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2018年5月5日(土)イタリア その75 ヴェローナ(4)

15時、ヴェローナの街歩きを始めました。
ブラ門を潜ってブラ広場に出ました。ヴェローナの旧市街には二つの大きな広場があり、ブラ広場はそのうちの一つ。

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この日は、土曜日、ブラ広場は大勢の観光客で賑わっていました。オープンカフェが出ている歩道は大理石貼りの10mくらいはありそうな幅広の歩道でした。

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ブラ広場の真ん中にあるアレーナは、紀元1世紀の帝政ローマ時代の建築、ローマのコロッセオと同時期、同形式の建物でした。長さ152m、幅128m、高さ30mで18000人の席がある大きな円形闘技場。完成時の形がほぼ完全な姿で残されているそうです。

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アレーナはローマのコロッセオに比べて少し小振りでした。コロッセオは3層のアーチ構造でしたが、このアリーナは2層構造、そう言えば、ローマのマルケッルス劇場も2層でした。

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このアリーナは2000歳で現役、毎年、野外オペラ会場として利用されているとは驚き。ロッシーニの「セビリアの理髪師」のポスターが掲示されていました。「家は使われなくなるとすぐ傷んでダメになる」とよく言われます。アリーナは使い続けることによって、施設の長寿命化を達成している理想的な事例みたいなもの。そういえば、ローマのマルケッルス劇場は現在もアパートとして使われていました。

https://camino0810.exblog.jp/28875879/


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アレーナのアーチの柱の石材・・・凸凹したピンク色の石材は大理石だと思います。表面を磨き込むと階段の大理石のようになるようです。



ヴェローナの旧市街は、東、北、西の三方をアディジェ川で、南を城壁で囲まれた、東西1km、南北1.3kmの地域でした。旧市街は、高さを抑えた赤屋根の建物で埋め尽くされ、主な観光スポットが集中していました。旧市街は、中世の気分を色濃く残した街でもあり、2000年に世界文化遺産に登録されました。

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(出典 Google)

アレーナからヴェローナのメーン通りの一つであるマッツィーニ通りを歩いて、エルベ広場へ向かいました。イタリア統一の三傑、ジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini:1805年~1872年)を名前を冠した通りだと思います。マッツィーニ通りは、東京で言えば、銀座の中央通りみたいな通りでした。手狭な通りにはお洒落なお店が沢山並んでいて、観光客で賑わっていました。車を排除して歩行者専用道路にすると賑わいができるようです。最近、日本でもそのような試みがあちこちで試行されてきた感じです。

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驚かされたのは大理石の舗装、ヴェローナは「大理石」のゴージャスな街だと思いました。

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通り沿いの小さな教会に入ってみました。

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ヴェローナのもう一つのメーン広場、エルベ広場はすぐでした。ヴェローナの旧市街で最も高いと思われる鐘楼が建っていました。エルベはハーブを意味するイタリア語、昔はハーブ市場だったのかも。

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この広場は南北方向のボルサーノ通りと東西方向のカッペラ通りの交点にある細長い広場。古代ローマ時代にはフォロ・ロマーノと呼ばれて、市民が裁判や政治集会を行った公共広場だったとか。
これまで観てきたイタリアも含めた欧州の都市の旧市街は、芯に大聖堂があり、大聖堂前の広場から放射状に街路が延び、外周がリング(城壁)で囲まれるというパターンがほとんどでした。ヴェローナの旧市街は珍しく碁盤の目のような街路で出来ていました。ローマ時代にできた、都市の機軸となった東西南北の基幹道路とその交点の広場がこの街の基本形を決めていった感じです。現在は、白いパラソルの屋台が沢山並んだ市場でした。

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壁一面にフレスコ画が描かれた建物もありました。16世紀のフレスコ画だとか。

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広場には「ヴェローナのマドンナ」と呼ばれる泉もありました。

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エルベ広場からサンアナスターシア通りを北に歩いていくと、行き止まりにサンアナスターシア教会がありました。ゴシック様式のこの教会は、1290年の着工ですが、未だに建設中だとか。建設中のこのファサードをよく見ると、レンガを貼り終えた部分と下地らしき部分が見えています。気長に造っていくのが欧州流ということでしょうか。

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サンタ・マリア・イン・キアーヴィカ通りを南に歩くと、見たことのない不思議な塔が建っていました。スカリジェレ家の霊廟(Arche Scaligere)といいスカラ家という偉い人のお墓でした。

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サンタ・マリア・イン・キアーヴィカ通りを南に歩くと、シニョーリ広場に入りました。建物越しに例の鐘楼が見えました。

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シニョーリ広場の中央に建つ像はダンテ。

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エルベ広場に戻って、カッペラ通りを西に歩きました。

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ジュリエッタの家はすぐでした。

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中庭は観光客で溢れ返っていました。

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ジュリエッタの右胸に触ると幸福になるそうです。沢山の人が胸を触ってスナップ写真を撮っていました。

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カッペラ通りを西に向けて歩くと、レオーニ門が建っていました。レオーニ門は、古代ローマ時代の門。紀元前1世紀中頃から1世紀の間に造られたとか。よく見ると、白い門と赤レンガの2つの門が重なっています。手前の白い門は共和政時代、後ろの赤レンガは帝政時代のものだそうです。

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レオーニ門の周囲は古代ローマ時代の歴史遺産が保全されていました。


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この円筒形の構造物は何か?共同の水汲み場か共同浴場ではないかと想像します。円筒型の壁面の扁平な赤レンガは型枠も兼ねた外壁材、裏側にローマン・コンクリートが詰まっているのではないかと想像します。

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アディジェ川の河畔まで来ました。河畔の公園にウンベルト1世像の彫像が建っていました。ウンベルト1世は、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の子息でイタリア王国の第2代目。

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河畔のサン・フェルメ・マッジョーレ教会(Chiesa di San Fermo Maggiore)は、赤レンガ造りの教会。建築様式はロマネスク様式、ゴシック様式、ルネッサンス様式、11世紀着手、15世紀完成。


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河畔から振り返ったカッペラ通り。

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アディジェ川に架かるナヴィ橋(Ponte delle Navi)まで来ました。3連の石造り橋は長さ90m。川は写真左から右へ流れています。


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アディジェ川河畔を上流に向けて歩いて行きました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2019-03-31 16:32 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月5日(土)イタリア その74 ヴェローナ(3)

「赤い矢」9728号は定刻13時にヴェローナ・ポルタ・ヌオーヴァ駅に到着しました。

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駅前広場は実に広々としたピカピカの広場でした。

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何処の駅に着いても、最初の仕事は予約したホテルにチェックインして、重い40Lのバックパックを降ろして身軽になること。早速、駅前大通り(ポルタ・ヌオーヴァ通り)を歩いて旧市街にあるホテルを目指しました。

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(出典 Google)

駅前広場の運河を渡りました。この運河はヴェローナ市内を流れるアディジェ川を堰き止めて造った水力発電用の運河でした。ヴェローナはアルプスの裾野にある都市なので、アルプスの融雪流が豊富に流れていました。

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ガソリンスタンド・・・ガソリンは1.549ユーロ(200円)/L。
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ポルタ・ヌオーヴァ通り脇の公園内に窪地があり、銃眼の付いた高さ5~6mの城壁が建っていました。この時は、お城の空堀だろうくらいの認識でした。実は、この空堀はヴェローナの外側のリング(城壁)の一部でした。

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ポルタ・ヌオーヴァ通り脇に大きな風格に溢れた城門が建っていました。この門はヌオーヴァ門、ヌオーヴァは新しいという意味なので、文字通り「新しい門」、駅名にもなっていました。この門はリング(城壁)の城門でした。

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ポルタ・ヌオーヴァ通りの歩道脇に赤レンガの壁が続いていました。リング(城壁)の一部でした。旅日記を書いている現時点では、この施設が何か、すぐ理解できましたが、歩いている時は早くホテルを探してだして荷物を降ろすことで頭が一杯なので、そのようなことは全く意中にありませんでした。


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そもそも、ヴェローナという街はどんな街なのか。知っているのはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台だったことくらい、ほとんど知識がありませんでした。ヴェローナを観光先に選んだのはヴェネツィアとミラノの間にある、旅行の順路上に位置していたからでしたが、予想をはるかに上回るいい街でした。

「地球の歩き方2018~2019」

『ロミオとジュリエット』のイメージがあちこちに残る町、夏の野外オペラの町。ヴェローナは、アルプスに源を発したアディジェ川が町の中央をS字型に流れる落ち着いた古都。北イタリアの要衝として、ゲーテの『イタリア紀行』にも登場するこの町は、北はアルプス、南はローマ、西はジェノヴァ、東はアクイレイアを結ぶ3本の道路の交差する町であった。困難なアルプス越えをして、イタリアに憧れてやって来た旅人を優しく迎え入れたのは、今も変わらない落ち着いた町並みだったに違いない。

Wikipedia・・・

ヴェローナ( Verona )は、イタリア共和国ヴェネト州西部にある都市で、その周辺地域を含む人口約25万人の基礎自治体(コムーネ)。ヴェローナ県の県都である。
街の中心部には古代ローマ時代の円形競技場跡があり、街の象徴となっているほか、中世の町並みがよく残っており、2000年には「ヴェローナ市街」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。シェイクスピアの戯曲『ヴェローナの二紳士』『ロミオとジュリエット』の舞台としても知られる。

