<   2018年 07月 ( 8 )   > この月の画像一覧

 

2018年4月27日(金)イタリア その19 ボローニャ(5)

サンボーニ通りとリングの交差点にサン・ドナート門がありました。この門は、中世までボローニャの街を守ってきた防衛上の拠点だと思います。

b0214184_18472907.jpg

リングを南に歩いていきました。現在は、旧市街を囲む基幹環状道路で、幅広の中央分離帯とプラタナスの街路樹が付いていました。

b0214184_18515963.jpg

ほどなく、サン・ヴィターレ門に到着。この門からサン・ヴィターレ通りを歩いて、マッジョーレ広場に戻りました。

b0214184_18522052.jpg

Wikipedia(英語版)には1640年のボローニャの鳥瞰図が掲載されていました。この絵は下が北、上が南。リングで防衛された街の様子が克明に描かれていました。中心部にはマッジョーレ広場、市庁舎、サンピエトロ大聖堂、サンペトロニオ聖堂や斜塔も・・・。
町割りは現在の形とほとんど同じでした。マッジョーレ広場から放射状に延びる道路とリング(城壁)の交点には城門があり、現在でも保存されていました。サン・ドナート門、サン・ヴィターレ門もその門の一部でした。
そういえば、12、13世紀に存在した沢山の塔は見当たりません。地震が少ない欧州にあって、イタリアは地震が多い国です。多くの塔が地震で倒壊し、たまたまこの2本の斜塔は生き残ったのではないかと想像してみました。ボローニャの人たちは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の楽天タイプではなく「羮に懲りて膾を吹く」の慎重タイプの人たちではないかと思います。

b0214184_08315166.jpg
(出展 Wikipedia)


b0214184_06334578.jpg
(出展 Wikipedia)


ボローニャの水回りはどうなっているのか、気になりました。ミラノの運河は、都心部ではほとんど蓋掛けされていて、南側のナヴィリオ地区にわずかに運河が残されていただけでした。ボローニャ市街地の西側にレーノ川という大きな川が流れていました。レーノ川に取水堰を造って、運河で旧市街に導水していました。


b0214184_08433506.png
(出展 Google)

旧市街のフィネストレーナにわずかに運河が残されていました。ボローニャも、ミラノ、東京などと同様、市街化の進展とともに運河のほとんどの区間が蓋掛けされていました。川幅が100mくらいの大きな川だと蓋を掛けることができません。川幅が30m前後だと埋め立てるしかないでしょう。川幅が10m以下だと蓋掛けの技術的なハードルは一気に低くなります。旧市街の運河の幅は10mもなかったので蓋を掛けて道路にしたのではと推定します。


b0214184_09051335.png
(出展 Google)

ソウルの清渓川は、元々あった川の蓋を外して、その上を覆っていた高速道路の高架まで撤去して街を再生した成功事例だと言われています。フィネストレーナの運河は、運河へのアクセスがない上に、建物が背を向けていて正直、良くありません。ただ、建物に独特の風情があるので、一部区間の蓋を外し、運河の周囲に一定幅の通路を入れるとボローニャの観光的な価値がさらに高まるように思います。


b0214184_09250479.jpg
(フィネストレーナの運河:出展 https://www.tuttocitta.it/)

サン・ヴィターレ通りを歩いて、マッジョーレ広場に戻りました。このあたりのポルティコ(柱廊)は下町なのか、素朴でこれまで見てきたポルティコのゴージャス感はありませんでした。


b0214184_18531818.jpg

イタリア入り2日目で早くもお米が恋しくなってきたので、夕食はエスニックにしました。

b0214184_18523587.jpg

シェフはインド人、お客さんは地元のネイティブ。鶏肉のカレーは、サービスのサラダが付いて5ユーロ(650円)。ご飯は長粒米、美味しかったです。


b0214184_18523835.jpg

野菜屋さん・・・下町感覚の庶民的な気分を感じました。


b0214184_18531316.jpg

夕方の6時30分、イタリアの西陽は強烈でした。

b0214184_05095849.jpg

小リング前の広場、なんか庶民的な気分を感じました。

b0214184_14021936.jpg

2番目の城門に行きあたりました。ミラノで言えば、小リングに相当する城壁の門で12世紀後半にできたそうです。

b0214184_14031634.jpg


b0214184_14054732.jpg

再び、斜塔に戻ってきました。

b0214184_14061711.jpg

夕陽で赤いポルティコ(柱廊)が赤を増した感じでした。


b0214184_14065167.jpg


b0214184_14065768.jpg

マッジョーレ広場に戻ってきました。写真左はエンツォ王宮。


b0214184_14081985.jpg

広場でライブ実演中でした。

b0214184_14091622.jpg

「海神ネプチューン」の噴水・・・

b0214184_14082344.jpg

19時、ホテルに戻りました。4時間の街歩きは終了。イタリアのテレビはミリオネア風のクイズ番組が人気でした。


b0214184_14095459.jpg


b0214184_14095649.jpg

ホテルでこの日の日記をフェイスブックにアップ。

4月27日(金)ボローニャは晴れ、適温。
フレッチャ・ロッサ9625号は定刻12時32分にボローニャ中央駅に着きました。到着ホームは地下2階でした。
駅前通りの歩道型アーケードを南の方向に延々と1Kmくらい歩くと、マッジョーレ広場に着きました。市庁舎脇のホテルに13時チェックイン。
15時から街歩きを始めました。市庁舎の会議室の展示に驚かされました。普段美術館に行くことのない自分には無料で歴史的な絵画が見られるのは有りがたいことです。マッジョーレ広場に接したサンペトロニオ聖堂の中に入って見ました。祭壇にはキリスト像がありました。アルキジンナージオ宮は旧ボローニャ大学、沢山の諸侯?エンブレムなどが展示されていました。知識不足で展示物の歴史的価値が全く判らないのが残念。ボローニャの斜塔は相当傾いていました。1ユーロのエスプレッソはさすがに本場、安くて実に上手かったです。
ボローニャの旧市街もミラノと同様、リングで囲われていました。1088年に創設された世界最古のボローニャ大学を見てホテルに引き返しました。
旧市街はどの建物にもアーケードが付いていました。ボローニャは赤い建物とアーケードの、歴史と文化が息づく街で、何処をとっても絵になる街でした。
明日は、電車でフィレンチェに向かいます。

翌日は、電車でフィレンツェに向かいました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-07-29 15:08 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月27日(金)イタリア その18 ボローニャ(4)

16時20分、リッツォーリ大通りのゴージャスなポルティコ(柱廊)を「ボローニャの斜塔」に向けて歩きました。

b0214184_09365703.jpg

歩廊は大理石の破片をモザイク状に張り合わせていました。

b0214184_09383793.jpg

「ボローニャの斜塔」はすぐでした。「Piazza Di Porta Ravegnana」という広場に2本の塔が建っていました。大きい塔は高さ97mで、小さい塔は48m、12世紀の建築だそうです。皇帝派の貴族がその権勢を誇示するために建てたとか。大きい塔は旧市街で最も高い建物だと思います。大きい塔の傾斜はよく判りませんが、小さい塔の傾斜は相当進行しているので心配です。

b0214184_09431288.jpg

小さい斜塔の傾斜はデジカメのレンズが広角なのでデフォルメされてはいますが、眼で見て明らかなくらい傾斜していました。ボローニャは、扇状地の上に立地した街のように思います。12世紀の技術で固い岩盤まで杭を打ち込むのは困難でしょう。岩盤まで届いていない杭だと思います。地下水の汲み上げで杭を支える地盤が圧縮沈下し、それに応じて杭の不同沈下が発生しているのかもしれません。

b0214184_09432337.jpg

斜塔からサント・ステファノ教会を往復して、サンボーニ通りをボローニャ大学に向けて歩きました。

b0214184_17420243.png
(出展 Google)

