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2018年5月2日(水)イタリア その53 バーリ(2)

高速バス、プルマンは定刻10時45分にナポリ中央駅のバスターミナルを出発し、ナポリの新都心を後にしてバーリに向かいました。

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ナポリ市街地の高架道路を走りました。

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ヴェスビィオ山ともこれでお別れです。

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高速道路のランプが見えました。

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この大きな山は多分、パルテニオ州立公園の山、名前は不明。

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露天掘りの鉱山が見えました。

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プルマンは高速の料金所で一時停止。ナポリの高規格道路は都市内高速道路と都市間を連絡する高速道路の2種類、東京の首都高と東名や東北道の関係と似たような感じです。

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赤白のバーはETC用のバーだと思います。腕木に設置された頭上のカメラで赤白のバーを制御している感じです。赤白バーのないレーンもあるので、この料金所はETCと現金支払い併用、日本と同じ。


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この高速はA16ではないかと想像します。これまで、イギリス、フランス、ドイツ、スロバキアなどで高速道路走行を経験しましたが、高速道路自体の構造についてはどの国も差異は感じません。
調べると、A16は、ナポリとカノーザ(バーリの手前)を連絡する主要高速道路、延長は170km、供用開始は1969年で、今年で50歳。東名は、その開通が1969年なので、A16と同年齢。インフラは人間に似て50歳を過ぎるとあちこちに不具合が出てきます。イタリアの高速も老朽化という重い課題をどのようにクリヤーするかその対応に迫られていると思います。
この高速の運営管理は『Autostrade per l'Italia SpA』社。2002年にできた民間会社で、同社の主要株主はベネトン一族。イタリアの高速道路は早々と民営化路線に舵を切って、コンセッション方式を採用していました。2018年8月、ジェノバのモランディ橋が崩落するという大惨事が起きました。この橋は同社が運営管理するA10の橋なので、同社の管理物件。イタリア国土交通省は同社への事故責任を激しく追求しているようです。


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沿線の眺めは文句なしに素晴しかったです。イタリアの住環境も文句なく素晴らしい感じでした。

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ピンクの屋根と壁の住居が目立ちました。やはり、イタリア人はピンク好きな国民かもしれません。

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丘の頂上に住居・・・毎日、素晴しい眺めに囲まれた生活は羨ましい限り。

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一面のブドウ畑・・・

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一面のブドウ畑の向こうに豊かな光景が広がっていました。またしても、丘の上には大きな街が・・

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出発して1時間くらい経ちました。既に100kmは走っているので、このあたりはイタリア半島の背骨あたりではないかと思います。

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文句なしの眺めでした。

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風力発電も盛んな感じです。

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出発して2時間が経過しました。アドリア海沿岸の平野に入った感じでした。一面のブドウ畑が拡がっていました。

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出発して1時間40分経過、プルマンはA16の料金所を出ました。

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プルマンは、別の高速(多分、A14だと思います)に乗り換えて、バーリに向けて走りました。

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ビール工場?と送電鉄塔・・・バーリは南イタリアの主要工業都市、「Peroni(ペローニ)」はこれまで歩いてきた街々でよく販売されていました。
以下、wikipedia・・・

ペローニ (イタリア語: Birra Peroni)はイタリアのビール醸造会社。1846年にロンバルディア州のヴィジェーヴァノで創業され、2016年時点ではアサヒグループホールディングス社の傘下となりローマに本拠地を置く。
ペローニ社の主力商品はアルコール度数4.7%のペールラガー「ペローニ」と、度数5.1%のプレミアムラガー「ナストロ・アズーロ」である。「誰でも手軽に飲める」をコンセプトに低価格路線を採っているため、味もそれなりという批判もあるが、ピッツァのようなファーストフードには合うこともあって、イタリア国内のビール消費量ではトップクラスである[1]。


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13時40分、バーリの市街地に入りました。

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定刻13時45分にプルマンはバーリ鉄道駅の駅裏に無事到着しました。イタリアは鉄道、バスとも予想以上に正確な運行をする国で、正確さはドイツ以上かも知れません。

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40Lのバックパックと30Lのデイパックを抱えて、予約した駅前のホテルまで歩きました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2019-01-24 12:12 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月2日(水)イタリア その52 バーリ(1)

この日は、ナポリ中央駅のバスターミナルで高速バスに乗ってバーリに行きました。朝8時、ホテルの朝食はビュッフェ形式、青物野菜がないのはローマのホテルと同じでした。

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(出展 Google)

バスは10時45分発、時間はたっぷりとあるので、朝食を終えて、ベランダに出てみました。ホテルのベランダから見た中庭の様子にナポリの生活の一端を垣間見ることができました。洗濯物がベランダからぶら下がっているお馴染みの光景・・・駅に近い都心の1等地に住んでいるナポリの人たちは日本人の自分から見ると、なんとも幸せな人たちでもあります。

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中庭には所せましと車が駐車していました。都心に車が持てる状況も恵まれています。但、車の出し入れは相当なテクニックが要りそうです。

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イタリアの建物はこの緑のシャッターが目立ちました。板状の部品の一斉角度調整で採光が調整できる仕組みでした。

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ホテルのお向かいのアパートは1階が店舗階、2階以上が住居階。このパターンがナポリの建物の基本ルールみたいです。

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ホテル前のフィレンツェ通りは、ちょうど朝の通勤時なので車のラッシュとクラックションで随分騒々しかったです。一昔前の日本もこうだったのでしょうか。ナポリは不思議なエネルギーを感じる街でした。

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ホテルの部屋は随分と広い赤い部屋でした。

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10時、チェックアウト。少しおっかないボローニャ通りも明るいうちは平気です。ここを通り抜けてバスターミナルへ。

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ナポリ中央駅でイタリア入りして3回目のキャッシング、空っぽの財布に現金を補填して一安心。昨日の椿事で仮にクレジットカードを入れていた財布を掏られていたら、大事でした。自分にとって海外旅行のマストアイテムは、パスポート、クレジットカード、少額現金の3つ。この3点セットが揃っていれば、トラブルがあってもなんとかなります。これ以降、尻ポケットの使用禁止など危険分散を図りました。
これから、プルマンと呼ばれる長距離バスに乗って、バーリに向かいます。ガリバルディ広場も見納めです。

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バスターミナルはすぐでした。写真右手の青いバスは2階建て。先頭部分の2階席の眺めは文句なしに良さそうです。


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イタリアの高速バスは、バックミラーが犬の耳型のバスでした。

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昨日ここの切符売り場で切符を購入しました。指定席に着席して発車を待ちました。

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プルマンは、定刻10時45分に発車。目的地のバーリ着は13時45分、途中停車はありません。走行距離は概ね300km、所要時間は3時間。平均時速100kmとは恐るべき高速走行、料金も14ユーロ(1800円)と恐ろしくリーズナブル。ガリバルディ駅前広場ともお別れ。

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コルソ・ノヴァーラ通り・・・狭い道路が多いナポリにあって珍しく幅広の大通り。

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アクイラ通り・・・建物のスカイラインへの拘りを感じます。

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中国系のお店ですが、漢字の解読が困難でどんな商売をやっているのか、さっぱり見当が付きません。何となく旅行代理店のようにも思います。


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プルマンはナポリ中央駅の北側の道路を走ってICを目指しました。中央駅の北側にピカピカのオフィス街が現れました。

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昨日半日を掛けてナポリの古めかしい旧市街を歩いた自分には驚きの光景でした。

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調べると、チェントロ・ディレツィオナーレ・ディ・ナポリ(Centro Direzionale di Napoli)はナポリの新都心で、この都市計画は丹下健三が担当していました。丹下はボローニャの都市計画も担当していました。もしかしたら、旧市街の北にあるオフィス街(国際見本市)かもしれません。
ナポリの新都心の開発面積は110ha、1982年計画完了、1985年着工、1995年完成。1960年代半ばに衰退した工業地帯の跡地利用でした。イタリアを含む南ヨーロッパで建設された最初の高層ビル群だとか。市内中心部の交通混雑を解消する目的もあったそうです。そういえば、ミラノのミラノ・ポルタ・ガリバルディ駅前に高層ビル群がありましたが、ナポリの方が先輩格だということになります。
東京の汐留、西新宿、品川駅前などの新都心と似たような感じで、使用されなくなった都市インフラを別の都市インフラに置き換えるのは、どこの国も同じ。再開発のポイントがまとまった土地が割と簡単に手に入ることも万国共通のようです。

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(出展 Google)


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(出展 wikipedia)

プルマンはナポリの郊外で高速道路に入ってバーリを目指しました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2019-01-21 19:07 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月1日(火)イタリア その51 ナポリ(6)

