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2018年4月29日(日)イタリア その31 ローマ(5)

街歩きを始めて2時間半、18時30分、ヴィットリアーノに到着しました。大勢の観光客が正面の大階段を登っていました。
ヴィットリアーノは、ローマのヘソにしてランドマーク、正式には「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」。ヴィットリオ・エマヌエーレ2世は、都市国家の集合体だったイタリアを1870年に統一した建国の英雄。この白亜の建物は、彼の業績を讃えた建物で、1911年の完成だとか。
ヴィットリアーノはフォロ・ロマーノを一望できるカンピドーリオの丘の一番高い場所に建つ、白大理石の恐ろしくゴージャスな建物でした。翌日の朝、ここからローマの街歩きを開始しました。

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ヴィットリアーノの前で古代ローマ戦士姿のパフォーマーが観光客に愛嬌を振りまいていました。ローマのプードル松を見ると、イタリア人と日本人の自然観の違いを感じます。ローマの松は、なんか巨大な盆栽みたいな感じです。

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単騎の武人がヴィットリオ・エマヌエーレ2世。建物は、白の総大理石貼りで精緻な彫刻が施されていました。ミラノのドゥオーモと同じくらいの豪華さを感じました。芝の手入れも文句なし。

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ヴィットリアーノの一番奥の高い塔が、この建物の背面にあるフォロ・ロマーノから見えていた建物でした。よく見ると、天辺の彫像は天使が4頭立ての馬車に乗っているような絵柄でした。


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ローマの日暮れは20時、日暮れまでに残された時間は1時間半、段々、街歩きの時間が無くなってきました。ローマはイタリア最大の観光都市なのは言わずもがな、今回のイタリア旅行で2泊した唯一の街です。実は、自称川屋にはローマを流れるテヴェレ川も外せないマストアイテムでした。暗くなってテヴェレ川の河畔に立っては、折角のローマ観光が台無しです。先を急ぎました。

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(出展 Google)
テアートロ・ディ・マルチェッロ通りの坂道をそそくさと下って行きました。左側が、カンピドーリオの丘。

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通り脇の段々の階段の頂上にローマ市庁舎が見えました。

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テアートロ・ディ・マルチェッロ通りの正面にコロッセオに似た建物が見えてきました。一瞬道を間違えたのかと思いましたが、見えている建物はコロッセオとは別の建物でした。マルチェッロは「マルケッルス」を現在のイタリア語に読み替えたもの、つまり、この大通りは「マルケッルス劇場通り」となります。ローマのヘソ、ヴェネツィア広場前のメーン通りに付いた名前なので、「マルケッルス劇場」というのは何か謂れのある有名な劇場だと考えてもいいでしょう。

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この建物がマルケッルス劇場(Teatro Marcello)。確かにコロッセオとよく似ていました。違いは全体に小振りだったこと、アーチ型の開口部の層が2段だったこと、最上段は窓が付いた別形式で、最上階と下の2層は明らかに形が違っていました。
調べると、マルケッルス劇場は、紀元前13年完成、建設者はユリウス・カエサルとアウグストゥス。収容観客数11,000人の巨大な無蓋の劇場でした。コロッセオ、ヴェローナのアリーナなど、このような巨大施設を帝国内各地に建造した、帝政ローマの政治力、経済力の大きさを感じます。民心の安定、帝政ローマの威信を誇示する目的で各地にこのような施設こしらえたのでしょう。建築様式の共通点は、楕円形、無蓋、縦長のアーチの開口階を上下に重ねる手法。
一番驚かされた共通点は、これらの建物が全て現役だということ。今回のイタリア旅行の最終目的地ヴェローナのアリーナは、現在でもコンサートなどで使用されていました。ちなみに、インフラの耐用年数が長いというのは、会計面でもありがたいことです。コロッセオやマルケッルス劇場のような2000年を超える施設では毎年、減価償却のお金を積む必要がほとんどありません。

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以下、Wikipedia・・・

マルケッルス劇場(マルケッルスげきじょう、ラテン語: Theatrum Marcelli、イタリア語: Teatro di Marcello)は、共和政ローマ末期からローマ帝国初期にかけて建設された古代の屋根のない劇場である。マルケルス劇場とも表記する[1]。演劇や歌などの上演をローマ市民や旅行者が観覧できた。現在は、古代建築としてローマの観光名所の1つになっている。皇帝アウグストゥスの甥マルクス・マルケッルスの名を冠しているが、当人は劇場が完成する5年前に亡くなっている。この劇場の建設予定地はガイウス・ユリウス・カエサルが整地させたが、建設を始める前に暗殺された。アウグストゥスが紀元前13年に完成させ、紀元前12年に正式に利用開始となった[2]。
直径111mで、収容観客数は当初1万1000名だった[2]。古代ローマの都市に広く普及した都市建築であるローマ劇場の印象的な一例となった。


マルケッルス劇場をGoogleの3Dで見ると、驚かされました。劇場の最上階はアパートでした。2000年前の劇場の2層の建物の上にアパートが載っていました。ローマ市庁舎と同じやり方でした。イタリア人にとって「継ぎ足し」や「使い回し」は割りと当たり前の文化みたいに思えます。
これまで、欧州旅行を重ねてきて、衰退したインフラの用途を変更し、リニューワルを加えて街の活性化に役立てている事例は、結構観てきました。この根底には「継ぎ足し」や「使い回し」の文化があるのではと感じています。

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(出展 Google)

以下、Wikipedia・・・

ローマ帝国崩壊後、廃墟となり templum Marcelli と呼ばれていた。マルケッルス劇場は中世初期にファビウス氏族が要塞として使い、その後11世紀末には Pier Leoni とその子孫(Pierleoni家)が支配するようになった。13世紀になるとSavelli家の所有となり、16世紀にはバルダッサーレ・ペルッツィが設計したオルシーニ家の住居が古代の劇場の廃墟上に建てられた。
現在、上層階はアパートに分割されていて、周囲では野外コンサートが開催される。

東京の大塚の会社に毎日通っていますが、大塚は古いビルを完全に撤去して新築のビルを建設するスクラップ&ビルド方式が盛んな街です。大塚駅前の写真の左側は既設ビルの解体中、写真右側は既設ビルの解体を終えて新築ビルを建設中。

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スクラップ&ビルド方式は如何にも日本的なやり方ですが、欧州流に耐用年数の長い、長持ちする建物にして、適宜、リニューワルを掛けながら末永く使うやり方の方が環境にも優しいやり方のように思えます。
先日、東京港の見学会に参加しましたが、東京港の沖合のごみ処分場のポケットが段々狭くなってきそうです。大量の廃棄物が出るスクラップ&ビルド方式は、再利用技術や減容化技術が進展したとはいえ、環境面では問題があるように思います。日本でも、増えている空き家を解体せずに、外部や内部をリニューワルして再利用するやり方が脚光を浴びてきました。縮退時代に入った日本にマッチしたやり方だと思います。

お目当てのテヴェレ川はすぐでした。
ティベリーナ島というテヴェレ川の中の島に出会いました。ローマの歴史はテヴェレ川のティベリーナ島から始まったそうです。そう言えば、パリも似ています。パリもシテ島から始まり、この島を中心にして逐次郊外へと発展してきた街でした。中の島は、周囲をお堀の役割をする川という天然の防衛施設で囲まれている安全な場所、中の島から街が発展するパターンもあるということでしょうか。

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(出展 Google)