斜塔に隣接した「Palazzo della Mercanzia」という小さい広場には中世を感じさせる赤の建物が建っていました。

b0214184_09503424.jpg

この広場にはオブジェ風の石をベンチ替わりに並べていました。通りの向こうにマッジョーレ広場のエンツォ王宮の塔が覗いていました。

b0214184_09504073.jpg

サント・ステファノ通りのポルティコ(柱廊)は赤一色、天井は大聖堂の天井でよく見るクロス梁構造。

b0214184_09504467.jpg

サント・ステファノ教会が近づいてきました。

b0214184_09504848.jpg

広場の前のカフェで一休みしました。ボローニャもミラノと同様、街中にコンビニや自販機を見掛けませんでした。このようなカフェやキヨスクで飲み物や食べ物を調達するしかありませんでした。何処に行ってもコンビニがある日本はある意味生活しやすい恵まれた国だと思います。

b0214184_09515445.jpg

本場のエスプレッソは美味しかったです。1ユーロ(130円)でテーブル付きの席で休めるのは有難いことです。

b0214184_09512030.jpg

お勘定の時にカフェのスタッフに記念写真を撮ってもらいました。

b0214184_09521315.jpg

サント・ステファノ教会は素朴な赤レンガの教会でした。

b0214184_09591881.jpg

教会の中も質素、清潔な気分がありました。

b0214184_09551697.jpg

夕方が近づいてきたので、オープンテラスも大分客で埋まっていました。

b0214184_09554948.jpg

再び、斜塔のある広場に戻って、青い尖塔のバルトロメオ教会(Chiesa dei Santi Bartolomeo e Gaetano)に入ってみました。


b0214184_10390160.jpg

教会の内部には厳粛な気分がありました。

b0214184_10300212.jpg

豪勢な調度品や装飾品に驚かされました。外見のシンプルさからは想像もできません。

b0214184_10301918.jpg

ドーム天井の壁画の恐るべき精巧さ、鮮やかさにも驚かされました。

b0214184_19453622.jpg

天井画・・・

b0214184_10343260.jpg

再び、斜塔に戻ってきました。よく見ると斜塔は赤レンガ造りの少しばかり不愛想な建造物、明り取りの小窓が沢山付いているだけのシンプルなデザインでした。貴族による高さの競い合いが目的なので余計なものは排除したということでしょうか。


b0214184_10363933.jpg

低い塔の、写真右側の基礎の沈み込みが、はっきり分かります。


b0214184_10380145.jpg

塔に補強対策のハチマキが巻いてありました。イタリアには地震があるので、市当局も気をもんでいることでしょう。

b0214184_10381476.jpg


そういえば、ドイツのリューベックにあるリューベック大聖堂の尖塔も目視で確認できるくらい傾いていました。高さ100mを超える高い塔の片方が傾斜していて、2つの塔を鉄骨で繋いでいました。多分、杭の不同沈下ではないかと思います。

b0214184_04224476.jpg
(リューベック大聖堂の尖塔)

イタリア語版のWikipediaには恐るべき絵が掲載されていました。11世紀のボローニャは塔まみれの奇観の街でした。12~13世紀、ボローニャの黄金時代には200本の塔が建っていて、フィレンツェ出身でボローニャ大学の学生だったダンテ(1265~1321年)も驚いたとか。貴族が自分の権力を誇示する目的で塔の高さを競ったそうです。

b0214184_11182400.jpg
(出展 Wikipedia)

市庁舎の展示室に当時のボローニャのジオラマが展示されていました。旧市街の城壁の中に夥しい塔が林立していました。ニューヨークの摩天楼を超える数の塔がありそうな感じです。


b0214184_11174019.jpg
(出展 Google)

そういえば、2017年のドイツ旅行で訪れたリューベックは塔の街でした。ハンザ同盟の商人がその権勢を示すために沢山の教会を建てたのではないかと想像しています。

b0214184_05491926.jpg

サンボーニ通りを歩いて、移転したボローニャ大学を目指しました。

b0214184_06492757.jpg


b0214184_06510040.jpg

サン・ジャコモ・マッジョーレ教会のファサードは薄い赤レンガを積み重ねて出来ていました。

b0214184_06510380.jpg

サンボーニ通り脇の小さな広場・・・

b0214184_06574636.jpg

b0214184_19544128.jpg

サンボーニ通り沿いの美術館に入ってみました。建物の裏手がボローニャ大学でした。

b0214184_19572481.jpg


b0214184_20064068.jpg

ボローニャ大学のキャンパスは正直判りにくかったです。日本の大学はそれとわかる正門や広場があり、大聖堂のファサードに相当する玄関的な役割の講堂があります。ここでは、そのような建物を探すことができませんでした。
今回のイタリア旅行の目的地にボローニャを選定したのは世界最古のボローニャ大学を観るためでした。多分、この赤レンガの建物がEU旗とイタリア国旗を掲げていることからも大学本部だと思いますが、意外にも地味で、少々、気抜けしました。

 
b0214184_20072467.jpg

ボローニャ大学は、学生数8万の大きな大学。沢山の学生がいてもおかしくはないはずですが、学生らしき人を見つけることができません。正式名称は「Alma mater studiorum - Università di Bologna」、「Alma Mater Studiorum」はラテン語で「母なる大学」を意味するとか。
ボローニャ大学のホームページをみて納得できました。キャンパスはボローニャの近く都市(リミニ、チェゼーナ、フォルリ、ラヴェンナ)に分散していました。ボローニャ大学は、各分野における大学ランキングを掲載してあり、ランキングを気にしている感じがしました。


b0214184_20065603.jpg

以下、Wikipedia(日本語版)・・・

ボローニャ大学(イタリア語:Alma mater studiorum - Università di Bologna、略号:UNIBO)は、イタリアのボローニャに所在する大学である。
ヨーロッパ最古の総合大学(cf. 世界最古の一覧#学問所)であり、サラマンカ大学、パリ大学、トゥールーズ大学、モンペリエ大学、オックスブリッジと共に12〜13世紀までに設立されたヨーロッパ最古の中世大学群にあたる。現在、規模においてはイタリア国内第2位の大学でもある。世界の(近代型)大学の原点とされ、「母なる大学」(Alma Mater Studiorum) とも雅称される。
正確な創立年は定かでないが、すでに11世紀には法学校として教育活動が行われていたと伝えられる。1888年、ジョズエ・カルドゥッチらが立ち上げた委員会の調査によって1088年が創立年であるとされ、創立800周年が祝われた。イルネリウスが創立者であるとみなされており、アルキジンナジオ館が初の大學棟であった。
創立以来9世紀を超える歴史のうちには、ペトラルカやダンテ・アリギエーリ、ガリレオ・ガリレイ、コペルニクスなどといったそうそうたる著名な才人が過去の在籍者に名を連ねる。教鞭を採った者では、ジョヴァンニ・カッシーニとウンベルト・エーコが有名である。13世紀にはローマ教皇庁からストゥディウム・ゲネラーレ(中世大学)の認定を受けた。

1350年代の講義風景は、基本的に現在と似ていました。教授が、貴族や富裕層の子息からなる学生に講義している絵柄です。この時代、教授は学生側に雇用された身分だそうで、現在とは逆の関係だったようです。アルキジンナージオ宮の回廊に描かれた夥しい紋章は教授、生徒の紋章でした。

b0214184_06265973.jpg
(出展 Wikipedia)


大学の建物の脇に珍しい木を見つけました。幹から直に紫の花が咲いていました。


b0214184_20070766.jpg

ボローニャのリングの門までやってきました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-07-25 10:48 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月27日(金)イタリア その17 ボローニャ(3)


市庁舎脇のホテルに13時チェックイン、今日は早朝にミラノの運河を歩いて、お昼に電車でボローニャまで移動しました。少しホテルで休んで15時から街歩きを始めました。

b0214184_21475935.png
(出展 Google)

ホテル前のウーゴ・バッシ大通りは珍しく赤ではなく灰色のアーケードでした。

b0214184_05561821.jpg

最初のターゲットは市庁舎。建物の裏手から入場しました。中庭はボードウォークになっていて、中心にあずまや風のモニュメント・・・。


b0214184_06003333.jpg

中庭に外壁の補修用のジブクレーンが設置されていました。屋根越しに外壁補修の資材の設置、撤去する段取りでした。

b0214184_06024265.jpg

市庁舎は無料開放されていました。幅広の緩い階段を登って上部階へ・・・。

b0214184_06035864.jpg

ボローニャ旧市街の航空写真が展示されていました。リング内部の旧市街が赤一色なのが良く判る一枚です。(判り易くするために施設名を入れました)

b0214184_19540505.jpg

地球の歩き方によれば、ボローニャは3000年の歴史を持つ古い街で、かつては欧州の文化、学問の中心地だった街でした。

『進取の気風に富む自由都市ボローニャ』
町の歴史は紀元前10世紀に遡り、エトルリア文明、ローマ帝国の洗礼を受け、中世には教会勢力により都市の再生が図られた。ローマの道のひとつ、エミリア街道Via Emiliaの中心都市として5世紀まで繁栄は続いた。11世紀には自治都市コムーネが形成され、この頃ヨーロッパ最古の大学が創設された。全ヨーロッパから学者や学生が集まり、文化、学問の中心地となり、経済も発展。イタリア半島が皇帝派と教皇派に二分された中世期には、ボローニャは教皇派の都市として有名だった。12世紀の自由都市(コムーネ)の成立後は、ヨーロッパで初めて農奴を廃止するなど、進取の気風に富んでいた。しかし、町が繁栄を極めた13~14世紀以降は宗教対立、貴族政治の失敗などが重なり再び教会領となった。1798年のナポレオン入城、オーストリア支配を経て、1860年にイタリア王国の統一された。