19時、トリブナリ通りとドゥオーモ通りの交差点まで来ました。ドゥオーモ通りは2車線の幅広の道路でした。

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ナポリ大聖堂(Cattedrale di San Gennaro)は交差点からすぐでした。大聖堂は、上空から見ると十字架の形をしていました。その方位は少しずれてはいましたが、ファサードが西面、祭壇が東面にあるなど、大聖堂のルールが適用されていました。

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(出展 Google)

この大聖堂はナポリの守護聖人ジェンナーロを祭る司教座教会。シチリア王カルロ1世の命で13世紀末に建設が始まり、14世紀初めに完成。19世紀にファサード部分が改築されました。瓶に入った聖ジェンナーロの血が液化するという奇跡で知られ、5月と9月に盛大な祭りが催されるそうです。建築様式はゴシック様式、ルネッサンス様式、バロック様式、ネオゴシック様式の混合様式。この大聖堂は1349年、1688年、1732年の地震で被害と修復を繰り返していました。
大聖堂は、5世紀からこの場所にあった初期キリスト教の教会を壊して建造されたそうです。大聖堂は中世以降街のヘソでした。14世紀の欧州も教皇と国王のダブルスタンダードの世界だったはず、ナポリの支配者アンジュー家も大聖堂の建設に異論はなかったようです。


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内観は時間がないのでスルー。壮麗な祭壇をネットから転載しました。

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(出展 Wikipedia)

トリブナリ通りに戻って、ナポリ中央駅に向けて歩きました。

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午後からずっと歩きまわってきたので、夕食の場所を探していました。結局、ナポリ大聖堂の裏庭広場のレストランに決めました。この広場のオープンカフェの気分がなんかナポリの家庭的な下町の気分に溢れるいたからでした。

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大聖堂の裏側は、ピカピカの白いファサードとは真逆の、使い古された親しみを感じる気分がありました。着慣れてくたくたになった古着みたいな気分がいいなと感じました。

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「カラヴァッジョ」というお店でした。お店の案内は「建物内に食堂あり」という意味合いでしょうか。イタリア語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語の順。

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このレストランは家族経営で、40代の快活で精力的なご主人(お店の入り口に立っているエプロン姿の男性)が社長兼注文取り兼会計担当、一家の大黒柱という感じでした。オカミさんは、控え目な感じで料理運び担当、ご主人を支える役割に徹している感じ。ひと昔前の日本の働き者夫婦という気分を感じました。

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オーダーしたパスタは、6ユーロ(780円)のナポリターノ。太目のパスタにコンビーフ入りのトマトベースのソースを絡ませていました。シンプルですが、モッチリした独特の歯ごたえがあって実に美味かったです。ビール込みで10.5ユーロ(1400円)。

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自分の隣のテーブルで子供たちが無邪気に遊んでいました。母親連中がたむろして遠くから子供たちを見守っていて、何かナポリの下町情緒がタップリ感じられました。

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20時、食事を終えて再びトリブナリ通りを歩きました。

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スパッカナポリの終点、カプアーノ城が近づいてきました。

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窓から盛大に洗濯物が干されていました。

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サンタ・カテリーナ・ア・フォルミエッロ教会(Chiesa di Santa Caterina a Formiello)は、古代ギリシア時代の城壁跡カルボナーラ通り沿いの教会、ルネッサンス様式の教会、着工1505年、完成1593年。

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この教会脇にカプアーナ門(Porta Capuana)が建っていました。カプアーナ門は、古代ギリシア時代の城門。

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(出展 wikipedia)

カプアーノ城は、「スパッカ・ナポリ」の東の端にある、白い壁が延々と続く大きなお城でした。
古代ギリシア時代の城壁跡カルボナーラ通りの内側(南側)にあるので、ナポリ旧市街を外敵から守る重要な要塞だったのではないかと思います。スペイン統治時代の1656年、ナポリは、40万の人口を抱えた大都市でした。同時期、明暦の大火(1657年)当時の江戸は人口80万(武士50万、町人30万)と言われており、ナポリは世界的にも巨大な都市だったことが判ります。

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陽が落ちて、壁面のバロック様式のモニュメントがライトアップされていました。

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カルボナーラ通りをガリバルディ広場の方へ歩いて行きました。


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20時、暮れなずむガリバルディ広場まで戻ってきました。向こうにヴェスビオ山が見えていました。この日は14時からナポリの街歩きを始めました。この広場でスマホを掏られる災難に遭いましたが、6時間の街歩きでナポリの定番の観光スポットを無事に回れました。定番の地図アプリ「Google Map」というマストアイテムを失いましたが、これ以降、地図と住所を頼りに旅行を続けることになりました。

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当日にフェイスブックにアップした記事・・・・

5月1日(火)ナポリは曇り後晴れ、暑い。
「白い矢」8873号は定刻11時57分にナポリ中央駅に着きました。駅前のホテルに12時過ぎにチェックイン。13時30分からナポリの街歩きを始めました。
ナポリは、何とも形容しがたい不思議な魅力に溢れた素晴らしい街でした。今日はイタリアもメーデーでお休み、お祝いやデモがありました。駅前の大通りを港方向に歩きました。サンタ・ルチア港からベスビオス火山が綺麗に見えました。銀座中央通り相当する?トレド通りは恐ろしいくらいの人出、年末のアメ横以上でした。
スパッカ・ナポリと呼ばれるナポリの下町で夕食にしました。ドゥオーモの裏手の広場の屋外レストランは、無邪気に遊ぶ子供たちを遠くから母親連中が見守っていて、何かナポリの下町情緒がタップリ感じられました。オーダーしたパスタは、6ユーロのナポリターノ。太目のパスタにコンビーフ入りのトマトベースのソースを絡ませていました。実に美味かったです。
20時にホテルに戻りました。実は14時過ぎに駅前広場でスリに遭い、スマホを抜き取られました。40前後の男性が自分のズボンの裾をいきなり触ってきました。そちらに気をとられている隙に別の人間が抜き取ったようです。イタリアは要注意と思い警戒していましたが、被害にあってショックでした。
大事なコンパスを無くしたので、明日からの苦戦が予想されますが、財布を抜き取られなかったのが、不幸中の幸いだと思っています。
明日は、バスに乗ってイタリア半島の踵にあるバーリに向かいます。

翌日、イタリア半島を横断してアドリア海に面した港湾都市バーリに向かいました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2019-01-20 10:59 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月1日(火)イタリア その50 ナポリ(5)

トレド通りは、ナポリ旧市街の西の端にある南北1.5kmメーン通り、一番北のダンテ広場まで来ました。

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この広場は、詩人のダンテ・アリギエーリ(1265~1321)にちなんだ広場で、ダンテの像が建っていました。ダンテは、日本の鎌倉時代に生きた人で、フィレンツェ出身の詩人、哲学者、政治家。ボローニャ大学出身、著名な作品は『神曲』など。

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ダンテ広場の建物は中央の時計台と左右の円弧状のウィングのポルティコ(柱廊)で出来ていました。プレビシート広場のサン・フランチェスコ・ディ・パオラ聖堂と何となく似た感じでした。

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この建物の北側に接した古めかしい門を潜り抜けました。この門の東側からガリバルディ広場までのゾーンは「スパッカ・ナポリ」と呼ばれていました。「スパッカ・ナポリ」はナポリの歴史・文化地区であるとともにディープな下町でした。延々と続く狭い路地の脇に沢山の教会があり、最もナポリらしさを感じた一帯でした。

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(出展 Google)

門を潜り抜けると古本屋街でした。

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サンテグジュペリの「星の王子さま」は5ユーロ(650円)。オリジナルのフランス語の題名は「小さな王子」、イタリア語訳も「小さな王子」、最近、日本でもこの「小さな王子」が使われるようになりました。

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建物の1階部分に穴を開けて通路にするやり方は欧州のあちこちで見掛けました。ナポリも例外ではありません。サン・ピエトロ・ア・マイエッラ通りではアパートの1階に大きな開口を設けていました。日本にはないやり方です。

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サンセバスティアン通りの坂道。この道はかつて古代ギリシア時代の城壁だったとか。

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サンタ・マリア・ディ・コスタンティノポリ通りを少しだけ歩いてみました。

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サンタ・マリア・ディ・コスタンティノポリ通り沿いに、ベッリーニ広場という広場がありました。ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801~1835)は、シチリア出身の作曲家。ロッシーニやドニゼッティとともに「ベルカント・オペラ」と称される19世紀前半のイタリアオペラを代表する作曲家。父親も祖父も音楽家であり、音楽を学ぶ前から作曲を始めたという神童だそうです。それはそれとして落書きはいけません。