ポルタ・ヌオーヴァ通りを北に向けて歩いて行きました。この大通りの歩道幅は大理石貼りで8m、気持ちよく歩くことができました。これまで歩いてきた他のイタリアの街々では歩道の幅が比較的狭かったので、この歩道の幅広さは実に快適でした。

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ポルタ・ヌオーヴァ通りの脇道のロカテッリ通り・・・建物のスカイラインを揃えたスッキリした街路でした。

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駐車場の収容数表示。

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ポルタ・ヌオーヴァ通り脇の公園、気持ちの良い公園でした。

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しばらく歩くと、大理石造りの大きな門が見えてきました。向こう側に見えるブラ広場の入り口に建つブラ門は、もうひとつ内側にある城壁の城門でした。

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ブラ門を抜けるとブラ広場という大きな広場で出ました。ヴェローナ旧市街の中心となる広場でした。

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ヴェローナの歴史をWikipediaから抜粋してみました。ヴェローナは古くは古代ローマとの関係が深く、ローマ帝国の衛星都市だったこと、中世は支配者が頻繁に変わったこと、15世紀初めから18世紀までヴェネツィア共和国の傘下に入ったことが伺えました。旧市街の碁盤の目のような町割りは、古代ローマ時代の名残でした。

①古代
ヴェローナは紀元前1世紀頃には既に共和政ローマの支配下にあり、街の基軸通りのデクマヌス・マクシムス(現 Corso Porta Borsari)とカルド・マクシムス(現 Via Cappello)の交点には市民の集会所であるフォルム(現 エルベ広場)が、都市の入口にはボルサーリ門やレオーニ門等が造られ現在でも残っている。基軸通りを中心に碁盤の目状に造られた街路は現在でもヴェローナ旧市街の街路にその姿を見ることが出来る。その他に円形闘技場、ローマ劇場などの基幹施設が建てられた。・・・アディジェ川の渡河点であるヴェローナは、ローマと北方および東方属州への連絡点として、ポストゥミア街道、クラウディア・アウグスタ街道、ガリカ街道などのローマ街道が交わる交通の要衝にあり、たびたびローマの覇権を争う戦いの舞台となった
②中世からルネサンス
452年、フン族の王アッティラが50万の軍勢を率いて、破壊を行いながらヴェローナの近くまで来襲した。軍勢の移動は教皇レオ1世と皇帝の使節により説得されて止まった。・・・774年、シャルルマーニュはヴェローナでランゴバルトの最後の王デジデリウスを破り、ランゴバルト王国を滅ぼした。のちにヴェローナに葬られる、シャルルマーニュの息子ピピンは、ヴェローナに発展の基盤をもたらすことになった。・・・1136年、ヴェローナは都市特許状を得、コムーネとなった。・・・13世紀以降のローマ教皇と皇帝の争いでは、ヴェローナの支配者は概して皇帝派(ギベリン)についた。ヴェローナの支配者はスカリジェリ家(デッラ・スカラ家)、ヴィスコンティ家、パドヴァのカッラーラ家と変わっていき、ヴェローナの支配層の間には憎しみを帯びた熾烈な闘争があった。その模様はシェイクスピアの戯曲の中にも描かれている。・・・1405年にヴェローナはヴェネツィアの支配下に入った。ルネサンス期のヴェローナは商業また文化の中心として発展した。・・・ヴェネツィアの支配は、ヴェネツィア共和国の終焉まで続いた。
③近現代
ナポレオン・ボナパルトがイタリアに進攻し、ヴェネツィア共和国が滅びると、ヴェローナはフランスの支配下におかれることになった。 1797年よりオーストリア領となり、ウィーン体制下でもオーストリアの支配が続いた。・・・1866年、イタリア王国領となった。

ブラ門に接するグラン・グアルディア宮(Gran Guardia )は横目地の風格ある建物。工期は1609年~1853年、250年近い工期の長さにこの街の複雑な事情があるようでした。

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スマホが無くてもホテルは割と簡単に探り当てることができました。ホテルは、写真左の建物にありました。

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予約したホテルは雑居ビルの5階のB&Bでした。

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ホテルの標識は、控え目で随分と小さいものでした。

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表通りと館内を仕切る表玄関の大扉。

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扉が2つの旧式エレベーターで5階まで上がりました。

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B&Bの玄関は、集合住宅の個人住居の玄関という感じ、室内はホテル用に改造した感じでした。ヴェローナの都市生活者の一端を垣間見た感じでした。

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らせん階段も利用できます。

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14時、チェックイン。オーナーの女将さんは英語が達者なしっかり者でした。チェックインの時に鍵を3つ(表玄関、B&Bの玄関、自分の部屋)渡されました。フィレンツェと同じでした。部屋から見下ろした中庭の様子。

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15時、ヴェローナの街歩きを開始しました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2019-03-30 11:17 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月5日(土)イタリア その73 ヴェローナ(2)

「赤い矢」9728号は定刻11時50分にヴェネツィア・サンタ・ルチア駅を発車しました。ヴェローナには13時着、1時間あまりの電車旅でした。

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(出典 Google)

電車は、ヴェネツィア本島と本土を結ぶ長大な連絡橋を渡りました。

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旅行中はそれほどの感動もなく車窓の風景を漫然と見ていただけでしたが、旅日記を書く段になって、この連絡橋は、黙ってやり過ごすことができないほど、巨大な交通インフラだったことに気づきました。

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(出典 Google)

自由橋(Ponte della Libertà)と呼ばれる連絡橋は、全長3850mで鉄道橋と道路橋からできていました。最初に鉄道橋が出来て、約90年後に道路橋が完成していました。

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(現在の鉄道橋:出典 Wikipedia)

①鉄道橋

イギリスのジョージ・スチーブンソンが、総延長40kmのストックトン・アンド・ダーリントン鉄道を建設して、1825年に蒸気機関車で世界初の鉄道の営業運転を開始したそうです。ヴェネツィアの鉄道橋は、建設期間が1841年~1845年の4年、222基の石造アーチ橋でできていました。たかだか10数年で鉄道建設の熱気や機運が、イタリアのヴェネツィアにも伝播した感じです。
写真を見ると、短い支間の石造りのアーチ橋が延々と続いていました。単純計算で支間長は17m。建設された時代のイタリアには新材料の鋼や鉄筋コンクリートが未だ普及していないようでした。そのため、石材に頼らざるを得なかったようです。桁下空間は、小さめでゴンドラ程度の小さな船が通過できる程度。

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(完成当時の鉄道橋:出典 Wikipedia)

驚かされたのは4年間という工期の短さ、大型の建設機械もない時代によくもこれだけの短期間で造ったものだと思いました。ラグーナの静穏で浅い海域とはいえ、水中に橋脚を建造するのは簡単ではありません。水中の建設工事で最も苦労が多いのは締め切りでしょう。現在は、橋脚毎に締め切りを造って、橋脚が造り終わったら、上部工という手順が普通です。一方、この鉄道橋は、水深が浅く、支間が短い石造りのアーチ橋なので、大きな締め切りで数基分をまとめて建造したのではないか。例えば、上の写真の5連分のアーチをひとつのユニットとして建設を進めていったのではと想像します。なお、この鉄道橋にはトレヴィーゾ空港の近くを流れるシーレ川からヴェネツィア本島へ送る都市用水用の水路(管路)も設置されたとか。

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(完成当時の鉄道橋:出典 Wikipedia)


②道路橋

1912年、大衆車T型フォードが発売されて、車社会が到来しました。鉄道橋の完成から遅れること86年、1931年に鉄道橋の真横で道路橋の建設が始まりました。設計者は、エウジェニオ・ミオッツィ(Eugenio Miozzi)、ヴェネツィア駅前の大運河に架かるスカルツィ橋を設計した土木技術者でした。幅22mの道路橋は1933年に完成。わずか2年の工期で完成させていました。鉄道橋と同じように、数基分のアーチをまとめて築造することで工期短縮を図ったのではないかと想像します。構造は鉄筋コンクリートと石材のハイブリッド型、鉄道橋よりも支間長が大きくなっている感じです。

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(完成当時の道路橋:出典 Wikipedia)

1933年に出版された記事に橋梁の縦断図が掲載されていました。アーチの部分が鉄筋コンクリートだと思います。

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(出典 Wikipedia)
橋脚部の横断図。図面の右側の構造物が鉄道橋でしょうか。杭が沢山設置してありました。

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(出典 Wikipedia)
③これからの自由橋

1845年完成の鉄道橋は、今年で174歳、1933年完成の道路橋は、86歳。鉄道橋はかなり高齢ですが、材料が石材なので問題は少ないでしょう。ローマのテヴェレ川ではファブリチオ橋という2000歳を超える古代ローマの歩道橋が現役で頑張っていました。コロッセオやパンテオンもあと少しで2000歳を迎えます。石材やローマンコンクリートの耐久性には驚かされるばかりです。



やはり気になるのは、多橋脚によるラグーナの物質循環阻害や橋自体の老朽化。電車の重い荷重を繰り返し際限なく受けるので、疲労劣化もあるでしょう。老朽化や疲労劣化が心配なら第2自由橋の建設もありかと思います。スコットランドのエディバラ近くのフォース湾には、3本の大きな橋が架かっています。3本目の斜張橋は2年くらい前に開通したばかり。