地球の歩き方(2018~2019)にローマの歴史が概観されていました。フォロ・ロマーノ、カンピドーリオの丘、パラティーノの丘などが古代ローマのヘソとなった理由はテヴェレ川の渡河に便利な中の島があるティベリーナ島に隣接していたということでした。ローマはテヴェレ川の河口から約30km上流にありました。テヴェレ川を河口からローマまで追ってみましたが、中の島は、河口のサクラ島(Isola Sacra:聖なる島)とこのティベリーナ島しかありません。古代ローマは、アッピア街道のような幹線道路網を完成させていたので、物資の輸送は陸上輸送を主体としていたように思います。一方、アルノ川の河畔にある中世のフィレンツェは、アルノ川を利用した舟運が主体ではなかったのかと想像します。
  
●ローマの歴史はテヴェレ川から始まった
パリがセーヌ川、ロンドンがテームズ川と深く結びついているように、テヴェレ川を抜きにしてローマを語ることはできない。このテヴェレ川にはローマの中心部にティベリーナ島という島があるが、この島がローマの誕生に深くかかわっていた。川沿いに都市を建設する場合、通常渡河に都合のよい地点が選ばれるが、ティベリーナ島の存在はこの条件を満たしていた。伝説では、雌オオカミの乳で育てられた双児の兄弟のひとり、ロムルスが、紀元前753年にパラティーノの丘に都市を建設したのがローマの起源とされている。パラティーノの丘がローマ誕生の中核となったが、それはこの丘がティベリーナ島に近く、テヴェレ川の渡河に便利だったためと思われる。また、丘の上に都市が建設されたのは低地が、マラリア伝染のもとになる蚊の棲息する湿地帯で、人間の居住に適さなかったからである。
今日の歴史家はローマ建国を紀元前600年頃と推定しているが、ローマが都市としての形態を整えたのは紀元前6世紀のことで、現在フォロ・ロマーノの遺跡がある地域を都市の公共生活の中心として整備すべく、湿地を乾燥した大地に変えるための排水溝が建設された。ローマが都市として発展するためには、テヴェレ川の洪水の問題を克服しなければならなかった。古代ローマというと、その優れた土木技術が常に挙げられるが、それはこんなことにも関係していたのかもしれない。

テヴェレ河畔の転落防止柵は1m弱、柵というより厚みのある壁でした。路面とテヴェレ川の高低差は10mくらいあり、ローマ市内のテヴェレ川は完全な掘り込み河川でした。自己責任が原則の欧州社会であっても、流石に転落防止柵なしで済ませる訳にはいけません。厚い壁なので安心してこの柵に寄りかかれます。柵は腰までの高さなので景観鑑賞に支障することはありません。河畔には大きなプラタナスの木が規則的に並んでいて、程よくプラタナスの枝が川に張り出していていい景観を創り出していました。

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流出した橋の1支間分が撤去されずに保全されていました。“壊れた橋”を意味する、ロット橋(Ponte Rotto)は、紀元前2世紀の作品、当局は観光土木遺産してこの橋を保全しているようです。川は写真下から上に流れています。
ティベリーナ島の最下流にあるのこの橋を撤去しない理由が何か?河川管理者はローマ市かイタリア国の当局でしょうが、勇気のいる判断だと感じます。日本であれば、洪水の流下阻害になるので撤去するのが普通でしょう。「お題」が出された感じです。
「お題」の答え:①何度も洪水を経験している。淘汰されて残った部分なのでしっかりしているので問題なし②模型実験や再現計算で洪水時の安全性を確認済み③下流のパラティーノ橋の流出、洗堀防止対策にもなっている。


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ロット橋は石の色が違っているので、最近、リニューワルが行われたように見えます。精緻な彫刻の施されていました。アーチの横の縦長のアーチ型の開口は何か?
答え:①洪水流の通過断面を増やすための開口②コロッセオと同様のデザイン要素③空洞化による建設資材の節減。

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下流のパラティーノ橋からロット橋とティベリーナ島が良く見えました。川は写真上から下に流れています。

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ロット橋は、正式にはアエミリウス橋といい、BC142年の完成。アッピア街道と同格の基幹道路アウレリア街道の橋だそうです。不思議なのは、ティベリーナ島を外した場所に架橋していること。テヴェレ川の渡河に便利なのは、ティベリーナ島を中継点とする2橋を架橋する方が合理的だと思いますが・・・

以下、Wikipedia

アエミリウス橋(ラテン語: Pons Aemilius)は古代ローマ時代にテヴェレ川に架けられた橋。古代ローマで架けられた石橋の中で最も古いもので、紀元前2世紀に木造の橋を撤去して架橋された。商業の中心であったフォルム・ボアリウムと、テヴェレ側対岸のトランス・テヴェレム(トラステヴェレ)を結んでいた。かつては7径間あったが、現在は川の中ほどのアーチ橋の1径間が残存するのみで、“壊れた橋”を意味するポンテ・ロットと呼ばれている。
概要
帝政ローマ初期の歴史家ティトゥス・リウィウスは、紀元前192年には、この場所にアウレリア街道が通る橋(木造橋)が架かっていたと記している。最初の石橋を架ける工事は、紀元前179年に監察官マルクス・フルヴィウス・ノヴィリオル(英語版)により始められたが、紀元前151年に未完のまま終わった。その後、この建設途中の構造物を利用する形で紀元前142年に橋を完成させた。その後、数百年に渡り橋は使われ続けた。紀元前後にはアウグストゥス帝が、また紀元280年にはプロブス帝が補修を行ったことがわかっている。

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ロット橋の支間長は概ね20m、全部で7径間だったので、2000年前のテヴェレ川の川幅は概ね140m、現在の川幅と同程度。ただ、意外にもこの辺りは相当な急流でした。かつてロンドンのテムズ川に架かるロンドン橋も多径間の石造りのアーチ橋でした。童謡で有名な橋ですが、洪水で何度も流出したようです。原因は多橋脚による洪水阻害や橋脚基礎の洗堀だと思います。建築材料が石や木しか無かった時代、支間は30mが限界、再度の流出を覚悟の上で再建を繰り返すしか選択肢が無かったのでしょう。

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(1632年のロンドン橋:出展 bridges now and then)

パラティーノ橋は、珍しく鋼桁の橋でした。翌日もテヴェレ川をかなりの区間歩きましたが、テヴェレ川の橋の基本仕様は石造りのアーチ橋でした。川は写真左から右に流れています。ロット橋も写っています。

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ロット橋の断面・・・BC179年着工、足かけ37年を掛けてBC142年完成。この橋の年齢は、計算すると、2160歳という恐るべき高齢ですが、一応、現役。使おうと思えばまだ使えそうな感じです。

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パラティーノ橋の左岸下流側の袂にクロアカ・マキシマ(下水道)の遺構が見えていました。ローマ滞在時にはこの下水道の存在を知りませんでした。クロアカ・マキシマはカンピドーリオの丘とパラティーノの丘の谷間のフォロ・ロマーノを横切るように配管された下水幹線でした。元老院クーリアの横に玉子型の下水溝の断面が見えているとか、事前準備不足で見逃しました。
2世紀の古代ローマは100万人を超える住民を抱えていたとか。100万の市民の生活を支える上水道、下水道のシステムがしっかり出来上がっていたことになる訳で、驚きの念を禁じえません。
19世紀中頃、同程度の人口を抱えたロンドンとパリは、糞尿の大悪臭問題を抱え、下水の処理に四苦八苦していました。古代ローマは、2000年以上も前に都市の下水処理問題を解決していた訳で、古代ローマ人の都市計画力、下水処理技術の高さが伺えます。しかも、下水路の一部が未だ現役だということも驚きです。

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(アーチの下にあるクロアカ・マキシマの排水溝:出展 Wikipedia)


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(クロアカ・マキシマの排水溝:出展 Yahoo)