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ベッリーニ広場には古代ギリシア時代の遺構が保存されていました。調べると、ローマと同程度の歴史を持つナポリにも城壁がありました。これまで観て来た、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマには、はっきりとしたリング(城壁)やその痕跡、城門が残されていましたが、ナポリではその痕跡を発見できませんでした。

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これまで歩いてきたイタリアの主だった都市の町割りをまとめると、ローマは芯が沢山ある多芯構造、ミラノ、フィレンツェ、ボローニャは芯がひとつの単芯構造といった感じです。芯とは大聖堂とその前の広場で、芯から道路が放射上に形成され、リング状の城壁で旧市街が囲まれるという構造でした。ナポリは敢えて言うと、芯がない無芯構造みたいな感じがしました。確かに、ナポリ大聖堂という芯はあるものの、広場や放射状の道路はありません。
ナポリの町割りがこれまで観て来た街に比べて判りにくいのは、ナポリが様々な外国人による長い支配を受けてきた歴史に関係しているように思います。新支配者が旧支配者の痕跡を消去するのはよくあること。しかも支配者が別の国の外国人だとその消去もより徹底した可能性があるのかもしれません。歴代の外国人支配者による破壊と創造の繰り返しの結果、芯が曖昧になっていったのではないかと考えてみました。
調べると、ナポリのリング(城壁)は、古代ギリシア時代から存在していて、その直径は概ね1.5kmと小振りでした。古代ギリシャの時代の初期の城壁は北辺がフォリア通り、南辺がウンベル1世大通り、西辺がサン・セバスチアーノ通り、東辺がカルボナーラ通り。リングはこの4本の通りに囲まれた四角形。「スパッカ・ナポリ」はこのリングで囲まれたナポリの街で最も古い旧市街の一帯を指すのではないかと思います。
その後、城壁はポンペイを滅亡させた西暦79年のヴェスヴィオ山の噴火による難民を収容するために拡大されたとか。市街地の拡大に従って城壁が次々と壊され、その替わりに、カプアーノ城、ヌオーヴォ城、卵城、高台のサンテルモ城などの要塞が建設されたのではないかと考えてみました。現在の大通りが城壁だったのは、これまで観て来た他の街と似ていました。
ナポリは古代から貿易港としての価値が高い街なので、海に面したヌオーヴォ城、卵城は関税の徴収所や海賊からの防衛基地としての役割もあったのでは。

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〔初期のナポリのリング(城壁) Googleに加筆〕

トリブナリ通りを歩いていくと、左手に大きな広場があり、大きな教会が建っていました。
サンタ・マリア・マッジョーレ教会は、初期のキリスト教の教会として6世紀に創建、現在の教会は1653~1678年にバロック様式で再建されました。Googleの3Dでは教会は足場で覆われていましたので、見学したこの時は補修工事完了まじかということになります。

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ファサードはシンプルですが、確かにバロック建築の曲線模様も入っていました。現在は博物館になっていました。ミラノでは歴史的な建造物を民間会社がオフィスとして運営した事例を見ましたが、ここでは、教会の建物の維持管理を博物館が行っているのかもしれません。


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トリブナリ通りは、スパッカナポリの中心を東西に走る幅5m程度の路地裏通りでした。古い教会、酒屋、パン屋、食料品店、お土産屋、雑貨屋、花屋、レストランや古いアパートがごちゃごちゃと共存している路地裏通りの光景は何とも独特。これが、ナポリの真骨頂なのだろうと思いました。とにかくこの路地裏通りを歩いて、ディープなナポリが体験できて良かったなと思います。

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脇道のサン・パオロ通り・・・道幅4m程度の路地裏通りに両脇の建物が迫っていて、洗濯物が干してありました。

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しばらく歩くと、左手に別の教会がありました。
サン・パオロ・マッジョーレ教会は、サラセン人からの勝利を祝うために、8世紀~9世紀の間に建てられ、建築様式はバロック、1538年~1630年に改築。この教会もGoogle3Dでは足場で隠れていました。この時は補修工事が完了した、ピカピカの状態だと思います。サンタ・マリア・マッジョーレ教会と似たような名前とファサードを持つ教会でした。


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サン・ロレンツォ・マッジョーレ教会は、トリブナリ通りを挟んでサン・パオロ・マッジョーレ教会の反対側にありました。建築様式は、鐘楼がゴシック様式、ファサードがバロック様式。着工は1235年、完成18世紀と500年近い工期を掛けて造り上げた教会。


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(出展 Wikipedia)

トリブナリ通りの両脇には5~6階建ての建物がびっしり並んでいて、ベランダから洗濯物を干していました。生活感に溢れた活気のある通りで、建物の1階がお店、2階以上はアパートでした。スパッカナポリ地区は、ナポリの都心にある職住近接の好立地でした。東京の下町に似て、道幅が狭いので消防車は入れません。心配事は火事とたまに起こる地震でしょうか。


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幅3mの脇道は、窓から手を伸ばすと届きそうな狭さ。

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スパッカ・ナポリは実に不思議な街でした。この地区内には他にも沢山の教会がありました。教会とアパートが軒を接する、ごちゃごちゃしていた猥雑さが独特の気分を出していました。何故、教会を集中させたのか?教会と民間の建物が隣り合っているのか?
相当無理筋ですが、こんなシナリオを考えてみました。
「スパッカ・ナポリは、もともと城壁で囲われた「安心・安全」で手狭な地区だった。日本には、コアとなる寺院の周りに沢山の小さな寺院を配した寺町が沢山ある。ローマ教会は、この寺町みたいに、この場所に司教座教会となるミラノ大聖堂を配置し、その周囲に教会を沢山集中させた。その結果、日本の門前町のように、教会に参拝客が沢山集まった。多くの参拝客を相手にする商工業者も集まるようになった。人が増え手狭になったので、教会の脇に住居や店舗を建てるしかなかった」

引き続き、ミラノ大聖堂を目指してトリブナリ通りを歩きました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2019-01-19 12:37 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月1日(火)イタリア その49 ナポリ(4)

17時、サンタ・ルチアに到着。サンタ・ルチアは、ナポリ湾を一望できる美しい港湾地区。ここからヴェスビオ山が綺麗に見えました。ナポリの日暮れは20時、街歩きの時間が段々少なくなってきました。

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サンタ・ルチア港にある「卵城」を目指して、海岸沿いの道を歩きました。

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(出展 Google)

火曜日であっても、海岸通りは恐ろしい人混みでした。

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「巨人の噴水」というモニュメントは17世紀の作品、プレビシート広場から移設されたそうです。何故、巨人らしき像が見当たらないのに巨人なのかと不思議に思いましたが、かつてこのモニュメントがプレビシート広場にあった巨人の像のお隣にあったのでこの名前が付いたとか。

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中央のアーチには2匹の海の生き物によって支えられている杯があり、両サイドのアーチには彫像が建っていました。蛇みたいな生物を手に持つこの彫像は「川」の神だとか。初めて「川」の神なるものを見ました。
そう言えば、日本の川の神とはどんな神なのでしょうか。確か、水神様は偶像みたいな具体の形がありません。古代ローマの神様たちは擬人化された人の形。日本古来の神道の神様たちは、鏡、石や木など。仏教の仏像は擬人化された人の形。それぞれに違っています。

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スマホのハードケースを売る屋台・・・この手の屋台はあちこちで見ました。

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卵城はサンタ・ルチア港の要塞、ナポリに5つある城の中で、一番古い要塞だとか。卵城という不思議な名前の由来は、城に埋め込んだ卵が割れる時、ナポリに災いが起きるという伝説にちなむとか。12世紀にノルマン人により要塞として建造された後、アンジュー家の時代には倉庫として使われ、続くスペイン支配時代には大砲を備えて要塞化が進められたそうです。なるほど、この要塞は窓の少ない、随分と不愛想なお城でした。

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Googleの3Dでこのお城を見ると、城壁の高さは20mを超える難攻不落の巨大な要塞でした。籠城戦の時などに、水をどうやって確保したのか・・・。

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(出展 Google)

大勢の観光客に混じって、旧市街に引き返しました。

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この界隈は高級ホテル街という気分でした。クラシックな横目地の建物が軒を揃えてずらりと並んでいました。多分、五つ星クラスでしょう。

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王宮はすぐでした。王宮は17世紀スペイン統治時代に造られたそうです。内部は王宮博物館になっていて、南イタリアの首都として君臨したナポリ宮廷の歴史を物語る豪華な部屋や絵画、調度品が展示されているとか。この建物のファサードの淡いピンクもしっとりとして落ち着きを感じます。

