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2018年4月30日(月)イタリア その39 ローマ(13)

ナヴォーナ広場はコルソ・デル・リナリシメント通りから1ブロック西側に入った場所にある細長い広場でした。好天に恵まれたせいか、この広場も大勢の観光客で溢れ返っていました。

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ナヴォーナ広場は、古代ローマ時代のAD85年に皇帝ドミティアヌスによって建てられ、3世紀に皇帝アレクサンドル・セヴェルスによって修復された競技場でした。

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(出展 Google)

現在は長さ250m、幅50m程度の細長い広場ですが、創建時は長さ276m、幅106mで、3万人の観客を収容できたそうです。昔、ベンハーという映画で見た戦車競技が行われていました。
1613年に描かれた、創建当時らしき競技場には確かに2台の戦車が描かれていました。競技場の形はコロッセオとどことなく似ていました。このスタジアムには細長い開口が並んだ観客席が1層分用意されていました。コロッセオは3層、テヴェレ川河畔のマルケッルス劇場は2層でした。競技場中央には巨大なオベリスクが建っています。現在の「四大河の噴水」と同じオベリスクかもしれません。

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(出展 Wikipedia)

この広場には車が入り込めないので安心して歩けました。この広場の名物は3つの噴水、広場の真ん中に3つの噴水がありました。教会前の「四大河の噴水」には大きなオベリスクが建っていました。

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この噴水は、ベルニーニ(1598年~1680年:バロックの時期を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家)の作品。17世紀当時の世界の四大河川ナイル、ガンジス、ドナウ、ラプラタの4河川を擬人化した彫像がありました。ラプラタ川は南アメリカの大河川、17世紀当時、大航海時代を経て、彼の地の情報がイタリアにも伝わっていたようです。欧州の大河がライン川やロワール川ではなく、ドナウ川だったのは何となく納得できますが、中国の長江や黄河はベルニーニの視野には入っていなかったようです。
彫像の上にオベリスクが建っていて、これまで観てきた2つのオベリスクと同じでエジプト文字が掘られていました。それにしても、ローマ人は噴水が大好きなようです。噴水は垂れ流しの水道の蛇口とともにローマ市内の各所で見ました。ローマ教皇シクストゥス5世が1585年に古代ローマ水道のヴィルゴ水道を修復・再建したフェリクス水道の支線が至る所に張り巡らされているということでしょうか。

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サンタン・ニェーゼ・ イン・ アゴーネ教会(Sant'Agnese in Agone)は、フランチェスコ・ボロミーニ設計、1672年完成したバロック様式の教会。ヴィットリアーノの展望台からも見えました。この教会は、かつて競技場だったこの地で殉教した12歳の少女アグネス(聖アグネス:守護聖人291年~304年)を祭った教会でした。

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聖アグネスは、キリスト教の受難の時代に生きた少女で、ナヴォーナ広場の前身、ドミティアヌスのスタジアムで行われた、皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教徒の迫害で殉教したそうです。AD301年の皇帝ディオクレティアヌスの迫害は、ローマ帝国における最後にして最も過酷なクリスチャンの迫害だったとか。日本でも戦国時代~徳川時代、同様な迫害が起きました。
686年に制作された、301年の皇帝ディオクレティアヌスとマキシマヌスによるキリスト教信徒の迫害を描いた絵画には政治と宗教の激しい対立が描かれていました。

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(出展 Wikipedia)

ナヴォーナ広場の一番南側にある『Fontana del Moro』(ムーア人の噴水)もベルニーニの作品。

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『Fontana del Moro』(ムーア人の噴水)をバックして自撮りしました。

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サンタン・ニェーゼ・ イン・ アゴーネ教会の前で子供相手のシャボン玉のパフォーマンスが行われていました。平和の有り難味を忘れないようにしなければなりません。

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ナヴォーナ広場の南端からサンタンジェロ城を目指しました。この写真はナヴォーナ広場の特徴をよく捉えていました。競技場のトラック部分とトラックで囲まれたあんこのエリアが縁石で仕切られている様子がよく判ります。

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広場脇のローマ博物館は時間がないのでスルー・・・

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「コヴェルノ・ヴェッキオ通り」というくねくねと曲がった路地道をテヴェレ河畔を目指して歩いて行きました。「ヴェッキオ」とは「古い」という意味合い、昔からある老舗の通りではないかと想像します。

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路地裏のハリオネ通り・・・

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バンコ・ディ・サント・スピルト通りの向こうにお目当てのサンタンジェロ城が見えてきました。


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パルマの生ハム、ニンニク、ソーセージとイノシシの頭・・・イタリアは美食の国でもあります。

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サンタンジェロ橋(Ponte Sant'Angelo)の左岸側の袂までやって来ました。サンタンジェロ橋はテヴェレ川に架かる5連のアーチの石橋でした。イタリア語はラテン語由来の言語でフランス語とは一応親戚の関係。イタリアに入って5日目にして、ようやくフランス語のリエゾンという不思議なルールがイタリア語にもあることに気付きました。サンタンジェロは分解すると サント(聖)とアンジェロ(天使)、「聖なる天使」、「聖天使」という意味合いだと思います。橋の名前の由来が判りました。

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驚かされたのは、サンタンジェロ橋の親柱の彫像群、片側に6つ、両側で12の彫像が並んでいました。そう言えば、ベルリンの王宮跡地のシュプレー川に架かるシュロス橋の親柱も人物の彫像でした。
https://camino0810.exblog.jp/27338886/
シュロス橋も親柱にも驚かされましたが、サンタンジェロ橋の親柱にはそれ以上の驚きを感じました。とにかく半端ない豪華さを感じました。調べると、この彫像は、ナヴォーナ広場の噴水を造ったベルニーニとその弟子の作品でした。「なるほどそういうことか」と納得が行きました。但、左岸袂の2つは天使ではありません。写真のメディチ家の紋章らしきエンブレムの男性は誰でしょうか。

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サンタンジェロ橋を渡ってサンタンジェロ城に向かいました。
以下、次号・・・



by camino0810 | 2018-12-31 09:37 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月30日(月)イタリア その38 ローマ(12)

12時、お目当てのパンテオン正面のロトンダ広場に到着しました。

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(出展 Google)

パンテオンのファサードはギリシャのパルテノン神殿風でした。その後方に例の巨大なドーム(ロトンダ)が続いていました。この建物は現存するローマ建築の最も完全な遺構であり、世界最大のコンクリートおよび石造り建築だそうです。
初代のパンテオンはアウグストゥスの義理の息子であるアグリッパがBC27年に建設したとか。現在の建物は皇帝ハドリアヌスが再建した2代目で、AD124年完成の1894歳(イタリア版Wikipedia)、恐ろしく長生きな建物です。パンテオンは、創建当時の形を保全しており、今でも現役とはひたすら驚くしかありません。AD80年完成のコロッセオとほぼ同年齢ということになります。


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ファサードに刻まれている『M・AGRIPPA・L・F・COS・TERTIVM・FECIT』は『ルシウスの子マーカス・アグリッパが、この建物を3度目の執政官を時に建造した』という意味合い。パンテオン(Pantheon)の「Pan」は「すべて」、「theon」は「神」を意味するので、ローマの神々に捧げる目的でアグリッパが建造した神殿でした。
パンテオンは、日本で言えば、八百万の神々を祭る出雲大社や伊勢神宮みたいな建造物でしょうか。
とにかく、パンテオンは、古代ローマの絶頂期の作品だといえそうです。パンテオンは、「Chiesa di S. M. ad Martyres」(聖母マリアと殉教者たちに捧げる教会)とも呼ばれるれっきとしたキリスト教の教会。AD609年、教皇ボニファティウス4世が命名したそうです。キリスト教が国教になった後にも、破壊を免れて現在までキリスト教の教会であり続けている訳で、人類にとっても僥倖だったと思います。ちなみに、イタリア建国の立役者ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世やラファエロのお墓もあるそうです。