第2自由橋の形式は、物質循環を支障しないトンネル方式、ラグーナの静穏な海面と浅い水深を考えて沈埋トンネルがいいように思います。現在の自由橋は土木遺産として保存し、歩行者や自転車専用の観光インフラや公園に鞍替えする手もありかなと考えてみました。ニューヨークのハイラインは、老朽化した高架鉄道を公園にリノヴェーションし、多くの観光客で賑わっているそうです。



「赤い矢」
9728号の座席は2列、2列でゆったりしていました。

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5月のイタリアは新緑に溢れ、川の流量は豊富でした。

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パドバ駅を通過、ホームの屋根はセパレート型。

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麦畑でしょうか。耕したばかりという感じです。

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ブドウ畑が広がっていました。

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果樹園、麦畑の向こうに林が拡がっていました。

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河畔の緑も豊か、融雪流なのか川の流量も豊富な感じでした。

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電車はヴェローナ・ポルタ・ヌォーヴォ駅に定刻13時に到着しました。

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40Lのバックパックと30Lのデイパックを抱えて、旧市街にあるホテルまで歩いて行きました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2019-03-28 19:20 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月5日(土)イタリア その72 ヴェローナ(1)

この日は、ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅11時50分発の電車でヴェローナに向かいました。イタリア旅行もいよいよ最終段階に入りました。
ホテルを10時30分にチェックアウト。普通に歩けば駅までは20分くらいでしょうが、スマホと磁石を無くしていたので安全を見込んでかなり早めに出発しました。ヴェネツィア2日目でも相変わらずの方向音痴、迷路のような路地に泣かされました。
頼りは黄色い道案内「FERROVIA」。「FERROVIA」の「FERRO」は「鉄」、「VIA」は「道」。なるほど、「鉄の道」=「鉄道」。外国人の自分には「STAZIONE」(駅)という表記の方が判り易いのですが・・・

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(出典 Google)

パンタロン運河の脇を通り過ぎました。

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バス乗り場は「ROMA」(ローマ広場)、電車は「FERROVIA」(駅)。

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ムネゲテ運河を渡りました。

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あちこち路地裏を歩き回って、ようやく大運河に出ました。対岸にヴェネツィア・サンタ・ルチア駅のファサードが見えました。この駅は、当たり前だけど、行き止まり駅。

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大運河の河畔に建つサン・シメオン・ピッコロ教会(Chiesa di San Simeon Piccolo)のファサードはパルテノン神殿、1718年着手、1738年完成。新古典様式の意味合いがなんとなく判ってきました。

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スカルツィ橋は大運河に架かる4本の橋の一つ。リアルト橋と似た、優美でスレンダーな石造りのアーチ橋でした。この辺りの大運河の幅は60mくらいなので、支間長は少なくとも50mくらいはあるでしょう。調べると、エウジェニオ・ミオッツィ(Eugenio Miozzi:1889~1979)によって設計された、イストリアの石という石材だけで出来た歩道橋でした。工期は1932年から1934年の2年。それ以前は、鋼製の橋でした。イストリアの石とは海水に強い石灰石でヴェネツィアの建物の基礎に使われているそうです。人道橋とはいえ支間が50mの橋を石材で設計するとは恐るべき技術力だと思います。エウジェニオ・ミオッツィは、優れたアーキテクトにして優れたエンジニアだったようです。

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スカルツィ橋の上から見た大運河。写真右側の大きな黄色の広告はスカルツィ教会の実物大の写真の上に貼られていました。これまで、イタリアの各都市で修復中の歴史的建造物の仮囲いを見てきました。工事中は、建物の写真を印刷した実物大のシートを使うのがイタリア流ということになります。

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大運河の下流側。

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ヴァポレット(水上バス)の船着き場。


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11時20分、ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅に無事到着。途中、カフェでコーラを飲んで一休みしたものの、50分も掛かりました。早めの出発は正解でした。

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駅前広場から見た大運河とサン・シメオン・ピッコロ教会。

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駅構内に展示された19世紀末の駅前の写真に驚かされました。イタリアの統一が完成した頃かもしれません。大運河に浮かぶゴンドラの多さにも驚かされますが、ヴェネツィアらしい賑わいを感じさせる一枚です。

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150年くらい前はゴンドラにはゴージャスな飾りつけが施され、船乗りも中世風のコスチュームを着ていました。大きなお祭りだったのかもしれません。

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19世紀末のスカルツィ教会とスカルツィ橋。架け替え前のスカルツィ橋はメタルの直橋でした。設計者はイギリス人技術者アルフレッド・ネヴィルで1858年完成の鋳鉄製の橋だそうです。テルフォードやブルネルなど優秀なイギリス人の土木技術者が大きな吊り橋を設計するなど大活躍した時期でした。この時、鋼(はがね)という画期的な材料はイタリアには届いてなかったのかもしれません。

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気の利いた人が説明書きの標記ミスを訂正していました。「eighteenth」の上に手書きの「nine」。写真も鉄道も19世紀中期あたりの誕生なので、よく気が付いたなと感心しました。 

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11時50分発「赤い矢」9728号ミラノ行きは、5番線ホーム発と発表がありました。

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よく考えると、久し振りの電車でした。ナポリから、バーリ、パレルモ、ヴェネツィアまでは、バス、飛行機での移動でした。

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イタリア国鉄自慢?の「赤い矢」号の顔を見るのも久し振り、なかなか良い顔だと思います。

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電車の中でフェイスブックにアップした記事・・・

5月5日(土)ヴェネツィアは晴れたり、曇ったり、適温。
ホテルを10時30分にチェックアウト。荷物を抱えて、ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅まで歩きました。迷路の路地も黄色い案内板を頼ると、なんとか駅前の運河に着きました。この街は2日目でも相変わらず迷路のままでした。
「赤い矢」9728号は11時50分に出発、ヴェローナ駅に13時に到着します。イタリア旅行もいよいよ最終段階に入りました。

「赤い矢」9728号は定刻11時50分に発車しました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2019-03-27 10:01 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月5日(土)イタリア その71 ヴェネツィア(10)

9時40分、迷路のような路地を抜けて、リアルト橋付近の大運河の河畔に出ました。大運河は大昔は河川だったので、川みたいに左岸、右岸と便宜的に呼ぶとすれば、リアルト橋直下流の左岸の船着き場に出たことになります。

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(出典 Google)

大運河の下流側の眺め・・・

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大運河の上流側にはリアルト橋が見えました。昨日は対岸の大運河右岸の船着き場からこちら側の河畔を眺めました。

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大運河左岸の河畔プロムナードを上流に向けて歩いて行きました。リアルト橋はすぐでした。

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改めて見たリアルト橋は実に優美な石造りの真っ白なアーチ橋でした。橋の石材は、大理石ではないかと思います。ヴェネツィアの最盛期16世紀末に木橋からリニューワルされた橋だとかで、贅を尽くした橋でした。それにしても、これだけ真っ白な橋は初めてでした。これまで観てきた欧州の石橋は基本的に地産地消のせいか、はちみつ色の砂岩系や灰色の石灰岩系の石材が多かったように思います。ヴェネツィアは人工島なので、この橋も含めて他の贅を尽くした建物や歩道の石材はすべて本土の周囲の山から切り出して船で運ぶしかありません。ご苦労なことだと思います。

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ヴァポレット(水上バス)の船着き場に立ち寄ってみました。

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時刻表を見ると、頻繁な間隔で運行されているようです。ヴァポレット(水上バス)に乗船して、運河から街を観るべきだったと反省しています。

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リアルト橋の橋の上から観た大運河下流側の眺め。ヴェネツィアといえば、やはり、このカットが一番だと感じています。

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リアルト橋を渡って、大運河の右岸上流を歩きました。

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この一帯は大きな市場で、野菜や魚の売り場が沢山並んでいました。この市場は東京でいえば2018年の秋にオープンした豊洲市場みたいな場所でした。

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旅先では、必ず食材の物価調査をします。
最初は、野菜売り場、定番のキューリやキャベツは1kg3~4ユーロ(390円~520円)。

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果物売り場、オレンジ1kg3ユーロ(390円)、イチゴ1kg7ユーロ(910円)。

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お肉売り場、 牛肉1kg16.9ユーロ(2200円)、豚肉1kg10.9ユーロ(1400円)。日本よりリーズナブルな感じです。

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加工製品、 サラミ 1kg23ユーロ(3000円)。

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お魚売り場はこの市場のハイライトでした。
アドリア海やラグーナの豊かさを感じさせる豊富な品揃えに驚かされました。ヴェネツィアの豊かな食を髣髴とさせる光景でした。日本でもお馴染みの魚のオンパレードでした。これまで、欧州の街の魚売り場を覗いてきましたが、魚種の豊富さではこのヴェネツィアが群を抜いて一番でした。カジキマグロ1kg28ユーロ(3600円)、カレイ1kg28ユーロ(3600円)、ホウボウ1kg99ユーロ(13000円)、サバは不明。

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マトウダイ1kg19.8ユーロ(2600円)、スズキ1kg16ユーロ(2100円)。

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ボラ、ホウボウ、コウイカ、ヤリイカ、アンコウ、タイ・・・どのお店もラインアップは大体似たような感じ。