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王宮前のプレビシート広場は式典の片づけ中でした。今日はメーデーなので大きなイベントがあったようです。この広場は150m×150mの石張りの大きな広場でした。広場正面のサン・フランチェスコ・ディ・パオラ聖堂(1816年起工、1846年完成)も、大きくて立派な建物でした。ファサードとドームはローマのパンテオン、左右のウィングはサン・ピエトロ大聖堂のポルティコ(柱廊)に良く似ていました。新古典様式の建物とかで、この様式の建物にはそのような流儀があるのだろうと思います。この聖堂は、1814年~1815年のウィーン会議でブルボン家が両シチリア王に復位したことを記念して建てられた建物。ナポリの大衆から見ると反動的な王政復古の象徴であり有り難くない存在、ナポリの人たちはひたすら堪えてガリバルディの到来を待っていたことになります。

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ナポリ旧市街の核心部、トレド通りの入り口まで来ました。

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噴水広場の向こうのピンクの建物はサン・カルロ劇場・・・この建物は現在補修中、仮囲いに建物の写真シートを使っていました。ローマでも同じような光景を見ました。観光大国イタリアの流儀かもしれません。

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この劇場のお隣には、「ウンベルト1世のガッレリア」がありました。事前勉強不足でスルーしてしまいました。ミラノのドゥオーモ広場には父上の「エマニュエーレⅡ世のガッレリア」があります。通路上にガラスのドームを設置したアーケードで、空から見ると十字架の形状をしているなど、設計のコンセプトは全く同じと考えていいようです。

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(出展 Google)

調べると内部はこんな感じ、ミラノのガッレリアと良く似ています。

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(出展 Wikipedia)

火曜日でありながらトレド通りは半端ない混雑ぶりでした。路面が見えないほどの人の波・・・上野のアメ横以上という感じでした。街歩きの時点では、5月1日のメーデーがイタリアは祝日(Festa del Lavoro:労働者のお祝い)とは知りませんでした。そういえば、ナポリ中央駅前で赤旗のデモ隊に遭遇しました。イタリアは労働者の権利が強い国なのかもしれません。欧州のほとんどの国が5月1日を国民の祝日に決めていたとは知りませんでした。祝日にしていない日本は世界的に見ても珍しい国、その日本人の自分が気付かないのは当然の結果。
2013年、フランスの地方都市ツールに行った時、お店がほとんど閉まっていました。その日はちょうど日曜日でした。労働者はキリストの教えに従って安息日の日曜はきっちり休むのが彼らの文化。ただ、欧州の主だった観光都市などは祝日であっても観光用のお店は開いているのが普通だと感じています。これまでお店が休みで困ったというという経験はありません。

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トレド通りの南半分は、4m幅の1車線の車道、両脇が4mの歩道でできた12m程度の狭い通りでした。高級店も沢山並んでいて、東京の銀座中央通りといった感じでした。どちらかと言うと、クラシックな横目地の建物が中心で、建物のスカイラインは揃っていました。この日は休日ということで混雑していましたが、Googleのストリートビューで見ると石畳の路面がよく見えました。南側のトレド通りは、1車線で一方通行の車道なので、歩行者天国的な使い方かもしれません。なんとなく人中心の道路という感じです。

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照明灯には灯が入っていました。

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トレド通り脇の路地はせいぜい5 mくらいの道幅しかありません。この狭い路地裏通りにカフェのテーブルが目一杯張り出していました。如何にもナポリらしさを感じさせます。

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ナポリ銀行前・・・

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地下鉄1号線のトレド駅まで来ました。

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ポヴィオ広場に繋がる通りは幅広の大通りでした。

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路地裏通りのはるか先の高台にサン・マルティーノ国立博物館という建物が見えました。

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カリタ広場まで歩いて来ました。

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タバコ屋さん、20本入りで5.5ユーロ(720円)。日本より割高でした。

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カフェテラスで一休みしました。エスプレッソは2ユーロ(260円)。

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トレド通りに面した教会に入ってみました。サン・ニコラ・アッラ・カリタ教会(Chiesa di San Nicola alla Carità)は、1647年着工、1682年完成のバロック式の教会。

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バロック式の建物のファサードは、確かに曲線を多用した装飾の多い建物でした。バロック様式とは、日本の江戸期に欧州で流行した建築様式だとか。

16世紀から18世紀初頭にかけてヨーロッパ各国に広まった美術・建築・文化の様式。曲線や楕円が多く用いられ、豪華な装飾が特徴。建築では、バチカン市国のサンピエトロ大聖堂やフランスのベルサイユ宮殿が代表的。◇「バロック」は、過剰な装飾を比喩したポルトガル語「barroco(歪んだ真珠)」の転とされる。

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(出展 Wikipedia)

静かでおごそかな堂内のベンチに腰掛けて一休みしました。

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祭壇のフレスコ画には聖書から引用したと思われるような場面が描かれていましたが、宗教画の知識に乏しい自分には理解不能・・・

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教会を出て、トレド通りを北に歩きました。

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来た道を振り返りました。ピンクの建物も目立ちました。

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ダンテ広場はすぐでした。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2019-01-16 23:01 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月1日(火)イタリア その48 ナポリ(3)

15時30分、気分を切り替えて、ナポリの街歩きを再開しました。ナポリは、100万の人口をもつ、ローマ、ミラノに次いでイタリア第3位の大都市。ナポリの歴史はBC7世紀の古代ギリシアの衛星都市から始まっていました。ナポリはローマと同程度の長い歴史を持った都市だということになります。
先ずはナポリ中央駅のガリバルディ広場から海沿いの大通りを歩いてヌオーヴォ城を目指しました。

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(出展 Google)

イタリアを代表するミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマを北から順番に歩いてきました。その街の歴史・文化について一定の知識があると、その街の理解がより深まるように感じました。
ナポリの歴史や文化を地球の歩き方(2018~2019)から引用しました。

「明るい太陽、狭い石畳、はためく洗濯物。お調子者でも憎めないナポリ男に、情け深く、たくましいナポリ女。善くも悪しくもイタリアとイタリア人が凝縮された町、それがナポリだ。・・・したたかで、ウィットとユーモアに富んだナポリっ子気質は、町の歴史を抜きにしては語れない。古代ギリシア時代からイタリア統一までの2000年、ナポリはヨーロッパのおもな人種に支配され続けた。入れ代わり立ち代わり変化した支配者たちと、うまく付き合う知恵のなかから、ナポリっ子の処世術が生まれたことは間違いない。ときには、権力に屈しながらも、それぞれの体制のなかで、巧みに庶民の知恵を生かして生き抜いたのが、正真正銘のナポリっ子だ・・・」

同書にはナポリの歴史も記載されていました。この歴史を読むと、ナポリが主権国家として輝いていたのは、ナポリ公国の8世紀から11世紀のおよそ300年間。それ以降800年に亘り外国人の支配下に入りました。ヴィトリオ・エマヌエーレ2世によるイタリアの統一が1870年に完成し、ナポリは主権国家として復活しました。ヴィトリオ・エマヌエーレ2世と彼を支えた3人の英雄の名前をナポリを含めてイタリア各地で見掛けたのは尤もなことだと思います。

「美しい自然環境と温暖な気候に引かれて古代ギリシア人がやって来たのは紀元前7世紀。ナポリの名前はギリシア語の新都市(Neapolis)が語源。その後、紀元前4世紀には古代ローマの支配下におかれた。アウグストゥス、ネロなどの皇帝にとってナポリはお気に入りの避寒地であった。ローマ帝国の衰退とともに、北方からの侵略が始まりゴート人、ロンゴバルト人などに支配された。落ち着きを見せるようになるのは8世紀の中頃から11世紀まで、ナポリ公国がここを首都と定めたため。12世紀になると北フランス出身のノルマン人の王が治めるシチリア王国に併合される。以後、ドイツのシュワビア家、フランスのアンジュー家、スペインのアラゴン王国の支配下におかれた。たび重なる外国支配による、さまざまな文化の摂取は、ナポリに独自の文化をもたらした。特筆すべきはバロック芸術」

ガリバルディ広場から南方向に海に抜けるガリバルディ大通り・・・下層階が横目地、上部階がモルタル壁の6階建ての建物が軒を揃えていました。

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路地裏は生活感が溢れるナポリらしい光景・・・洗濯物を外で干しても良いルールがあるようです。

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ガリバルディ広場の西側の褄の部分・・・・向かって一番左側のウンベルト1世大通りをナポリ港に向かって歩いていきました。

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ナポリ中央駅の駅前広場の名前にもなっているジュゼッペ・ガリバルディとは如何なる人物か・・・気になりました。
以下、Wikipedia・・・