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月曜にも拘わらず広場は大勢に観光客で溢れ返っていました。コロッセオの広場より手狭な分、混雑ぶりも半端ありません。年末・年始のアメ横なみと言ってもいいでしょう。広場を囲む建物の屋根の高さは結構バラバラ。イタリア人は、メーンの大通りはそこそこ建物のスカイラインを揃えるものの、建物のスカイライン自体への拘りは割りと薄いように感じます。イギリス人、フランス人、ポーランド人なら頭をもう少し揃えるでしょう。建物の色は、薄めのパステルカラーでした。


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この広場にもオベリスクがありました。

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先に見たミネルバ広場の象のオベリスクと同じようなエジプト文字が刻まれていました。

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パンテオンの周りを歩いてみました。建物は半地下構造、日本の大学の建物などでよく見掛ける形でした。半地下構造のメリットとは何かを考えてみました。
 ①地面を掘下げて建物を支える均一で堅固な基盤を用意できる。
 ②建物周囲の掘り残した地山を支持力として利用でき、地面すれすれに建設するより大きな支持力が得られる。
パンテオンのあるカンプス・マルティウスは低地ゾーンでした。テヴェレ川が運んできた土砂がゆるく堆積して、地盤が悪かったのかもしれません。2000年も前のローマ人に建築・土木の技術的な知識があったか無かったかは不明ですが、とにかく高さが40mを超える重い石造りの建物の基礎をどうすべきかを経験的に知っていたではないかと想像します。


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ロトンダの壁はローマンコンクリートを薄い赤レンガで被覆しているように見えました。

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壁の本体は、大きな礫とその周りを埋める砂からできていて、カンピドーリオの丘のローマ市役所で見たローマン・コンクリートの壁と感じが似ていました。

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パンテオンの構造図が掲示されていました。時間に追われ、内観しなかったことを今頃になって後悔しています。

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16世紀に描かれたパンテオンの鳥瞰図にはパンテオンの全体像が判り易く表現されていました。パンテオンのロトンダは3層の壁に大きなドームが載せられた構造でした。壁には例の不思議なアーチが入っていました。
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(出展 Wikipedia)


ロトンダの内部は、直径43m、高さが43mの球体がすっぽり入る内空があります。色違いの大理石の床から壁が2層立ち上がり、そこからドームが始まっています。ドームは凹みのある四角形の文様が施されていました。

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(出展 Wikipedia)

1570年に描かれた絵図面にロトンダの構造が示されていました。外部と内部のドームの下端の高さがずれていました。内部のドームは、下から3層目の壁の下端から始まっていました。普通に考えると、円筒形の壁の天辺にドームをポンと載せるやり方が思い付きますが、パンテオンのロトンダは、壁の3層目は同時にドームの一部になっていて、厚みを増していました。この増厚の部分に、直径43mのドームを支える構造上の秘密が隠されているようです。

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(出展 Wikipedia)

数年前、NHKの番組でゴシックの大聖堂の構造的な仕組みが紹介されていました。通常、参拝者席が並ぶ大聖堂の中央部分は高い内部空間を有するアーチ構造になっています。このアーチの付け根の部分に、横に押し広げようとする力が働くそうです。大聖堂には、この力を抑え込むために跳び梁と呼ばれる「つっかえ棒(バットレス)」が付いています。

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(シャルトル大聖堂の跳び梁 出展 Wikipedia)

パンテオンのロトンダは3次元のドーム、大聖堂のドームは2次元。細かい部分は違っても2次元の押し広げ問題は3次元にも当てはまると考えてもいいでしょう。
イタリア語版のWikipediaによれば、部材の5と1の外壁が跳び梁に相当する「つっかえ棒(バットレス)」で、このバットレスがドームの押し広げの力を抑え込んでドームの自重を鉛直下方向に伝える働きをしているそうです。ロトンダのキモの部分は、不思議なアーチを内包した外壁で、アーチは外壁の補強をする役割を持っているようです。


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(出展 Wikipedia)

ちなみに、ロトンダのドームは、ローマン・コンクリート製で、重さは4535トンもあるとか。ドームは自重を減らすために軽い骨材を使ったローマン・コンクリートを使っていました。ロトンダに使われたローマン・コンクリートは5種類あって、場所別、目的別に配合を変えていたとは驚きです。リビアの古代ローマの遺跡から採取された圧縮試験結果は20MPa。推定引張強度は1.47 MPa(213 psi)。現在一般に使われるコンクリートの圧縮強度は30MPa程度、ローマン・コンクリートは現在のコンクリートと比べても全く遜色はありません。有限要素解析によれば、ドームと外壁を接合する点で0.127MPa(18.5 PSI)の引張応力が発生するとか。強度の余裕は問題なくあるということになります。

ローマン・コンクリートとは・・・Wikipediaより

ローマン・コンクリート(ラテン語: Opus caementicium オプス・カエメンティキウム, 英: Roman concrete)または古代コンクリート(こだいコンクリート)とは、ローマ帝国の時代に使用された建築材料。セメントおよびポッツオーリ(イタリア・ナポリの北にある町)の塵と呼ばれる火山灰を主成分とした。現代のコンクリートは、カルシウム系バインダーを用いたポルトランドセメントであるが、古代コンクリートはアルミニウム系バインダーを用いたジオポリマー(英語版)であり、倍以上の強度があったとされる。ローマのコロッセオには古代コンクリートも使用されており、二千年近く経過した現在も存在しているのはそのためとされる。ローマ帝国滅亡後の中世ヨーロッパでは使われず、大型建築は石造が主流となった。[要出典]現代のようなコンクリートが利用されるようになったのは、産業革命後である[1]。

そそくさとパンテオンを後にしてナヴォーナ広場に向かいました。パンテオンのファサードの側面は白の大理石貼りでした。

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石畳のロトンダ通りは如何にもローマの下町の路地裏といった感じです。

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「本の泉」(Fontana dei Libri)は、ピエトロ・ロンバルディ作の噴水で、学問の象徴である本と地区の紋章にある鹿の頭部を組み合わせたものだそうです。「SPQR」という例のローマ市のロゴが刻まれていました。

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コルソ・デル・リナリシメント通りに出ました。サンティヴォ・アッラ・サピエンツァ教会(Sant'Ivo alla Sapienza)にはEU旗とイタリア国旗が掲揚されていました。この教会は、ローマ市の公文書館も兼ねていました。

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この教会は、1662年完成、フランチェスコ・ボロミーニの設計。建物はバロック建築の傑作の一つだとか。

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この教会のドームにも「押し広げの力」を抑え込むための「つっかえ棒(バットレス)」が付いていました。バットレスを2層の回廊にしてありました。2000年前の建築技術が、400年前の建築技術へ伝承されているようです。

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(出展 Wikipedia)

ナヴォーナ広場はすぐでした。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2018-12-30 18:26 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月30日(月)イタリア その37 ローマ(11)