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別のお店、イトヨリ、クロダイ、オマール、エビ、カレイ・・・。イカは沢山並んでいましたが、タコは見掛けませんでした。タコは、海洋国家だったヴェネツィアには不都合な生物だったのかもしれません。

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市場から大運河に出てみました。多分、ヴェネツィアの「ごみ処理船」だと思います。魚をさばいた後の生ごみや家庭のごみなどを運搬するのでしょうか。大運河の対岸には両手のオブジェが見えていました。

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路地裏を歩いて、ホテルを目指しました。ナポリ、バーリ風に洗濯物が干してありました。

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サン・シルヴェストロ広場。

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サン・ポーロ広場の裏側にあるマドネ-タ運河を渡りました。

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サン・ポーロ広場まで戻ってきました。

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サン・ポーロ教会脇の通り。

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井戸のあるサン・トーマ広場、ホテルはすぐそこです。


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ホテルの隣のレストラン。昨日、夕食を頂いたレストラン、入り口は地味ですが、中は立派でした。

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10時10分、ホテルに到着。2時間弱の「おまけ」の街あるきが無事終わりました。部屋で荷物の点検。

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10時30分、ホテルをチェックアウト、イタリア旅行の最終目的地のヴェローナに向かいました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2019-03-25 05:29 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月5日(土)イタリア その70 ヴェネツィア(9)

イタリア旅行もいよいよ最終段階に入りました。ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅発11時50分の電車で、ヴェローナに向かいます。出発前の2時間を使って、ヴェネツィアの見残した観光スポットを急ぎ足で回りました。
朝7時、起床。
ホテルの2階から見た街の様子。煙突の天辺に可愛らしい屋根をつけるのがヴェネツィア流のようです。火の粉が散乱すると火事の原因にもなります。ヴェネツィアは、過去に大きな火災被害を経験した街、火の粉を飛ばさない工夫かもしれません。

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8時、ホテルの食堂でシンプルな朝食をいただきました。

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8時30分に街歩きスタート。今日のコースは基本的に昨日と同じ、ヴェネツィアのおさらいみたいなものです。

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(出典 Goole)

最初は、昨日と同じカ・フォスカリ運河から・・・写真奥が大運河。

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サン・バルナバ教会の広場。

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両脇に通路が付いたトロヴァソ運河。

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大運河河畔のデ・ラ・カリタ広場まで来ました。補修中のアカデミア橋の仮囲いが見えました。

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アカデミア美術館はデ・ラ・カリタ広場に建っていました。

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デ・ラ・カリタ広場から見た大運河。

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ヴァポレット(水上バス)の船着き場、アカデミア駅。

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船着き場から南に歩いてジューデッカ運河へ。河畔に建つサンタ・マリア・デル・ロザリオ教会はバロック様式、着工は1724年、完成は1736年。

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ジューデッカ運河の河畔プロムナードは、転落防止柵がなく、スッキリしていました。

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ヴェネツィア本島とジューデッカ島の間にあるジューデッカ運河は運河というより海でした。東側のサン・ジョルジョ・マッジョーレ島とサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。

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西側のジューデッカ運河とジューデッカ島。

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大運河とジューデッカ運河を南北につなぐサン・ヴィオ運河。

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写真奥が大運河。

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サン・ヴィオ広場から見た大運河。

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トレゼイエ運河を東に歩いて、岬の突端にあるサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会を目指しました。

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フォルナーチェ運河は大運河とジューデッカ運河を結ぶ運河。

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お目当てのサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会に到着しました。昨日の歩きで対岸から眺めた、この教会の優美な姿が気になっていました。この教会は、大きなドームを8角形状のファサードが取り囲むというユニークな建物でした。1629年、イタリア全土を襲ったペスト大流行はヴェネツィアにも及び、人口の三分の一が亡くなったそうです。ペスト終焉を感謝して聖母マリアに捧げられた教会だとか。サルーテは健康を意味する単語、無病息災を祈願する教会だと思います。設計はコンペ形式で11の応募作品から選ばれたもの。建築様式は、バロック式で1631年着工、1687年完成。

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教会脇の船着場から眺めた大運河とゴンドラ、対岸の鐘楼はサンマルコ広場の鐘楼。

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大運河の出口、ジューデッカ運河との交差部分は、本島一番端の岬。正面はサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。

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大運河の向こうにサンマルコ広場の鐘楼とドゥカーレ宮殿が見えました。

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岬の建物。

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対岸を目指して、大運河河畔の道を戻りました。

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対岸が一望できました。

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サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会、大運河河畔の広場と船着き場。

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大運河の階段式護岸。水はまずまずの透明度があり、海藻が生えていました。

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サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会前の幾何学模様の広場と大運河。

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サン・ジョルジオ教会前の井戸。

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大運河を渡って、サント・ステファーノ広場まで来ました。

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お隣りのサンタンゾーロ広場(Campo Sant'Anzolo)とサント・ステファーノ教会の鐘楼。

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ヴェローナ運河を横断しました。

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オルセオロ運河の船溜まりは、ゴンドラ乗り場になっていました。建物の向こうにサンマルコ広場の鐘楼の頂部が覗いていました。

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サン・ルカ広場まで来ました。

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恐ろしく狭い路地をくぐり抜け、リアルト橋の袂に出ました。

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以下、次号・・・。


by camino0810 | 2019-03-23 16:00 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月4日(金)イタリア その69 ヴェネツィア(8)

世界的にも稀有なヴェネツィアというラグーナに浮かんだ小さな島が、21世紀の現在にしっかり繁栄していることに驚きを覚えます。ヴェネツィアのメモ書き(お題)を整理してみました。

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(出典 Google)

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(出典 Google)


①何故、離れ小島にこれだけ沢山の人が住み着いたのか?これだけの歴史・文化遺産が残されたのか?

よく考えるとヴェネツィアの本島は実に不思議な島。何故、離れ小島に約6万の人(1970年は17万人もいたとか)が住み着いたのか?たかだか5km2の島にこれだけの歴史・文化遺産が残されたのか?
(ちなみに、埼玉県の蕨市は、面積が5km2で人口7万、日本の市町村で最も人口密度が高い街、ヴェネツィア本島と面積、人口がよく似た都市です)

ヴェネツィアの歴史、発展や現在の姿は、「マズローの欲求5段階説」でよく説明できることに気づきました。マズローの考え方でインフラに限らず、街づくりや国つくりも説明できる感じです。この数年、東京で日本橋再生や外濠再生の気運が高まってきました。マズロー的にいえば、日本も欧州と同様、成熟段階に入っていて、第4段階「尊厳欲求」~第5段階「自己実現欲求」に相当するステージに入っているなと感じます。
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※社会的欲求=帰属欲求
 (出典:https://www.motivation-up.com/motivation/maslow.html)

中村英夫(東京都市大学名誉総長)は「成熟社会のインフラストラクチャ―」という講演でマズローの欲求5段階説と社会の要求段階を対比させて成熟社会のインフラストラクチャ―のあり方を論じている。その概要を簡単に紹介しておこう。
社会学者マズローの欲求5段階説とは以下のようなものである。
第1段階は、食べたい、飲みたい、寝たいなどの「生理的欲求」、第2段階は安全・安心な暮らしがしたいという「安全欲求」、第3段階は集団に属したり、仲間が欲しくなったりという「帰属欲求」、第4段階では他者から認められたい、尊敬されたいという「尊厳欲求」、第5段階は、自分の能力を引き出し創造的活動がしたいという「自己実現欲求」である。
一方、社会のインフラに対する要求レベルもマズローの欲求5段階説に対応するように「経済的豊かさ」→「安心・安全」→「快適」→「品格」とレベルアップしていくものとなっている。 
(「献身の精神」と土木技術者ー小説「無銘碑」を読んでー 土木技術2017年2月号) 


ヴェネツィアの歴史、発展をマズローの考えに沿って整理し直してみました。

・第1段階「生理的欲求」と第2段階「安全欲求」
5世紀に蛮族(フン族)の侵攻を逃れて、人々が本土からアドリア海の干潟に移り住んだ。425年はヴェネツィア誕生の年。漁業から製塩業・水上運送業へ。ブレンダ川、ポー川を遡上して、河川交易で発展。
・第3段階「帰属欲求」(社会的欲求)
810年、フランク王国の侵攻を受けるも、フランクの艦隊を湿地帯へ誘い込んで座礁させ勝利。813年、首都をリド島マラモッコからリアルトに移転。823年、ヴェネツィアの商人がアレクサンドリアから聖マルコ(12使徒の次に位置する福音書作者)の遺体を持ち帰った。ヴェネツィアは、聖マルコを守護聖人にして発展。
・第4段階「尊厳欲求」
1204年、ヴェネツィアは、第4回十字軍を先導してコンスタンチノープルを占領、東ローマを滅ぼしラテン帝国。クレタ島獲得、東地中海制海権確立。東西貿易で莫大な利益を得る。黒海進出。ヴェネツィア人マルコポーロ登場。13世紀末から14世紀の初めにかけて、ヴェネツィアは貴族による寡頭支配体制強化。1310年、防衛と治安を担当する十人委員会設置。1330年代、遠距離交易制度成立。1378年~81年、ジェノヴァ戦争引き分け。政治的、経済的な安定で繁栄。
・第5段階「自己実現欲求」
芸術と学問の都市へと変わる。対外的には衰退するも国内的には絵画を中心とする文化が開花。1494年、印刷所設立。パドヴァ大学の名声確立。ガリレオ、パドヴァ大学で天文学を講義。