ジュゼッペ・ガリバルディ(イタリア語: Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)は、イタリア統一運動を推進し、イタリア王国成立に貢献した軍事家である。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばれ[1]、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人とされる。
1860年、千人隊(赤シャツ隊)を組織してシチリアの反乱を援助し両シチリア王国を滅ぼした。その後、征服地をサルデーニャ王エマヌエーレ・ヴィットーリオ2世に献上してイタリア統一に大きく貢献した。その後は政治家となることなく、余生をカプレーラ島で送った。

ガリバルディ広場の西側にガリバルディの像が建っていました。
引用文中の「両シチリア王国」は当時のイタリアの南半分とシチリアを治める王国で、保守反動的な体制を持ち、首都はナポリ。ガリバルディはこの「両シチリア王国」からナポリを解放した英雄だったということだと思います。生き方も含めて魅力あふれるキャラクターの持ち主だったようです。

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ウンベルト1世大通りは4~6階建ての横目地の建物が軒を揃えていました。ナポリのメーン通りに付けられた名前なので調べたら、ウンベルト1世はヴィトリオ・エマヌエーレ2世の子供でイタリア王国の第2代国王でした。

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ウンベルト1世大通りの路地の奥に城門が覗いていました。多分、ノラーナ門だと思います。

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別の路地裏通り・・・

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ニコラ・アモーレ広場までやってきました。工事中でした。ウンベルト1世大通りの真下には地下鉄1号線が走っています。

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ナポリ中央駅から次のポヴィオ広場の駅まで1.7kmもあります。この広場の真下に開削で新しい地下鉄駅舎を建設しているのではないかと想像します。イタリアに来て、地下の土留め工事を初めて見ました。切梁に鋼管を使う流儀がイタリア流、日本では鋼管ではなく型鋼を使います。そういえば、ポーランドのグダンスクでも鋼管の切梁を見ました。

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しばらく歩くと、横目地の灰色の建物が目に入りました。フェデリコ2世・ナポリ大学のファサードでした。この大学の創建は1224年、ボローニャ大学の向こうを張って設立された800年の歴史を持つ大学とは驚き。

以下、Wikipedia・・・

フェデリコ2世・ナポリ大学は1224年にローマ皇帝でありシチリア王でもあったフリードリヒ2世によって、教皇の保護下で繁栄したボローニャ大学に対抗して創設されることとなった。設立された当時は、高額な報酬を約束して著名な教員を招き、多くの学生が学びに来るように学生に対しても多くの特権を与えた。一方で大学は強力な国家統制の下に置かれ、大学の最高監督権は皇帝によって任命された国家のチャンセラー(書記官長)が有していたなど、大学が君主権力に完全に服属していたという点は教員主体のパリ大学、学生主体のボローニャ大学と対照的である。もっとも、当時のナポリ大学の中核を構成していたのはボローニャで学位を取得したシチリア王国出身の法学者たちであった。

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ポヴィオ広場まですぐの場所まで来ました。建物の風格が増してきた感じで、ナポリの中心部に近づいてきた感じです。

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ポヴィオ広場は風格の溢れる建物で囲まれた大きな三差路でした。中央にヴィトリオ・エマヌエーレ2世の騎馬像が建っていました。ミラノのドゥオーモ広場、ローマのヴィットリアーノで同じ騎馬像を観ました。イタリア三大都市のヘソに同じ人の同じ姿の像・・・・ヴィトリオ・エマヌエーレ2世の偉大な業績をイタリア人は忘れないようにしたいのだと思います。

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ヴィトリオ・エマヌエーレ2世・・・ 

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海沿いのアゴスティーノ・デプレティス通りを歩いて行きました。

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ヌオーヴォ城まで来ました。13世紀にフランスのアンジュー家の城が15世紀になってアラゴン家により再建された城。難攻不落の要塞みたいなお城でした。地元ではアンジュー家の城と呼ばれているそうで、ネイティブのナポリ人には複雑な思いがあったのでしょうか。

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ヌオーヴォ城前のムニチービオ広場では大きな工事が行われていました。ちなみに、イタリア人は水平ジブクレーン派、タワークレーン派はイギリスと日本だけ。

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Googleの3Dを見ると、大きな開削工事中でした。地下鉄1号線の駅舎もあるので、地下の複合施設でも造っているのでしょうか。

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ムニチービオ広場からナポリ港に向かいました。大きな建物はトレニタリア・マリッティマ駅はトレニタリア(イタリア国鉄)が経営する港湾駅でした。駅舎の左手には巨大なクルーズ船が停泊していました。

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大型フェリーの船着き場というにはあまりに立派な建物なので、駅という言葉が適切だと思いました。

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この駅のセキュリティーは厳格で埠頭への自由な出入りは禁止されていました。イタリア以外の欧州の鉄道駅はプラットフォームへの出入りは自由です。そんな気分で埠頭に行って船に近づこうとしましたが、駅のスタッフに止められました。駅構内から網越しに見た、埠頭に停泊した大型クルーズ船は「NORVESIAN EPIC」、ノルウェー船籍の大型クルーズ船でした。

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調べると、この船は超巨大クルーズ船でした。「EPIC号」は総トン数156,000t、全長330m、幅40m、乗客定員4,100名、乗組員数1,700名、巡行速度24ノット。2010年就航、2015年改装した最新鋭の観光クルーズ船でした。日本最大のクルーズ船「飛鳥Ⅱ」は、総トン数50,000t、全長240m、幅30m、巡行速度21ノット、乗客定員900名、乗組員数500名。1990年就航、2006年改装。

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(出展 Wikipedia)


2015年、大船渡に寄港した飛鳥Ⅱに体験乗船しました。動く巨大ホテルという印象でしたが、「EPIC号」は「飛鳥Ⅱ」4倍の超巨大船でした。最近、日本でもリーズナブルな観光クルーズが脚光を浴びてきたそうです。唯、受け入れ先の港の整備や肝心のクルーズ船の大型化や更新が遅れているという指摘もあるようです。

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(出展 Wikipedia)

ナポリ港には沢山の埠頭がありました。大きな水深、静穏な海、陸地へのアクセスの良さがあり、ナポリ港は古代ギリシア時代から天然の良港として栄えてきたようです。確かにナポリ港には河川が流れ込んでいません。河川は陸地から土砂を運んできて港を埋めていく厄介者、河川が流れ込む港は定期的な浚渫が必要です。
川がないナポリは港としては優れた立地であっても、都市用水の確保という面からはネックがあります。古代ローマは、都心から20km~60km離れた水源から水路トンネルや水路橋で都心まで導水していました。古代ナポリが水道問題をどう解決したのか興味深い課題です。もしかしたら地下水と井戸水でカバーしているのかもしれません。
トレニタリア・マリッティマ駅を後にして、埠頭に自由に出入りできるフェリーターミナルまで来ました。ヴェスビオ山と別の大型クルーズ船を背景に自撮りしました。

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海辺から見たヌオーヴォ城、大砲がない時代、聳え立つこの城を攻略するのは大変だったと思います。

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埠頭のピンクの建物は倉庫でしょうか。

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海沿いのモロジリオ庭園で一休みしました。

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この公園は王宮の裏側にありました。ナポリ人もローマ人と同様ピンクが好きな感じです。段々、落ち着いたピンク色は建物の色に合っているなと思うようになりました。

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モロジリオ庭園脇の坂道を登って、サンタ・ルチア港を目指しました。

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以下、次号・・・

by camino0810 | 2019-01-14 08:17 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月1日(火)イタリア その47 ナポリ(2)

フレッチャ・ビアンカ(白い矢)8873号は、定刻11時57分にナポリ中央駅に到着しました。

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(出展 Google)

駅前広場は広々としていました。ガリバルディ広場は長さ400m、幅150m。ガリバルディはイタリア建国の三傑ガリバルディだと思います。沢山のタクシーが客待ち状態でした。

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駅前のコルソ・ノヴァーラ通りは幅広の大通りでした。ホテルに行って、40Lのバックパックを預けて身軽になるのが先決、駅前に予約したホテルを目指して歩きました。

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驚きの光景に出合いました。武装した一団の後に赤い集団が続いていました。最近、欧州のあちこちでテロ被害が頻発しています。ドキッとしました。

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そういえば、この日は5月1日、メーデーでした。警察に先導された赤旗の一団をしばらく眺めました。ナポリは政治にも情熱を燃やす街なのかもしれません。

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フィレンツェ通り・・・ナポリでは建物のスカイラインへのは拘りを感じました。