市庁舎の大広間はギャラリーになっていました。普段美術館に行くことのない自分には無料で古典的な絵画が見られるのは有りがたいことです。

b0214184_06044613.jpg

市庁舎は、中世ボローニャを一時的に支配した教皇代理施設の居館だとか。3階の大広間には中世時代の美術品がどっさり展示されていました。写真中央の銅像の人が教皇代理でしょうか。

b0214184_06051721.jpg

高い天井の壁にフレスコ画らしき古典画が沢山描かれていました。

b0214184_06061544.jpg

一部が剥げ落ちた壁画にボローニャの歴史を感じます。

b0214184_06062088.jpg

美術品の価値が不明な自分にも天井の装飾や古典的な絵画の豪華さを感じました。

b0214184_06070385.jpg


b0214184_06070622.jpg


b0214184_06071915.jpg

屋根は木造で、大梁、根太、大引を置いて、屋根材で拭いていました。

b0214184_06074945.jpg

1655年製作の絵を見ると、沢山の兵隊が広場を凱旋していました。絵の左の騎馬軍団は鉄砲らしき兵器を携帯していました。イタリア語が全く不如意なので絵の内容は不明、英語の説明書きがあればと感じました。

b0214184_06104400.jpg

3階の窓からマッジョーレ広場が一望できました。写真左がエンツォ王宮。

b0214184_06073818.jpg

写真右手の建物が、サン・ペトロニオ聖堂。

b0214184_06074113.jpg

市庁舎からマッジョーレ広場に出ました。マッジョーレ広場は幅50m、長さ100mの広場、ミラノのドゥオーモ広場と比べて若干手狭ですが、「広場感」は感じられました。この広場は、ボローニャ旧市街のど真ん中にある「ヘソ」の広場、ミラノのドゥオーモ広場と同じ役割を感じました。

b0214184_06533928.png
(出展 Google)
マッジョーレ広場から見た市庁舎・・・。

b0214184_06242277.jpg

サン・ペトロニオ聖堂・・・。この聖堂のファサードはミラノのドゥオーモのファサードと基本の形は同じで、中央部が高い五角形。ドゥオーモもファサードのきらびやかな尖塔を外すとこの聖堂と似たような姿になるでしょう。

b0214184_09335553.jpg


b0214184_19495142.jpg

エンツォ王宮・・・。

b0214184_06530394.jpg

サン・ペトロニオ聖堂は14~17世紀に建てられたゴシック様式の教会。高さが44m、幅58m、奥行き132mの大きな建物。この建物がゴシック様式だとは理解できません。自分が見てきた他の国のゴシック様式の大聖堂とは随分形が違っていました。ファサードの下半部は大理石、茶色の部分は黒い薄いレンガを重ねていました。レンガの角を表面に出して独特のテクスチャを出していました。

b0214184_09390141.jpg

聖堂の内部は装飾が少なくシンプルでしたが、明るく高い内部空間が確保されていました。

b0214184_09415277.jpg

祭壇には十字架に架けられたキリストが飾られていました。

b0214184_19505013.jpg

サン・ペトロニオ聖堂の東側広場・・・写真左側の建物がアルキジンナージオ宮。

b0214184_09441839.jpg

アルキジンナージオ宮は、1803年まではボローニャ大学でした。市街地への集中が始まって手狭になったからでしょうか、現在の大学は旧市街の北東部に移転していました。

b0214184_09443290.jpg

この建物は、現在は図書館で、「ANATOMICAL THEATRE」という部屋が保存されていました。「ANATOMICAL THEATRE」は17世紀に建てられた解剖学大階段教室。世界初の解剖が教会の反対を押し切って行われたそうです。ボローニャ大学は世界最古の大学だけでなく、先進的な研究も行われていたということでしょうか。

b0214184_13570289.jpg

ドーム天井や壁がフレスコ画らしき壁画で埋められていて、なんか不思議な気分がありました。よく見ると、これらは皆紋章でした。


b0214184_09475374.jpg

回廊の廊下にもどっさり紋章が・・・

b0214184_09485562.jpg

この紋章は、ボローニャ大学の学者や学生の紋章だそうです。イタリアを含むヨーロッパでは一定の家格や経済力がないと一流の教育を受けられなかったようです。

b0214184_09491449.jpg

2階の回廊にも紋章、紋章・・・

b0214184_09494613.jpg

ドーム天井もフレスコ画の紋章のオンパレード・・・
膨大ともいえる紋章は名門ボローニャ大学の卒業証明書や卒業アルバムに相当するものだと考えると、何となく、納得できました。紋章を有する家格の高い者、成績優秀者や大学に高額な寄付をした者などを顕彰する狙いがあったのかもしれません。


b0214184_09495122.jpg

お隣は博物館でした。10ユーロくらいの入場料を取られるのでスルー。

b0214184_15540534.jpg

受付ホールに古代ローマ時代の将軍の胸像が展示されていました。

b0214184_15543535.jpg

路地裏を歩いてみました。4mくらいの通路にはカフェテラスがオープンしていました。

b0214184_15552999.jpg

しばらく歩くと市場に出会いました。「Mercato di Mezzo」と呼ばれる市場には生鮮食料品のお店が並んでいました。定番の物価調査の良い機会になりました。
最初はチーズやパスタの加工食品。
パルミジャーノ・レッジャーノは1kg19.9ユーロ(2600円)、パスタは1kg19.99ユーロ(2600円)。チーズの王様、パルミジャーノレッジャーノは意外にもリーズナブル。パスタはボローニャ名物みたいですが、相当高額。

b0214184_16034299.jpg

果物・・・メロン1kg7ユーロ(910円)、イチゴ1kg8ユーロ(1000円)、桃1kg9ユーロ(1200円)、トマト1kg5ユーロ(650円)。日本より高め?

b0214184_16074802.jpg

牛肉は平均1kg20ユーロ(2600円)、日本並み。

b0214184_16125265.jpg

野菜・・・キューリ1kg3.5ユーロ(460円)、ホウレンソウ1kg3ユーロ(390円)、玉ねぎ1kg3ユーロ(390円)。日本並み?

b0214184_16145040.jpg

魚屋さんの店頭には日本でもお馴染みの魚が沢山並んでいました。魚は日本よりリーズナブル。イタリア人は魚介が大好きな国民だと思います。
サバ1kg6ユーロ(780円)、アジ1kg5ユーロ(650円)、ボラ1kg4ユーロ(520円)、エビ1kg5ユーロ(650円)、シャコ1kg6.5ユーロ(850円)

b0214184_16190693.jpg

タコ1kg9ユーロ(1200円)、ヤリイカ1kg7ユーロ(910円)、コウイカ1kg8ユーロ(1000円)、クロダイ1kg8ユーロ(1000円)

b0214184_16191075.jpg

市場を抜けてリッツォーリ大通りに出ました。

b0214184_16405394.jpg

ボローニャの斜塔に向かいました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2018-07-21 17:47 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月27日(金)イタリア その16 ボローニャ(2)

13時、ボローニャ中央駅の表口に到着、こじんまりした駅舎でした。


b0214184_05502705.jpg

この駅の改札は自由にホームの出入りができました。駅のキオスクでタバコ5ユーロ(650円)ライター1.1ユーロ(140円)、コカ・コーラ2ユーロ(260円)を購入。

b0214184_05494804.jpg

駅前広場・・・ロータリーの向こうのピンクの建物は、メルキュールホテル。

b0214184_05495277.jpg

ボローニャは、人口約40万人、エミリア=ロマーニャ州の州都で、ボローニャ県の県都。アペニン山脈とポー川の間にあるポー川谷に位置しており、1088年創立の西欧最古のボローニャ大学で有名な街でした。

旅先のマストアイテム『地球の歩き方』の説明書き・・・

「ミラノから約200km、赤いれんが色に染まる「芸術の町、ボローニャ」は、今も中世、ルネッサンス、バロック時代の息吹きがそこここに感じられる古都だ。高い甍の豪壮な館が軒を連ね、通りにはポルティコ(柱廊)がどこまでも続く。
現在のボローニャはイタリアを牽引する重要な経済都市であり、絵本、靴、美容器具をはじめとする国際見本市が開かれることで有名だ。ビジネス都市として近代的な顔を見せる反面、ほかのイタリアの町に比べて昔ながらの市場や個人商店のにぎわいに驚かされる。エコロジー、地産地消という、ボローニャ人の堅実な暮らしぶりがうかがえる町である。活動的で先進的な人々のいとなみとよく保存された中世の町並みが、イタリアのほかの町にはない一種独特の景観と雰囲気を作り上げている。」

3Dの地図を見ると、ボローニャは、多角形のリング(城壁)に囲まれた赤レンガの旧市街とリングの北西の新市街で出来た判り易い街でした。旧市街のヘソにあるマッジョーレ広場に観光名所が集中していました。ミラノでいえば、ドゥオーモ広場に相当する広場だと思います。ボローニャのリングの直径は概ね2km、ミラノの小リングと同じくらいのサイズでした。

b0214184_07313569.png

(出展 Google)