高台のヴィットリアーノの展望台からローマの街の北半分を一望しました。ローマという歴史・文化の固まりみたいな街がすこしずつ判ってきました。
「地球の歩き方」(2018~19年版)には「ローマの核心部は意外に小さく端から端まで1時間で歩ける」と紹介されていました。4~5km程度の範囲内に見どころが集中しているという意味だと思います。
ローマの地図をよく見ると、リング(城壁)が見つかりました。現在のリング(城壁)は、紀元3世紀に完成したアウレリアヌス帝の城壁(赤線)とほとんど重なっていて、直径が概ね5kmもある巨大なものでした。これまで観て来た欧州の街々のリングの直径はせいぜい2kmクラス。ローマの街は大き過ぎ、リング内の芯に近い部分しか歩いていないこともあり、迂闊にもリングには気づきませんでした。ちなみに、江戸の総構えと呼ばれる外濠の直径は3.5km、古代ローマのリングが如何に巨大であったかという事でしょう。


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(出展・加筆 Wikipedia)

「地球の歩き方」(2018~19年版)から・・・

テヴェレ川のほとり、7つの丘の上に広がる永遠の都ローマ。古代ローマの時代から、歴史の舞台として、さまざまなドラマが繰り広げられたこの町には見どころががいっぱい。短期間の滞在ではこの町の魅力を十分に満喫するのは難しいが、まず町の概要を知ってから、この町を歩き始めよう。町は意外に小さく、端から端まで歩いても、1時間もあれば大丈夫。がんばって歩けば3日もあればおもな見どころは見て回れる。

1.城壁に囲まれた町   
ローマは、直径5kmほどの丸の中にすっぽり入る大きさだ。町は北から南西へ大きくS字に蛇行するテヴェレ川を挟んで二分される。テヴェレ川の西側・右岸には、カソリックの総本山ヴァティカン市国が、東側・左岸には、ローマ建国の発祥の地パラティーノの丘をはじめ7つの丘が広がる。この丘の周囲をグルッと取り囲んでいるのがアウレリウス帝の城壁だ。ほとんどの見どころは、この城壁の中にある。
2.町の中心には広場 
ローマの街の中心はヴェネツィア広場だ。その周辺に、ローマっ子の憩いの場ナヴォーナ広場パンテオン、そして古代遺跡フォロ・ロマーノコロッセオが点在する。町の北側には広い緑のボルゲーゼ公園、南側には、カラカラ浴場、そして東側には、テルミニ駅だ。町の西側のテヴェレ川右岸には ヴァティカン市国と、サンタンジェロ城。テヴェレ川右岸の南には、ローマの下町トラステヴェレと、ローマを一望できるジャニコロの丘が広がる。
3.広場から通りへ
ローマの通りは入り組んでいるが、主要な広場を頭に入れておけば、迷子になる心配はない。特にヴェネツィア広場に建つ巨大な記念堂ヴィットリアーノは、どこからでも眺められるので道しるべには最適。ヴェネツィア広場から北東に伸びるナツィオナーレ通り、その逆ヴァティカン市国へ延びるのが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世通り。南東のコロッセオまでは、フォーリ・インペリアーリ通り。さらに、ほぼ北へ、メインストリートのコルソ通りが続く。」
4.ローマから延びる大幹線道路
ローマの町からは、古代ローマの執政官たちによって造られた8つの執政官道路をはじめ大幹線道路が四方八方に延びている。2000年の時を経た今も、道路はかつての帝国領土を目指し、イタリア各地へと向かっている。これらの大幹線道路にまたがって、町を囲んでいるのが大環状道路だ。市内からこの半径10kmほどの大きな区域が、今やローマの住宅地になっている。大環状道路の外側の平野部アグロ・ロマーノは、牧畜と農業が盛ん。ゆったりとした田園風景と羊飼いの姿が、今も見られる。

アウレリアヌス城壁(Mura aureliane:271年~275年)は、ローマ皇帝アウレリアヌスとプロブスの治世の間にローマに建設された城壁だそうです。ローマの七丘に加えてカンプス・マルティウス(ナヴォーナ広場付近の低地)やテヴェレ川右岸のトラステヴェレ地区を囲んでいました。カンプス・マルティウスのテヴェレ川の河岸にはテヴェレ川が城壁替わり。現在、残されているリング(城壁)はアウレリアヌス城壁にテヴェレ川右岸、西側にあるヴァティカン市国を加えた形になっていました。

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(ローマのリング(城壁)緑の破線:出展 Google)

特に、南側のリング(城壁)や城門は、公園内にしっかりと保存されていました。

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南側のリング(城壁):出展 Google)


ヴェネツィア広場から北に延びるコルソ通りを歩いて、パンテオンを目指しました。2車線の手狭な道路の両脇に風格のある横目地の建物がずらりと並んでいました。柱列式のファサードを持つ重厚な建物もありました。

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ローマ銀行の角を左折して路地に入りました。

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ローマ銀行の建物の一部が垂れ流しの水道になっていて、男が抱えた樽から蛇口が出ていました。ポーターの泉(Fontana del Facchino)は、トレヴィの泉と同じヴィルゴ水道なので美味しいお水だそうです。多分、ローマの水売り人ではないかと想像します。

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路地裏の広場に来ました。ピンクの建物が目立ちました。

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建物同士を繋ぐ空中連絡通路・・・・

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横目地の建物、モルタル壁の建物と狭い石畳の通路・・・何かいい気分を感じました。ローマの下町とはこんな感じなのかもしれません。

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革表紙の本が並ぶ古本屋・・・

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路地を抜けるとミネルバ広場に出ました。奥に見えている古めかしいドーム状の建物がパンテオン。

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広場の真ん中に小さなオベリスクが建っていました。オベリスクとは古代エジプト時代に製作された、神殿などに立てられた記念碑(モニュメント)の一種。
ミネルバ・オベリスク(Obelisco della Minerva)は、ユニークなオベリスク。象の鞍に載せたオベリスクには不思議な絵文字が刻まれていました。ヒエログリフというエジプトの絵文字でしょうか。

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裏手からパンテオンに入りました。パンテオンの裏側は、窓が少ない少し不愛想な巨大な赤レンガのドームでした。

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壁面にはアーチがあって、アーチの上下を赤レンガで埋めていました。何とも不思議な建物でした。

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パンテオンの正面広場に回り込みました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-12-27 22:08 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月30日(月)イタリア その36 ローマ(10)

11時、ヴェネツィア広場にあるヴィットリアーノまで戻ってきました。
ヴィットリアーノは、ローマのヘソにしてランドマーク、正式名称は、「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂(Monumento Nazionale a Vittorio Emanuele II)」。1870年にイタリアを統一したヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の功績を讃える記念碑的な建物でした。
これから、パンテオンやヴァチカンを歩きます。高台のヴィットリアーノの展望台からローマの街を一望して、ローマの地理をアバウトでもいいから理解する作戦に出ました。

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ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を讃える施設や名称は、ミラノのドゥオーモ広場を始めイタリアの各所で観てきました。国防省前の「9月20日通り」は、1870年にイタリアを統一した彼がローマに入城した日にちでした。
ヴィットリアーノは、ローマのヘソであるカンピドーリオの丘の一番高い場所に建設されていることからも、イタリア人にとって最も大切な施設のように感じます。ヴィットリアーノは、「アルターレ・デッラ・パトリア(伊Altare della Patria、国父の祭壇)」とも呼ばれるそうです。
幅の広い階段を登って建物の中に入りました。この彫像は、建物の天辺に設置された天使のレプリカだと思います。天使が4匹の馬に引かれる戦車を操縦していました。