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お目当てのホテルはボローニャ通りにありました。ホテルのお向かいの建物には洗濯ものが干されていました。このブロックには他にもミラノ通り、トリノ通り、パレルモ通りなどイタリアを代表する街が揃っていました。このブロックを歩けば、イタリア全土を旅行できます。イタリアもそうですが、欧州の住所は通り名で表記されるので、大通りは勿論小さい通りまでキッチリ名前が付いていました。

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12時20分予約したホテルにチェックイン。3つ星でした。玄関の国旗は右からベルギー、オランダ、不明、不明、イギリス・・・なんか不思議なホテルです。

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部屋に荷物を降ろして一休みして、13時40分、ナポリの街歩き開始しました。ボローニャ通りを歩いて駅前へ向かいました。通りにはアフリカ系の人たちの屋台が目立ちました。正直、ちょっと怖い思いがしました。

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最初の仕事は、明日のバスの切符買い。ナポリ中央駅の南側のバスターミナルへ。窓口で、10時45分ナポリ発、13時45分バーリ着の高速バスを予約しました。ナポリ、バーリ間300kmを3時間で走ります。料金は14ユーロ(1800円)、恐ろしくリーズナブル、嬉しい限りです。

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明日の段取りが出来たので、駅前広場に戻りました。駅の地下通路を歩いてみました。

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ナポリ中央駅はローマテルミニ駅より大きな駅舎で、駅舎の幅が400mもある「行きどまり駅」でした。

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駅前のガリバルディ広場も広大、南側半分は地下鉄駅を含んだピカピカの広場でした。

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半地下のお洒落な地下鉄駅舎でした。
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ナポリは美食の街でピッツァの発祥の地、リーズナブルなスナップ菓子やピッツァでも有名なB級グルメの街でもありました。気温は27度、結構、暑い。


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カフェテラスで軽い昼食にしました。ピッツァは1ユーロ(130円)、お菓子は1.5ユーロ(200円)・・・陳列ケースの右下の細長いカップケーキは「ババ」、ナポリ名物の焼き菓子、シロップを掛けて味わうとか。

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1ユーロのピッツァはこの値段としては、味、量とも合格点でした。

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14時30分、これからナポリの中心部へ向かおうとしていた時、災難に遭いました。この駅前広場でスリに遭い、胸ポケットのスマホを抜き取られました。40前後の男性が自分のズボンの裾をいきなり触ってきました。そちらに気をとられている隙に別の人間が抜き取ったようです。もしかして、ホテルにスマホを忘れたのではと思い、ホテルに戻って確認しましたがありません。ピザのお店のスタッフにも聴いてみましたが、心当たりなし。
これまで、欧州の街をあちこちと歩いてきましたが、このような被害にあったことはありません。イタリアは要注意、特にナポリは特段の注意が必須と警戒していましたが、実際に被害にあってショックでした。大事なコンパスを無くしたので、明日からの苦戦が予想されますが、お尻ポケットの財布を抜き取られなかったのが、不幸中の幸いだと思いました。指紋認証でロックしていたので警察には届けませんでした。夜、ホテルに戻ってからモバイルから自宅のカミサンに、携帯会社に善後策を相談するようメールを打ちました。実は、スリにとってスマホの指紋認証を外すのは朝飯前で、帰国後、携帯会社から不正使用の連絡が入りました。
以降、財布はお尻のポケットから前ポケットへ入れ、財布には最小限の現金やクレジットカードだけにするなど危険分散を図りました。
15時30分、気分を入れ替えて、ナポリの街歩きを再開しました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2019-01-13 11:14 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月1日(火)イタリア その46 ナポリ(1)

ローマテルミニ駅発10時10分の電車でナポリに向かいました。この日のローマは、曇りや小雨で少し寒かったです。昨日までの2日間は好天でした。ついていたなと思いました。

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ホテルを9時にチェックアウト。40Lのバックパックと30Lのデイパックを抱えてテルミニ駅まで歩きました。メルラーナ通りのサンタ・マリーア・マッジョーレ大聖堂(Basilica Papale di Santa Maria Maggiore)は一昨日訪れた歴史のあるカトリックの大聖堂、この大聖堂は自分の見立てでは2つのファサードと2つの広場を持つ珍しい大聖堂でした。
サンタ・マリーア・マッジョーレ大聖堂は「ローマの4大聖堂」の一つで、カトリックの重要な巡礼地だそうです。キリスト教の国教化が392年、この大聖堂は、4世紀、法王リベリウスが創建したローマで最も古い部類の大聖堂。「ローマの4大聖堂」は、この大聖堂とサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂、サン・ピエトロ大聖堂、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂。サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂を除いた3つの大聖堂を、全くの偶然ですが、観ることができて幸運でした。サン・ピエトロ大聖堂以外は、ヴァチカン市国の領土となっている、いわゆる「飛び地」、治外法権があるとは驚きです。
東側のファサードと尖塔・・・こちらの方がどちらかというと表玄関みたいな感じでした。

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西側の広場にもオベリスクがあり、西側は祭壇風の風格に溢れたファサードでした。

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カヴール通りを歩いてテルミニ駅へ。道路名は三傑の一人カヴールのことだと思います。横目地の建物とピンクの建物が続いていました。これでローマの街並みともお別れです。

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カヴール通りの肉製品のお店・・・プロシュートは1kg25~30ユーロ(3300円~3900円)、日本で買うより相当安そうです。ちなみに、サラミは20ユーロ(2600円)。今回の旅は、美食の国イタリアを味わうには縁遠い旅でした。プロシュートが燻製しない生ハムとは知りませんでした。
以下、Wikipedia・・・

プロシュット(Prosciutto)は、イタリアでは豚のもも肉のハムを表すが、日本などでは特にイタリア産、またはイタリア式の燻製しない生ハムのことを指す。イタリアでは、非加熱のものはプロシュット・クルード(prosciutto crudo)、加熱したものはプロシュット・コット(prosciutto cotto)と呼んで区別する。日本では「プロシュート」と呼ばれることもある。


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9時25分、テルミニ駅に到着。改めて巨大な駅だと思いました。この駅舎は「行きどまり駅」、シンプルなファサードが特徴でした。

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ファサードの裏側の通路は多くの観光客で賑わっていました。

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テルミニ駅の脇から見た通路はすべてのプラットホームに接続しているので、長さは250mくらいと長大です。

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10時10分発レッジーオ中央駅行きの8873号は11番線発車という案内が表示されました。

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この行きどまり駅はプラットホームが11本もある巨大な駅舎、様々な電車が停車していました。

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レッジーオ中央駅行き8373号はフレッチャ・ビアンカ(白い矢)という電車。トレニタリア(イタリア国鉄)の高速列車はフレッチャ・ロッサ(赤い矢:最高速度300km/h)、フレッチャ・ルジェント(銀の矢 最高速度250km/h)、フレッチャ・ビアンカ(白い矢 最高速度200km)の3種類。
ナポリはローマから214km南にある街。レッジーオはローマから667km、靴の形をしたイタリア半島のつま先にある終着駅。

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(出展 Google)


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フレッチャ・ビアンカ(白い矢)は、名前どおり、白を基調にした角ばった顔つきでした。最高速度が200km/hなので、風きり音はあまり関係ないようでした。ナポリ着は、11時57分、所要時間は1時間47分、平均時速は120km/h。フレッチャ・ロッサ(赤い矢)が平均時速210km/hなのでのんびり走ります。

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乗車してちょっとしたトラブルに遭いました。ネットで予約した席が見当たりません。車掌さんにクレームを入れると、別のボックス席をすぐに用意してくれました。飛行機の特割みたいな制度を利用した予約料金は14.9ユーロ(1900円)と相当リーズナブル。ちなみに、こだまの東京・静岡間が180kmで5800円。

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生憎の雨で車窓の景色が今一つでした。ローマの郊外・・・・

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沿線は、ブドウ畑、オリーブ畑の丘陵地や牧草地でした。

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線路と平行している道路はE45(欧州自動車道路)だと思います。斜張橋が見えていました。

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電車は緑豊かな川を渡りました。

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電車はナポリ郊外に近づいてきました。

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ビニールハウスと果樹園・・・

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電車はナポリ市街地に入りました。

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集合住宅の無数のテレビアンテナ・・・不思議な光景でした。

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ヴェスヴィオ山が見えてきました。この休火山は、ナポリから東へ約9kmの場所にある有名な山です。

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この年の夏、ジェノバのモランディ橋が崩落するという大惨事が起きました。鉄道を上越しするこの跨線橋は短スパンのPC橋、モランディ橋と同じ跨線橋なので、事故後にしっかりとした点検が行われたことでしょう。

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ナポリのオフィス街が見えました。ローマでは見ることができませんでしたが、ナポリには普通に高層ビル群がありました。