現在の路面とテヴェレ川の水面の高低差は10m、下水道の暗渠の上面はテヴェレ川の水面下。2000年間にテヴェレ川の河床が上昇したことになります。
「BC600年頃、カピトリーノの丘とカンピドーリオの丘の間は沼になっていて、マラリアの温床になっていた。都市化の進展に伴い、丘を削り取った土砂で沼を埋めて、居住地を造成した。下水路の排水路は当初は開渠で事足りていたが、人口の集中は始まると、手狭になり開渠を暗渠とした」
古代ローマの都市化の進展は現在と似たようなものだったと容易に想像されます。古代ローマ人は2000年以上前から優れた土木技術を持っていたということが、クロアカ・マキシマにも見ることができました。

以下、Wikipedia・・・

クロアカ・マキシマ(Cloaca Maxima)は、古代ローマの下水システム。もともとは大都市ローマの問題だった湿地帯から排水するためのもので、すぐそばを流れるテヴェレ川に廃水を運ぶ[1]。
(省略)
その名称は「最大の下水」を意味する。伝承によれば、紀元前600年ごろ王政ローマの王タルクィニウス・プリスクスが建設させた[2]。
この公共事業はエトルリア人技術者を使い、ローマ市民の貧民階級を半ば強制的に労働力として使うことで実現した。リウィウスはローマの地下にトンネルを掘ったとしているが、彼がそれを書いたのは数世紀後のことである。他の文献やその経路から考えると、もともとは開渠だった高いと推測できる。クロアカ・マキシマは付近の3つの丘からの流れを基に形成され、主要なフォルムを通ってテヴェレ川に排水する水路だった[2]。都市の建築スペースが貴重になってくるにつれて、開渠の上にも建物が建設され、徐々に暗渠になっていったと考えられる。両方の説が正しい可能性もあり、特に下流部分は最初から地下に建設された可能性が高い。
(省略)
・水道の排水口
紀元1世紀のローマでは11本のローマ水道が水を供給しており、ディオクレティアヌス浴場やトラヤヌス浴場などの多数の公衆浴場や公共の噴水や宮殿や個人宅に水を供給した後、最終的にそれらの廃水が下水道に流れ込んでいた[3][4]。現代の水道とは異なり、蛇口を閉めておくと水が流れないという方式ではなかった。そのため水が常に流れ続けることで、下水が詰まることを防いでいた。水質の最もよい水は飲用に確保され、次によい水質の水は風呂で使われ、その廃水が市内の通りの下にある下水網に排水される。紀元1世紀末ごろ、セクストゥス・ユリウス・フロンティヌスが水道システムの調査を行い、水道の現状についての報告書を直接皇帝ネルウァに提出した。
・下水システム
主下水道には多数の枝があったが、いずれも公的な排水路であり、公衆便所や公衆浴場や他の公共建築物に繋がっていた。個人宅の廃水はたとえ裕福な人の家であっても、汚物溜めのようなものを使っていた。
クロアカ・マキシマはローマ帝国時代ずっと保守され使い続けられており、現代においても中心街の雨水や汚れをフォルム・ボアリウムなどの古代のフォルムの地下を通って排水している。紀元前33年、アグリッパがクロアカ・マキシマの調査と修理を行った。考古学調査により、この建造物には様々な年代の様式と材料が使われていることがわかっており、常に注意を払われていたことが示唆されている。最近では、現存する排水溝を現代の下水システムに連結し、川からの逆流に備えている。


上水と下水は、車の両輪みたいな、切っても切り離せないセット。古代ローマ人は、上水路をがっちり整備し、公衆浴場と公衆便所まで用意しました。公衆便所には歴代の皇帝の名前が付いているそうです。
ローマ人は、ご先祖様から受け継いだ遺産を大事に使い回すのが上手な人たちだなとつくづく思います。
パラティーノ橋を渡り終えて、テヴェレ川右岸の河畔に降り立ちました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-11-23 17:23 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月29日(日)イタリア その30 ローマ(4)

コロッセオの西側にあるカピトリーノの丘をすこしだけ歩いてみました。この丘からフォロ・ロマーノが見えました。フォロ・ロマーノを目の当たりにして、ローマに来て良かったなとつくづく思いました。40年以上前の高校時代、世界史の教科書で見たことがあるような、ないようなフォロ・ロマーノが目の前に広がっているのですから・・・

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フォロ・ロマーノは、「ローマの広場」という意味合い、「フォーラム」の語源だとか。二千年の昔、古代ローマが絶頂を迎えていた頃、この広場で盛んに演説や討論が行われたのでしょう。
写真一番奥に、屋根になにやら彫像らしきものが載った白い建物が見えています。「ヴィットリアーノ」でした。この時は、ローマの街歩きを始めて1~2時間、ローマのヘソであり、ランドマークである「ヴィットリアーノ」に気付く由もありませんでした。

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カピトリーノの丘に続く坂道を登りました。


赤レンガの壁や入り口の門が何時の時代かは不明ですが、フリーに歩けるゾーンなので、古代ローマのものではないかもしれません。唯、古い時代のものだと思います。
入り口の壁にはツギハギの様子が見て取れました。欧州流の「継ぎ足し」のやり方でした。

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お馴染みになったローマの松とオリーブの木・・・如何にもイタリアらしい光景です。芝の手入れも良好、観光客が芝生の上で寛いでいました。

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カピトリーノの丘を下って、再び、コロッセオへ戻りました。


フォロ・ロマーノの真ん中に設置された「サクラの道」(聖なる道)の柱列群とコロッセオ・・・。

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またまた、コロッセオまで戻ってきました。

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コロッセオから「フォリ・インペリアリ通り」を西に歩きました。

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(出展 Google)

「フォリ・インペリアリ通り」の脇に工事用の仮囲いが建っていました。仕事柄、何処に行っても、土木工事を見過ごすことはできません。

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ローマで3番目の、地下鉄C線の工事中でした。新線は21.5kmとかなり長距離の地下鉄、この現場は、「フォリ・インペリアリ駅」の開削工事でした。重要文化財の遺跡の脇を開削して駅舎を造るのは気を使う難しい工事だと思います。
マクセンティウスのバシリカ(Basilica di Massenzio)(バシリカ:古代ローマで法廷や商取引など公的集会に用いられた公共建築)につっかえ棒が施されていました。バシリカの脇を掘削するのための補強だと思います。計測を掛けながら慎重な掘削が行われているのだろうと思いました。

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バシリカのあちこちが補強されていました。

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道路の反対側に駅舎を建造するための土留めが完成していました。柱列式の土留め壁をグランドアンカーで留めていました。土留め表面はモルタルで被覆していました。イタリアの土木技術の高さを感じます。そう言えば、ミラノの旧市街でも4番目の地下鉄新線を建設中でした。イタリアの都市再生に向けた新規インフラ投資は意外に盛んなのかも・・・

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フォリ・インペリアリ通り脇の見学広場からフォロ・ロマーノの遺構が良く見えました。この遺構は「エミリアのバジリカ」、芝生を綺麗に刈り込んでいました。くだんの「ヴィットリアーノ」も近づいてきました。

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よくもこれだけ沢山の歴史遺産がしっかりと残されたものだとただ驚くばかりでした。Wikipediaにその理由が書いてありました。フォロ・ロマーノは西ローマ帝国の滅亡後に見捨てられ土砂で埋まったとは知りませんでした。そのため、遺構の保存が良かったようです。

Wikipedia・・・

紀元前6世紀頃からローマ帝国がテトラルキアを採用する293年にかけて、国家の政治・経済の中心地であったが、ローマ帝国が東西に分裂し、首都機能がラヴェンナに移されると異民族の略奪に曝されるようになり、西ローマ帝国滅亡後は打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまった。
フォロ・ロマーノの発掘は、19世紀から本格的に行われるようになったが、帝政時代初期までに開発が繰り返されており、遺構も様々な時代のものが混在しているので、発掘調査は難しい。現在の遺跡は、大部分が帝政時代以降のものである。