② ヴェネツィアはどうやって造られたか?
ラグーナという遠浅の土地をどのように造成していったか、土木屋の自分には見逃せません。その方法を考えてみました。
ヴェネツィア陸地と水面の高低差は1m弱。造成に必要な埋立土量は、面積5km2×高さ1mとしてザックリ500万m3。これだけの土量を掘り取って、運搬して、埋め立てるのは現在の土木技術でも簡単ではありません。
ヒントは、ラグーナに浮いた遠浅の島。ヴェネツィアも5世紀ごろは、茫々とした浅瀬と陸地からできた島だったと想像します。事実、そのような浅瀬はラグーナの航空写真でいくらでも確認できます。ヴェネツィア本島の中心に位置する幅50mほどの蛇行した大運河は、ラグーナの中にあった大きな旧河川の澪筋だったと思います。

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(出典 Wikepedia)

深い水深下で土砂を掘り取るのは困難な作業ですが、浅瀬であれば掘削が割と簡単にできたことがポイントだったと思います。とにかく、人力や牛馬頼りのやり方で少しづつ水を抜いて、埋立ていったと想像します。造成期間は中世の約1000年間くらいかもしれません。
大型建設機械がない時代に埋め立て用の土砂を何処で採取、運搬したか?普通に考えれば、京都の「お土居」みたいに、掘った土を脇に埋め立てるのが効率的。具体的には、水路予定部分を護岸も兼ねて木杭で仕切り、水替えして干しあげた水路部分を掘り取って、すぐ脇の造成予定地に放り込む。つまり、ヴェネツィアの大小150の運河は、土取り場も兼ねていたのではないかと考えてみました。埋め立てが完了した部分から順次、木杭を沢山打ち込んで、その上に建物を建てた。松などの木杭は水中では腐ることはありません。これを逐次繰り返して、市街地を拡大していったものと想像します。ハコモノは、マズロー流にいえば、最初は、質素な木造だったけど、地中海貿易で経済的に豊かになるにしたがって、レンガ造り、石造りといった具合にヴァージョンアップさせていったのでしょう。

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③ 土地の低いヴェネツィアをどうやって守るのか?
 ・高潮対策
安全・安心のため、5世紀から高さの低い人工島に住んだ以上、ヴェネツィアにとって高潮は永遠かつ不可避の課題。シロッコというアドリア海の北風の吹き寄せ効果は、ヴェネツィアには厄介な自然現象。温暖化による海面上昇はヴェネツィアには最も深刻な問題です。現在のラグーナの水位は、1900年初めに比べて、23cmも上昇しているとか。
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高潮問題の解決策として、モーゼ計画と呼ばれる巨大な防災インフラがほぼ完成しているそうです。ラグーナとアドリア海を連絡する3つの水路(リド、マラモッコ、キオジャヤ)に起伏式の巨大防潮堤がほぼ完成しているとか。防潮堤が中空の鋼製でできているのがこの計画のキモの部分。普段は、航路の邪魔のならないように海底に横たわっています。高潮がアドリア海から襲来する前に防潮堤の中に空気を注入して、浮力で防潮堤を建てて、高潮の侵入を防ぐ仕組みです。浮力を偏心させ回転力に変えてゲートを回転、起立させる開閉システムと内外の潮位差とゲートを均衡させる調整システムは、実に素晴らしい発想で、1本取られた感じです。事例のない初めての試みだったので実物大の実証実験も実施したとか。

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(出典 Wikepedia)

メーンのリド水路は水深12m、幅400mが2本の幅広い航路なので、高さも幅もある大きな鋼製の扉が必要です。1ピースのゲート長は20m、海底に20基のゲートがひそんでいる計算になります。

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(出典 Google)

普通は、水路の間に堰柱を入れて、水路を細分化してゲートを設置するものですが、航空写真を見ると、水路の間に堰柱は1本も見えません。水路阻害がない設計も優れた設計だと思います。水門の上昇時間(約30分)と下降時間(約15分)を含め、港湾入口の閉鎖時間は平均4〜5時間だそうです。

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(出典 Wikepedia)

2016年、パナマ運河のガツン閘門が大型船舶が通行できるようにヴァージョンアップされましたが、ヴェネツィアではこのような閘門は採用されませんでした。閘門は常時水位差がある水路に船を通過させるための設備、高潮は一時的な自然現象なので閘門の採用を見送ったのかもしれません。
河川の本川には取水、高潮や塩害防止、発電のために堰が設置されます。堰にはゲートがついていて、観音開きのマイターゲート、上下動するスライドゲート、円弧型のゲートが回転するラジアルゲート、モーゼ計画で使われた起伏ゲートなどがあります。支川と呼ばれる河川の支流には洪水を一時的に遮断する水門(ゲート)も設置されます。
設計条件は、15万トン級の超大型クルーズ船がこの水路を容易に行き来できる空間を確保すること。超大型クルーズ船は、幅は40m、長さ300m、喫水10m、海面から高さは60mくらいあるでしょう。ラグーナとアドリア海の間でやり取りされる様々な物質の循環も考慮しなくていけません。塩水、河川水の流入・流出、土砂の流入や海岸侵食、生物の往来や生息場の確保などにも配慮が必要。結論としては、改変前の水路形状を大きく変えないことを基本とした計画・設計だったように感じます。

幅400mの水路で上記の条件をクリヤーできそうなゲート形式を考えてみました。
 ①マイターゲート案 40m~50mくらいの間隔で堰柱を設置して、観音開きのマイターゲートを設置(旧ガツン閘門方式)
 ②スライドゲート案 40m~50mくらいの間隔で堰柱を設置して、水平方向か鉛直下向きのスライドゲートを設置(ブレーメン、新ガツン閘門方式)
 ③ラジアルゲート案 40m~50mくらいの間隔で堰柱を設置して、水路下面にラジアルゲートを設置(テムズバリア方式)
 ④起伏ゲート案   40m~50mくらいの間隔で堰柱を設置して、水路下面に起伏ゲートを設置(モーゼ計画方式)

ロンドンのテムズ川のテムズ・バリアは、③ラジアルゲート案に近い案です。通常、ラジアルゲートは円弧状の扉体とシャフトで構成されますが、テムズバリアでは、シャフトを省略した構造でした。
テムズ・バリアは高潮防止用の堰として有名な堰です。普段は航路確保や流水断面確保のために半月状のゲートは河床に伏していますが、高潮襲来時にはゲートが回転して水中からゲートから立ち上がる仕組み、優れた発想だと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=maz1joFCwoQ&gl=JP&hl=ja

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(出典 Google)

ブレーメンやブレーメンの外港であるブレーメンハーフェンの閘門は、②スライドゲート案。珍しく水平スライド式のゲートが使われていました。スライドゲートは上下動するものと信じ込んでいた自分には新鮮な発想でした。この形式は、400mのリド水路で使うのには、幅200mのゲートと両岸にゲートを収容する施設が必要です。一応、実現可能な形式ですが、ゲート収容施設は大きすぎの感じです。唯、メカ的には判り易い構造なので、メンテナンスや操作が簡単なように思います。

https://camino0810.exblog.jp/27043599/

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(出典 Google)

答えは既に出ていますが、50m間隔で堰柱を建てて、水路底面に格納できる垂直移動式のスライドゲート方式もありかなと思いました。ゲートは堰柱上に据え付けた巻き上げ機で上げ下げできるでしょう。堰柱による水路の通水障害が考えられますが、操作やメンテナンスがやり易い方法だと思います。

・地盤沈下対策
固まっていない土は自重で圧縮されていくので、埋め立て地のヴェネツィアの地盤の沈下はわずかでも続いていくでしょう。土の成分の半分くらいは空隙で水で満たされています。地下水をくみ上げて地下水位を下げると、土は浮力を失い自重で圧縮沈下を起こします。ヴェネツィアの本島には沢山のカンポ(広場)があり、井戸がありました。現在のヴェネツィアの都市用水は何処から来ているのかは不明ですが、多分、地下水の汲み上げは規制しているでしょう。かつて、日本各地の低地にある都市は高度成長時代に地下水を過剰に汲み上げで地盤沈下を起こしました。江東デルタ地帯は地下水の過剰な汲み上げで5m近い地盤沈下を起こしたそうです。多分、ヴェネツィアの都市用水は本土との連絡橋に大きな水道管を設置しているものと想像します。

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・火災対策
ヴェネツィアの迷路のような狭く曲がった路地裏を歩いて、おせっかいにも火災対策は大丈夫だろうかと思いました。火事が発生しても、消防自動車自体がないと思いますし、その道路自体がありません。ヴェネツィアは、1105年の大火災も含めて過去に火災による大きな被災経験を数度経験しているとか。消防用の水はすぐ近くの運河から無尽蔵に取水できるので、自警消防団が結成され、消防ポンプもガッチリ設置されていると思います。気になるのは、激しい人口減少で消防団が維持できているかどうか。

・地震対策
イタリアは欧州の中では地震国。ヴェネツィアもこれまでの長い歴史の中で、地震や液状化の経験をしてきたと思います。建物や広場の下に無数の木杭が設置されているそうです。見方を変えると地盤改良済みの人工地盤が建物の下にしっかり出来上がっているという考えもあります。過去の地震災害の被災事例が不明なのでなんとも言えませんが、地震にはかなり強い街ではないかと想像します。高さが100mに近いサンマルコ寺院の鐘楼などの高い建物の耐震性も検証済みだと思います。