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建物の鳥瞰図と説明書きがありました。
 ・工期 50年(1885年~1935年)
 ・大きさ 幅135m、奥行き130m、高さ81m
 ・階段 幅41m、長さ34m
 ・ポルティコ(柱廊) 長さ72m、柱高15m
 ・彫像と絵画 70基
 ・建築面積 17,550m2
 ・掘削量 70,000m3
 ・無名イタリア兵士の埋葬 1921年

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展望台に出ました。最上階の長さ72mのポルティコ(柱廊)は、白の総大理石貼りの恐ろしく豪華な建物でした。この豪華な建物の是非を巡ってイタリア国内には議論もあったようです。ミラノのドゥオーモのファサードも白の総大理石貼りの豪華な建物でしたが、ヴィットリアーノにはドゥオーモに匹敵するゴージャスさを感じました。

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ポルティコ(柱廊)の天井のモザイク画?・・・剥げ落ちた壁画が見えているので、別の建物の壁画を移転したのかもしれません。


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両翼の一番高い部分に例の天使像が見えました。この天使像は街歩きで良く見掛けました。ランドマークとしての役割りも文句なし。

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折角の機会なので、観光客の方にスナップ写真をお願いしました。写真の右の騎馬像がヴィットーリオ・エマヌエーレ2世。床も色違いのゴージャスな大理石貼りでした。

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展望台からローマの街が一望できました。最初は、ヴィットリアーノの右側、東側に拡がるローマ旧市街。

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松に囲まれた幅広のフォリ・インペリアーノ通りの右隣りにフォロ・ロマーノ、彼方にコロッセオが見えました。

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写真右側の赤レンガの塔は「Torre delle Milizie」、写真左の高台がクイリナーレの丘。この間の谷筋が、先ほど歩いたナツィオナーレ通り。

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ヴィットリアーノの正面、北側に拡がるローマの旧市街。

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ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世・・・

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ヴィットリアーノ正面は、先ほど歩いたヴェネツィア広場。

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ヴィットリアーノ左側、西側の街並み・・・
ローマの市街地の中心にあるヴィットリアーノからローマの市街地の北半分をぐるりと見渡しました。ローマには新市街地らしき一帯が見当たりませんでした。ミラノ、ボローニャには高層ビルが密集したオフィス街がありました。建物のスカイラインに拘ったパリでもデフォンスという高層ビル群がありました。ドイツのベルリンやフランクフルト、オーストリアのウィーン、ポーランドのワルシャワにはピカピカの新オフィス街がありました。何故、ローマに新市街がないのか?その理由は、3000年近い歴史・文化の保全、それを活用した観光ビジネスを目的とした法的な縛りがあるからではないのかと考えてみました。

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5つのドームが見えていました。真ん中のドームがバチカンのサンピエトロ大聖堂。

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2.5km先のサン・ピエトロ大聖堂のドーム。

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階段を降りて行きました。写真右がヴィットーリオ・エマヌエーレ2世。

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ヴェネツィア広場・・・

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11時40分、ヴェネツィア広場北側の旧市街を歩いて、パンテオンを目指しました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2018-12-23 11:39 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月30日(月)イタリア その35 ローマ(9)

「モーゼの噴水」があるサン・ベルナルド広場に大通りを挟んで似たような教会が2棟建っていました。
東側の教会はサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会(Chiesa di Santa Maria della Vittoria)。

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西側の教会は、サンタ・スザンナ教会(Chiesa di Santa Susanna alle Terme di Diocleziano)。この2棟の教会のファサードは恐ろしく似ていました。調べると、カルロ・マデルノ(1556年 ~1629年)というイタリア系スイス人がこの2つの教会の設計者でした。彼は、バロック建築の先駆者の1人として高名な設計者でサン・ピエトロ大聖堂も設計したそうです。

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サンタ・スザンナ教会の名前も随分と長い名前ですが、後半の「 alle Terme di Diocleziano」は「ディオクレティアヌスの浴場にある」という意味合い、ディオクレティアヌス帝が建設した浴場のそばにあったためのネーミングでした。
ディオクレティアヌス浴場は、ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスが306年に建設した公衆浴場で、ローマ帝国でも最大かつ最も豪華な浴場。ゴート族が537年に水道供給を絶つまで使われ続けていたそうです。先に見た、赤レンガのサンタ・マリア・デランジェリ・エ・デイ・マルティーリ聖堂はこの浴場の一部をそのまま使っているとは驚きです。

サン・ベルナルド広場の奥にひっそりと佇む円筒型の小さく地味な教会に入ってみました。調べると、サン・ベルナルド・アッレ・テルメ教会(Chiesa Rettoria San Bernardo alle Terme)は、「浴場のそばのサン・ベルナルド教会」という意味で、なんとディオクレティアヌス浴場の円柱形の塔を再利用した教会でした。改めて、ローマの「継ぎ足しの文化」、「使い回しの文化」の凄さというか徹底ぶりを感じます。
街歩きの最中はアバウトな情報しか持たず、デジカメを持ってせわしなく移動します。記事を書く時にあれこれ調べると、気付かなかった意外な事実が沢山発掘できるということはよくあります。
ローマの旧市街には、コロッセオやフォロ・ロマーノのようなメジャーな観光スポット以外にも2000年の歴史を超える歴史遺産があちこちにさりげなく存在している感じです。その意味でもローマは歴史遺産の世界的な宝庫であり、歴史、文化、地形、地質、建築やインフラに興味のある人には堪えられない街だと思います。

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この教会の内部は明るい白を基調にした清潔で整った印象がありました。教会の外壁、内壁ともピンクを使っていました。

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屋根の外部は直径30mくらいの10角形構造、内部はドーム構造、ローマンコンクリートを使っているのかもしれません。

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サンベルナルド広場からクイリナーレ通りを歩いてヴェネチィア広場まで引き返しました。

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(出展 Google)

恐ろしく精巧な門柱に出会いました。「Reggimento Corazzieri」という建物は大統領直属の儀仗部隊の建物でした。日本でいうと、皇居の近くにある近衛師団本部みたいな建物だと思います。

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門柱の天辺の龍はなんか小学生の頃見た怪獣映画に出てきた「キングギドラ」に似ていました。

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少し行くと、大きなピンクの建物がありました。国防省の建物でした。1階は横目地、2~4階はモルタル仕上げでした。

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それにしても、防衛省がピンク色とは驚かされます。イタリア人のピンクに対する感覚は日本人と違っているようです。ピンクは博物館などの学芸関係、防衛省などのお役所、大統領府など幅広くに使われていました。

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クイリナーレ通りとクアトロ・フォンターネ通りの交差点にクアトロ・フォンターネ噴水(4つの噴水)がありました。交差点の角切りをして彫像を掲示するやり方は、シチリア島にあるパレルモのクアトロ・カンティでも観ました。
南東の角にあるサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂(Chiesa di San Carlino alle Quattro Fontane)は、フランチェスコ・ボッロミーニの設計で1682年に完成したそうです。

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建物の角を隅切りした面に彫刻と泉が設置されていました。

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ローマ神話に出てきそうな神様の横に犬(オオカミ)のお乳を吸う赤ん坊が刻まれていました。古代ローマを建設した伝説上の人物ロムレス (Romulus) とレムス (Remus) の双子の兄弟のどちらかだと思います。