フォロ・ロマーノは、東西300m、南北100mの広場、ローマ帝国の政治の中心でした。当時のローマの領土は全世界をカバーしていたので、フォロ・ロマーノは、現在の世界の中心であるアメリカのワシントンDCのモール地区みたいなものかもしれません。

フォロ・ロマーノの東側から西側を見た構図・・・無数の遺構が保存されていました。

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写真右側の三角屋根のシンプルな外観の建物が、クーリア(Curia lulia)と呼ばれる「元老院」、古代ローマの政治の中心。

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フォロ・ロマーノには遺構が多すぎて、一つ一つの建物を特定するのは困難、ガイドでもない一見さんの自分には判らないことだらけです。

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フォリ・インペリアリ通り脇に初代ローマ皇帝、アウグットスの像がありました。彼は、カエサルの後継者。

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カエサルの像もありました。そう言えば、ロンドン市内でもカエサルの像を観たことがあります。電車、車、飛行機もない2千年も前に、ローマからアルプスを越え、フランスを転戦して、海を渡ってイングランドまで遠征したとはご苦労様なことだと思います。

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台座の「SPQR」とは「元老院とローマの人民(市民)」を意味するラテン語。2千年も前に、民主的な政治が行われていたとは驚きです。

以下、Wikipedia・・・
SPQRとは、ラテン語で「Senatus Populusque Romanus」(セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌス)の略語である。その意味は「元老院とローマの人民(市民)」、すなわち古代ローマの国家全体(共和政ローマ・ローマ帝国)の主権者を指す。また、現代の「紳士淑女諸君」のように、演説などの冒頭の挨拶にも使われた。「SPQR」の文字は、古代の国家ローマとその市民の栄光と誇りを現すものであり、当時ローマ帝国の領域であった現在のヨーロッパや北アフリカにいたるあらゆる地域で公共物にすべて刻まれ、ローマ軍団の軍旗などにも使われた。ローマ時代の遺跡やそれを基にした建造物、ローマ市の盾形の紋章に見て取ることができる。


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フォリ・インペリアリ通りの北側のトラヤヌスのフォルム(Foro Traiano)・・・


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フォロ・ロマーノのあちこちに神殿が建っていました。ドーム型の建物はカトリック教会(Chiesa dei Santi Luca e Martina)、その左横の切妻屋根の建物がクーリア(Curia lulia)。

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石畳の坂道を下って、カトリック教会(Chiesa dei Santi Luca e Martina)を目指しました。


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石畳の坂道は、アッピア街道の石畳の道と何処か似ていました。この道路はもしかしたら帝政ローマ時代の道路かもしれません。

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教会の前の広場からフォロ・ロマーノが綺麗に見えました。

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広場のすぐお隣が、セプティミウス・セウェルスの凱旋門(Arco di Settimio Severo)。


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この凱旋門の創建は203年、レリーフには沢山の人が刻まれていました。行軍しているようにも見えます。およそ、凱旋門はその名前のとおり為政者が戦争の勝利の記念して建造するもの、多分、戦役のシーンだと思います。


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凱旋門の柱の下の彫像・・・当時のローマ人の髪型や服装が判ります。パンチ・パーマが意外にも流行っていたのかも。

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凱旋門の脇には別の神殿も・・・写真右の大きな縦長の開口がついた建物がタブラリウム( Tabularium)、古代ローマの公文書館。法律や公的記録が保管されていた施設だとか。直上のピンクの部分が現在のローマ市庁舎。タブラリウムの屋根の上に市庁舎を重ねた形で建て増した感じです。典型的な「継ぎ足し」の事例と考えても良さそうです。

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カトリック教会(Chiesa dei Santi Luca e Martina)のファサードとその右手のわずかに見えるのがクーリア(Curia lulia)。

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折角の機会なので、観光客の方にスナップ写真をお願いしました。

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階段でカンピドーリオの丘を登りました。この丘は、この辺りで一番高いので、階段からフォロ・ロマーノがよく見えました。
写真右側の神殿の左にある、規則正しく並んだ礎石群が、バシリカ・ユリア( Basilica Julia)という古代ローマの公会堂(バジリカ)の跡地。この建物はカエサルが造った裁判所でした。

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フォロ・ロマーノには、立法府たるクーリア(Curia lulia)と呼ばれる「元老院」、多分行政府であろうタブラリウム(Tabularium)、裁判所たるバシリカ・ユリア( Basilica Julia)といった具合に、民主制の3つのマストアイテムがしっかり揃っていたことになります。

以下、Wikipedia・・・

バシリカ・ユリアは、紀元前54年[1])にガリア戦争の勝利で得た資金をもとにして、カエサルが建設を始めた[2]ものである。建設用地は、紀元前170年に建てられたバシリカ・センプロニア(イタリア語版)を取り壊した跡地を利用しており、施設は紀元前46年に供用が行われ、最終的な建物の完成はカエサルの後継者であるアウグストゥスの時代になってからである。(省略)
このバシリカは主に民事裁判所として使われ、また施設内にはタベルナ(食堂)街や官公庁の事務所も居を構えていた。特別民事裁判所ケントゥムビリ(英語版)(百人法廷)の会場[1][2]としても有名で、相続問題について審理される法廷ともなっていた。小プリニウスの書簡によれば、『新たな嫁を迎えた10日後に死去した80歳の故人が、提訴者Attia Viriolaを相続人から外したのは違法である』との訴えを審理した例[2]が書かれている。


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(バシリカ・ユリアのパース:出展 Wikipedia)

カンピドーリオの丘の頂上広場に到着しました。カンピドーリオとは英語の首都Capitalの語源で、古代ローマの中心地であり、25の神殿があったとか。カンピドーリオ広場の正面にくだんのローマ市庁舎がありました。300万の人口を有するローマ市庁舎にしては随分と小振りですが、フォロ・ロマーノを一望できるカンピドーリオの丘にある、この建物の立地は文句のつけようがありません。それにしても、実に上品で風格に溢れた建物だと思います。ちなみに、この広場はミケランジェロの設計だとか。

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市庁舎の横には、ヌオーヴォ宮(Palazzo Nuovo)・・・実は、カピトリーニ美術館、1471年に創設された世界最古の美術館だとか。

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この建物越しに、彫像が載った白くて高い建物が見えました。この時もヴットリアーノとは気付いていませんでした。


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広場を通り抜けて、ヴットリアーノを目指しました。奇妙な壁に出会いました。


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ミラノで見た「さざれ石」に似ていました。でも、この壁は明らかに人工物でした。多分、ローマン・コンクリートではないかと思います。

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高台の広場から、歩いてきたフォロ・ロマーノが綺麗に見下ろせました。

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坂道を登ると、お目当てのヴットリアーノが近づいてきました。

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ヴットリアーノの脇を通り過ぎました。とにかく、巨大な白い建物でした。

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以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-11-17 14:11 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月29日(日)イタリア その29 ローマ(3)

ホテルに15時にチェックイン、荷物を降ろして一休みして16時からローマの街歩き開始しました。
ローマの日暮れは20時、街歩きに充てられる時間は4時間程度。ボローニャ程度の中規模の都市なら4時間もあれば核心部を歩けますが、ローマは、街の核ともいうべき広場自体を沢山有する多極分散型の巨大観光都市でした。結局、この日は、ホテルの東側の教会と大聖堂、コロッセオ、テヴェレ川を歩くことにしました。

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(出展 Google)