ヴェネツィア港の変遷と観光インフラ
 中世から近世にかけて、地中海貿易で発展したヴェネツィアは当時世界最大級の港湾都市だったと思います。検疫・税関・倉庫・商館などの港湾施設は島内の各所に分散していたとか。イタリアの統一後の近代に、ヴェネツィアの港湾機能は本島西側のヴェネツィア港に集約されたそうです。現在のヴェネツィア港は、観光港であり、産業、物流機能は本土のマルゲラ港に移転された感じです。大型クルーズ船の喫水は10mを超えるので、ラグーナ内の航路の浚渫が欠かせないでしょう。

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(出典 Google)

ヴェネツィア港の航空写真を見ると、300m級のクルーズ船が1隻、250m級のクルーズ船が2隻停泊していました。5月1日に歩いたナポリのナポリ港も大きな観光港でした。ナポリで見た超巨大クルーズ船「EPIC号」は、総トン数156,000t、全長330m、幅40m、乗客定員4,100名、乗組員数1,700名でした。ヴェネツィア港に停泊している航空写真のクルーズ船も同規模の超巨大クルーズ船だと思います。



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(出典 Google)

⑤ ヴェネツィアの産業インフラ 
ヴェネツィアは、本土も入れると、400km2の面積を持ったベネト州の政治・経済の中心都市。本島は観光、本土は産業といった具合に分業をしている感じです。12世紀、13世紀、ヴェネツィアは、当時の地中海貿易や北海貿易を一手に引き受けた世界最大の貿易都市であり、海軍力や造船業も世界一だったようです。現在は、産業はすべて本土に移転。

・十字軍とヴェネツィアの繁栄
 1096年、十字軍遠征。パレスチナ地域へ商業網拡大。ライバルのピサやジェノヴァと地中海貿易で競い合う。
・国営造船所の設立
 1104年、国営造船所設立。ヴェネツィアの海軍力は質量ともに飛躍的に充実。安全航行の確保、船舶部品の標準化、地中海の補給基地で部品交換可能。
・東西貿易の発展とヴェネツィアの繁栄
 12、13世紀の農業の発展と人口増加で穀物、塩、ワインの貿易の進展。1270年頃羅針盤発明。1280年頃遠洋航海用大型船登場。イタリア商船北海進出、フランドル、北ドイツ寄港。

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(出典 Google)

⑥ ラグーナの環境保全 
 
 550km2にも及ぶ広大なラグーナはヴェネツィアの原点。9割が干潟・湿地、残り1割が島や埋立地。2006年時点で、約1080万m3の浚渫土砂で約980haの干潟や湿地を再生したそうです。浅瀬や湿地は大事な環境インフラ、ラグーナのような閉鎖性水域の水質改善や生態系保全に浅瀬や湿地の働きは欠かせません。エコツーリズムの高まりが、ラグーナをヴェネツィアの新たな観光インフラへと誘い込んでいくことでしょう。水循環の健全化や気候変動抑制にも広大なラグーナの役割が大きいものと思われ、ヴェネツィアのこれからの取り組みに期待したいところです。

⑦ 日伊シンポジウム『水の都市と持続可能な発展、ヴェネツィアと東京』(2018年6月28日)

2018年6月28日、千鳥ヶ淵のイタリア文化会館で開催された、水都をめぐる日伊シンポジウム『水の都市と持続可能な発展、ヴェネツィアと東京』にお邪魔しました。

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ヴェネツィア・カ・フォスカリ大学教授のステファノ・ソリアーニ先生の講演は意外な内容でした。ヴェネツィアは大いに繁盛している国際的な観光都市として、何の憂いもない街だと思っていましたが、実は深刻な問題を抱えていました。

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ヴェネツィアの抱える予想外の課題の大きさ、深刻さに驚かされました。激しい人口減少、ヴェネツィア本島の空洞化に伴う本島のディズニーランド化の危機、温暖化に起因する海面上昇、高潮問題を解決できるはずだった「モーゼ計画」の不調、環境汚染などなど。
最近の観光客は年間2900万(1日平均8万人)がこの狭い島に押し寄せるとは驚き、それを支える市民は6万。1970年代は17万だったそうです。先進国で高齢化の進展、少子化、担い手減少が進展しているにしても、ヴェネツィアのケースは極端すぎ。
ソリアーニ先生のお話では、日帰り客は1日当り60ユーロ(7800円)のお金しか落としません。一方、宿泊客は1日当り210ユーロ(27000円)。宿泊客を増やす工夫がポイントだとか。同じようなことは熊本の黒川温泉でも聞きました。観光主体で生きて行く町の基本みたいです。
オランダのアムステルダムは市民と行政が上手に連携して街づくりを行っているのに、ヴェネツィアではその連携が不十分だとか。ヴェネツィアは、千年を超えるラグーンとの運命共同体。ラグーンの更なる開発か環境保全か、その共存の有り様を巡って未だ議論が定まっていないそうです。
ソリアーニ先生の結論:『ヴェネツィアが持続可能でレリジアントな街になるには、市民委員会と環境文化を大事にする新企業がマストアイテム。同じ環境、同じ課題を抱える世界の各都市との連携もポイントになるだろう』

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安心・安全なヴェネツイアには、高潮問題は宿命的な課題。モーゼ計画は完成、稼動中。110cm以上の大きな高潮では防潮堤は立ち上がるけど、それ以下の低い潮位では上手く起伏しない課題があるとか。80cmの潮位でサンマルコ広場は水没するので、折角、高いお金を掛けた割には結果出ず、メンテ費用が高くつき、批判が上がっているそうです。意外なお話でした。

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ヴェネツイアの本島と本土の使い分けの事例。本土は工業地帯と港湾。本島はクルーズ専用港湾。

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シンポジウムの最後は、日伊の識者の意見交換でした。

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当日のフェイスブックにアップした記事・・・・

6月28日(木)東京は、晴れ半端なく暑い。
夕方、水都をめぐる日伊シンポジウム『水の都市と持続可能な発展:ヴェネツィアと東京』に参加しました。会場は千鳥ヶ淵のイタリア文化会館。
ヴェネツィア大学のソリアーニ先生から紹介された、ヴェネツィアの抱える予想外の課題の大きさ、深刻さに驚かされました。激しい人口減少、ヴェネツィア本島の空洞化に伴う本島のディズニーランド化の危機、温暖化に起因する海面上昇、高潮問題を解決できるはずだった「モーゼ計画」の不調、環境汚染などなど。
最近の観光客は年間2900万、1日換算8万とは驚き、それを支える市民は6万。1970年代は17万だったそうです。何故?高齢化、担い手減少。
ヴェネツィアは、千年を超えるラグーンとの運命共同体。ラグーンの更なる開発か環境保全か、その共存の有り様を巡って未だ議論が定まっていないそうです。ヴェネツィアが持続可能でレリジアントな街になるには、市民委員会と環境文化を大事にする新企業がマストアイテム。同じ環境、同じ課題を抱える世界の各都市との連携もポイントになるだろう』
日本側は、陣内重信先生、土屋信行先生、高村雅彦先生。
陣内先生『東京の企業は六本木など内陸志向。ウォーターフロントが高層マンションだらけでは水都東京の復活は難しい。大阪は、企業がウォーターフロント志向、市民運動と行政が一体的。差が付いた』
土屋先生『江戸期の利根川東遷は、安全な内陸航路の確保が目的だった。東京の水路は勾配がないので、水路両脇のフットパスを使って船人足が船を牽引した。かつて東京の水路は1400kmもあった。東京の水路は3回に亘って埋め立てられ消滅した。1回目は明治の鉄道敷設、2回目は第二次大戦の戦災瓦礫処理、3回目は先の東京オリンピックの道路造成』
高村先生『アジアの水都の特質は、水辺の近さ。中国の蘇州はかつての水都。都市化で一度埋めた水路を復活させ、かつての生活様式を復元したら賑わいが復活した』
ヴェネツィアは、5月の連休のイタリア旅行で歩きました。インバウンドで大繁盛だと思ったら、それどころではなかった。街を理解する難しさを感じました。

以上でメモ書きを終わります。


by camino0810 | 2019-03-22 11:36 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月4日(金)イタリア その68 ヴェネツィア(7)

広々としたサン・マルコ広場から再び迷路のような路地裏通りを歩きました。3mもない路地にホテルやお土産物屋がビッシリと並んだ一角を歩いてリアルト橋へ向かいました。

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そう言えば、お昼過ぎにパレルモから飛行機でトレヴィーゾ空港に着いて、バスでヴェネツィアに渡り、慌ただしく街歩きを始めました。パレルモのホテルで食べた朝食以降、満足に食事を摂っていませんでした。流石におなかも空いているので、路地裏のファストフードのお店に入って、マルゲリータ(3ユーロ:390円)をオーダーしました。

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ヴェネツィアはカンポ(広場)の街、至る所にカンポがありました。大きな広場はサン・マルコ広場(Piazza San Marco)、ローマ広場(Piazzale Roma)。小振りな広場はCampoという名前が付いていました。カンポは、街中の小さい公園みたいな役割、井戸があるなどコミュニケーションの場となっていたのではと想像します。教会とセットになったカンポも多く、教会前広場という意味合いもあったようです。このサン・ルカ広場(Campo San Luca)には教会は見当たりませんでした。