駅前のベンチで一休みして、駅前通りを南に歩いて、マッジョーレ広場近くに予約したホテルに向かいました。駅前のメルキュールホテルの歩道はアーケード型の歩道になっていました。古典建築様式の柱で囲まれた豪華な歩道で、床の石材も豪華、ポルティコ(柱廊)というゴージャスなアーケードでした。旧市街の道路という道路にポルティコ(柱廊)がありました。ボローニャの街は「アーケードの街」といってもいいと思います。

b0214184_10253391.jpg

人の流れに誘導されて、この建物の中庭に入ってみました。回廊には沢山のお店が入っていて、中庭のうねった通路やカフェにデザインの工夫も感じました。

b0214184_10381262.jpg

中庭には「Galleria II Agosto 1980」という名前が付いていました。ガッレリアという名称からも、ミラノのガッレリアとは違った形のアーケードをコンセプトにしているのかもしれません。中庭は建物所有者が持つ私有地でしょうが、なんとなく、パブリックな空間みたいな感じでした。官でもなく民でもない第3セクター的な公共空間の上手な使い方を見たような気がします。土地の「第3セクター化」がこれからの街づくりのポイントかもしれません。

b0214184_10530525.png
(出展 Google)

1階の奥が、「Galleria II Agosto 1980」の出入り口。


b0214184_10540980.jpg

写真右手は、チェーザレ・ボルトリーニ通り・・・


b0214184_11033317.jpg

ガッリエーラ門(Porta Galliera)は、14世紀に築かれ、その数回にわたり壊されては再建され、1660年~1663年に再建された門。

b0214184_11062953.jpg

当時、ボローニャ郊外のCorticellaの河川港(河岸、船溜まり)から大船団がこの門に「入船」するという大きな出来事があったとか。その船団員が旧市街の運河や河川港を造ったそうで、この辺りに運河があったという証拠です。街歩きではその痕跡を見ることができませんでしたが、ミラノと同様、運河の痕跡があるのかもしれません。

b0214184_17591479.png
(出展 Google)

古代ローマ時代の遺跡らしき遺跡・・・

b0214184_11143994.jpg

駅前通り(インディペンデンツァ通り)のアーケードをどんどん歩いて行きました。

b0214184_11145896.jpg


b0214184_11152238.jpg

この時点では気付いていませんが、実は、反対側の歩道もアーケードでした。ボローニャは徹底した「アーケードの街」でした。

b0214184_11154309.jpg

浮世絵の展覧会の幟・・・旧市街の建物の壁はほとんど「赤」でした。ボローニャは「赤の街」でもありました。

b0214184_11155733.jpg

アーケードの幅は4m程度、建物の1階部分が歩道になっていました。この歩道が道路なのか私有地なのか、その法的な取り扱いは不明ですが、優れた公共空間であることには変わりありません。日本ではこのようなアーケード型の歩道を見たことはありません。歩道型アーケードの根拠法が道路法なのか建築基準法なのかは不明ですが、法的な規制があるのではと思います。


b0214184_11570166.jpg

車道側が柱、屋根はアーチ屋根、幅員は4m、建物側はお洒落なショーウィンドーが延々と続いていました。

b0214184_12015358.jpg

インディペンデンツァ通りの脇道には屋台が並んでいました。

b0214184_12052779.jpg

ホテル前の広場の銅像が目に入りました。

b0214184_12060858.jpg

ミラノでも見た、イタリア統一運動の英雄ジョゼッペ・ガルバルディでした。

b0214184_12090307.jpg

今日は金曜日、地元の中学生たちが徒党を組んで楽し気に歩いていました。

b0214184_12104936.jpg

デ・ファレニャーミ通りとい路地裏通り・・・路地裏の建物の壁も赤。ボローニャ旧市街には建築に関する法的な縛りがあるようです。

b0214184_12154993.jpg

サン・ピエトロ大聖堂という大きな大聖堂が通りに面していました。大聖堂があるという事は、教区の司教座がある訳で、ボローニャはカトリックの重要拠点だといってもいいでしょう。

b0214184_12212956.jpg

サン・ピエトロ大聖堂のファサードはルール通り、西に向いていて、跳び梁なども付いていました。この3D地図に見る通り、旧市街の屋根は完全に「赤」一色なのがよく判ります。
付け加えると、ボローニャの旧市街には、鐘楼らしき塔状の建物が多いことが判ります。ボローニャは「塔の街」だったとも言えそうです。


b0214184_17213210.png
(出展 Google)

大聖堂前のアーケードもお洒落でした。

b0214184_12292402.jpg

ボローニャ旧市街の「ヘソ」マッジョーレ広場までやってきました。塔の付いた建物は、エンツォ王宮・・・。

b0214184_12365060.jpg

写真右手の大きな建物がサン・ペトローニオ聖堂・・・。

b0214184_12372057.jpg

市庁舎の裏手のアゼッリオ通り・・・旧市街中心部の一部の街路は、車を排除した人中心の街路にしてありました。

b0214184_12414927.jpg

市庁舎の裏手を歩いて、ホテルを目指しました。

b0214184_12415296.jpg

公園のオブジェ・・・

b0214184_12434749.jpg

市庁舎は赤レンガ造りの防御力の高いお城でした。塔上部の跳ね出しや銃眼から敵を狙うやり方のようです。

b0214184_12435475.jpg

予約したホテルは、この建物の5階にありました。

b0214184_12435927.jpg

13時50分、チェックイン。部屋で休んで15時からボローニャの街歩きを開始しました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2018-07-16 18:20 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月27日(金)イタリア その15 ボローニャ(1)

10時50分、地下鉄3号線ミラノ中央駅に到着、11時30分発ボローニャ行きの電車に乗車するため地上ホームに上がりました。中央駅の下段中央通路は白の大理石で出来ていました。

b0214184_20142991.jpg

上段の中央通路の入り口・・・白の大理石に豪華な彫刻が施されていました。ミラノを代表するゴージャスな建物といえば、自分的にはドゥオーモとこのミラノ中央駅でした。それに相応しい最高級の石材「大理石」を惜しげもなく使用していました。ミラノ特産の「さざれ石」や旧市街でよく見掛けた「赤レンガ」ではありません。
T大のH先生があるセミナーで「駅は街の顔」と言っていたことを想い出しました。なるほど、東京駅と同様、ミラノ中央駅はミラノの「街の顔」に相応しい駅舎だと思いました。

b0214184_20144661.jpg

昨日のお昼に初めて来た、上段の中央通路に再びやって来ました。ミラノ中央駅は、文字通りの「行き止まり駅」、スルーしづらいので、旅行客が貯まって、ごった返してしていました。H先生は従前の「客を効率的にはける駅」から「客を貯める駅」をコンセプトに中国地方のある駅舎の基本設計をしたそうです。

b0214184_20150292.jpg

イタリアの主要な鉄道駅は何故か切符がないとホームに入れませんでした。日本と同じで改札がありました。欧州では初めての経験でした。最近増えてきたテロ対策かもしれません。持参した切符(印字したpdf)を係員に示してホームに入場しました。

b0214184_20150690.jpg

行き止まり駅なので、プラットフォームの端には大きな半円形の妻壁ができていました。

b0214184_20154037.jpg

ミラノ中央駅のホームを覆うドーム型の屋根は大きく3つに分かれていました。プラットフォームの本数は全部で22本。トップライトの開口率が大きいので採光は文句ありません。

b0214184_20154677.jpg

行き止まり駅なので沢山の電車が並んでいました。

b0214184_20155284.jpg

ホームには灰皿がおかれているので、タバコ臭がきつかったです。タバコ嫌いの人たちには辛いホームだろうなと感じました。

b0214184_20155488.jpg

電光掲示板の前に乗客が集まっていました。イタリアでは発車番線の発表は発車20分前がルールでした。フランスのパリのモンパルナス駅も同じだったと記憶しています。

b0214184_20155865.jpg

11時10分、11時30分発のフレッチャロッサ9625号の発車番線は12番線と発表されました。

b0214184_20160124.jpg

駅の売店でお昼でもと思って、売店を覗いたら、お寿司が並んでいました。中央の大振りの詰め合わせは17.5ユーロ(2300円)、イタリアでも寿司は高級な食べ物でした。あまりの高額さにスルー。

b0214184_05435035.jpg

11時30分発9625号はナポリ行きの赤い電車でした。イタリアに来て初めて乗る電車は「FRECCIA・ROSSA」という新幹線でした。

b0214184_20160686.jpg

「FRECCIA・ROSSA(フレッチャ・ロッサ)はイタリア語で「赤い矢」、なかなか良いネーミングです。トレニタリアというイタリア国鉄が誇る新幹線でした。

b0214184_20162379.jpg

ドーム型の駅舎を見て、「ひまわり」というイタリア映画を想い出しました。この映画にミラノが登場しました。ソフィア・ローレン主演の反戦映画でした。ジョバンナ(ソフィア・ローレン)が、この駅のホームでアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)を見送るシーンで映画は終わります。映画は1970年にリリースされていました。約50年を経ても、ドームやトップライトなどの構造は変えていませんでした。

b0214184_06040829.jpg


b0214184_06041343.jpg

帰国後、この映画を再度観ました。映画の冒頭に、ドゥオーモとガッレリアが窓ガラス越しに「ちょろっと」だけ出てきました。もうすこし、ドゥオーモとガッレリアを大写しにしても良かったかなとは思いますが・・・いずれにせよ、ミラノ中央駅、ドゥオーモとガッレリアは、ミラノの顔、マストアイテムだといういうことは間違いないなと感じました。

b0214184_06565933.jpg
(ガッレリア)

b0214184_06570805.jpg
(ドゥオーモ)