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北東面の噴水・・・

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南西面の噴水は女神像・・・

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クイリナーレ通りと直行するクアトロ・フォンターネ通りは交差点から急な下り坂になっていました。クイリナーレ通りは、クイリナーレの丘の尾根筋に設置された道路でした。古代ローマ時代のヴィルゴ水道を改造したフェリクス水道はこの道路下に設置されており、高低差による水圧を利用してローマの旧市街の各所に配水しものと想像します。

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道路右側の恐ろしく長い建物はクイリナーレ庭園の外周部の建物でした。ざっくり500mくらいはあったでしょうか。かつてのローマ教皇の住まいは広大でした。

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クイリナーレ通りの左側にあるサンタンドレーア・アル・クイリナレ庭園(Giardino di Sant'Andrea al Quirinale)に立ち寄りました。2人の兵士のモニュメントの土台に1814ー2014と刻まれていました。お題が出された感じなので、この答えを考えてみました。兵士がフランス軍の兵士に似ていたでナポレオンと関係しているのかなと考えてみました。イタリアを支配したナポレオンは1814年に欧州連合軍に敗退しました。ナポレオンの敗退によってイタリア独立の機運が高まったので、その200周年だろうと考えましたが、答えは違っていました。
調べると、カラビニエリ財団の200周年を祝う記念碑でした。カラビニエリとはイタリアの国家憲兵で創設が1814年だとか。どうもナポレオンのイタリア解放の名を借りた領土的野心が、都市国家の集合体でばらばらだったイタリア人の愛国心やナショナリズムに火をつけ、イタリア統一の機運を高めていった感じです。

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再び、クイリナーレ宮(大統領府)に戻ってきました。

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この広場から約3km先にあるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂のドームが見えました。

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コンスルタ宮(Palazzo della Consulta)はクイリナーレ宮(大統領府)のお隣にあるピンクの宮殿、憲法裁判所が置かれているそうです。日本の場合、首相官邸と最高裁はかなり離れていますが、イタリアでは行政府と裁判所はお隣同士、古代ローマのフォロ・ロマーノでは、行政府のタブラリウム(Tabularium)、裁判所のバシリカ・ユリア( Basilica Julia)はほとんどお隣同士でした。2000年前からの伝統かもしれません。

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クイリナーレ宮前の広場にあるオベリスクと噴水・・・


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クアットロ・ノヴェンブレ通りまで戻ってきました。直訳すると「11月4日通り」。クイリナーレ通りに続く防衛省前の通りは「9月20日通り」(Venti Settembre)。イタリア人は日にちを道路名にする、日本人にはない文化の持ち主、記念碑的な日にちをキッチリ名前で残す文化を持っているようです。「11月4日」は第一次世界大戦の戦勝記念日1918年11月4日、「9月20日」は、イタリア統一が完成した1870年9月20日のことだそうです。それとは知らず、たまたま歩いた道路がローマだけではなく、イタリアを代表する道路だったとは驚きです。

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11時、ヴェネツィア広場のヴィットリアーノまで戻ってきました。

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ヴィットリアーノの正面階段を登って展望台を目指しました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2018-12-20 19:54 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月30日(月)イタリア その34 ローマ(8)

朝9時、ヴットリアーノのあるヴェネツィア広場に到着しました。この広場からナツィオナーレ通りを歩いて、テルミニ駅まで行って、クイリナーレ通りを歩いて、ヴェネツィア広場に引き返しました。

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(出展 Google)

これまで歩いてきたミラノ、ボローニャ、フィレンツェは判りやすい街でした。市街地は旧市街を中心にして同心円状に郊外に拡がっていました。旧市街の芯には大聖堂があり、大聖堂前の広場から放射状に大通りが郊外に伸びていました。旧市街は、直径2キロ程度のリング(城壁)で囲まれていました。リング(城壁)は城門のみ創建時の姿を留めており、それ以外は基幹環状道路になっていました。
ところが、ローマの旧市街は上記の3都市と比べてはるかに広く、ヴェネチア広場というヘソはあるものの、法則性が感じられない、何か多極分散型の旧市街という感じでした。歩いた範囲ではリング(城壁)を見つけることができませんでした。そう感じた理由は、多分、ローマは、3000年近い歴史がある中、古代ローマ時代(紀元前753年 - 476年)と中世のローマ教皇時代の2種類の街割りが混在しているからではないかと思いました。一方、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェは中世のローマ教皇時代に街が大きくなったので判りやすいシンプルな街割りになったのではないかと思います。

ヴェネツィア広場から見たヴィットリアーノ・・・車道は石張りでした。

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ヴェネツィア広場に隣接したピンクの建物は、ヴェネツィア宮殿博物館。そう言えば、ミラノではピンクの美術館を見ました。

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ヴェネツィア広場北側の建物には完成後のイメージ写真を印刷したシートで建物を覆っていました。ここまで、工事中の景観維持に気遣いを示した事例を見たことはありません。ヴェネツィア広場の景観価値の高さを示す事例だと感じました。ローマ市にはこのような条例などの縛りがあるのかもしれません。

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クアットロ・ノヴェンブレ通り・・・風格に溢れる建物群がずらりと並んでいました。車道は小さな石を貼った石造り、歩道は大きな石を貼っていました。

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角を曲がると、「横目地」の建物がずらりと並んでいました。フィレンツェの「横目地」の建物とはどこか微妙に違っていました。


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交差点の広場の奥に建つ赤レンガの「Torre delle Milizie」は窓がほとんどない無愛想な塔でした。フィレンツェでも似たような塔を見ました。多分、監視塔か囚人塔ではないかと思います。


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広重のポスター・・・


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すぐにナツィオナーレ通りに行かず、寄り道をしてクイリナーレ宮ある坂道を登って行きました。


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クイリナーレ宮は、大統領府。日本で言えば、首相官邸みたいなもの。ヴェネツィア広場のヴェネツィア宮殿博物館と建物の形が似ていました。ローマの7つの丘のひとつ「クイリナーレの丘」に因んだ名前でした。歴代のローマ教皇の住まいだったとか。西欧社会は、キリスト教という宗教勢力(教皇)と政治勢力(皇帝)の相克の歴史にように感じますが、ローマではかつての教皇の住まいが、現在は大統領の住まいに変った訳で、西欧社会のダブルスタンダードを感じます。

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「クイリナーレの丘」はローマを形成する7つの丘のひとつ。「パラティーノの丘」、「カンピドーリオの丘」と並んで、ローマの街割りを理解する上で欠かすことのできない丘だと気づきました。ナツィオナーレ通り(Via Nazionale)は「クイリナーレの丘」と東側の「ヴィミナーレの丘」の間の谷に沿った大通りでした。

以下、wikipedia・・・

クイリナーレ (イタリア語: Quirinale,ラテン語: Quirinalis クイリナリス) は、ローマの街の元となったローマの七丘の一つ。クイリナーレの丘(イタリア語: Colle Quirinale,ラテン語: Collis Quirinalis)とも表記される。
また、この名前はイタリア共和国大統領官邸となっているクイリナーレ宮殿を指すこともある。
現代の街区で凡そこの範囲を説明するならば、9月20日通り(Via Venti Settembre)およびクイリナーレ通りを尾根線とし、丘の先端はクイリナーレ広場(イタリア語版)とクイリナーレ宮殿・クイリナーレ庭園である。陸の付け根はピア門付近である。丘の幅は狭く幅500mほどであり、ヴィミナーレの丘との間の谷はナツィオナーレ通り(Via Nazionale)、ピンチョの丘との間の谷はサン・ニコラ・ダ・トレンティーノ通り(Via di San Nicola da Tolentino)やバルベリーニ広場(英語版)付近である。