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野菜も売っていました。定番のナス、キューリ、トマトは、3.8ユーロ(490円)/kg、花つきズッキーニ?5.5ユーロ(720円)/kg、アスパラ6.5ユーロ(850円)/kg。日本よりリーズナブルな感じます。

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路地裏通りのお菓子屋さん。

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路地の隙間から高さ97mのサンマルコ寺院の鐘楼が覗いていました。鐘楼の頂上の黄金像はヴェネツィアの守護聖人サン・マルコ。ヴェネツィアで一番高い塔の上からヴェネツィア市民を見守っているということでしょう。その下には羽根つきのライオンも見えました。

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リアルト橋を挟んだ大運河は両岸は、ヴェネチアで最も古く賑やか地区だと思います。赤屋根の建物がビッシリ並んでいました。

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(出典 Google)

塔が建っているサン・サルヴァドール広場(Campo San Salvador)まで来ました。写真左はサン・サルヴァドール教会( Chiesa di San Salvador)のファサード。ルネッサンス様式、着工1507年、完成1534年。

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リアルト橋の袂にあるサン・ボルトロミオ広場には造像が建っていました。

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リアルト橋の袂まで来ました。写真奥がリアルト橋。

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リアルト橋から見た大運河の河畔は、最もヴェネツィアらしさを感じた一枚でした。はるばるヴェネツィアまで来た甲斐がありました。

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リアルト橋から見た大運河の北側。

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リアルト橋は、フィレンツェのヴェッキオ橋と同じで、建物が載った橋でした。ヴェッキオ橋のお店は宝石店がメーンでしたが、リアルト橋も同じでした。何故でしょう?

https://camino0810.exblog.jp/28564687/ 

リアルト橋の南側。

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リアルト橋の北側。

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リアルト橋は、ヴェネツィアが最も元気だった16世紀末に木製から現在の石造りのアーチ橋に変えたそうです。この橋の界隈は、人通りが多く、賑わっていました。橋は白い石材で出来ていました。多分、大理石でないかと思います。アーチのライズを抑えた実に優美な橋でした。

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大運河の幅はこの橋の前後で概ね40mくらいに絞られていました。橋のスパンは概ね40mでも、橋台を張り出して、実質的にはスパンを30mくらいまで狭めていました。16世紀の技術では石造りのアーチ橋の限界スパンは30m程度だったようです。

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リヴァ・デル・ヴィン(Riva del Vin)という大運河の北側の船着場に降りて、大運河の河畔を西に向いて歩きました。

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ゴンドラの発着所から観た、大運河の南側の河畔。写真左の建物はヴェネツィア市庁舎。

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船着き場の石段には青海苔が付いていました。

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レストランの前の陳列ケースに豪華な食材が並んでいました。オマール、ホタテ、カニ、鱸、コウイカ。アドリア海の海産物は実に豊富で美味そうです。日本人なら生食ですが、ヴェネツィアでは火を入れるでしょう。

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河畔のリヴァ・デル・ヴィン(Riva del Vin)から街に戻って、ホテルを目指して歩いて行きました。

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サンタポナール教会(Chiesa di Sant'Aponal)のファサードは、ゴシック様式のシンプルな赤レンガ、ヴェネツィアで初めて見るタイプの教会でした。これまで観てきた装飾的なバロック様式の石造りの教会に比べて質素な感じでした。赤レンガのひびわれと剥離が気になりました。

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サン・ポーロ広場(Campo San Polo)まで戻ってきました。

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(出典 Google)

サン・ポーロ広場(Campo San Polo)は手狭なヴェネツィアにあって広々とした広場で、井戸が残されていました。ヴェネツィアはラグーナと呼ばれる潟湖の中にある島。市民の飲料水、洗濯、お風呂用の真水はこの井戸から得ていたと想像します。井戸は相当深くないと真水は取れないし、塩水が入らないような工夫も必要だったと思います。 

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サン・ポーロ教会(Rettoriale di San Polo)脇の水道栓は垂れ流し型。

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狭い道を進んでいきました。写真右はサン・ポーロ教会( Rettoriale di San Polo)。

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サン・ポーロ運河を渡りました。

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幅2mの路地裏通りのレストランのランタンに灯りがともっていました。

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マスカレードのお店。

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サン・トーマ運河まで戻ってきました。ホテルはもうすぐです。

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サン・トーマ広場(Campo San Toma)とサン・ト―マ教会(Chiesa di San Tomà)。この教会は、バロック様式973年創建、1742年完成。広場の真ん中の井戸もバロック風の装飾が施されていました。

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デル・フラーリ広場(Campo Del Frari)には、大きな教会が建っていました。サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会(Basilica dei Frari)は赤レンガの大きな教会で、ゴシック様式、1250年着工、1338年完成。鐘楼は、1396年に完成したサン・マルコ寺院の次にヴェネツィアで2番目に高いとか。

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お隣は、サン・ロッコ広場(Campo San Rocco)でした。写真右が、サン・ロッコ教会(Chiesa di San Rocco)、ルネッサンス様式で着工1489年、完成1771年。写真左が、スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ(大同信組合)(Scuola Grande di San Rocco)。スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ(大同信組合)は、ルネッサンス様式で16世紀に建てられた同職ギルドのための集会場。

スクオーラ(同信組合):ヴェネツィア特有の制度で、商人や貴族を中心にした慈善事業を行う友好団体のこと。当時もこの町の興隆とそこに加入していた人々の社会的地位や経済力、宗教心を誇示するようにスクオーラ内には立派な礼拝堂、集会場、救済院がある。

つまり、この建物は美術館でもあり、「受胎告知」、「嬰児虐殺」、「最後の晩餐」、「キリストの磔刑」などの有名な絵画が展示されているとか。フィレンツェもそうですが、高度な芸術や文化の創造は、経済的な成功を得たパロトンが不可欠で、彼らの経済的支援、寄付や寄贈で成り立っていることがよく判る事例です。その恩恵を現在のヴェネツィアや観光客が受けているという構図は、イタリアに限らず世界共通の事象。

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サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂(Basilica dei Frari)の祭壇脇を歩いて行きました。

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幅2mくらいの狭い運河を渡りました。

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19時、夕食はホテルのすぐ近くの「Pizzeria Ristorante da Sara」にしました。表通りからは地味で目立たないレストランですが、中は大きな中庭のある快適なお店でした。

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ビール(3ユーロ:390円)、ペペロンチーノ(6ユーロ:780円)サービス料などを入れて、締めて12ユーロ(1600円)。

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20時、ホテルに到着、日暮れにまでに無事戻ってこられました。15時に街歩きを始めて、5時間を掛けてヴェネツィアを一通り観ることができました。

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ホテルのロビーにヴェネツィア本島を取り巻くラグーナ(潟湖)の地図が掲示されていました。ヴェネツィア本島は、アドリア海から砂嘴で仕切られたラグーナに浮いた島で、リド水路、マラモッコ水路、キオジャヤ水路でアドリア海と繋がっています。この3つの水路では起伏式の巨大防潮堤が稼働していて、ヴェネツィア本島を高潮から守っています。

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ホテルの中庭で一服しました。落ち着いた良い気分のある中庭でした。

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2階の自分の部屋から見た中庭。

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当日にフェイスブックにアップした記事・・・

5月4日(金)ヴェネツィアは晴れのち曇り、雨のち晴れ、適温。
ライアンエアー8922便は定刻12時30分にヴェネツィア郊外のトレヴィーゾ空港に着きました。シャトルバスはヴェネツィア本島のローマ広場に13時50分に到着。14時30分、迷路のような路地を歩いて、やっとの思いでホテルにチェックイン。街角に表示された通りや運河の名前と地図を照合しながら辿り着けました。ナポリでスマホをすられ、あわせて磁石を無くし、コンパスを喪失したのが苦戦のおおもとです。
15時から街歩きを始めました。
ヴェネツィアの街は一言では言い表せないくらい素晴らしい街でした。無数の小さな運河と太鼓橋、狭くて迷路のような路地裏、点在する小さな広場と古い教会・・・21世紀のこの時代によくぞこれだけのものを残してくれたなという感じです。
ヴェネツィアの看板のサン・マルコ広場は勿論素晴らしかったけど、自分的には観光のホットスポットは大運河沿いの水辺の光景でした。リアルト橋から眺めた大運河の眺めは文句のつけようがありませんでした。
街全体が水辺そのものなので、水辺のアクセスは文句がありませんし、これほど歴史・文化が感じられる街も珍しいでしょう。
ヴェネツィアは中世から自らの安全・安心のために、沖合いの潟湖の砂州を次々と埋め立てては杭を打ち込んで建物の増設をした特異な街に思えます。運河は道路、ゴンドラは車みたいなもので、陸上の迷路は防衛上の目的だったようにも思えます。陸地と水面と段差は60cm程度、津波や高潮は大丈夫、温暖化の海面上昇は?火事対策は?などついついいつもの防災癖が顔を出します。
19時にホテルの近くのレストランで夕食にしました。6ユーロのペペロンチーノは文句なしに美味かったです。
明日はお天気が良ければ、もう一度街を歩いて、サンタ・ルチア駅から電車でヴェローナに向かいます。