電車の路線は、ロンバルディア平原の南端の山裾に沿って設置されおり、E35という高速道路とほぼ並行していました。沿線の都市はアペニン山脈の豊富な水が利用でき、高標高の立地なのでポー川の氾濫被害を避けることができるようです。E35はEU全域を網羅的に走る幹線高速道路の1つでした。
ミラノを大阪、ローマを東京に例えると、鉄道は東海道新幹線、道路は東名高速といった感じ、この沿線一帯はイタリアの重要な国土軸だと感じました。ボローニャは差し詰め静岡といったところでしょうか。E35は、アムステルダムからローマを結ぶ全長1660kmの高速道路。飛行機はシェンゲン協定で国境がありません。EU圏内の人、モノの流れを効率的に行う戦略みたいなものを感じました。

Wikipediaより

欧州自動車道路(おうしゅうじどうしゃどうろ)は、ヨーロッパにおける国際的な道路網。ヨーロッパハイウェイ、欧州道路や国際E-ロードネットワークとも呼ばれる。 国境をまたがって伸びており、ルートの決定は欧州経済委員会(United Nations Economic Commission for Europe 略称UNECE)によって行われている。そのため、この道路網はヨーロッパのみならず、欧州経済委員会参加国である中央アジアのカザフスタン、キルギスも含んだものになっている。(中略 )同様の国際道路網としてはアジアハイウェイや、パンアメリカンハイウェイなどがある。
E35 – 1660 km : アムステルダム – ユトレヒト – アーネム – エンメリッヒ(英語版) – オーバーハウゼン – ケルン – フランクフルト – ハイデルベルク – カールスルーエ – オッフェンブルク – バーゼル – オルテン – ルツェルン – アルトドルフ – サンゴタール峠 – ベッリンツォーナ – ルガーノ – キアッソ(英語版) – コモ – ミラノ – ピアチェンツァ – パルマ – モデナ – フィレンツェ – ローマ
E35号線(英語: European route E35)は欧州自動車道路のAクラス幹線道路。オランダのアムステルダムからドイツ、スイスを経てイタリアのローマまで延びている。


b0214184_10280718.png

(出展 Google)

早めに予約を入れると、単独席が取れました。

b0214184_21380822.jpg

トレニタリアのホームページで予約した切符を印刷して持参しました。「赤い矢」9625号は定刻に出発、ヴェローナ中央駅着は12時32分。ミラノ~ヴェローナ間は219km、所要時間1時間2分なので平均時速は210km。料金は24.9ユーロ(3200円)。
料金は飛行機と同じで1等、2等、変更やキャンセルが効く効かないなどで2~3倍と大きく値段が変わります。この値段は変更が効かない一番安い料金。新幹線は、東京・掛川間が229km、7300円、1時間30分なのでイタリアの新幹線は相当リーズナブルだと言えます。


b0214184_10493002.jpg

「赤い矢」9625号は定刻11時30分にミラノ中央駅を発車しました。イタリアの電車は時間にタイトでドイツより正確な感じでした。奇妙な形をした建物の建物越しにドーム屋根が見えました。この変わった建物は空港の管制塔みたいな役割の建物かもしれません。

b0214184_06273047.jpg

駅の近くは集合住宅が目立ちました。


b0214184_21412966.jpg


b0214184_21415388.jpg


b0214184_21421091.jpg

15分も走ると電車は田園地帯に入りました。ポプラ並木と麦畑が車窓に拡がりました。

b0214184_21425914.jpg

イタリアの田園地帯も綺麗にしてありました。

b0214184_21434888.jpg

欧州自動車道路E35号線・・・沢山のトラックや自家用車が走っていました。

b0214184_06313679.jpg

車内は、開口の大きい窓なので明るく、車窓の景色も楽しめました。

b0214184_06320624.jpg

この時の感想をフェイスブックにアップしました。

b0214184_06291055.jpg

4月27日(金)ミラノは曇り、適温。
朝、7時過ぎに旧市街のはずれにある運河に行ってみました。掘割から2本の運河が分派していました。水が澄んでいたのには驚き、これまで見た欧州の川は茶色があたり前でしたから・・・
ホテルを10時20分にチェックアウト。地下鉄でミラノ中央駅に向かいました。この駅は何度見ても立派過ぎます。ホームへの一般客の立ち入りが禁止されていました。欧州では珍しいでしょう。発車番線は20分前に発表されました。ミラノ中央駅には22本のプラットホームがありました。屋根は3つの巨大なドーム屋根でトップライトが付いていました。ソフィア・ローレン主演の「ひまわり」でこの駅舎が登場しました。映画を見終えて一度はこの駅に行ってみないなと思っていました。願いが叶ってよかったです。
イタリアの新幹線「赤い矢」の車中でこの記事を書いています。フレッチャ・ロッサ9625号は定刻11:30分にミラノ中央駅を発車、ボローニャ中央駅に12時32分に着きます


電車は定刻12時32分にボローニャ中央駅の地下ホームに到着しました。

b0214184_06324215.jpg

何故、地下ホームなのか?
ボローニャは駅舎の土地を立体的に利用しなければならないほど高密度に開発が進展した都市とは思えません。地上ホームでも十分だと思いました。東京の北千住駅は高さを変えた3路線のホームがある巨大な立体的な駅舎ですが、そんな感じもありません。

b0214184_06325741.jpg

結局、「お題」の答えは不明。敢ていうと、構内には新駅のホームの増設工事が行われており、手狭になったので新幹線の路線は地下化した。新幹線の騒音・振動問題もあった。立体利用なら日本式の高架駅もありですが、地下駅にするのが欧州流かもしれません。


b0214184_09405205.png
(出展 Google)

地上に向かいました。

b0214184_06335705.jpg

出口を間違えて、駅裏に出てしまいました。

b0214184_06351899.jpg

構内の地下通路を歩いて表口へ・・・

b0214184_06354943.jpg

地上ホームには緑の電車が停車していました。プラットフォームは日本式の個別屋根でした。

b0214184_06360421.jpg

駅舎の表口に出て、旧市街に予約したホテルまで歩きました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-07-15 10:05 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月27日(金)イタリア その14 ミラノ(10)

朝8時過ぎ、お目当てのナヴィリオ運河に到着しました。ナヴィリオ運河は実際は3つの運河に分かれていました。
一番大きなダルセナ・デル・ナヴィリオ運河は護岸と護岸の間で概ね100m、水面幅は60m、オープンスペース感の感じられる水辺でした。この運河は、かつては大リング城壁の外側にあったお堀の一部だと思います。

b0214184_09265796.jpg

1537年の地図では大リングの城壁外側は全周お堀でした。現在はダルセナ・デル・ナヴィリオ運河の概ね600mのみが保存されていました。大リングは東京で言えば江戸城外濠に相当するものですが、外濠は飯田橋区間と弁慶橋区間を合わせて2kmくらいは残されています。

b0214184_10121771.jpg


b0214184_04150995.png

(出展 Google)

Googleの地図を3Dに変えると、この運河は工事中に変わりました。運河の水を抜いて、全面的なドライ工事をしている様子でしたが、その目的は不明。 

b0214184_11341451.png
(出展 Google)

ナヴィリオ・パヴェーゼ運河は、ダルセナ・デル・ナヴィリオ運河から分派した運河でした。運河幅は10m、両脇に7mの道路が付いていました。全幅で24mの空間やスペースは、開発が進んだ都市内の貴重なオアシスです。建物は、運河脇に道路があるので運河に向いていました。この運河は真っすぐに南に伸びていました。人工的に開削された運河である証拠だと思います。

b0214184_09215905.jpg

運河について、ミラノ市の観光案内がありました。

b0214184_09274452.jpg


b0214184_05413356.jpg

説明書きによると、ミラノには3つの運河がありました。

 ①ナヴィリオ・パヴェーゼ運河(ミラノとポー川河畔都市パヴィーナを結ぶ)
 ②ナヴィリオ・グランデ運河(ミラノとベレグアルド運河を結ぶ)
 ③ナヴィリオ・マルテサーナ運河(ミラノとアッダ川を結ぶ)