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(出展・加筆 wikipedia)


ナツィオナーレ通りは、「Torre delle Milizie」のあった広場とテルミニ駅近くの共和国広場を繋ぐ1kmばかりの大通り。「国民通り」という意味なので、ローマのメーン道路ではないかと思います。そう言えば、ローマの旧市街で路面電車を見ていません。ミラノの旧市街は至る所に路面電車が走っていて、ミラノらしい都市景観を創っていました。何故、ローマに路面電車がないのか?その理由は不明です。2本の地下鉄、車とバスがローマの運輸手段。路面電車ではなくバスに頼っているようです。

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この品格のある横目地の建物はイタリア銀行・・・イタリア国旗に加えてEU旗を掲揚してありました。

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市立展示館・・・この近辺には沢山の宮殿がありました。このような建築遺産を公共的な建物に転用しているのではないかと想像します。

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ナツィオナーレ通りは、5階前後の横目地の建物がスカイラインを揃えていました。昨日歩いた、メルラーナ通りと同様電柱・電線が地中化され、不健全は屋外広告はありません。照明灯を吊るすワイヤーだけが道路を横断していました。

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振り返ると、道路の彼方にランドマークのヴットリアーノがしっかり見えていました。ローマは、メーン通りの何処からでもヴットリアーノが見えるような街路設計をしているようです。このあたりは、クイリナーレの丘のトップ部分、ヴィットリアーノの頂点の彫像が見えていることからも、標高が高い地点だと思います。

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この建物はホテル、1階はマックでした。

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ローマ三越・・・共和国広場に面した1等地に立地していました。

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共和国広場は大きなロータリーでした。正面の円弧状の建物の左端がローマ三越・・・この広場もローマのヘソでした。ローマの旧市街が多極分散型と感じたのは、このような広場が旧市街のあちこちに点在していたからでした。

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共和国広場の歩道幅は随分と広かったです。車道と歩道の境界が曖昧なのも良かったです。円弧状の建物の1階はボローニャのポルティコ(柱廊)風でした。

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共和国広場の芯は「ナイアディの噴水」でした。ミラノのスケルツォ城前の噴水広場を想い出しました。

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共和国広場のサンタ・マリア・デランジェリ・エ・デイ・マルティーリ聖堂(Santa Maria degli Angeli e dei Martiri)は、随分と古そうな赤レンガの教会でした。それにしてもこの教会の名前は恐ろしく長い名前です。イタリア人は、何でも短縮言葉を作り出す日本人とはどこか違う文化の持ち主だと思います。

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この教会はミケランジェロが設計、古代ローマのバジリカを活かして改修したそうです。「使い回し」が上手なお国柄だと思います。

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垂れ流しの水道栓。ミラノ、フィレンツェでもこのタイプの水道栓を見ました。水道は為政者は庶民に示す行政サービスかつ威信を示すマストアイテムだったようです。

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よく見ると「SPQR」(元老院とローマの人民)のロゴが入っていました。この水道栓のロゴは、ローマ市のエンブレムでした。


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ローマ・テルミニ駅は共和国広場からすぐでした。巨大な行きどまり駅ですが、デザイン的にはシンプルでした。

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テルミニ駅前は大きなバスターミナル。東京駅八重洲口のバスターミナルや新宿バスタよりは相当大きいターミナルでした。プードルみたいに剪定されたローマの松が沢山植えられていました。

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ローマ旧市街で路面電車を目にしなかったのは、市内の公共交通をバス主体にしていたためかもしれません。

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バスターミナルの横にあるピンクの建物はローマ国立博物館マッシモ宮(Palazzo Massimo alle Terme)。ヴェネツィア広場の博物館もピンク。美術館や博物館の色はピンクというルールでもあるのでしょうか。

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共和国広場の「ナイアディの噴水」越しにヴットリアーノが見えました。

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共和国広場に隣接しているサンベルナルド広場に来ました。ゴージャスな噴水に出会いました。「モーゼの噴水」は「トレヴィの泉」、「パオラの泉」と共にローマ三大噴水と称されることもある謂れのある噴水でした。ローマ教皇シクストゥス5世が1585年に古代ローマ水道のヴィルゴ水道を修復・再建した水道でした。ローマ教皇がインフラ整備をしていた訳でローマ教皇庁は役所仕事も手がけていたことになります。


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Wikipediaに「モーゼの噴水」(フェリクス水道の泉)のファサードに刻まれたラテン語の碑文と日本語意訳が掲載されていました。水源は21マイル(31km:数値に矛盾あり)先にあると書かれていました。江戸時代、100万の江戸市民を支えた玉川上水の水源は羽村の多摩川で、都心から40km地点にあります。最近、日本では水道の民営化問題がメディアを賑わすようになりました。玉川上水はPFI的な手法で建設、運営されたと聞いています。ローマ市は現在水道をどのように運営しているのか少し気になりました。

『SIXTUS V PONT MAX PICENUS / AQUAM EX AGRO COLUMNAE / VIA PRAENEST SINISTRORSUM / MULTAR COLLECTIONE VENARUM / DUCTU SINUOSO A RECEPTACULO / MIL XX A CAPITE XXI ADDUXIT / FELICEMQ DE NOMINE ANTE PONT DIXIT』
(ピケヌム出身のシクストゥス5世 / この水道をColumnaeから引く / プラエネスト街道の左にある / 幾つかの水源から / 曲がりくねった水管を造り / 水源池から20マイル、泉源からなら21マイルの距離である / 教皇名を得る前の名フェリクスに因んで名付けられる)


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「モーゼの噴水」(フェリクス水道の泉)を調べてみました。
以下、Wikipedia・・・

「ローマ教皇シクストゥス5世が就任した1585年に稼働していた水道施設は、古代ローマ水道のヴィルゴ水道を修復・再建したヴェルジネ水道ただ一つであった。当時のローマ市民は、飲むことができる清潔な水が必要なときはヴェルジネ水道の末端施設であった後のトレヴィの泉周辺にあった泉まで出かけていた。教皇シクストゥス5世は、それ以外のローマの各地区への水道施設を復旧する任務を負い、アレクサンドリナ水道等を修復したフェリクス水道の末端施設としてフェリクス水道の泉を設けた。古代ローマ以降、初めて造られた壁龕を持つ記念碑としての噴水施設である[2]。」


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古代ローマ水道のヴィルゴ水道とは・・・BC19年完成、全長20.9km、高さ標高 24m(水源), 20m(ローマ)、水量 100,160m3/日、構造方式は石造・コンクリート造、設計・建設は共和政ローマ。当時の市民の1日当り使用水量を250Lとすると、ヴィルゴ水道は約40万人分の水をまかなっていた勘定になります。

驚かされたのは、古代ローマ人の高精度の測量・建設技術でした。全長約21kmに対し、高低差はわずかに4m。勾配は約5000分の1。(1653年に完成した玉川上水は全長43km、高低差100m、勾配は約400分の1)しかも、水路の90%はトンネルでした。レベルやトランシット、大型土木機械が無い時代に、玉川上水を完成させた玉川兄弟の土木技術力も大したものですが、2000年以上も前にもっと難しい工事を完成させた古代ローマ人の土木技術力には舌を巻かざるを得ません。