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定刻11時57分に電車はナポリ中央駅に到着。この駅もおなじみの「行き止まり駅」でした。

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この駅舎はお洒落なデザインの新しい駅舎でした。沢山の観光客で賑わっていました。

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駅前広場の近くに予約したホテルに向かいました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2019-01-10 20:29 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月30日(月)イタリア その45 ローマ(19)

17時過ぎ、テヴェレ川のリバートレイルを終えて、パラティーノ橋から街路に戻りました。2日間に亘ったローマの街歩きも最終第4コーナーを回った感じです。チルコ・マッシモ、コロッセオを歩いてホテルに戻りました。

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(出展 Google)

「ローマの休日」でもお馴染みの「真実の口」で有名なサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の前には行列ができていました。朝、ヴェネツィア広場の改築中の建物でもみたように、この教会も改築中ということで写真のシートで建物を覆っていました。ちなみに、「真実の口」の蓋は、古代の井戸か、ここの真下に埋まっているクロアカ・マキシマ(古代ローマの下水道)の蓋ではないかと言われているそうです。

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チルコ・マッシモ通りの松の街路樹は見事に剪定されていました。

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チルコ・マッシモは、パラティーノの丘の南側にある広大な広場、古代ローマの戦車競技場の跡地。長さ620m、幅120m、15万人収容のローマ最大の円形競技場だったとか。この広場は実に広大でした。都心にこれだけのオープンスペースを残していることに驚かされました。
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かつての観客席と思われる緩傾斜堤防みたいな緩い土手を横目に見ながら奥に歩いて行きました。

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土手の向こう側に見えるのがパラティーノの丘の遺構群・・

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一番奥に競技場の施設の遺構が保存されていました。

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奥に見える建物は国連食糧農業機構(FAO)の本部ビルだと思います。

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競技場のR部分の遺構・・・
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ローマン・コンクリートで出来たパンテオンとよく似た遺構でした。当時と同じ手法でかなりの部分が修復・復元されていましたが、手前の不整形な固まりは当時のローマン・コンクリートではないかと思います。

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サン・グレゴーリオ通りをコロッセオ方面に歩きました。両サイドのプードル状の松の手入れも文句なし。

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サン・グレゴーリオ通り脇の遺構は最初は城壁だと思いました。パンテオンで見た不思議なアーチを含んだ扁平な赤レンガ造りの壁でした。上部には押し広げ防止用の鋼製バンドが掛けられていました。
調べると、この赤レンガの壁はクラウディア水道の水道橋でした。古代ローマの水道橋と言えば、フランスのポン・デュガールの水道橋。この水道橋は、意外にも小振りな水道橋でした。天端に幅2mくらいの水路が付いていると思います。パラティーノの丘に住むセレブな人たちの邸宅へ水を供給していたのでしょうか。

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クラウディア水道( Aqua Claudia)は古代ローマの水道で、皇帝カリグラがAD38年に建設を始め、皇帝クラウディウスがAD52年に完成させた水道。ローマから約69km離れたアニオ川上流域の泉を水源としていました。ローマ水道の技術書の著者でありローマ水道長官でもあったフロンティヌスは、『この水道はローマで最も壮大な水道である』と述べているとか。クラウディア水道の水量は184,284m3/日。1日1人あたり250Lとして、70万人分の水量に相当します。


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(出展 Wikipedia)


古代ローマにはこのクラウディア水道、ヴィルゴ水道など合計5本の水道がありました。当時は現在のポンプみたいな揚水機械がありません。わずかな水路勾配がすべて。わずかな水路勾配を確保した測量技術と建設技術に改めて敬意を表するしかありません。

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(出展 Wikipedia)

クラウディア水道の水道橋・・・2000年前の遺構が今でも保存されているとは驚きです。


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(出展 Wikipedia)

コンスタンティヌスの凱旋門まで戻ってきました。

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コロッセオまで戻ってきました。昨日の午後、初めてローマという街に触れた思い出深い建物ともこれでお別れです。

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長径188m、短径156mの楕円形の競技場の巨大さには何回見ても驚かされます。

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(出展 Wikipedia)


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観客席の高さは52m。 前列は元老院階級席、中列が騎士階級席、その後ろが裕福なローマ市民席、最後列が一般市民と女性席といった具合・・・
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(出展 Wikipedia)


この不思議な穴は、戦傷の痕ではなく、建設および補修時の足場用の木材を挿入するための穴だったとは・・・意外でした。

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18時、メルラーナ通りの中華で夕食にしました。イタリア入りして3日目のフィレンツェでコメの飯が恋しくなりました。

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チャーハン5ユーロ、ビール2.5ユーロ、席料2.0ユーロ 計9.5ユーロ(1200円)。美味しかったです。

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19時、ホテルのある通りに戻りました。朝8時過ぎにホテルを出発したので、11時間の街歩きでした。

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ホテルの部屋で表通りの食料品店で買ったブドウやコーラを頂きました。

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2日間のローマの街歩き終了が無事終了しました。好天にも恵まれ、ローマの素晴らしさを堪能出来ました。この記事を書き終えた時点でのローマの覚え書きはこんな感じ。

「ローマは文句なしの世界有数の観光都市」
「ローマは歴史・文化の塊、マイナーな場所にも歴史がある」
「ローマは複数の広場を持つ、分散型の大都市。役所も分散している」
「最初にヴィットリアーノに行って、ローマ観光を始めよう」
「ローマはカトリックのルーツで総本山」
「ローマのリング(城壁)は直径5km、図抜けたサイズ」
「ローマは丘と川の街、ブラタモリ的な興味が尽きない」
「古代ローマ人の測量・建設技術に脱帽」
「古代ローマのハコモノ、インフラの年齢は2000歳と恐るべき長寿」
「古代ローマのインフラは興味深い。特に水インフラ」
「ローマは、街全体で稼いでいる」
「ローマ人は建物の外壁にピンクを使う」
「ローマ人の建物のスカイラインへの拘りは薄い方だ」
「ローマ人は道路名に日にちをあてる」
「ローマ人は古いハコモノやインフラの使い回しが上手」
「ローマの歩道は狭く、道路横断は命がけ」(車を排除して、イギリス式のパーク&ライドみたいにしたらいいのに)
「ローマはオフィス街がない不思議な街」(ローマの旧市街には超高層ビルは見当たらなかった)
「テヴェレ川の景観と橋は文句なし。観光舟運、勿体ない」
「プラタナスは優れた河畔林」
「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世とカヴール、ガルバルディ、マッツィーニはキーパーソン」
「ローマ人は建築中の建物の仮囲いに気を使う」
「テヴェレ川の放水路はなかった」
「ローマでコンビニを見つけるのは至難の技」
「ローマ人はトラバーチンと大理石を使う。トラバーチンは鍾乳石の一種」
「フォロ・ロマーノ(Foro Romano)は、ラテン語のフォルム・ロマヌム(Forum Romanum)で「ローマの広場」。Forumの英語読みがフォーラム」
「チルコ・マッシモ( Circo Massimo)はラテン語のキルクス・マクシムス( Circus Maximus )で「最大の競技場」。 Circusの英語読みがサーカス」

当日のフェイスブックにアップした記事・・・

4月30日(月)ローマは晴れ、暑い。
ローマ2日目。
朝8時30分に街歩きを始めました。何か馴染みになったコロッセオを通って、ヴェネツィア広場に出て、ローマ・テルミニ駅を往復してヴィットリアーノと呼ばれる高台の天辺に建つ豪勢なランドマークに上りました。
パンテオン、ナヴォーナ広場、サンタンジェロ要塞、バチカン宮殿、スペイン広場、トレヴィの泉など定番の観光スポットを一通り歩きました。せっかく購入した、7ユーロの地下鉄とバスの一日券は結局使わずじまいでした。
ローマ観光の最後は、テヴェレ河畔のリバートレイルで締めました。テヴェレ川の川幅は概ね120m、隅田川より少し狭い感じの都市内河川でした。歩道のプラタナスが程よく河畔を覆っていて、快適なトレイルができました。橋は石造りのアーチ橋ですが、支間数は2から5までと様々でした。サンタンジェロ橋とエマニュエーレ2世橋の親柱は立派な彫像でできていました。パリのセーヌ川のアレクサンダー3世橋と同じくらいゴージャスな橋でした。
18時に街歩きを終えました。ローマの定番の観光スポットは概ねクリヤーできた感じがします。月曜日でも市内の至るところが観光客で溢れかえっていました。『ローマは、街全体で稼いでいる』といった感じでした。
前菜ではなく、メーンデッシュを次々と出される感じでした。終わり頃は満腹感を通り越して、ゲップが出始めた感もありました。それくらいローマは価値の高い観光スポットが豊富な街でした。とにかく、世界有数の観光都市で、2日とも好天に恵まれて幸運でした。
明日は、電車でナポリに向かいます。