これらの一連のプロジェクトは15世紀にスタートし、この水の回廊でミラノは大陸ヨーロッパと地中海を結ぶ交易の十字路となったそうです。当時の主要な運搬手段は舟運、ミラノを含めた北イタリアの諸都市が最盛期を迎えた時期にあたります。これらの運河は、ミラノの防衛用リングのお堀、都市用水供給、農業用水供給、産業舟運として開削された運河だと思います。パヴェーゼ運河は、1819年に開通、開通直後から鉄道が普及するのですぐに衰退していったのかもしれません。マルテサーナ運河は、コモ湖の水をミラノのリング運河に供給する「キモ」の運河で、15世紀、ダヴィンチが考案した閘門があったとか。旧市街のリング運河は1929~1930年に蓋掛けされたそうです。

b0214184_14261636.jpg


新サンタ・ソフィア駅の駅舎工事案内で掲示されていたミラノの古地図に記されたローマ字の略号の意味が判ってきました。

「D」 :ダルセナ・デル・ナヴィリオ運河
「NP」:ナヴィリオ・パヴェーゼ運河
「NG」:ナヴィリオ・グランデ運河
「NI]:不明
「NM」:ナヴィリオ・マルテサーナ運河
「N V」:ナヴィリオ・ヴェッタッビア運河

b0214184_22481962.jpg

ナヴィリオ・パヴェーゼ運河の河畔には高さ1m弱の転落防止柵が付いていました。水は澄んでいて、流速は結構ありましたし、川底が見えました。さらさらと流れる清流はなんとなく日本の川に似ていました。


b0214184_09222271.jpg

この橋が、直線的で単調な運河のアクセントになっていました。太鼓型の橋は、横断には不便ですし、観光船の通過に必要な桁下空間もこれほどは要りません。構造的に有利なアーチ構造にしたようにも見受けられますが、桁下空間の大きいデザインにしたことで、ランドマーク的な存在感を出していました。

b0214184_09223964.jpg

朝早いので人通りは疎らでした。

b0214184_09233561.jpg

お隣のナヴィリオ・グランデ運河は、全幅で27m、運河幅は13m、両脇に7mの道路が付いていました。小さな観光船が浮かんでいました。

b0214184_09283356.jpg

グランデ運河は、お隣のパヴェーゼ運河よりお店が多い感じがしました。説明書きによれば、現在、この2つの運河沿いには貿易商、クラフトショップ、バー、ナイトクラブがあり、ミラノで最も活気に溢れた場所の一つだそうです。ナヴィリオ流の生活様式は、1603年に船溜まりとして築かれたダルセナ運河から始まったとか。
このあたりは、東京でいえば江戸城外濠の外側に相当する地域、つまり、町民の街と考えることができそうです。江戸は1636年の外濠の完成で街の姿が整いました。この2つの運河沿いの地域は、ミラノ庶民の活気のある生活の原点があった場所と考えられます。踏み込んだ言い方をすれば、ナヴィリオ地区は、舟運で賑わった江戸期の日本橋に例えると腑に落ちるように思います。残念ながら朝早いのでその賑わいを観ることはできませんでした。

b0214184_09301410.jpg

この太鼓橋も素朴な味わいを感じさせ、周辺の建物に違和感なく溶け込んだ橋でした。

b0214184_09303415.jpg

路面と水面の段差は1m程度、水辺の近さを感じることができます。

b0214184_09332930.jpg

「KAWA」という日本食レストランがありました。日本語を理解しているネイティブがいるといいのですが・・・ 

b0214184_09340619.jpg

ミラノの街は室内は禁煙ですが、屋外の規制は緩かったと記憶しています。必ず、朝一番に清掃員が街を綺麗に清掃していました。


b0214184_09343013.jpg

ダルセナ運河に戻って、運河河畔の道を西に向けて歩きました。

b0214184_09344366.jpg

運河南側の河畔道路・・・


b0214184_09351709.jpg

ダルセナ運河の水辺のアクセスは文句なしに良かったと感じました。


b0214184_09360776.jpg


b0214184_09363437.jpg

水際までスムーズな誘導を感じさせる水辺です。

b0214184_09364101.jpg

大リングの道路脇から見たダルセナ運河・・・

b0214184_09370574.jpg

運河脇の遊歩道を降りて水際を歩きました。

b0214184_09384485.jpg

遊歩道と水面の段差は1m弱、転落防止柵はありません。景観的な配慮を感じましたし、イタリア流の自己責任の考え方もあるようです。対岸の橋がグランデ運河の始点。

b0214184_09420305.jpg

対岸の大きな建物の下に見える橋が、パヴェーゼ運河の始点。

b0214184_09421753.jpg

運河脇のショッピングモールにはいろいろなお店が入っていました。もしかしたら、運河の整備で移転をさせれた商店の代替施設かもしれません。

b0214184_18452924.jpg

運河を離れて、ポルタ・ティチネーゼ通りを北に戻りました。振り返って見たティチネーゼ門・・・

b0214184_18472598.jpg

小リングの城門まで戻ってきました。


b0214184_18555397.jpg

城門を抜けると、サン・ロレンツォ聖堂という寺院がありました。調べると、この聖堂は4世紀に創建された、ミラノの歴史を語る上で重要な大聖堂でした。ミラノは、4世紀には西ローマ帝国の首都でした。ミラノは、1700年の歴史を持つ都市ということになります。


b0214184_18512421.jpg

 Wikipediaより

サン・ロレンツォ・マッジョーレ大聖堂は、ミラノのナヴィリオ地区(運河地区)にある、何世紀もの間改築を繰り返してきた、カトリック教会に於ける重要建築物である。また中世に建てられたティチネーゼ門に接する位置にあり、ミラノに於ける最古の教会の一つである。

歴史
大聖堂は4世紀末から5世紀初頭に建築されている。ただ、建築依頼者や創設にまつわる状況が不明であると同様に、正確な日付等、詳細は不明である。 ただ、当時この大聖堂の大きさが、円形建築の設計としては西ヨーロッパ最大であった事、また、ミラノがロンバルドの統治下にあった当時、西暦590年以降よりこの聖堂がカトリック殉教者であるサン ロレンツォに献呈されているという記録が残っている事は確かであるとされている。

この時代は、ミラノやイタリア全体にとって衰退の時代であった。にもかかわらず、サン・ロレンツォ聖堂は、その当時ミラノで最も高台に建てられていた教会であった事もあり、カトリック信者にとって意味のある「オリーブの丘」と「枝の主日」を象徴する存在として、市民にとっては常に重要な聖堂であった。11世紀と12世紀には幾度もの火災、地震といった天災に見舞われた。特に、1071年の大火災では内装が破壊され聖堂は多大な被害を被り、また度重なる地震により聖堂全体が不安定になり、12世紀と13世紀には聖堂を新たなに修復をせざるを得なくなった。

中世の時代に入り、特に1154年のフリードリヒ1世_(神聖ローマ皇帝) (通称バルバロッサ:赤ひげ)のミラノ攻撃によるの破壊後には、当聖堂はミラノに於けるローマ建築遺産の象徴であった。特に、ルネサンス時代には古典研究学者による消滅した伝統的な教会建築法の模範となる場所となり、ブラマンテ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ等によって学ばれる事となる。その事は、この時代の数々の絵画に引用されていることによって見受けられる。

1573年6月5日には突然ドーム部分が崩壊したが、幸い被害者はいなかった。修復は、崩壊直後に始まり1619年に完了した。

1830年代オーストリア政府はヴェトラ周辺域(聖堂裏側の現公園地)の再評価をした。その当時聖堂に隣接して建てられていた家々、皮なめし職人の住居等は除去された。また、この地域を通っていたヴェトラ運河は覆われ、又、当時そこで行われていた死刑も廃止された。1944-1945年の第二次世界大戦中の爆撃後、破壊された家々は再建される事はなく(サン・エウストルジョ大聖堂と共に)二大聖堂の公園が作られ、それにより大聖堂の素晴らしい全景が見えるようになった。1934年には中庭に建てられていた家々も除去され、大聖堂前は広場となった。

詳細
聖堂は、おそらく不安定で湿地である地勢の為、人工的に作られた丘の上に建てられた。当時はミラノの町の周囲を囲む壁がドゥオモを中心にした円で町が囲まれていたが、この聖堂の土台にある丘はその壁の側にあった。ミラノの町へ入る主要道路であるティチネーゼ通りに沿ってあり、また聖堂は、聖堂建設の一部に資材を調達したとも思われているローマ帝国宮殿やローマの円形劇場にも近い場所であった。また、聖堂全体はいくつもの水路に囲まれており、それらは(ミラノ中の水路の出口である)ヴェッタッビア水路で合流し、現在もなおミラノ南部の農村地帯へ水を流している。


