を再発行してくれた。
(省略)

・5時間余りのワルシャワの街歩きを終えて、11時45分発のクラクフ行きの特急電車に乗車した。

以下、次号・・・

by camino0810 | 2018-03-18 08:54 | ドイツⅡ | Comments(0)  

2018年3月17日(土)ドイツⅡ その80 エピローグ(14)ワルシャワ

ワルシャワ:2017年5月5日(金)その3


・9時20分、ワルシャワの旧市街に着いた。1980年、世界文化遺産に登録されたワルシャワの観光の中心地区だった。広々とした気持ちいい王宮前広場に伝統的な4階建てのパステルカラーの建物がスカイラインを揃えていた。

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・王宮の表側はクリーム色だったが、広場に面した王宮の裏側は赤い壁と赤い屋根で出来ていた。


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・ワルシャワはポーランドの首都で人口170万の大都市。元々はヴィスワ川沿いの小さな漁村だったそうだ。14世紀以降商業と工業の発展が盛んになり、1596年ジグムント3世がクラクフからワルシャワに首都を遷都した。ほぼ同時期、日本が1603年に徳川家康が京都から江戸へ実質的な首都移転をしたのとなんか似ている。クラクフは第2次大戦で焼失を免れた歴史のある古都であり、京都と全く同じ。つまり、東京とワルシャワは似た関係にあると言えそうだ。王宮より北側の「旧市街」は遷都以前の街、王宮より南側の「新市街」は遷都以降に出来上がった街だという。周辺には大きな庭園やたらと多い地域だった。ここでもポーランドの土地の広さを感じた。「旧市街」、「新市街」とも第2次世界大戦で破壊されたが、戦後、見事に復元され、今ではワルシャワ観光の目玉になっている。

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(出展 Google)

ワルシャワの語源・・・Wikipediaから


ワルシャワの起源に関する伝説[編集]
ワルシャワの起源に関する伝説[3]。 昔々、ヴィスワ川のほとりに小さな家があった。そこにはワルスとサワが住んでいた。ワルスは漁師であって、サワはワルスの妻である。あるとき、この近隣の地域を支配していたジェモメスゥ公(シェモメスゥ公とも)が狩に出かけた。獲物を追っているうちに、家来たちから離れ、森の中で迷ってしまった。夕暮れちかくになっても帰り道が見つからず、そのうちにヴィスワ川のほとりに行き着き、ワルスとサワの住む家を見つけた。夜に森を一人で歩くのは危険であるので、公はワルスとサワの家のドアをたたき、泊めてもらえるように頼んだ。ワルスとサワは見知らぬ客人を暖かく迎え、食事とベッドを用意した。このもてなしに公は大変感謝した。翌朝、公は、貧しい漁師夫婦に礼を言い、つづけて「見知らぬ人物を嫌がりもせず家に招きいれ、空腹、寒さ、野獣から救ってくれた。あなた方の親切がいつまでも忘れられることのないように、この地は今後いつまでもワルスの(ワルショヴァ Warszowa)土地である」

・事前の情報入手不足でこの王宮前広場が旧市街の核心部と勘違いし、そのまま新市街に向かった。実は、王宮前広場の北側に正真正銘の旧市街地の広場があった。Googleの地図を見ると、4階建てのパステルカラーの建物群が綺麗に軒を揃えていた。


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(出展 Google)


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(出展 Wikipedia)

・ワルシャワ城はリング状の城壁に囲まれた長径0.6km、短径0.2kmの随分と小振りなお城だった。ワルシャワ遷都以前は街自体が小さかったからだろう。リューベックの城壁が縦2km、横1kmなので随分と小さいお城といえる。旧市街の構造は、大聖堂の隣に広場があり、ドイツと同じパターンだった。小振りなお城がそのまま残った理由は、クラクフからの遷都後、政権が安定化し、外敵から身を守る城壁自体の必要性が低下したのではないかと想像する。城壁は街の発展から見れば支障物でしかないので、北側はそのままにして、経済発展、人口増加とともに南側の新市街地が発展したのではないかと考えてみた。


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(出展 Google)

・旧市街の城壁は空堀と2重の城壁で構成されていた。

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(出展 Google)

・ワルシャワ城を見て、1999年に行った南フランスのカルカソンヌ城を想い出した。このお城は、中世の気分を色濃く残した有名なお城で世界遺産にも登録されている。カルカソンヌ城はワルシャワ城と同じ空堀と二重城壁を持ち、ガロンヌ河畔の小高い丘に建っていた。川からお堀に揚水するのは大変なので空堀にするしかない。このパターンが中世の城の防衛の考え方かもしれない。

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(出展 Google)

・ワルシャワは遷都後、ヴィスワ川の河畔から徐々に内陸に向けて発展していったようだ。1656年の絵画にはヴィスワ川には沢山の帆船が航行していた。左岸の高台には王宮以外にも高楼を持つ重厚な建物が並んでいた。この絵が描かれた時期は、日本では大火事のあった江戸時代の明暦期にあたるが、ワルシャワの街は既に風格に溢れた立派な街に仕上がっていたことが判る。

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(出展 Wikipedia)