翌朝、ローマテルミニ駅から電車でナポリに向かいました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2019-01-06 21:24 | イタリア | Comments(0)  

2018年4月30日(月)イタリア その44 ローマ(18)

16時20分、ウンベルト橋とサンタンジェロ橋の間で河畔テラスに降りて、テヴェレ川左岸の河畔テラスをティベリーナ島まで歩きました。
何度も行き来したサンタンジェロ城とサンタンジェロ橋とはこれでお別れになりました。ローマ市内のテヴェレ川の護岸間の川幅は110m~130m、護岸の高さは概ね10mでした。

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道路脇の河畔散策路ともしばらくはお別れです。

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ウンベルト橋から下流のパラティーノ橋まで河畔テラスを約3km歩きました。

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(出展 Google)

河畔テラスから眺めたサンタンジェロ城とサンタンジェロ橋・・・道路脇の散策路と河畔テラスの高低差は、概ね10m。10m低い視点場からの眺めもなかなか良好でした。この区間はたまたまプラタナスの河畔林が切れており、そのことで見通しが効くためでした。

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カモメは至る所にいました。

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下流から見たサンタンジェロ橋。川は写真右から左に流れています。先ほど見た可愛らしい小型観光船が上流に向かっていました。

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河畔テラスと水面の高低差は概ね1m。転落防止柵がないので快適に歩けました。切り込み階段が設置されており、水面へのアクセスも問題ありません。

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振り返って見た、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世橋・・・ゴージャスな橋です。

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河畔テラスを歩く人は疎らでした。その分、カモメたちには天国でした。川は写真右から左に流れています。スペイン広場やトレヴィの泉の人だかりが嘘みたいに感じました。洪水でもあったのでしょうか。流出した施設の一部や瓦礫が残っていました。

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テヴェレ川は掘り込み河川なので、両岸とも高い護岸で囲まれていました。対岸の歩行者から推定すると10mくらいはありそうです。この高い壁に阻まれて背後の風景が見えません。この高い壁と密度の濃いプラタナスの河畔林が景観上の支障となっていました。一方、道路から見たテヴェレ川の風景は、文句のつけようがないほど素晴らしいのは十分承知しています。このトレイドオフの関係を解消する一法として、大型観光船を浮かべる手もありかと考えてみました。大型観光船の屋上の展望台が水面から5~6mあれば、護岸背面の建物もずっと良く見えるのではないかと思います。それと、一部区間のプラタナスを間引く手もありかと思います。

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振り返って見た、プリンチペ・アメデオ・サヴォイア・アオスタ橋。長さは110m。この橋は橋脚に細長いアーチ型の開口が付いていました。

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河畔テラスの幅は場所で違うものの、広いところは8mくらいはあり、快適に歩けました。テラスは道路と同じサイコロの石張りでした。

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ジュゼッペ・マッツィーニ橋まで来ました。川は写真下から上に流れています。ジュゼッペ・マッツィーニ橋は、3連の石造りのアーチ橋で橋長106m、ヴィアーニとモレッティの設計。着工1904年、完成1908年。ジュゼッペ・マッツィーニは、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世を支えた、カヴール、ガリバルディと並ぶ「イタリア統一の三傑」の1人。

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テラスの石張りが一部剥げていました。

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例の小型観光船が折り返し点のティベリーナ島を目指して下っていきました。

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いささか旧式の大型船が係留されていました。多分、水上レストランではないかと思いますが、使用されている形跡が見当たりません。このサイズの船なら橋のアーチの桁下を潜れそうなので、観光船にすれば高い展望台から素晴らしい景観を満喫できるとは思いますが・・・。

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テヴェレ川の観光開発は今ひとつ低調な感じでした。テヴェレ川は日本の川に似て急勾配河川なので、治水上の制約が厳しく、河畔テラスの施設占用が難しいのかもしれません。日本の場合、隅田川や大川(旧淀川)は、洪水処理用の放水路が別に用意されていて、治水を考慮する必要性が小さいせいもあり、観光舟運が盛んです。一方、テヴェレ川には放水路が見当たりません。1870年には毎秒3300トンの洪水が起こるなど、観光舟運のハードルは高いようです。

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お隣にはボラード式の浮き桟橋が設置されていました。

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シスト橋が見えてきました。昨日、ガルバルディ橋から見えた橋でした。4連の石造りのアーチ橋。真ん中の橋脚には円い開口が開いています。現在の橋は1470年代に補修したもので歩行者専用橋。

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シスト橋の袂の階段・・・道路面と河畔テラスの高低差がよく判ります。

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ガリバルディ橋までやってきました。この橋は橋長120m、幅23mの2連の石造りのアーチ橋。建築家アンジェロ・ヴェスコバリの設計、着工1884年、完成1888年、1959年に拡幅。材料は鋼とトラバーチン。アンジェロ・ヴェスコバリは上流のカヴール橋、マルゲリータ橋も設計していました。この橋はジュゼッペ・ガリバルディを讃えた橋でした。ガリバルディ橋は、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の1人。
この2日間でテヴェレ川に架かる12の橋を観てきました。イタリア統一運動の主役の4名の名前が冠された橋を残さず見てきたことになります。

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ガリバルディ橋の桁下からティベリーナ島が見えてきました。

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ティベリーナ島はテヴェレ川にある中の島、昨日の夕方にもここに来ました。島は全長270m、最大幅67mの細長い中洲。BC291年、アスクレペイオン(医学の守護神アスクレーピオスを祀った古代ローマ時代の聖域で、病の治癒を祈願する人が訪れる治癒所)が島の東側に建てられました。この神殿には多くの人々が集まったので、ある種の病院的な役割としても機能したとかで、現在も病院があるそうです。

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テヴェレ川はガリバルディ橋で分派していました。左岸の派川は意外にも急流河川、河床洗堀防止に落差工を設置していました。

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左岸の派川を下ると、2連の石造りのアーチ橋がありました。ファブリチオ橋(ファブリキウス橋)は現存する古代ローマの最古の橋でした。BC62年完成、橋長62m、支間長24.5m、幅5.5m。建設者は道路長官ルキウス・ファブリキウス。BC23年の洪水で被害を受け、BC21年に修復されたものの、建設以来、現在まで現役で利用されているとは驚きの事実。この橋は現在2081歳で現役の歩行者専用橋とは何も言うことはありません。
コア部分はトゥファ(沈殿岩)、表面の化粧板は大理石とトラバーチン。中央の橋脚の開口部は、橋の重さを軽くするとともに、洪水時にこの開口部に水を流すことで橋に作用する水圧を逃がすためのものだそうです。

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トラバーチンに刻まれたオリジナルの碑文のラテン語「L . FABRICIVS . C . F . CVR . VIAR | FACIVNDVM . COERAVIT | IDEMQVE | PROBAVIT. 」は「道路の監督官、ガイウスの息子、ルキウス・ファブリキウスは注意を払い、同様にそれが建設されることを承認した」という意味だそうです。

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ファブリチオ橋の桁下から歩いてきた上流の眺めてみました。急流河川のせいか、河畔の護岸が一部洗堀されていました。2000年前の建設時も締切りなどに苦労があったと思います。

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橋から下流の眺め・・・護岸の洗堀防止に捨て石が設置され、そこから樹木が生えていました。

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ティベリーナ島の下流端まで来ました。

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再び、「ロット橋」まで来ました。「壊れた橋」という意味だとか。
以下Wikipedia・・・

アエミリウス橋(ラテン語: Pons Aemilius)は古代ローマ時代にテヴェレ川に架けられた橋。古代ローマで架けられた石橋の中で最も古いもので、紀元前2世紀に木造の橋を撤去して架橋された。商業の中心であったフォルム・ボアリウムと、テヴェレ側対岸のトランス・テヴェレム(トラステヴェレ)を結んでいた。かつては7径間あったが、現在は川の中ほどのアーチ橋の1径間が残存するのみで、“壊れた橋”を意味するポンテ・ロットと呼ばれている。


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カモのつがいが休んでいました。

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ロット橋の直下流にあるパラティーノ橋が見えてきました。この橋は初めて見たメタルの橋でした。

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17時10分、
パラティーノ橋の袂の階段を登って河畔散策路に戻りました。50分、3km弱のテヴェレ川のリバートレイルが終わりました。

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引き続き、チルコ・マッシモを歩いてホテルに戻りました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2019-01-05 22:14 | イタリア | Comments(0)