翌日の朝、積み残したヴェネツィアの観光スポットを歩きました。
以下、次号・・・

by camino0810 | 2019-03-16 19:52 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月4日(金)イタリア その67 ヴェネツィア(6)

時刻は16時過ぎ、陽が落ちる20時までに街歩きの時間はまだ4時間が残されていました。サン・マルコ運河沿いのプロムナードを東に向けて歩いて行きました。

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サン・マルコ運河の河畔はゴンドラ、水上バスや観光船の船着き場になっていました。写真奥のドームは、対岸のサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会。河畔プロムナードと海面の高低差は1m程度、転落防止策もなく、水辺のアクセスは文句なしに素晴らしかったです。

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サン・マルコ広場からサン・マルコ運河沿いにアルセナーレ運河までを往復し、大運河の中央に位置するリアルト橋を渡って、ホテルに戻りました。

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(出典 Google)

ドッカーレ宮殿を少し行くと、橋の上から『溜息の橋』と呼ばれる橋が見えました。写真左の建物がドッカーレ宮殿。この橋を渡ると2度とこの世に戻って来られないそうです。橋の小窓からこの世の別れを惜しみ溜息をついた逸話があるとか。さしづめ、この運河は三途の川みたいなもの、死生観に洋の東西はあまり関係ない感じです。

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突然、スコールに襲われました。

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ピエタ橋からグレーチ運河を眺めました。写真奥の尖塔はギリシャ正教会の聖ジョルジオ・デイ・グレーチ大聖堂(Chiesa San Giorgio dei Greci)の鐘楼。この大聖堂は、ルネサンス様式で1539年着工、1573年竣工。1453年、オスマントルコの攻撃でコンスタンチノープルが陥落し、東ローマ帝国が崩壊しました。その時のギリシア正教徒がヴェネツィアに逃避、保護され、この教会を建設したそうです。

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サン・マルコ運河の河畔散策路は、幅30mと実に広々としている上に、眼前に広大な海が広がっており、オープンスペース感満載のプロムナードでした。実に快適なプロムナードでした。これまで歩いてきた迷路ような路地と運河もヴェネチアらしい風景ですが、この眺めも実に素晴しかったです。

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船着場には小型の観光船も停泊していました。ボラード(係船柱)は鋼製ではなく、丸太組。細部への拘りも感じます。運河沿いの建物は4階建て、スカイラインを揃えていました。

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写真左のドームは、対岸のサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会、写真右はサンマルコ寺院の鐘楼。

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アルセナーレ運河で折り返しました。この運河は両側に道が付いた中運河。突然降りだした驟雨で人通りが絶えて、静的な風景が出来ていました。

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橋の上から歩いてきた散策路を振り返りました。手前の船着場は、市民と観光客の足となっているヴァポレット(水上バス)の船着場。

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17時、折り返し地点近くのカフェ『San Giorgio』に入って、カプチーノ(5ユーロ:650円)を飲みながら一休みしました。

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カフェのスタッフにスナップ写真をお願いしました。


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河畔プロムナードには余計な施設が一切ありません。あるのは、石畳、石のベンチと照明灯だけ。何もしないのが最良のデザインということかもしれません。

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ヴァポレット(水上バス)の乗り場の案内には日本語の標記も付いていました。

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サンマルコ広場に近づいていくに従って、船着場が賑わってきました。

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イタリア建国の英雄ヴィトリオ・エマニュエーレ2世の彫像もいい場所に立地していました。唯、なんとなくヴェネチア以外の都市と比べて、この英雄に対する温度は少し低いようにも感じられました。1797年、ナポレオンに征服されるまで、ヴェネツィアは独立を維持した都市国家だったからかもしれません。

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『溜息の橋』まで戻ってきました。

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ドッカーレ宮殿と橋とゴンドラ・・・お天気が良ければ絵葉書の世界でしょう。

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大運河の対岸にあるサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会。

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サン・マルコ運河対岸の島に建つサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。サン・マルコ運河をヴァポレット(水上バス)が通り過ぎていきました。

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18時、再びサン・マルコ広場に戻ってきました。

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ドッカーレ宮殿のパステルピンクの壁は、パステルカラーのモザイクで出来ていました。

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サン・マルコ寺院の豪勢なファサードとドーム。

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サン・マルコ寺院のファサードは色違い大理石で出来ていました。恐ろしく贅を尽くした建物でした。

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サン・マルコ広場と外周の建物。1階から3階まですべてポルティコ(柱廊)仕様という初めて見る建物でした。

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サン・マルコ寺院と鐘楼とカフェ。こんなカフェでゆっくり時間を使うという贅沢ができないせっかちな性分なので、先を急ぎました。

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ポルティコ(柱廊)の内側を歩いてみました。

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広々としたサン・マルコ広場を後にして、路地裏通りを歩いて、大運河に架かるリアルト橋を目指しました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2019-03-13 19:21 | イタリア | Comments(0)  

2018年5月4日(金)イタリア その66 ヴェネツィア(5)

16時、街歩きを始めて1時間が経過しました。お目当てのサン・マルコ広場に到着しました。広場を囲う外周の建物の通路を潜り抜けると、正面にサン・マルコ寺院と鐘楼が現れました。
手狭なヴェネツィア本島の中にあって、長さ200m、幅100mという広大な広場が出来上がっていました。この広場を歩いた観光客は誰でもサン・マルコ広場がヴェネツィアの核心部であることを感じることでしょう。そのような設えを感じる、実に立派な広場でした。手前の赤レンガの鐘楼もその威信を添える役割をしている感じです。この鐘楼は高さ97ⅿ、ヴェネツィア本島にこの鐘楼を超える建物はないそうです。

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これまで、欧州の大きな広場を結構歩いてきました。大きな広場を歩く度に、広いこと、大きなことはそれだけで価値が高いなと感じました。2017年の5月に歩いた、ポーランドのクラクフ旧市街の中央広場は忘れることができません。この広場は200m真四角の実に大きな広場でした。クラクフのヘソになっていて、多くの観光客を集めていました。


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(ポーランド・クラクフ旧市街の中央広場)

広場を進むと、正面のサン・マルコ寺院(Basilica di San Marco)が近づいてきました。サン・マルコは、ヴェネツィアの守護聖人。823年、ヴェネツィア商人がエジプトのアレクサンドリアから持ち帰ったサン・マルコの聖遺物をこの寺院に埋葬したそうです。寺院の前は大勢の観光客でごった返していました。手前の3本の赤いポールの天辺には、黄金の羽を持ったライオン。

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サン・マルコ寺院は、建築様式はロマネスク様式 、 ビザンチン、ゴシック様式の混合型。随分と複雑な建築様式みたいで、建築の知識に乏しい自分にはその価値を十分に感じることができません。
現在の建物は、着工1063年、完成1617年。1096年の十字軍の遠征からヴェネツィアの隆盛が始まりました。1600年、オランダの東インド会社設立でヴェネツィアの凋落が始まりました。サン・マルコ寺院は、ヴェネツィアが繁栄した500年間を掛けて、潤沢な資金を投入して建設した、贅を尽くした聖堂だと思います。サン・マルコ寺院もこれまで観てきた教会と同様、ヴェネツィアの隆盛、衰退、再生をずっと見てきた宗教施設でした。

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とにかく、サン・マルコ寺院のファサードは、初めて見る建築様式でした。多塔式のファサードを見て、何故か、2013年に観たフランスのロアール地方にあるシャンボール城のファサードを思い出しました。

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(フランス・ロアール地方のシャンボール城)



金の羽を持ったライオンの上、ファサードの頂点に建っている彫像がサン・マルコだと思います。その下の壁画の真ん中にキリストが描かれていました。

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内観は時間がないのでスルー。ネットで内部の様子を調べてみました。

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(サン・マルコと羽を持つ黄金のライオン:出典 Wikipedia)

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(出典 Wikipedia)


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(出典 Wikipedia)

サン・マルコ寺院を後にして、サン・マルコ運河の河畔に出ました。写真右のパステル・ピンクの建物がドゥカーレ宮殿。

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ドゥカーレ宮殿は、ヴェネツィア共和国総督の政庁として9世紀に建設、何度かの大火で焼失、現在の建物は15世紀の物。この宮殿は100m四方の巨大な建物でした。ファサードはゴージャスな外壁と2段構えのポルティコ(柱廊)。宗教施設のサンマルコ寺院と行政施設のドゥカーレ宮殿は棟続きのセットになっていました。政教一体型の支配機構は、洋の東西を問わず、中世、近世の共通した体制。

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ヴェネツィアでは、ドゥオーモと呼ばれる大聖堂を見つけることが出来ませんでした。唯、サン・マルコ寺院には、大聖堂という訳も付けられている場合もあり、この教区の司教座教会(大聖堂)ではないかと想像します。サン・マルコ寺院は航空写真を見ると、大聖堂のルール通り、東西方向を長軸とする十字架の形をしていました。唯、十字架の交点と端部がドームになっていました。初めて見る光景です。ファサードはルール通り、西側にありました。

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(出典 Google)

サン・マルコ運河の河畔を東の方に歩きました。

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サン・マルコ運河の河畔には、文句のつけようがないほど素晴らしい水辺が延々と続いていました。
以下、次号・・・


by camino0810 | 2019-03-10 16:09 | イタリア | Comments(0)