以下、Wikipedia・・・

「ウィルゴ水道 (ヴィルゴすいどう、ラテン語: Aqua Virgo) は、古代のローマに水を供給していた11本あるローマ水道の1つ。ローマ帝国の滅亡と共に使われなくなったが、約1000年後のルネサンス期に完全に再建され、アックア・ヴェルジネ (Acqua Vergine) となった。ローマ水道の技術書の著者でありローマ水道長官でもあったフロンティヌスによれば、水道の全長は20.9km(14.105ローマ・マイル)で、そのうち19.0km(12.865ローマ・マイル)は地下の導水渠を、1.8km(1.240ローマ・マイル)は地上の導水渠で構成されていた。地上の導水渠のうち、0.80km(0.540ローマ・マイル)は構造物内に、1.0km(0.700ローマ・マイル)は水道橋上の導水渠を経由していた[1]。また、水量は100,160m3/日(2,504クイナリア)であった[2]。」

「モーゼの噴水」を見終えて、「クイリナーレ通り」を下って、ヴェネツィア広場まで歩いて引き返しました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-12-17 15:26 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月30日(月)イタリア その33 ローマ(7)

ローマ2日目。
昨日は早起きしてフィレンツェを歩いて、フィレンツェから電車でローマに着いて、午後遅くからローマの街を歩きました。相当疲れていたので、良く眠れました。いつもより遅く起きて、7時過ぎにホテルの朝食を戴きました。ビュッフェ形式の朝食でしたが、ローマの三つ星ホテルでも青物野菜がありませんでした。本当かどうかは判りませんが、イタリア人は意外にも青物野菜が嫌いなのか、お値段が高いのかもしれません。

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8時20分、ホテルを出発。
ローマ2日目も快晴に恵まれました。幸運に感謝しなければなりません。今晩も、このホテルに宿泊するので、街歩きの時間を気にする必要は全くありません。最初は、ホテルの近くの公園に寄って、トラヤヌス帝の浴場を探しました。残念ながら見つけられませんでした。公園は高台にありました。高台の浴場に潤沢な水をどう導水したのか?より標高の高い郊外の川や湖から導水したのでしょうか。


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公園内の松は徹底的にイタリア風に剪定されていました。ローマの松は、下の枝を全部刈り取られ、頭の部分だけ枝と葉が残されます。なんかプードルみたいで日本人の自分にはいささか気の毒な思いがします。


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公園の坂道を下ると、糸杉の向こうにすっかりお馴染みになったコロッセオが見えてきました。

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月曜日の朝早い時間でもコロッセオには観光客が集まっていました。

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地下鉄B線のコロッセオ駅の出入り口。昨日、この出口から出た瞬間、コロッセオがいきなりドーンと現れて結構衝撃を受けました。

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地下鉄C線「フォリ・インペリアリ駅」の開削工事の現場まで来ました。マクセンティウスのバシリカ(Basilica di Massenzio)は仮設材でしっかりと補強されていました。

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昨日の歩きでこのあたりの土地鑑が大分出来たので、フォリ・インペリアーノ通りを余裕綽々で歩いていきました。三角屋根の元老院クーリア、ヴィットリアーノやプードル松がなんかお馴染みの景色になってきました。

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フォロ・ロマーノの中の「平和の広場(神社)」には沢山の円柱が建っていました。

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説明書きには、皇帝の後継者を決める内戦、反乱を起こしたユダヤ人への過酷な弾圧の後、 ウェスパシアヌスという皇帝(69年~79年)が70年~75年に「平和の神社」として建てたと書かれていました。暴君ネロの血生臭い政治や後継者争いの不毛な時代を断ち切る目的があったようです。

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お隣は、「カエサル広場」・・・BC46年、カエサルがカエサル家の守護神であるヴィーナス神を祝福する為、この寺院を建てたそうです。

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カエサル像・・・カエサル由来の建物がフォロ・ロマーノに複数あることからも古代ローマの偉大な中心的人物のようです。

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ヴットリアーノが間近に迫って来ました。

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昨日観たセプティミウス・セウェルスの凱旋門(Arco di Settimio Severo)に再びやってきました。

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フォロ・ロマーノのカモメ・・・ローマの中心部はテヴェレ川の河口から30kmにあります。春日部の大落古利根川でもよくカモメを見ました。春日部は荒川の河口から約40kmにあります。カモメの行動範囲は意外にも広く、ローマ市街地の外れまでは行っていそうです。

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プードル松の向こうに白亜のヴットリアーノが見えてきました。

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ヴットリアーノの断面図を見ると、この建物はカンピドーリオの丘の斜面に沿って建てられたテラス状の建物でした。

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再び、ヴットリアーノに来ました。

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9時、ローマのヘソ、ヴェネツィア広場に立ちました。

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ここから、ナツィオナーレ通りを歩いて、ローマテルミニ駅に向かいました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2018-12-13 20:27 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月29日(日)イタリア その32 ローマ(6)

テヴェレ川の中の島ティベリーナ島をぐるりと一周しました。

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(出展 Google)

パラティーノ橋から上流に位置するティベリーナ島を眺めました。テヴェレ川右岸の派川には落差工があり、意外にも流速があるので驚かされました。


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右岸のテヴェレ川は目測で流路幅60m、高水敷25m(右15、左10)、全幅85m。路面と水面の高低差は概ね10m。右岸トラステヴェレ地区とティベリーナ島を連絡するチェスチオ橋は3連の風格溢れる石造りのアーチ橋でした。

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チェスチオ橋の説明書きが建っていました。現在のチェスチオ橋は、紀元前26年に完成した橋を1892年に造り変えた橋でした。説明書きの絵は創建当初の旧橋で、よく見ると両サイドの支間が中央支間に比べて小さいことが判ります。旧橋は48.5m、新橋は83m、洪水防御のため河道を拡幅する必要があり、旧橋を壊して新橋を造ったそうです。1937年のテヴェレ川大洪水では中の島のティベリーナ島は2m水没したとか。

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説明書きの左側の写真が1700年代の旧橋、右側が現在の新橋。新橋は旧橋の両サイドの狭い支間を大きくして、河積を大きくしていました。説明書きにはテヴェレ川は深刻な河床低下や護岸壁の洗堀が起こっているとも書かれていました。理由はテヴェレ川の河道直線化や上流のダムによる供給土砂の減少だそうです。落差工は河床勾配を小さくして流速を抑え、洗堀の進行を抑える施設でした。日本の河川と似たような現象が発生しているわけで、イタリアも日本と同様、急勾配河川が故の悩みを抱えているようです。

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チェスチオ橋をWikipediaで調べると

ケスティウス橋(ラテン語: Pons Cestius,イタリア語: Ponte Cestio チェスティオ橋)は、イタリア ローマのテヴェレ川に架かる橋で、ティベリーナ島とテヴェレ川右岸のトラステヴェレを結ぶ橋である。
この場所に最初に架橋されたのは紀元前1世紀(BC62年からBC27年の間の期間)[1]のことで、ティベリーナ島に架かるもう1つの橋であるファブリキウス橋が架橋された後のことだと考えられている。古代ローマ時代において、テヴェレ川の両岸を陸路で結ぶ初めての石橋[1]であった。なお、ファブリキウス橋は古代ローマ時代の状態で現在まで残存しているが、このケスティウス橋は19世紀に改築されたものである。
この橋の架橋に功績のあった人物は、紀元前1世紀の有力な氏族(ゲンス)であったケスティウス家の誰かだと考えられている[1]。4世紀に、ローマ帝国皇帝ウァレンティニアヌス1世(在位 364年 - 375年)、その弟で東ローマ帝国皇帝であったウァレンス(在位 364年 - 378年)、長男でローマ帝国皇帝となったグラティアヌス(在位 375年 - 383年)により改築され、370年にグラティアヌス橋(Pons Gratiani)と改名された。この時の架橋では凝灰岩で主要構造が造られ、表面の化粧板としてトラバーチン(石灰質沈殿岩)が用いられた。これらの建材のうちいくらかは、近隣にあったマルケッルス劇場を取り壊して得られた[2]ものであった。橋の長さは48m、幅は8mであり、中央アーチの径間は23.65m、その両側の小アーチの径間は5.8mの石造3径間アーチ橋あった[1]。
1888年から1892年に掛けてテヴェレ川の河川改修により、ケスティウス橋(グラティアヌス橋)は撤去され、川幅が48mから76mに広げられると共に河岸擁壁が設けられた。同時に、ケスティウス橋は全長80.4mの石造3径間アーチ橋として再架橋された。中央アーチ部分は、かつてのケスティウス橋の撤去材を再利用したものであり、橋全体としては3分の1の石材が4世紀の橋の撤去材の再利用である[1]。