チェックインの時、ローマでも利用税(市税)をフロントで支払いました。2泊分で8ユーロ(1040円)でした。この市税は、イタリア全土のホテルに適用されているようです。今回の支払った利用税は、全部で11泊、平均2ユーロ(260円)とすると約3000円。超ザックリな試算ですが、ホテル利用税を仮に人頭税、ホテル利用率を30%とすると、5800万(イタリアの2017年の統計値)✕30%✕3000円/人=520億/年の市税が落ちる計算です。

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最初にメルラーナ通りの始点にあるサンタ・マリーア・マッジョーレ教会を目指しました。ホテル周囲の住宅街の通りは例の横目地の建物がずらりと並んでいました。

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メルラーナ通りに出て、少しローマテルミニ駅方面に歩くと、広場に行きつきました。サンタ・マリーア・マッジョーレ教会(Basilica Papale di Santa Maria Maggiore)は「ローマの4大聖堂」の一つで、カトリックの重要な巡礼地だそうです。キリスト教の国教化が392年、この教会は、4世紀、法王リベリウスが創建したローマで最も古い部類の教会。「地球の歩き方」では「大聖堂」と表記されていました。由緒ある教会だと思います。
この教会は、創建以来、何度も改築された歴史を持った教会で、様々な建築様式が持つ建築史的にも貴重な建物のようです。欧州の古い教会や構造物は「使いまわし」や「継ぎ足し」の痕跡を感じることがよくあります。欧州には「使いまわし」や「継ぎ足し」文化があり、創建時には小さかった教会がキリスト教や街の発展に従って徐々に増設を重ねて現在の姿になっているパターンをあちこちで観てきました。日本の「スクラップ&ビルド」方式とは根本的な文化の違いを感じます。この建物の場合、人の彫像を載せた、真ん中の柱頭型の建物がオリジナルのファサードで、その両脇に別の様式の建物を増築したようにも見えます。

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実は、この伝統的な教会には写真の建物(ファサードA)の裏側にも立派な広場Bとファサードがありました。どっちが本物のファサードなのか素人の自分には区分がつきません。広場AにはオベリスクA、広場BにはオベリスクBがついていました。イタリアやそれ以外の国でこれまで見てきた大聖堂や教会には表玄関のファサードと裏手の祭壇といった具合に明確な区分がありました。2つのファサードを持つ?教会施設を観たのは初めての経験です。
「この教会はファサードはどっち?」・・・またまた「お題」を出された気分です。
答えは割と簡単に思い付きました。学術的な論証などできません。素人の感想レベルの答えです。
「キリスト教が公式に国教と認定された時に建造された教会なので、まだ宗教施設の基本設計の確たるルールが出来ていなかった。その証拠に建物軸が東西方向を向いていないし、十字架の形もしていない。フランスのゴシック様式の大聖堂が建設ブームを迎えたのが、12世紀。800年の長い年月を掛けて基本設計のルールが出来上がった。よって、この教会の場合、両方ともファサードである」

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(出展 Google)

メルラーナ通りをサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に向けて歩いていきました。通りの両側の建物は6~7階建ての瀟洒で風格のある建物が続いていました。色合いは抑えた感じのパステルカラー、庇も付いていました。

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写真右側がメルラーナ通り、伝統的な横目地の建物がそこそこスカイラインを揃えていました。無電柱化は当たり前、派手な屋外広告物も見当たりません。

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メルラーナ通りは街路樹のプラタナスが濃い影を落としていました。

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大通りとの交差点に小さい教会がありました。調べると、随分と長い名前の教会でした。サンティ・マルチェッリーノ・エ・ピエトロ・アル・ラテラーノ教会(Chiesa dei Santi Marcellino e Pietro al Laterano)。日本人は何でも短縮言葉を造語しますが、イタリア人はどうするのか気になりました。


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メルラーナ通りの終点まで来ると、オベリスクのある広場で出会いました。サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(Basilica di San Giovanni in Laterano)も「ローマの4大聖堂」の一つで、ローマで最も重要で由緒ある教会。初めてキリスト教を公認したコンスタンチィヌス帝が314年に建設し寄進したそうです。


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この大聖堂のファサードは広場の裏側にありました。上空から見ると、建物の軸は概ね東西方向を向いていて、十字架の形をしていました。ただ、これまで観てきた大聖堂ではファサードは西側にあり、この大聖堂は反対の東側にありました。この大聖堂も4世紀の創建、サンタ・マリーア・マッジョーレ教会と同じで初期にはルール自体が決まっていなかったという事だと考えました。

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(出展 Google)

このファサードはサンタ・マリーア・マッジョーレ教会のファサードに似て、柱頭型の建物で頂部に沢山の偉人の彫像が載っていました。
2010年にスペイン巡礼に参加しました。ゴールのサンティアゴの大聖堂には、高弟のヤコブが眠っています。この大聖堂にはキリストの高弟ペテロとパウロとが眠っていて、巡礼者の聖地だとか。知っていれば、この大聖堂にお参りしたのにと少し残念な思いが残りました。教祖のキリストは、エルサレムの教会に眠っています。
中世、三大聖地の一つ、サンディエゴの巡礼が盛んに行われていました。フランス、ドイツなど大陸ヨーロッパの巡礼者にとって、エルサレムの巡礼は、ほとんど不可能であり、ローマの巡礼はハードルが高かったということかもしれません。アルプス越えが大事だった、あるいは、イタリア国内が都市国家の集合体で通り抜けが大変だったという事情があったのかなと想像します。

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(出展 Wikipedia)

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ通りをコロッセオ方面に歩きました。再び、コロッセオに戻ってきました。褄の部分は放置すると崩壊して危険なので転倒防止対策も兼ねて補強されていました。



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コロッセオは、ヴェスパシアヌス帝が建設を命じ、80年に完成した円形闘技場。高さ57m、長径188m、短径156m、周長527mと文字通り巨大な建物。収容人員は5万人、イタリア語で巨大という意味のコロッサーレから、この円形競技場はコロッセオと呼ばれるようになったそうです。石材の種類は砂岩系に見えました。石材の表面に無数の穴の不規則に空いていました。バチカン宮殿の建設にコロッセオの大理石が剥がされて使用されたとか。この穴は、①建設時や補修用の足場用の穴②大理石固定用ボルト穴の2つの説があるようですが、自分の見立てでは①、②とも正解だと思います。


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この写真の左側は補修完了、右が補修前・・・

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古代ローマ兵士のコスプレをした人たちが観光客を前にしてパフォーマンスをしていました。そういえば、名古屋城の本丸にもは武士姿のパフォーマーがいました。

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奇妙な白黒写真が展示されていました。1933年、解体前のメタ・スーダンと書いてあります。スーダン内戦と関係ありかと思いましたが、全く、無関係。90年頃に建造された噴水でした。20世紀初頭まで健在だったこの噴水は、1933年にムッソリーニの強い要望で凱旋門をくぐり抜ける道を作るため取り壊されたそうです。


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1890年頃のメタスーダン・・・現在のコロッセオ駅の建物はそのままですが、その下の道路擁壁は未完成でした。

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(出展 Wikipedia)

コロッセオの南面・・・

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コロッセオのお隣にコンスタンティヌス帝の凱旋門・・・高さ28m、315年、戦いの勝利を祝ってローマ元老院とローマ市民が建造。精巧なレリーフが沢山施されていました。当時と変わらぬ姿です。

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コロッセオをほぼ一周できた勘定になるので、お隣のパラティーノの丘とフォロ・ロマーノに向かいました。
以下、次号・・・・

by camino0810 | 2018-11-12 17:14 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月29日(日)イタリア その28 ローマ(2)