かなり風化したこの門柱の柱は、もしかしたらローマ帝国宮殿やローマの円形劇場の一部かもしれません。


b0214184_11532465.jpg

トリノ通りを北に歩くと、ドゥオーモ広場でした。

b0214184_19083008.jpg

コルドゥーシオ広場まで戻ってきました。


b0214184_19002820.jpg

9時30分、ホテルに戻って出発の仕度をしました。2時間半の街歩きが終了しました。

b0214184_19095318.jpg


b0214184_19104302.jpg

ホテルでビュフェ式の朝食を摂りました。以降、イタリアの各都市で朝食付きのホテルに宿泊しましたが、全てビュフェ式でした。


b0214184_19095679.jpg

ホテルを10時20分にチェックアウト。地下鉄M3でミラノ中央駅に向かいました。この修道院風の建物はレンタルオフィス会社の経営。


b0214184_14004708.jpg

ドゥオーモとも当分お別れです。


b0214184_14010195.jpg

ドゥオーモ広場の脇のM3ドゥオーモ駅・・・


b0214184_14013413.jpg

自販機で何度トライしても切符が上手く買えず、駅員に少し切れ気味に尋ねると、駅員は、「構内のキオスクで買えますよ」。キオスクで1,5ユーロの切符を無事、購入できました。対機械は100%ルール通り、対人はゼスチャーあり、言葉あり、何でもあり・・・。


b0214184_14015702.jpg

10時50分、ミラノ中央駅に到着、11時30分発の電車でボローニャに向かいました。

b0214184_20062661.jpg

以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-07-10 17:11 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月27日(金)イタリア その13 ミラノ(9)

この日は11時30分ミラノ中央駅発の電車でボローニャに向かいました。
年齢のせいか、朝は早く目が覚めます。朝、7時にホテルを出発して、午前中の時間を利用して、旧市街の南側にあるナヴィリオ運河を歩いてみました。一応、「川屋」を自称する手前もあり、ミラノの水辺を外すわけにはいきません。ミラノは、アルプスの水が潤沢に流れる、水辺の街と期待していましたが、実際はそうではありませんでした。市街地の南にわずかの水辺が残されていただけでした。
コルドゥーシオ広場からドゥオーモを横目に見ながら、イタリア大通りを南に向けて歩きました。

b0214184_16154294.png
(出展Google)

ダンテ通りに出ると、スフォルツァ城が見えました。


b0214184_07372283.jpg

コルドゥーシオ広場・・・正面の建物は保険会社でした。

b0214184_22332132.jpg

キオスク・・・新聞・雑誌・地下鉄の切符が売られていました。
  
b0214184_22340118.jpg

昨日歩いたドゥオーモをやり過ごして南に向けて歩きました。

b0214184_22343765.jpg

脇道に入ってアンブロジアーナ絵画館の前まで行ってみました。

b0214184_22342974.jpg

全面デコメの最新式トラムも走っていました。


b0214184_23282019.jpg


b0214184_22350593.jpg

教会と定置式ジブクレーン。イタリアもドイツと同様ジブクレーンがお好みのようです。

b0214184_22351582.jpg

しばらく歩くと、ミッソーリ広場に到着。この広場は放射状の基幹道路であるイタリア大通りとポルタ・ロマーナ道路の交差点。ハリーポッターが展示されていました。

b0214184_22391288.jpg

ジュゼッペ ・ ミッソーリは、イタリア統一運動の英雄ジュゼッペ・ガリバルディの同士だったそうです。台座は「さざれ石」でした。

b0214184_22403199.jpg

イタリア大通りの「横目地の建物」、「石畳の車道と軌道」、「路面電車」は、ミラノのマストアイテムといった感じ・・・。

b0214184_22424608.jpg

ネイティブの人たちは、お酒と食事を出す立飲みのビストロで朝食を摂っているようです。

b0214184_22420781.jpg

生ハム・・・

b0214184_22151705.jpg

サン・エウフェミア教会・・・ミラノの教会はこのような赤レンガの教会が多かったと記憶しています。


b0214184_22444725.jpg

最新式トラム・・・


b0214184_22453980.jpg

イタリア大通りとサンタ・ソフィア通りの交差点で地下鉄新線M4の工事現場に出会いました。新サンタ・ソフィア駅の開削工事の現場でした。M4地下鉄新線プロジェクトは巨大なプロジェクトでした。

 ・工期:2014年12月から約7年
 ・事業費:13億ユーロ(1700億円)


b0214184_22460513.jpg


ミラノのM1、M2は旧市街の放射道路下の地下鉄、M3は北側の小リング下の地下鉄といった感じですが、このM4は南側の小リング下の環状線地下鉄といった感じでした。東京でいうと、東西線と丸ノ内線を合わせた地下鉄といったところでしょうか。M4の終点は市街地の東側にあるリナーテ空港でした。

b0214184_05511142.jpg

工事看板にこれから向かうナヴィリオ運河が描かれていました。ミラノは かつて水の都でもあったのかと思われる絵柄でした。

b0214184_22513255.jpg

ミラノの古地図も掲示されていました。最初は新線の路線図かと思いましたが、どうもすっきりしません。この絵図の黒い線は昔の運河や水路ではないかと気づきました。ティチネーゼ門の西側の「NP」、「NG」、「D」という記号は、お目当てのナヴィリオ運河の略称でした。


b0214184_22481962.jpg

新駅の現場・・・

b0214184_22472335.jpg

駅舎ができる場所の建物は撤去されて空き地になっていました。

b0214184_22475724.jpg


新駅の計画図も掲示されていました。単線トンネルを2本掘って、地中で連結する駅舎でした。地下26mという大深度において非開削でトンネルを連結するには、高度の土木技術が必要です。
1537年の地図では小リングの城壁の外側にお堀がありました。ミラノはこのお堀を埋めずに暗渠化していました。東京の小河川は、都市化の進展に伴ってどぶ川化し悪臭を放つため埋め立てられたり、瓦礫処理場として埋め立てられたと聞いています。


b0214184_22533007.jpg

この通りはイタリア大通りと直交する脇道。

b0214184_22312462.jpg

交差点の角の建物には「イタリア大通り」と脇道の通り名の表示がありました。


b0214184_22482385.jpg

サンタ・マリア・ブレッソ・サン・チェルソ教会に立ち寄ってみました。1493年に完成した由緒のある教会でした。

b0214184_22211379.jpg

白い石造りの風格に溢れた教会でした。

b0214184_22205098.jpg

教会内部は静かで厳かな気分に溢れていました。

b0214184_22224336.jpg

イタリア大通りを右折して、西向きに歩きました。かつての大リングは中央分離帯付きの幅広の道路に変わっていました。


b0214184_22235442.jpg

「さざれ石」の石材を使った「横目地」の建物・・・。

 
b0214184_22292504.jpg

ほどなく、ティチネーゼ門に到着。この門は大リングの出入口にある防衛上の要の門で、1815年に完成。


b0214184_22243960.jpg

ナヴィリオ運河はすぐでした。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-07-07 09:09 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月26日(木)イタリア その12 ミラノ(8)

スフォルツァ城の外周にある建物は、例の「横目地」の建物でした。ミラノの旧市街は「横目地」の建物がマストアイテム。

b0214184_05284636.jpg

スフォルツァ城のお隣は、「ミラノ北駅」。時刻は18時前、この駅も「行きどまり駅」で沢山の通勤客で混雑していました。。「ミラノ中央駅」が東京駅なら この駅は池袋駅か新宿駅みたいな感じでしょうか。

b0214184_05340105.jpg

「ミラノ中央駅」の近くにある「ミラノ・ポルタ・ガルバルディ駅」も「行き止まり」のハブ駅でした。この駅舎は新市街地にあり、駅前には超高層ビルが並んでいました。「ポルタ」は「門」、この駅は文字通り「ガルバルディ門」の近くにありました。ガルバルディは1870年のイタリア統一運動で功績のあった英雄の一人、ミラノ以外の都市でも、ガルバルディゆかりのものを観ました。ガルバルディ門は大リングに位置していました。

b0214184_16273069.png

(出展 Google)