沢山の観光客がチェスチオ橋を渡って、ティベリーナ島に向かっていました。


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チェスチオ橋の上流側・・・・

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チェスチオ橋の袂で河畔のテラスに降りてみました。川は写真上から下に流れています。上流に見えている橋はガリバルディ橋。沢山の人が河畔テラスでのんびり寛いでいました。

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河畔テラスはゆったりと幅広で転落防止策もなく、川へのアクセスは文句なく良かったです。素晴しい河畔だと感じました。チェスチオ橋を背景にして自撮りしました。遥々ローマまで来た甲斐があったなと思いました。

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河畔道路の歩道脇から見たチェスチオ橋・・・

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ティベリーナ島の上流端にあるガリバルディ橋まで歩いてきました。この橋は、70mの支間を2つ持つ橋長140mの石造りのアーチ橋でした。アーチライズが小さく、支間も大きいので近代的な橋梁技術で建設された橋だと思います。ガリバルディは、1870年のイタリア統一に貢献した英雄ガリバルディを讃えた命名でしょう。

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ガリバルディ橋からティベリーナ島が良く見えました。川は写真下から上に流れています。写真右側の橋がチェスチオ橋。

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テヴェレ川の左岸の派川も、急流河川であることがよく判ります。

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この写真は、テヴェレ川の左岸の派川、川は写真右から左に流れています。ティベリーナ島とテヴェレ川左岸を結ぶ橋がわずかに見えています。ファブリチオ橋でした。この橋は現存する古代ローマの最古の橋でした。紀元前62年完成、2080歳と恐るべき超高齢でありながら、歩道橋として現役で活躍しているとは恐れ入ります。

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ファブリチオ橋は、チェスチオ橋とセットの橋で、橋長は62mの2支間の橋でした。

以下、Wikipedia・・・

ファブリキウス橋(ラテン語: Pons Fabricius,イタリア語: Ponte Fabricio ファブリチオ橋)は、イタリア ローマのテヴェレ川に架かる橋で、ティベリーナ島とテヴェレ川左岸のカンプス・マルティウスを結ぶ橋[1][2]である。現存する最も古いローマの石造アーチ橋で、紀元前62年[1][3]に架橋された。クアトロ・チャピ橋(イタリア語: Ponte dei Quattro Capi)とも呼ばれており、橋の両端の胸壁(パラペット)にヤヌスとヘルマの四面の頭部を持つ石柱が4本建てられていたことから名付けられた。この石柱は、14世紀に近隣のグレゴリオ・デッラ・ディウィナ・ピエタ聖堂(英語版)に移設[4]された。
ローマ帝国の政治家であり歴史家のカッシウス・ディオの著作によれば、キケロが執政官を務めた翌年の紀元前62年に、それまでここにあった木造橋が焼け落ちたため、再建したのが現在のファブリキウス橋であるという。この橋は道路長官のルキウス・ファブリキウスの監督[1]により建造されたため、ファブリキウス橋と呼ばれた。紀元前23年の洪水で被害を受け、紀元前21年に修復された[1]が、建設以来、現在まで現役で利用されている。
橋の全長62m、径間24.5m[5]と24.25m[1]、幅5.5mのファブリキウス橋は、コア部分はトゥファ(沈殿岩)を用いており、表面の化粧板は大理石とトラバーチンを用いている。2つのアーチの間にある小さな孔は、橋の重さを軽くするとともに、洪水時にこの孔に水を流すことで橋に作用する水圧を逃がすためのもの[3]である。現在は歩行者専用橋として使われている。

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(出展 Wikipedia)


19時を過ぎて、陽が陰ってきました。ガルバルディ橋の上流にシスト橋、バチカンのドームが見えました。シスト橋の真ん中の橋脚にも大きな円形の穴が開いていました。


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工事看板には工事金額や工期が記載されていました。工事内容は、イタリア語が不如意につき不明、写真から判断すると、テヴェレ川の維持管理業務?

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テヴェレ川河畔のプラタナス道路を歩いて、来た道を戻りました。

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再び、マルケッス劇場に戻ってきました。神殿跡の広場でコンサートが定期的に行われているとか・・・

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テアートロ・ディ・マルチェッロ通りの坂道を登ってホテルに戻りました。道の向こうにランドマークのヴィットリアーノが見えてきました。

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ヴェネツィア広場まで戻ってきました。

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カエサル像・・・フォロ・ロマーノの脇で見たものとは別のカエサル像でした。

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フォリ・インペリアリ通りの向こうにコロッセオが見えてきました。

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ふりかえり見たヴィットリアーノ・・・夕闇が迫ってきました。


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20時前、コロッセオまで戻って来ました。コロッセオは人気のホットスポット、もうすぐ陽が落ちるこの時間でも沢山の観光客を集めていました。

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ホテルをやり過ごして、メルラーナ通りのトルコ料理店でケバブの夕食(6ユーロ:780円)にしました。まずまずのお味でした。この日のローマは晴れて暑かったです。コーラ(1ユーロ:130円)が体に染み渡りました。

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21時、ホテルに戻りました。5時間の街歩きが無事終了しました。
当日の日記をフェイスブックにアップしました。この日は朝早くフィレンチェのリングを歩いて、新幹線でフィレンチェからローマまで移動、街歩きをした訳で、結構、ハードな行程になりました。


4月29日(日)ローマは晴れ、暑い。
「赤い矢」9419号は定刻14時10分にローマ・テルミニ駅に到着しました。イタリアの新幹線はドイツの新幹線ICEより速い感じですが、その分、意外にも揺れがあり、メモ帳の字が震えました。沿線は新緑で文句なしに素晴らしかったです。
駅で地下鉄・バスの1日券をすんなり買えました。これまで駅で切符を上手く買えたためしがなかったので、嬉しかったです。
ローマは300万の大都市でありながら、地下鉄が2本しかないのは意外でした。B線のコロッセオで下車してホテルまで歩きました。駅を出るといきなりコロッセオでした。
15時にホテルにチェックイン。16時から街歩きを始めました。
コロッセオ、フォロ・ロマーノ、ヴェネティア広場、テヴェレ川を歩きました。「ローマは1日してならず」という言葉がありますが、2000年を超える歴史や文化が集積した迫力に圧倒されまくった感じです。テヴェレ河畔も文句なしの素晴らしさでした。
21時にホテルに戻りました。明日もローマの街歩きをします。

翌日もローマの街を歩きました。
以下次号・・・

by camino0810 | 2018-12-10 16:33 | イタリア | Comments(0)