古代ローマ時代から長い歴史を綴ってきたローマ・・・そんなローマの中央駅であるローマテルミニ駅のファサードは、ミラノ中央駅みたいな風格に溢れた古典的な駅舎だろうと想定していましたが、意外にも現代的なデザインの駅舎でした。いささか気抜けした気分でした。それにしても、この駅舎は恐ろしく幅の広い駅でした。かなり引いた位置からデジカメの広角で狙っても全体を収めきれません。


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旅行中はローマテルミニ駅の幅が何故こんなに広いのか?など考えたことはありません。今思うと理由は意外にも簡単。『行き止まり駅』では幅広になるのは当たり前でした。3Dの地図に見るように、駅舎の幅は、駅舎がプラットホームに直交するためプラットホームの数に比例してその幅が決まります。ローマテルミニ駅の場合、11基のプラットホームを収容できる幅が必要で、その幅は概ね250mでした。

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(出展 Google)

ドイツのライプチヒ中央駅も同じ『行き止まり駅』、300mくらいの幅があります。この駅舎は、その幅や駅舎内の内部空間の巨大さも含め、多分、ヨーロッパ最大級の駅舎だと思います。
https://camino0810.exblog.jp/26258476/

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(出展 Google)

日本の場合、東京駅、名古屋駅、京都駅、大阪駅など主要な駅は、全て『通過駅』。駅舎の軸は、線路に平行するので、駅舎の幅に線路の本数はそれほど影響しません。国内での事例は少ないとは思いますが、例えば、門司港駅が行き止まり駅、線路が少ないので幅が約60mとかなり小振り。

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(出展 Google)

ローマテルミニ駅は、プラットホームの3面を囲う『コの字』の巨大な駅舎でした。それでは、その側面はどうなっているか?
Googleのストリートビューを見ると、一棟のショッピングモールが延々と300mくらい続いていました。なるほど、建物は如何にもローマ風、これから向かうコロッセオあるいはポンデュガールを彷彿させるデザインでした。


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(出展 Google)

3Dの地図を見ると、ローマテルミニ駅の周辺には、高層ビルが見当たりません。駅周辺だけでなく、ローマ市街地全域でも高層ビルを探せません。ミラノでは、ミラノ中央駅に近いミラノ・ポルタ・ガルバルディ駅前に超高層ビルのオフィス街がありました。ドイツのフランクフルトなどの大都市にもピカピカの摩天楼の一角がありました。パリにもデフォンスと呼ばれる摩天楼地区があります。

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(ミラノの新オフィス街:出展 Google)

何故、ローマには超高層ビルのオフィス街がないのか?しかも、300万の人口を抱えるイタリアの首都で有りながら、地下鉄はわずかに2本しかありません。人口130万のミラノは地下鉄が3本でした。何か不思議な気分、ちょっとした「お題」を出された気分です。

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(出展 Google)

その答えを考えてみました。
① ローマの歴史・文化的あるいは観光地としての景観的な価値をがっちり維持するために、一定の高さ以上の建物を許可しない条例などの縛りを設けた。日本でいう建築基準法のようなルールを規定したのでは考えてみました。これは、判りやすい理由です。実際、2日にわたりローマを歩いた感想は『ローマは街で稼いでいる』といった感じで、至る所が観光客で溢れ返っていました。日本でも関東大震災が発生する少し前に建物の耐震性能の限界から建物の高さを100尺(30m)で縛った法が存在していたと聞いています。ローマは歴史・文化や景観の保存、日本は地震対策でそれぞれ建物の高さを縛ったということでしょうか。そのおかげでローマやかつての東京で建物のスカイラインを揃えたスッキリした景観が出来上がったようです。
② ローマが2500年の年月を掛けて築いてきた歴史的建造物やインフラがローマ市内の至る所に存在しているからだと考えてみました。フォロロマーノやパラティーノの丘はその典型ですが、それ以外のローマ市内にも沢山の遺跡があり、古代ローマ人の高度なインフラ建造技術で造られた下水のトンネルなどが各所に存在するとか。ローマ市内は埋蔵文化財の宝庫で、ちょっとでも地下を掘ると文化財に出くわす。超高層ビルの基礎は直接基礎であっても地面を深く掘り下げて堅固な地盤を基礎にするし、地下鉄の駅舎やトンネルを造るためには大規模な開削工事やシールド工事が必要です。文化財の宝庫であるローマでは超高層ビルや地下鉄の建設はハードルが高すぎるためではないかと思います。現在営業している2本の地下鉄も建設時の埋蔵文化財の調査に多くの時間を費やしたのではないかと想像します。現在、日本では大深度地下の制度を使ったトンネル工事が行われています。深いトンネルを掘って、埋蔵文化財をかわす手もありますが、大江戸線の六本木駅のような地下50mの駅舎やトンネルはお金と時間が掛ります。

ローマテルミニ駅の地下に地下鉄の駅がありました。地下鉄、バス、トラムの1日券(7ユーロ:910円)を購入しました。地下鉄コロッセオ駅は地下鉄B線の2つ目の駅。ミラノと同様、公共交通を使ったのはこの1回のみ、結局、この日も翌日もローマ市内を徒歩で歩き回りました。

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地下鉄B線のホームは、アーチのライズが小さい扁平なトンネルでした。


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ほどなく、コロッセオ駅に到着、この駅舎もアーチ型のトンネルでした。

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コロッセオ駅を出ると、目の前にいきなりコロッセオが視界一杯に拡がりました。コロッセオの巨大さ、迫力に圧倒されました。持参した小さい三脚で自撮りしました。田舎からはるばる東京に出てきたお上りさんみたいな気分でした。


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(出展 Google)


コロッセオは、数あるローマの観光スポットの中でも特別なホットスポットでした。日曜、快晴ということもあり、人、人、人で溢れ返っていました。


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旅行に携帯するメモに、コロッセオのサイズを目測した走り書きが残っていました。「12✕3+15=51m」(1階分が12m、3層分に天辺の壁高15mを加えると、ザックリ51mという計算。自信はありません)とにかく、2000年も前のローマ人が、このような巨大な構造物を完成させ、かつ、現在でも使用可能な状態が維持されていることに驚きの念を禁じえません。

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予約したホテルに早く着いて、荷物を降ろすことが最優先、そそくさとコロッセオを後にしてホテルを目指して歩きました。大通りの脇には文化財が保存されていました。


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大通りの階段を登り切ると公園でした。ローマの松は、フィレンツェの松と同じで、プードルみたいに剪定されていました。


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しばらく行くと、横目地の立派な建物がずらりと並んだ落ち着いた住宅街に入りました。建物のスカイラインが綺麗に揃えられていました。

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予約したホテルは、この住宅街の一角にありました。値段の割には随分と立派な3つ星のホテルでした。15時10分、ホテルにチェックイン、このホテルに2泊してローマを歩きました。

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ホテルの玄関でローマのネコが寛いでいました。人は東西、南北で人種、文化や考え方が違いますが、猫や動物にはその差異はありません。何故でしょうか?