ミラノも含めて、ロンドン、パリ、ローマなど欧州の大都市には、「行きどまり駅」のハブ駅が多い理由は何故か?
また、「お題」が出されたみたいなので、答えを探してみました。
調べると、1825年イギリスで初めて鉄道が開業、1832年フランス、1835年ドイツと産業革命時期にあいついで鉄道が開業していました。鉄道建設工事はその2、3年前の1830年頃、欧州の大都市で行われたと考えられます。
1537年のミラノの旧市街の絵図面に見るように、当時の旧市街は、中心のヘソの部分に大聖堂、市庁舎、市場や広場があり、その周囲を密集した建物が埋めていたと思われます。
鉄道も含めインフラ整備のマストアイテムは3つ。いずれの一つでも欠けると、そのインフラは出来ないと言われています。
  ① 土地 
  ② お金
  ③ 合意形成
結局、旧市街の中心部に鉄道インフラに必要な線路や駅舎用地を確保するのが困難であり、駅舎は旧市街の外側に造らざるを得なかったと考えてみました。ただ、ドイツのケルン中央駅のようなケルン大聖堂のすぐ脇に立地した「通り抜け駅」もあり、一概には言えませんが・・・。
「ミラノ中央駅」、「ミラノ・ポルタ・ガルバルディ駅」は大リングの外に立地、「ミラノ北駅」は小リングと大リングの間に立地といった具合に、①土地と③合意形成が得られ易かったのではないかと考えてみました。

産業革命の進展により都市への人口集中が起こり、旧市街と外側の鉄道駅舎間の交通需要が増してくると、最初は路面電車や自動車がその役割を担った。都市化の進展が更に進み、自動車交通量が爆発的に増えてきた結果、深刻な道路の渋滞解消手段として、地下鉄が登場した。一方、開削技術やトンネル技術などの都市土木技術が進展した結果、高密度な旧市街の地下空間にトンネル型の線路や駅舎を造ることが可能になったということも、地下鉄の進展を後押ししたと思います。
2016年のドイツ旅行で行った「ライプチッヒ中央駅」は、巨大な「行きどまり駅」でした。この駅舎も旧市街のリングの外に立地していました。「ライプチッヒ中央駅」の地下にはピカピカの地下鉄駅舎が完成しており、旧市街中心部のマルクト広場にも地下鉄駅舎が完成していました。ちなみに、これらの駅舎は大変お洒落でデザイン的にも優れた駅舎でした。

https://camino0810.exblog.jp/26290729/

b0214184_13561691.jpg


(ライプチヒ中央駅の地下鉄駅舎)

b0214184_13570867.jpg

(マルクト駅の地下鉄駅舎)


「ミラノ北駅」の駅舎のデザインは赤と緑の大胆で斬新な色使いでした。「古い容器に新しいお酒をいれる」といったリノヴェーションがミラノでも行われている感じがしました。新旧を取り交ぜて、街にアクセントを入れる試みでしょうか。

b0214184_05342347.jpg

年代モノのレトロな電車も活躍していました。

b0214184_05344104.jpg

この大きな駅前通りは、ジョスエ・カルドゥッチ通り・・・Googleのイタリアの地図には必ず道路名が表示されますが、日本の街では通り名表示が少ないことが判ります。

b0214184_06083691.jpg

イタリアの住所表記は「通り名」表示でした。交差点の建物の角の目につく場所に必ず「通り名」が表示されていましたし、しかも、どんな小さな通りであっても名前が付いています。日本のブロック単位標記とは違うこのやり方は、道路名で住所が特定できるため街歩きには便利でした。日本の場合、東京の街にしても地方の街にしても道路名を示す標識が少ないため、Googleのマップのようなツールを携帯していないと、自分の位置を特定するには意外にも不便です。

・イタリア住所表示
『Hotel Vecchia Milano』: Via Borromei, 4, 20123 Milano MI, イタリア
自分が宿泊したこのホテルは、ボッロメイ通りに面した4つ目の建物という意味合い。
・ドイツの住所表示
『Centro Hotel Vier Jahreszeiten』:Kurt-Schumacher-Straße 23, 04105 Leipzig, ドイツ

パルディ通りには「横目地」の建物がずらりと並んでいました。


b0214184_06121005.jpg

街路樹付きの通り・・・

b0214184_06291077.jpg

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会はすぐに見つかりました。赤レンガのシンプルなファサードと円筒形の祭壇を持った教会でした。写真左のクリーム色の建物の食堂にダ・ヴィンチの「最後の晩餐」がありますが、事前予約をしていないので、スルー。


b0214184_06300923.jpg

館内は無料で参拝ができました。祭壇で讃美歌の練習が行われていました。

b0214184_06311265.jpg

教会内部も意外にも質素で何となく親しみを感じました。欧州の教会は外見が地味でも内部は恐ろしいくらい豪華な教会が多かったという記憶があります。

b0214184_06312767.jpg

フレスコ画かテンペラ画が区別がつきませんが、親しみを感じる絵柄でした。

b0214184_06324426.jpg

b0214184_06324864.jpg

有名な「最後の晩餐」は、寡作のレオナルド・ダ・ヴィンチが1495年から3年掛けて完成させた巨大な絵画で寸法は4.6 m x 8.8 mだとか。ダ・ヴィンチが、彼のパトロンであったスフォルツァ城の城主ルドヴィーコ・スフォルツァの要望で描いた絵画だそうです。

b0214184_15164854.jpg
(出展 Wikipedia)

外壁にスフォルツァ城でも見た「蛇」のエンブレムが飾られていました。この教会はスフォルツァ城の城主ルドヴィーコ・スフォルツァの寄進を受けた教会かもしれません。

b0214184_06325182.jpg

次のターゲットのサンタンブロージョ聖堂を目指して歩きました。水道管の土木工事が行われていました。

b0214184_06340660.jpg

安全設備などは日本並みのレベルでしっかりしていました。

b0214184_06340820.jpg

ミラノで4番目の地下鉄新線が建設中でした。サンタンブロージョ駅の予定地でした。埋蔵文化財の調査や保全などご苦労があることと思います。ローマでもそうでしたが、必要なインフラに対してしっかり投資が行われているなと思いました。


b0214184_06341616.jpg

サンタンブロージョ聖堂の入り口に「小リング」の門が保存されていました。門の前は橋になっていて、中世はお堀になっていたと思います。

b0214184_22264079.jpg

サンタンブロージョ聖堂は、赤レンガ造りのシンプルな外見の教会でした。

b0214184_22342960.jpg


b0214184_22372971.jpg


b0214184_22373612.jpg

教会の脇の真新しい公園を歩いて、ホテルを目指しました。

b0214184_22383282.jpg

モニュメント・・・

b0214184_22393285.jpg

サクロ・クオーレ・カトリック大学(聖心カトリック大学)という私立大学がありました。良く考えると、中世から教会は研究組織でもあった訳で当然のような気もします。日本の聖心女子大学みたいな大学かもしれません。


b0214184_22461456.jpg

向かいの州警察の建物の外壁に「横目地」の秘密が垣間見えました。

b0214184_22510744.jpg

この建物は老朽化が進んでいるようで、外壁の剥離が進んでいました。

b0214184_22474809.jpg

外壁は、レンガの下地にモルタルを塗って横目地を入れていました。高価な「さざれ石」に比べてリーズナブルに外観を整えるというメリットがあるということでしょうか。

b0214184_22475157.jpg

2017年のポーランド旅行で歩いたクラクフの旧市街で、「横目地」の補修中のシーンを偶々見掛けたことがあります。

https://camino0810.exblog.jp/27860832/


b0214184_07002513.jpg
(ポーランド、クラクフ旧市街)

通りの脇にゴージャスな垂れ流しの水道栓がありました。ミラノにはアルプスの水が潤沢に導水されているということだと思います。


b0214184_22513700.jpg

リッタ宮という美術館まで戻ってきました。コルソ・マジェンタ通りは旧市街の中心部にある通り、レトロ電車と歴史を感じさせる街並みのコラボにミラノらしさを感じました。

b0214184_22545892.jpg


b0214184_22580051.jpg

20時、出発点のメラヴィル通りまで戻ってきました。14時30分に街歩き開始、5時間半の街歩きがようやく終わりに近づいてきました。

b0214184_22582200.jpg

サンタマリアアッラポルタ通りまで戻ってきました。右の路地がホテルのあるボッロメイ通り・・・。

b0214184_23005539.jpg

ホテルに戻ってシャワー、洗濯を済ませました。20時30分、ホテルのお隣にある「Hostaria Borromei」というイタリア料理店で遅めの夕食を摂りました。


b0214184_23035279.jpg

外見は地味でも、室内は高級な気分に溢れたレストランでした。一番リーズナブルなリゾットを選択しました。お代は、リゾット13ユーロ、パン3ユーロ 合計16ユーロ(2100円)、リゾットはかなり濃厚なバター味、美味しかったです。お米は日本と同じ短粒米でした。


b0214184_23040026.jpg

21時過ぎ、ホテルに戻りました。イタリアでは21時になるとどっぷり陽が落ちました。

b0214184_23032889.jpg

朝、マルペンサ空港に到着して、ミラノ旧市街の北半分を歩きました。イタリア初日の長い一日がようやく無事に終わりました。とにかく疲れました。
翌日は、旧市街南側のナヴィリオ運河を歩き、お昼前にボローニャに向かいました。
以下、次号・・・



by camino0810 | 2018-07-01 07:19 | イタリア | Comments(0)