・1770年の絵画には王宮の隣に大聖堂らしき巨大な三角屋根の建物も出来上がっていた。ヴィスワ川の舟運の盛んな様子も窺える。現在のヴィスワ川の産業舟運、観光舟運はやや衰退しているように感じた。運輸手段が舟運、鉄道、道路にシフトした影響だろうか、ドイツのベルリン都心にあるベルリン城跡地の周辺と似た状況だった。


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(出展 Wikipedia)

・「地球の歩き方」は海外旅行において自分のバイブルであり、マストアイテムの一つだ。同書からポーランドの歴史年表から抜粋すると、どうもこの絵が描かれた1770年あたりがポーランドの絶頂期であり、これ以降ポーランドの受難の歴史が始まっていた。同時期の江戸期、日本は海に守られたある意味極めて平和な国であり、他国の侵入を許した経験がない。日本は、地続きの国々の興亡の悲哀を経験しなかった幸福な国かもしれない。

1772年:18世紀に入り大北方戦争勃発、1733年には国内で王位継承戦争が起こるなど、戦争によって国は衰退の一途たどる。そして、ロシア、プロシア、オーストリアによる第1次ポーランド分割が行われる。
1795年:1793年には第2次ポーランド分割、そして1795年の第3次ポーランド分割によりポーランド王国は消滅する。

以降、ポーランドは独立蜂起を繰り返したが、そのたび、大国ロシア、ソ連に押し潰された辛い受難の時代が続いたようだ。1989年、ベルリンの壁の崩壊に呼応して「連帯」のワレサ大統領による自由主義体制が成立、2004年EUに加盟して現在に至った。ワレサ大統領を顕彰してグダンスクの空港は「グダンスク・レフ・ワレサ空港」と名前が付けられていた。

・新市街を南に向けて歩いた。通路というよりも広場に近い道路は優に50m以上もあり、歩いていて実に快適だった。日本の皇居前の広場と同様、一定以上の広さやスケール感があると人はそれだけで「有り難味」を感じるものだ。この通りも完全に車を排除してあった。これまで歩いてきた欧州の街に共通したやり方だった。


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・写真左の大きな建物は「カトリック教会」という名称の教会だった。パルテノン風のファサードを持つ珍しい教会だった。

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・来た道を振り返ると、首都ワルシャワを造ったジグムント3世のオベリスクと緑屋根の聖ヨハネ大聖堂が見えた。

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・スカイラインを揃えた建物が見事に並んでいた。

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・クラクフ郊外通りを南に歩いて行くと、建物の壁の色が赤系から白系に変化して行った。

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・鮮やかな花が供えてあった。

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・もう一つの「カトリック教会」のファサードも教会とは思えないほど豪華だった。

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・街灯、高欄は実に凝っていて繊細にして豪華・・・。

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・大統領官邸・・・。

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・大統領官邸まで来ると車道が通っていた。車道と歩道の段差を無くしてユニバーサルデザインとし、境をぼやかして歩車道の連続性を高めていた。

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・中国のお金持ちの観光団と出会った。中国パワーはポーランドでも健在のようだ。

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・ホテルブリストルは実に豪奢なホテルだった。多分、5つ星だろう。一度でいいからこんなホテルに宿泊してみたいものだ。


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・3つ目の「カトリック教会」、このファサードなら教会でしょう・・・。

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・ワルシャワ大学は一等地にあった。ベルリンのウンターデンリンデンにあるフンボルト大学と同様、歴史のある名門大学のようだ。

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・ポーランド語は全く不明だが、日本文化や日本文学への憧れもあるようだ。

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・聖十字架教会にはショパンの心臓が埋葬されているそうだ。欧州には、人の最も大事な部位は頭ではなく、心臓という考え方が根強く残っていると聞いたことがある。ウィーンの大聖堂には歴代国王の心臓が保存されているという。この教会は上空から見ると確かに十字架の形をしてはいたが、ファサードは西向きではなく東を向いていた。旧市街の聖ヨハネ大聖堂の形も自分が見てきた大聖堂の基本ルールとは無関係ようだった。


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・コペルニクスの像のある広場まで来た。恥ずかしながらコペルニクスがそもそもポーランド人とは知らなかった。語感からイタリア人だとずっと思っていた。彼は、天文学者、知事、長官、法学者、占星術師、医者、司祭を務めた実に多才な天才だったようだ。

以下、Wikipedia
ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Pl-Mikołaj Kopernik.ogg Mikołaj Kopernik[ヘルプ/ファイル]、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。また経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。
コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。


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・当日にフェイスブックにアップした記事・・・

5月5日(金)ワルシャワは曇り後晴れ、適温。
朝7時に起きて街歩きを開始した。
ターゲットは川と旧市街、最初に市街地の東にあるヴィスワ川河畔まで歩いた。川幅が500m位はある大河川だったが、観光舟運や産業舟運での利用はほとんど感じられなかった。
河畔を歩いて北側の旧市街を目指した。大通りを越えると宮殿風の建物が見えてきた。高台に旧市街の観光スポットが展開していた。観光バスが次々とやってくる。ワルシャワ観光のホットスポットと言っていいくらい建物も街路も綺麗にしていた。格式のある建物がスカイラインを揃えていた。クラクフ郊外通りという名前が付いている。ワルシャワ大学もあった。
(以下省略)

・クラクフ郊外通りから聖十字架通りに入って、ワルシャワ中央駅を目指した。

以下、次号・・・



by camino0810 | 2018-03-17 03:58 | ドイツⅡ | Comments(0)