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以下、次号・・・・


by camino0810 | 2018-11-09 06:05 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月29日(日)イタリア その27 ローマ(1)

予約していた電車が11番線プラットホームから発車することが駅構内の掲示板に表示されました。12時38分発ナポリ行きの「フレッチャ・ロッサ」9419号は、ローマ・テルミニ駅に14時10分に到着します。
トーマスクックのヨーロッパ鉄道時刻表(2010年版)で調べると、駅間距離は、ミラノ中央駅を起点としてフィレンチェSMN駅は316km、ローマテルミニ駅まで632kmでした。偶然ですが、フィレンチェSMN駅とローマテルミニ駅間の距離は、ミラノ中央駅とローマテルミニ駅間距離のぴったし半分の316kmでした。所要時間は約1時間半、平均時速は210km。東京、名古屋間は366km、「のぞみ号」は1時間40分、平均時速220kmで駆け抜けます。
イタリア国鉄の代表選手「フレッチャ・ロッサ号」と日本のJR代表選手「のぞみ号」は同程度の走力を有した好敵手だと考えてもよさそうです。


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イタリアの国土は日本に似て細長い形状、ミラノとローマが600km、ローマは地図を見るとイタリア全土のほぼ真ん中に位置するので、イタリアの長さはザックリ1200kmという計算になります。

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(出展 Google)

「フレッチャ・ロッサ」は「赤い矢」を意味するイタリア語、短い鼻でスッキリしたスポーティーな顔つきの赤い電車です。

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車内は座席が左右2列づつでゆったりしていました。座席間隔も日本の新幹線より広めの感じでした。

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「フレッチャ・ロッサ」9419号は、フィレンチェSMN駅を定刻に出発しました。


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フィレンチェ郊外の集合住宅・・・地価の高い?中心部は中高層アパート。


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郊外に行くに従って、集合住宅の階数が減ってきました。この時期、プラタナスはわずかに新芽を出したばかり、欧州ではプラタナスを結構激しく剪定するやり方を感じます。


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電車はアルノ川の上流に沿って南下しました。車窓に青々とした麦畑が拡がりました。


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アルノ川の河畔は緑が豊かでした。

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工場の周囲にも新緑が溢れていました。

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住宅街も豊かな緑に囲まれていました。

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このルートは、日本でいえば東海道新幹線相当のイタリアの基幹路線ですが、車窓の豊かな環境に驚かされました。

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アレッツオという街まで来ました。


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広大な麦畑に向こうに緩やかな山が見えました。アペニン山脈だと思いますが、たおやかな優しい山脈かも。

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再び、麦畑・・・気持ちの良い眺めが続きました。


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牧草地でしょうか、手入れが行き届いていました。


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一面のブドウ畑が車窓に拡がりました。ドイツのブドウ畑もそうでしたが、ブドウは高さ1mで剪定されていました。なんかかわいそうな気もしますが……


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3階建ての集合住宅群が見えました。住環境もよく整っているようです。

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高速道路が路線に平行するように走っていました。多分、欧州自動車道路E35だと思います。E35は東名高速みたいな基幹高速道路です。

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骨材プラントでしょうか。土中の砂利を採取してコンクリートや舗装に使う骨材を生産しているようです。

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ローマが近づいてきました。多分、この川はローマを貫流するテベレ川で、横断橋はE35だと思います。テベレ川の河畔も豊かな緑に溢れていました。

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電車はローマの郊外駅を通過しました。よく見ると、この駅のプラットホームには屋根がありません。ローマは雨の少ない乾燥気候なのかもしれません。


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「フレッチャ・ロッサ」9419号は、ローマ・テルミニ駅に定刻14時10分に到着しました。プラットホームにはカラフルな電車が停車していました。イタリア国鉄は、電車のデザインにも気合いを入れている感じです。


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ローマ・テルミニ駅は「Roma Termini」という名称のとおり「行き止まり駅」でした。沢山のプラットホームの行きどまり部分に直交するように駅舎が拡がっていました。この駅は現代的な造りの新しい駅舎でした。

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目的地に着いて最初にやるべきことは、予約したホテルにチェックインして、身軽になること。40Lの重いバックパックを背負ったままでは街歩きでの機動力が大きく低下します。予約したホテルは駅から2kmくらいでした。歩こうか地下鉄で行こうか迷いましたが、結局、地下鉄を使うことにしました。初めての街で地下鉄の切符を買うのは結構ハードルが高いものです。何とか切符を買って、ホテルの最寄り駅「コロッセオ駅」に向かいました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-11-05 07:01 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月29日(日)イタリア その26 フィレンツェ(7)

サンタクローチェ教会前の広場を8時過ぎに出発して、アルノ川河畔に出て、上流のサンニッコロ橋まで歩きました。その後、フィレンチェのリング(城壁)に沿って、旧市街の端を半周し、ホテルに戻りました。

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(出展 Google)

フィレンツェ国立中央図書館は風格のある石造りの建物でした。

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アルノ川の河畔に出ました。川は写真下から上に流れています。下流に昨日渡ったグラツィエ橋が見えていました。

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アルノ川河畔を上流のサンニッコロ橋を目指して歩きました。赤レンガの転落防止柵は、高さが1m程度と低めに抑えられていて河畔の様子が良く見えます。パラペットと呼ばれる洪水防止用の堤防を兼ねているのかもしれません。建物のスカイラインもそこそこ揃えられていました。

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左手にゼッカ塔(Torre della zecca)が見えてきました。アルノ川右岸、フィレンツェ本体の旧市街を防護するリング(城壁)の端に位置する城門です。窓の数も少なく窓が小さいなどかなり不愛想な外見の建物でした。もしかして、囚人塔を兼用していたのかもしれません。

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対岸にサン・ニッコロ門(Porta San Niccolò)が見えていました。アルノ川左岸側のリング(城壁)の端部にあたる城門です。昨日、手前の砂浜で沢山の人が日光浴をしていました。

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アルノ川の固定堰は、斜め堰になっていました。取水堰だと思います。この堰の上流、下流にも斜め堰がありました。北スペインでも斜め堰を見たことがあります。吉野川の下流にある第十堰も斜め堰。斜め堰は昔のやり方で、日本にも200を超える斜め堰があるとか。

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(出展 Google)

川は写真左から右に流れています。写真上の塔がサン・ニッコロ門。アルノ川の斜め堰は、石造りで高さが低く、水叩きを幅広にしていました。浸透流に抵抗する水叩きの幅は経験的に判っていたのではないかと思います。

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現在の堰は、構造の基本を定めるルールがあり、川に直角(直角堰)に造ります。直角堰の方が堰の長さが短くできるのに何故わざわざ斜め堰にするのか?斜め堰は造るお金も時間も余計に掛かります。
お題を出された気分なので、その答えを探してみました。
 1.直角堰に比べて、洪水流をかわし易く流水抵抗性を高められる、あるいは洗堀抵抗性を高められる?
 2.斜めにして水流の摩擦抵抗を大きくして、洪水流のエネルギーを落として下流を守ることができる?
 3.斜めにして三角の褄を造り、水を集め易くして取水しやすくできる?
いずれの答えもスッキリしません。水工学、水理学、土質力学などの土木工学的な知識、知見に乏しいから仕方ありませんが・・・
この理由は、多分、材料の発展の歴史で説明できるのではと考えてみました。
橋の歴史は材料の発展とセットで考えると判りやすいなと感じます。橋は18世紀までは支間は30mくらいが限界のようでした。その理由は橋の材料が石、漆喰、木材くらいしかなかったためでしょう。19世紀後半に入って、良質な鋼とそれを使った鉄筋コンクリートが開発されました。構造解析技術の進展と相まって一気に支間長が増えました。1864年に完成したイングランドのクリフトン橋は支間200m、1890年に完成したスコットランドのフォース鉄道橋は支間500mといった具合です。
同様に、18世紀までは斜め堰に使う材料は石と木材や竹くらい。この材料で洪水や水圧という巨大な外力に対抗するには限界もあり、流出、沈下や水漏れの問題と戦わなければならなかったのではないかと推定します。水の階段を形成する閘門も同様、18世紀までは木製ゲートなので水位差はせいぜい2m程度でした。
つまるところ、材料強度や耐久力の不足を形状で補うしか選択肢がなかった、斜めにすると必要な強度を小さくすることができたのでないかと考えてみました。
古代や中世、アルノ川の取水堰も最初は直角堰だったのかもしれません。洪水の度に流出したり、沈下したり、水が漏れて取水できなかった。そんな失敗経験の繰り返しから斜め堰が誕生したのではないかと推定します。この時代、水理計算や構造計算などないでしょうから土木の世界はまさに「経験工学」だったと思います。
この20年くらい河川の伝統工法が着目されてきました。機械力が乏しかった江戸時代やそれ以前、洪水を上手に「受け流す」、「すかす」、「かわす」知恵が必要でした。堤防の一部を意図的に切る「霞堤」や木組みの枠中に玉石を詰めた「木工沈床」などの先人の知恵は現在の治水にも活かされています。自然の改変が少ない分、環境にも優しいやり方です。この斜め堰も川に優しい堰ということでしょうか。

堰越流部の天端と傾斜部では石の貼り方を変えていました。傾斜部はスレートのような扁平な石材を流水方向に丁寧に張り合わせてありました。洪水流をかわす「先人の経験知」かもしれません。


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斜め堰の上流側を歩きました。

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高水敷には立派な河畔林が植樹されていました。

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サン・ニッコロ橋はライズの小さいアーチ橋でスッキリしたデザインでした。

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橋から見たアルノ川、川は写真下から上に流れています。

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橋から見たアルノ川の上流側・・・

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河岸は自然河岸のようでした。

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リング道路の歩きを開始しました。このあたりまで来ると観光地を完全に外れていて、人通りもありません。

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最初は、クローチェ門(Porta alla Croce)、修復工事中でした。


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門に展示されていたフィレンツェの地図・・・赤い線がリング(城壁)です。リング内にはかなり空き地がありました。地図が作成された時代を特定するのは困難ですが、この地図の左下に記載された「ボーボリ庭園」が完成していることからも16世紀以降の地図だと思います。

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ひと昔前のクローチェ門には屋根が付いていました。

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周囲は、ベッカリーア広場(Piazza Beccaria)・・・

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リング内側の旧市街の建物も「横目地」の建物が目立ちました。

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しばらくリング道路を歩くと、墓地でした。

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リング道路は片側3車線の幅広の道路でした。

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フィレンチェの松はプードル風に刈り込まれていました。

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サンガッロ門まで来ました。この門はクローチェ門と似た屋根付きのデザインでした。

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門の周囲は自由広場(Piazza della Libertà)・・・モニュメントが建っていました。

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赤い建物は、ボローニャでよく見かけた柱廊(ポルティコ)風でした。

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リング道路は片側3車線の幅広の道路でした。

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擬似横目地の建物、モルタルで横目地を造っている感じです。

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コンドームの自販機(6ユーロ:5個)・・・日本は至る所にコンビニがあるため街中の自販機が減りました。欧州はコンビニに相当するキオスクみたいな小売店が少ないので街歩きで時々見掛けます。


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バッソ要塞が近づいてきました。トラムの軌道が建設中でした。架線は設置完了、フィレンチェも都市内交通にトラムを導入したようです。

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この生コン車は優れもの、自らのバケットでコンクリートが打設できます。日本にもあれば便利だなと思いました。


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バッソ要塞に到着、フィレンチェのリングを半周歩いたことになります。

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バッソ要塞は5角形の要塞、函館の五稜郭も同じタイプ。


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5角形の角が飛び出していました。飛び出した角から襲来する敵の側面を攻撃できます。いわゆる「十字砲火」を意図した形状ではないかと考えてみました。

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ミラノ、ボローニャと同様、フィレンチェのリング(城壁)は門だけが保存されて、壁は撤去されていました。壁が残っているのは、アルノ川左岸の丘陵部のみでした。市街地の進展に壁は邪魔だったようです。

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フィレンツェからアルノ川を100kmほど下った河口付近に、「ピサの斜塔」で有名なピサがあります。ピサはフィレンチェと同じ都市国家、かつてフィレンチェと覇権を争い敵対していた時期もあったとか。当初、ピサに寄って「ピサの斜塔」を観る計画を試みましたが、時間が取れず、断念しました。
ピサの旧市街を取り囲むリング(城壁)はフィレンチェより小振りの一辺が1.6km程度の方形でした。

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ピサの旧市街(出展 Google)

ピサの旧市街にはかなりの区間に亘って城壁がしっかりと保存されていました。

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ピサのリング(城壁)とドゥオーモ広場(出展 Google)

大聖堂(ドゥオーモ)はルール通り、上空から見ると十字架の形をしていて、主軸は東西方向を向いていました。ドゥオーモの十字架の交点にあるドームは割に地味で小振りな感じです。フィレンツェのクーポラと名前まで付いた巨大ドームはやはり特別な存在だと思います。有名な「ピサの斜塔」は鐘楼かもしれません。フィレンチェではドゥオーモの脇に「ジョットの鐘楼」が並んでいました。ドゥオーモの西側の大きなドームは洗礼堂。フィレンチェのドゥオーモ広場の建物の配置と概ね似ていました。
これまで観て来た欧州の旧市街は、大聖堂を芯にして同心円上に街区が拡がるパターンでした。ピサは少し変っていて、何故か大聖堂が北に偏っていました。「お題」が出された感じですが、すぐに答えが思い浮かびません。

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ピサの大聖堂(ドゥオーモ)と斜塔(出展 Google)

城壁の高さは8m~10mくらいだと思います。出入口には立派な城門が保存されていました。


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ピサのリング(城壁)(出展 Google)

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再び、フィレンチェ旧市街に戻って来ました。狭い路地裏は、いかにも古都フィレンチェといった感じ、庇付きの緑の格子窓の建物がずらりと並んでいました。


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珍しく赤提灯がぶら下がっていました。

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カミッロ・カヴール通りは旧市街中心部のメーン通りのひとつ、旧市街では珍しく幅広の大通りです。

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9時40分、すっかりお馴染みになったドゥオーモ広場に戻ってきました。

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この看板を見ると、先にふれたピサのドゥオーモ広場とフィレンチェのドゥオーモ広場の建物配置が近似していることが判ります。


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ホテルに戻って、荷物を整理して10時30分、チェックアウト。フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅はすぐでした。

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12時38分発ナポリ行きの「赤い矢」9419号はローマ・テルミニ駅に14時10分に到着します。

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駅中のマックは恐ろしく込んでいました。やっとの思いで席を確保できました。1.3ユーロ(170円)のエスプレッソを飲みながら、今日の記事をフェイスブックにアップしました。

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4月29日(日)フィレンチェは曇り一時雨、適温。
朝、アルノ河畔のサンタ・クローチェ教会に行ってみました。広場の脇の建物に過去の洪水の痕跡が記録されていました。1966年には過去最大の洪水があり、洪水位は地上3.5mだったそうです。普段のアルノ川は掘り込み河川で地表より10mくらい低い水位です。ザックリ14mも水位が上がったとは驚きです。
アルノ川右岸を上流方面に歩きました。河畔の高さ1mのパラペットは洪水対策かもしれません。そういえば、あるテレビ番組でレオナルド・ダ・ヴィンチがアルノ川の放水路を計画した話しが紹介されていたのを思い出しました。イタリア半島は日本と似ているので急流河川みたいです。水の出方も早いのかもしれません。
その後、旧市街を囲うリングをぐるりと歩きました。現在は広々とした道路ですが、当時の城門が保存されていました。
フィレンチェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅のマックでこの記事を書いています。今日は日曜日、駅には猛烈な数の観光客が押し寄せていました。
「赤い矢」9419号は12時38分発、ローマ・テルミニ駅に14時10分に到着します。

イタリアの主要鉄道駅は、欧州では珍しい改札が付いていました。この駅もミラノ中央駅と同様、乗車券がないとホームには入れない仕組みでした。

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予め日本で印刷、持参した乗車券を係りの人に示して入場しました。これからローマに向かいます。
以下、次号・・・・


by camino0810 | 2018-11-02 15:46 | イタリア | Comments(0)